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前半戦
19.獄主、運搬方法の再考を!
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テキロが心配そうな目を向けてくるのは、もう何回目だろうか。
そんなに俺は酷い状態に見えるのか。そう思いながら、聡一朗はテキロに笑いかける。
「テキロ、俺は大丈夫だって」
「そうか、それなら良いけど……」
(やっと十居に帰れる)
中庭をテキロとゆっくり歩きながら、聡一朗は雨に濡れる花々を見た。
傘を差してくれているのはライトだ。自分で差して歩くと言ったのに、断固として拒否された。
過剰なほど労われると、逆に居心地が悪い。
フウトは斜め前を、傘を差すことなく歩いている。護衛は傘なんて差さないらしい。
(確か自衛隊も警察官も、傘は差さなかったな)
そんなことを考えながら、未だに怠さの残る身体を進める。
昨晩の事は、最悪なことに殆ど覚えていた。
野獣のように怒り狂う獄主に、散々虐め抜かれた事も。自分があられもない嬌声を上げて、よがった事もだ。
夜中も急な口付けで起こされ、撫でまわされ、果てて意識を失った。それが数回繰り返され、気付いたときにはもう昼前だった。
思えば夜中の急なキスは、自分がうなされていたのを引き戻すためだったのかもしれない。
散々追い詰められた時とは違い、優しく口付けられ、壊れものでも触るかのように愛撫された。
それが自分を気遣っての事だという事は、馬鹿でも分かる。
だからこそ、性質が悪い。
憎まれ口の一つぐらい言ってやりたかったのに、救われてばかりだ。
十居の入り口が見え始めた。
慣れた小道に頬を緩ませていると、フウトが急に立ち止まる。
フウトの目線を追うと、八居の小道から鬼をゾロゾロ連れた候補者が出てきた。
八居の候補者は、痩身で背が高く、スタイルも抜群に良い女性だ。
まるでパリコレのモデルのように細身で、手足が長い。目が細めだが整っており、アジアン美女という言葉がそっくり当てはまる。
わざわざ雨の中出てきたという事は、何か用事があっての事だろう。
聡一朗が黙って見つめていると、八居の候補者の顔がみるみる粗暴に歪んでいく。八居の鬼たちが候補者の異変に気付いたのか、慌ててこちらへ歩を進めてきた。
「失礼だぞ。十居の候補者!彩花様に挨拶をせぬか!」
聡一朗は目を瞬かせた。
少し考えを巡らせたが、なるほど、ランキング最下位の自分は、礼を尽くさなければいけないのだという答えに行きつく。
テキロが不快感を露わにしているのを横目で見ながら、聡一朗は頭を下げた。
「申し訳ありません。外に出るのが久方ぶりなもので、失念しておりました。八居の候補者様に、ご挨拶を」
テキロが頭を下げる聡一朗を、目を見開き見つめている。その顔から悔しさが滲み出ているのを、聡一朗は不思議に思った。
八居の候補者、彩花は粗暴な顔のまま笑顔を捻じ込む。
「ふっ……出来そこないは、その程度よね。咎津が無いって突き放されたくせに、友人だと言って獄主様に取り入って……恥ずかしいとは思わないの?」
(うわぁ、かなりディスられてる……)
見るからに10近く歳が離れている美女に詰られても、怒りすら湧かない。
後宮の争いというエンタメを突き付けられている気がするが、突き付ける先を間違っているのではないだろうか。
「彩花様、でしたっけ?こんなオジサンに嫉妬を向けている時間が、勿体無いと思いませんか?」
「……っ!十居のくせに、この私に意見しないでよ!」
「一応、年上なので進言したまでです。明日は食事会もありますし、身体冷やさない方が良いんじゃないかな、雨だし」
聡一朗の言葉に彩花は増々機嫌を悪くし、じりじりとこちらに近付いて来る。
あちらの鬼たちも彩花に倣って、こちらに距離を詰めてくる。だが、顔に恐怖の色を滲ませているのを隠せていない。
無理もない。こちらには最強の鬼といわれる、フウトとライトがいるのだ。
「数日前から、獄主様は誰の居にも行ってないのよ!お前が周りをウロチョロしてるんのは分かってんだよ!このクソオヤジ!」
「うっわ、クソ親父って久々に言われた。まさか君、こんなオジサンを牽制するために、こんな雨の中出てきたのか?だとしたら不毛すぎるよ。早く帰りなさい」
顔を真っ赤にした彩花が目の前に迫り、フウトが聡一朗を遮るように立つ。
彩花は一瞬驚いたものの、直ぐに凶悪な顔に戻った。
「こんな強そうな鬼引き連れて、何様のつもりなの?……ふん、どうせ、鬼は候補者には手を出せないんだもの、恐くないわ」
彩花が腕を振り上げた事に、聡一朗は驚いた。
フウトは甘んじて受けようとしている。少し視線を落として、頬を差し出しているようにも見えた。
気が付いたときには、もう身体が動いていた。
フウトの前に回り込み、聡一朗は振り下ろされた彩花の平手を受ける。パシンと派手な音が響き、額に鋭い痛みが走った。
「いったぁ!爪伸びすぎ!」
「聡一朗様!」
聡一朗はフウトの制止も聞かず、振り下ろされた彩花の手を掴み、その爪を確認する。
ネイルは施されていたが、鋭くは無い。
指に嵌められたいくつもの指輪の飾りに、鋭く尖っている部分がある。ここが皮膚を引っ掻いたんだろう。
「なにすんのよ!」
手首を掴まれた彩花が叫ぶ。聡一朗は手首を離さないまま、彩花を睨み付けた。
「危ないだろ!危うくフウトさんの顔が傷つくところだったんだぞ!?あの人誰だか知ってんのか?獄主の護衛だよ?超恐いんだからな!」
フウトとライトは、本当は聡一朗の護衛ではない。こちらを守ってもらっている間に、負傷なんてしたら増々会わせる顔が無い。
痛みを感じた額から、タラリと生温かいものが頬まで垂れるのを感じる。それを聡一朗は雑に手で拭った。真っ赤な血が手首に付き、それを雨と一緒に掃う。
「大体、何でそんなに気安く人……いや、鬼を殴るんだ?何の非も無いだろ?」
「煩いわね!手を離してよ!ヘンタイ!」
聡一朗と彩花の剣幕に、フウトは青い顔をしたまま固まっている。まさか聡一朗が自分を守るとは思っていなかったようだ。
ライトがフウトを押し退け、揉み合う2人の間に入る。
候補者の身体は、獄主以外は最低限触らないとの決まりがあるようだ。触れないように身体を滑り込ませ、聡一朗の方を見る。
聡一朗の眉の上には裂傷があり、そこから血が流れている。雨が血を薄めていくが、傷口からは絶えず鮮血が湧きあがる。中々の出血だ。
「そ、聡一朗様、まずは傷の手当てを………」
そこでライトは固まった。同じくフウトも固まっている。恐らく、この集団で先立って気付けたのは2人だけだろう。
背中に冷たい何かを突き付けられたような感覚。冷ややかで、腹の底を押し下げられるような気配。
この場に一番来てはいけない人物が近付いている。
氷のように固まったフウトとライトを見て、聡一朗は何事かと狼狽えた。
「え?何?熊でも現れた?」
「そ、聡一朗様……非常にまずいです」
「……え?」
その言葉に聡一朗が目を丸くしていると、彩花がパッと笑顔を浮かべる。そして先ほど喧嘩していた声色からは想像できない程の、甘い声を上げた。
「獄主様!」
聡一朗は固まった。
どうやら後ろに獄主がいるらしい。この垂れ流しの威圧感からすると、多分、いや確実に怒っている。
「何をしている」
冷たく、張りつめた声だ。
だが、そんな声でも彩花は嬉しいらしい。怪し気に笑みを浮かべると、聡一朗に掴まれた手を掲げた。
「獄主様ぁ!十居の候補者様に、乱暴されているんです!助けて!」
(そう来たか……)
聡一朗は繋いでいた手を離した。彩花はその手首を震える手で擦り、潤んだ瞳で獄主へ訴えかける。
「この方が、どうしても私を触りたいと言って……私の事、無理矢理っ……!」
彩花は自身の胸を、恥じらうように掻き抱く。
驚くほど堂に入った演技だ。生前は女優だったのかもと、聡一朗は思った。
「聡一朗……そうなのか?」
「……」
ここまで言われて聡一朗が反論しないのには、理由があった。
獄主の顔を見れないのだ。言葉すら出ない。そう、非常に気まずい。
殆ど全てを曝け出した相手が男で、地獄の長で、友人だなんて、合わせ技一本で負ける。
「嘘じゃありません!実際お尻は揉まれました!」
彼女の嘘は留まるところを知らない。聡一朗が黙っているのを良いことに、獄主の前で都合の良いことを並べたてる。
それほど獄主が魅力的なんだろう。そう思うと聡一朗は増々、獄主に顔向けが出来ない。
昨夜身体を合わせたのは、主に聡一朗の中毒を抑えるためだったのだから。
「ほお?雨の降る中、随分と元気だな?」
聡一朗の真横にまで移動した獄主は、そのままピタリと止まる。聡一朗は獄主と逆方向に顔を向け、口を引き結んだ。
顔を背けた耳に、獄主の熱い吐息が掛かる。
「しかし妙だな。こいつに、そんな元気は無いはずだ」
「……っ!」
まるで耳を食むように掛けられた言葉に、聡一朗の顔がカッと熱くなる。思わず俯くと、何故か獄主が息を詰めた。
不思議に思い聡一朗が顔を上げると、獄主の瞳が自分の額に向けられているのを知る。
傷はじんじんと痛むが、軽い怪我である筈だ。しかし目の前の獄主は、看過できない程真剣だ。
「聡一朗、それはどうした?」
「……」
彩花に傷つけられた、と言えば良いのだろうが、言い留まってしまう。あれだけの嘘を並べられては、流石に言いづらい。
何か良い言い訳は無いかと考えていると、彩花が獄主の腕を掴んだ。絡みつくように密着すると、猫なで声を発する。
「触られそうになって抵抗した時に、ちょっと引っ掻いちゃって……。恐かったんです、獄主様。私の方が、被害者なんですからぁ」
彩花は豊満な胸を、獄主の腕に押し付けている。
明らかに故意的だ。女性の多岐にわたるアプローチ例を披露されて、聡一朗は自分の恋愛経験がいかに乏しいかを再確認した。ちょっと悔しい。
獄主は、彩花を見遣った。
その瞳には、何の感情も宿っていない。初めて出会った頃の獄主は、今の様に冷たい鉄仮面で覆われたような顔をしていた。
ふと、聡一朗は違和感を覚える。何故か獄主に、そんな顔をさせてはいけないような気がしたのだ。
「……八居の候補者よ。居に戻れ」
「え?」
獄主の冷たく突き放すような声は、八居の鬼たちを委縮させた。だが彩花は止まらない。
獄主の腕を更に抱き込み、顔を持ち上げ、まるでキスをねだるようにうっとりと瞳を潤ませる。
「では、このまま私の居へお越しください。雨に濡れた身体を……温め合いませんか、獄主様……」
囁く声は官能的で、獄主の腕を擦る彩花の手つきは妖艶に動く。
咄嗟に、聡一朗はテキロの目を塞いだ。未成年に見せてはいけない気がしたのだ。テキロが未成年なのかは知らないが、黒目がなくなるのは困る。
「二度は言わん」
その獄主の言葉に、八居の鬼たちが弾かれたように動いた。獄主に絡みつく彩花を引き剥がし、頭を下げる。
「彩花様、戻りましょう」
「何よ、あんたたち!逆らうの?」
揉み合う彩花と鬼たちをチラリと一瞥した後、獄主は聡一朗に目線を移した。
未だテキロの目を覆っている聡一朗を、怪訝そうに見つめる。
「なにしてる」
「……黒目を保護しています」
「意味がわからん」
言うなり、獄主は聡一朗の首根っこを掴んで引き寄せた。よろけて不安定になった身体の膝裏に、手を差し込まれる。
これは、この感覚は……そう、お姫様だっこの再来である。
「ああああ、ちょっと、まじで止めて、下さい!」
「……」
腕の中の聡一朗を、獄主はギロリと睨む。小さく舌打ちすると、獄主はテキロを見遣った。
「先に行き、急ぎ風呂を沸かせ」
「は、はいぃ!!」
テキロが脱兎のように駆け出したのを見届けると、獄主は次にフウトとライトを見た。
2人は既に跪いており、頭を垂れている。
「……お前らも、十居へ来い」
「御意」
獄主が歩き出したのを感じ、聡一朗は身を捩った。
まさかこの状態で、十居へ行くつもりなのか。絶望感が身を穿ち、あわあわと呼吸を繰り返す。
「すみません。後生です。降ろしてくれませんかね?獄主様?」
「拒否する」
「俺、久しぶりに十居へ戻るんですよ。皆の事、久しぶりに見るんです。オッサンがお姫様抱っこで登場なんて、そんな気持ち悪いサプライズなんて見たくないと思うんですが、どうでしょうか?」
大の大人を抱き込みながら、獄主は重さを感じさせない足取りで十居へ進む。
チラリと聡一朗を見遣ると、獄主は少し眉を寄せた。少し拗ねているような表情だ。
「喧しいな。……聡一朗は、少し弱っているくらいが可愛い」
「……あらら……トウゴさんに診て貰ってください。激務すぎて頭がおかしくなっているのかも……」
「絶対に降ろさん」
獄主の断固とした声に、聡一朗はふしゅうと息を吐いた。諦めるしかない現実に、身体も力を無くしていく。
「お前に言いたいことはたくさんあるが、まずは風呂に入れ。身体が冷え切っている」
「はい、了解です」
「いや、風呂の前に桃鹿水を飲め。八居の候補者に触れたろう?」
「触れ……ましたね」
触れたと言っても、尻は触ってない。そう弁解しようと思っていたら、十居に着いた。
数日離れただけなのに、懐かしさが胸を突く。薔薇の香りがふわりと漂い、聡一朗は思わず頬を緩めた。
「聡一朗様!」
慣れた声が複数聞こえ、駆け寄ってくるのが分かる。嬉しい反面、非常に複雑だ。
目の前で固まっている鬼たちを見ながら、聡一朗はヒクヒクと無理矢理笑みを作った。
「た、ただいまぁ、みんな……」
そんなに俺は酷い状態に見えるのか。そう思いながら、聡一朗はテキロに笑いかける。
「テキロ、俺は大丈夫だって」
「そうか、それなら良いけど……」
(やっと十居に帰れる)
中庭をテキロとゆっくり歩きながら、聡一朗は雨に濡れる花々を見た。
傘を差してくれているのはライトだ。自分で差して歩くと言ったのに、断固として拒否された。
過剰なほど労われると、逆に居心地が悪い。
フウトは斜め前を、傘を差すことなく歩いている。護衛は傘なんて差さないらしい。
(確か自衛隊も警察官も、傘は差さなかったな)
そんなことを考えながら、未だに怠さの残る身体を進める。
昨晩の事は、最悪なことに殆ど覚えていた。
野獣のように怒り狂う獄主に、散々虐め抜かれた事も。自分があられもない嬌声を上げて、よがった事もだ。
夜中も急な口付けで起こされ、撫でまわされ、果てて意識を失った。それが数回繰り返され、気付いたときにはもう昼前だった。
思えば夜中の急なキスは、自分がうなされていたのを引き戻すためだったのかもしれない。
散々追い詰められた時とは違い、優しく口付けられ、壊れものでも触るかのように愛撫された。
それが自分を気遣っての事だという事は、馬鹿でも分かる。
だからこそ、性質が悪い。
憎まれ口の一つぐらい言ってやりたかったのに、救われてばかりだ。
十居の入り口が見え始めた。
慣れた小道に頬を緩ませていると、フウトが急に立ち止まる。
フウトの目線を追うと、八居の小道から鬼をゾロゾロ連れた候補者が出てきた。
八居の候補者は、痩身で背が高く、スタイルも抜群に良い女性だ。
まるでパリコレのモデルのように細身で、手足が長い。目が細めだが整っており、アジアン美女という言葉がそっくり当てはまる。
わざわざ雨の中出てきたという事は、何か用事があっての事だろう。
聡一朗が黙って見つめていると、八居の候補者の顔がみるみる粗暴に歪んでいく。八居の鬼たちが候補者の異変に気付いたのか、慌ててこちらへ歩を進めてきた。
「失礼だぞ。十居の候補者!彩花様に挨拶をせぬか!」
聡一朗は目を瞬かせた。
少し考えを巡らせたが、なるほど、ランキング最下位の自分は、礼を尽くさなければいけないのだという答えに行きつく。
テキロが不快感を露わにしているのを横目で見ながら、聡一朗は頭を下げた。
「申し訳ありません。外に出るのが久方ぶりなもので、失念しておりました。八居の候補者様に、ご挨拶を」
テキロが頭を下げる聡一朗を、目を見開き見つめている。その顔から悔しさが滲み出ているのを、聡一朗は不思議に思った。
八居の候補者、彩花は粗暴な顔のまま笑顔を捻じ込む。
「ふっ……出来そこないは、その程度よね。咎津が無いって突き放されたくせに、友人だと言って獄主様に取り入って……恥ずかしいとは思わないの?」
(うわぁ、かなりディスられてる……)
見るからに10近く歳が離れている美女に詰られても、怒りすら湧かない。
後宮の争いというエンタメを突き付けられている気がするが、突き付ける先を間違っているのではないだろうか。
「彩花様、でしたっけ?こんなオジサンに嫉妬を向けている時間が、勿体無いと思いませんか?」
「……っ!十居のくせに、この私に意見しないでよ!」
「一応、年上なので進言したまでです。明日は食事会もありますし、身体冷やさない方が良いんじゃないかな、雨だし」
聡一朗の言葉に彩花は増々機嫌を悪くし、じりじりとこちらに近付いて来る。
あちらの鬼たちも彩花に倣って、こちらに距離を詰めてくる。だが、顔に恐怖の色を滲ませているのを隠せていない。
無理もない。こちらには最強の鬼といわれる、フウトとライトがいるのだ。
「数日前から、獄主様は誰の居にも行ってないのよ!お前が周りをウロチョロしてるんのは分かってんだよ!このクソオヤジ!」
「うっわ、クソ親父って久々に言われた。まさか君、こんなオジサンを牽制するために、こんな雨の中出てきたのか?だとしたら不毛すぎるよ。早く帰りなさい」
顔を真っ赤にした彩花が目の前に迫り、フウトが聡一朗を遮るように立つ。
彩花は一瞬驚いたものの、直ぐに凶悪な顔に戻った。
「こんな強そうな鬼引き連れて、何様のつもりなの?……ふん、どうせ、鬼は候補者には手を出せないんだもの、恐くないわ」
彩花が腕を振り上げた事に、聡一朗は驚いた。
フウトは甘んじて受けようとしている。少し視線を落として、頬を差し出しているようにも見えた。
気が付いたときには、もう身体が動いていた。
フウトの前に回り込み、聡一朗は振り下ろされた彩花の平手を受ける。パシンと派手な音が響き、額に鋭い痛みが走った。
「いったぁ!爪伸びすぎ!」
「聡一朗様!」
聡一朗はフウトの制止も聞かず、振り下ろされた彩花の手を掴み、その爪を確認する。
ネイルは施されていたが、鋭くは無い。
指に嵌められたいくつもの指輪の飾りに、鋭く尖っている部分がある。ここが皮膚を引っ掻いたんだろう。
「なにすんのよ!」
手首を掴まれた彩花が叫ぶ。聡一朗は手首を離さないまま、彩花を睨み付けた。
「危ないだろ!危うくフウトさんの顔が傷つくところだったんだぞ!?あの人誰だか知ってんのか?獄主の護衛だよ?超恐いんだからな!」
フウトとライトは、本当は聡一朗の護衛ではない。こちらを守ってもらっている間に、負傷なんてしたら増々会わせる顔が無い。
痛みを感じた額から、タラリと生温かいものが頬まで垂れるのを感じる。それを聡一朗は雑に手で拭った。真っ赤な血が手首に付き、それを雨と一緒に掃う。
「大体、何でそんなに気安く人……いや、鬼を殴るんだ?何の非も無いだろ?」
「煩いわね!手を離してよ!ヘンタイ!」
聡一朗と彩花の剣幕に、フウトは青い顔をしたまま固まっている。まさか聡一朗が自分を守るとは思っていなかったようだ。
ライトがフウトを押し退け、揉み合う2人の間に入る。
候補者の身体は、獄主以外は最低限触らないとの決まりがあるようだ。触れないように身体を滑り込ませ、聡一朗の方を見る。
聡一朗の眉の上には裂傷があり、そこから血が流れている。雨が血を薄めていくが、傷口からは絶えず鮮血が湧きあがる。中々の出血だ。
「そ、聡一朗様、まずは傷の手当てを………」
そこでライトは固まった。同じくフウトも固まっている。恐らく、この集団で先立って気付けたのは2人だけだろう。
背中に冷たい何かを突き付けられたような感覚。冷ややかで、腹の底を押し下げられるような気配。
この場に一番来てはいけない人物が近付いている。
氷のように固まったフウトとライトを見て、聡一朗は何事かと狼狽えた。
「え?何?熊でも現れた?」
「そ、聡一朗様……非常にまずいです」
「……え?」
その言葉に聡一朗が目を丸くしていると、彩花がパッと笑顔を浮かべる。そして先ほど喧嘩していた声色からは想像できない程の、甘い声を上げた。
「獄主様!」
聡一朗は固まった。
どうやら後ろに獄主がいるらしい。この垂れ流しの威圧感からすると、多分、いや確実に怒っている。
「何をしている」
冷たく、張りつめた声だ。
だが、そんな声でも彩花は嬉しいらしい。怪し気に笑みを浮かべると、聡一朗に掴まれた手を掲げた。
「獄主様ぁ!十居の候補者様に、乱暴されているんです!助けて!」
(そう来たか……)
聡一朗は繋いでいた手を離した。彩花はその手首を震える手で擦り、潤んだ瞳で獄主へ訴えかける。
「この方が、どうしても私を触りたいと言って……私の事、無理矢理っ……!」
彩花は自身の胸を、恥じらうように掻き抱く。
驚くほど堂に入った演技だ。生前は女優だったのかもと、聡一朗は思った。
「聡一朗……そうなのか?」
「……」
ここまで言われて聡一朗が反論しないのには、理由があった。
獄主の顔を見れないのだ。言葉すら出ない。そう、非常に気まずい。
殆ど全てを曝け出した相手が男で、地獄の長で、友人だなんて、合わせ技一本で負ける。
「嘘じゃありません!実際お尻は揉まれました!」
彼女の嘘は留まるところを知らない。聡一朗が黙っているのを良いことに、獄主の前で都合の良いことを並べたてる。
それほど獄主が魅力的なんだろう。そう思うと聡一朗は増々、獄主に顔向けが出来ない。
昨夜身体を合わせたのは、主に聡一朗の中毒を抑えるためだったのだから。
「ほお?雨の降る中、随分と元気だな?」
聡一朗の真横にまで移動した獄主は、そのままピタリと止まる。聡一朗は獄主と逆方向に顔を向け、口を引き結んだ。
顔を背けた耳に、獄主の熱い吐息が掛かる。
「しかし妙だな。こいつに、そんな元気は無いはずだ」
「……っ!」
まるで耳を食むように掛けられた言葉に、聡一朗の顔がカッと熱くなる。思わず俯くと、何故か獄主が息を詰めた。
不思議に思い聡一朗が顔を上げると、獄主の瞳が自分の額に向けられているのを知る。
傷はじんじんと痛むが、軽い怪我である筈だ。しかし目の前の獄主は、看過できない程真剣だ。
「聡一朗、それはどうした?」
「……」
彩花に傷つけられた、と言えば良いのだろうが、言い留まってしまう。あれだけの嘘を並べられては、流石に言いづらい。
何か良い言い訳は無いかと考えていると、彩花が獄主の腕を掴んだ。絡みつくように密着すると、猫なで声を発する。
「触られそうになって抵抗した時に、ちょっと引っ掻いちゃって……。恐かったんです、獄主様。私の方が、被害者なんですからぁ」
彩花は豊満な胸を、獄主の腕に押し付けている。
明らかに故意的だ。女性の多岐にわたるアプローチ例を披露されて、聡一朗は自分の恋愛経験がいかに乏しいかを再確認した。ちょっと悔しい。
獄主は、彩花を見遣った。
その瞳には、何の感情も宿っていない。初めて出会った頃の獄主は、今の様に冷たい鉄仮面で覆われたような顔をしていた。
ふと、聡一朗は違和感を覚える。何故か獄主に、そんな顔をさせてはいけないような気がしたのだ。
「……八居の候補者よ。居に戻れ」
「え?」
獄主の冷たく突き放すような声は、八居の鬼たちを委縮させた。だが彩花は止まらない。
獄主の腕を更に抱き込み、顔を持ち上げ、まるでキスをねだるようにうっとりと瞳を潤ませる。
「では、このまま私の居へお越しください。雨に濡れた身体を……温め合いませんか、獄主様……」
囁く声は官能的で、獄主の腕を擦る彩花の手つきは妖艶に動く。
咄嗟に、聡一朗はテキロの目を塞いだ。未成年に見せてはいけない気がしたのだ。テキロが未成年なのかは知らないが、黒目がなくなるのは困る。
「二度は言わん」
その獄主の言葉に、八居の鬼たちが弾かれたように動いた。獄主に絡みつく彩花を引き剥がし、頭を下げる。
「彩花様、戻りましょう」
「何よ、あんたたち!逆らうの?」
揉み合う彩花と鬼たちをチラリと一瞥した後、獄主は聡一朗に目線を移した。
未だテキロの目を覆っている聡一朗を、怪訝そうに見つめる。
「なにしてる」
「……黒目を保護しています」
「意味がわからん」
言うなり、獄主は聡一朗の首根っこを掴んで引き寄せた。よろけて不安定になった身体の膝裏に、手を差し込まれる。
これは、この感覚は……そう、お姫様だっこの再来である。
「ああああ、ちょっと、まじで止めて、下さい!」
「……」
腕の中の聡一朗を、獄主はギロリと睨む。小さく舌打ちすると、獄主はテキロを見遣った。
「先に行き、急ぎ風呂を沸かせ」
「は、はいぃ!!」
テキロが脱兎のように駆け出したのを見届けると、獄主は次にフウトとライトを見た。
2人は既に跪いており、頭を垂れている。
「……お前らも、十居へ来い」
「御意」
獄主が歩き出したのを感じ、聡一朗は身を捩った。
まさかこの状態で、十居へ行くつもりなのか。絶望感が身を穿ち、あわあわと呼吸を繰り返す。
「すみません。後生です。降ろしてくれませんかね?獄主様?」
「拒否する」
「俺、久しぶりに十居へ戻るんですよ。皆の事、久しぶりに見るんです。オッサンがお姫様抱っこで登場なんて、そんな気持ち悪いサプライズなんて見たくないと思うんですが、どうでしょうか?」
大の大人を抱き込みながら、獄主は重さを感じさせない足取りで十居へ進む。
チラリと聡一朗を見遣ると、獄主は少し眉を寄せた。少し拗ねているような表情だ。
「喧しいな。……聡一朗は、少し弱っているくらいが可愛い」
「……あらら……トウゴさんに診て貰ってください。激務すぎて頭がおかしくなっているのかも……」
「絶対に降ろさん」
獄主の断固とした声に、聡一朗はふしゅうと息を吐いた。諦めるしかない現実に、身体も力を無くしていく。
「お前に言いたいことはたくさんあるが、まずは風呂に入れ。身体が冷え切っている」
「はい、了解です」
「いや、風呂の前に桃鹿水を飲め。八居の候補者に触れたろう?」
「触れ……ましたね」
触れたと言っても、尻は触ってない。そう弁解しようと思っていたら、十居に着いた。
数日離れただけなのに、懐かしさが胸を突く。薔薇の香りがふわりと漂い、聡一朗は思わず頬を緩めた。
「聡一朗様!」
慣れた声が複数聞こえ、駆け寄ってくるのが分かる。嬉しい反面、非常に複雑だ。
目の前で固まっている鬼たちを見ながら、聡一朗はヒクヒクと無理矢理笑みを作った。
「た、ただいまぁ、みんな……」
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SubだがDomを装っている、第二王子のフェルナン。宰相で、契約パートナーであるDomのヴィクトルに、密かに片思い中だ。ある時、兄・王太子が突然死去。本来王位はDomしか継げない決まりだが、フェルナンはDomのふりをしたまま王太子となる。そんなフェルナンに、何者かが次々と襲撃や罠を仕掛ける。全力で守ってくれるヴィクトルの本心も、気になるところで……!?
※本作品は、『腹黒宰相の契約コマンド』のタイトルで以前掲載していましたが、kindle化を経て再公開しています。内容は、以前こちらに掲載していたものと変更はありません。
※表紙絵は一宮こう先生に有償依頼して描いていただきました(X:@koumama123)。なお、『書き下ろし番外編付き』とありますが、kindleで購入された方への配慮から、こちらでの公開は予定していません。
だから、それは僕じゃない!〜執着イケメンから追われています〜
Shizukuru
BL
交通事故により両親と妹を失った、生き残りの青年──
柚原 叶夢(ゆずはら かなめ)大学1年生 18歳。
その事故で視力を失った叶夢が、事故の原因であるアシェルの瞳を移植された。
瞳の力により記憶を受け継ぎ、さらに魔術、錬金術の力を得てしまう。
アシェルの遺志とその力に翻弄されていく。
魔力のコントロールが上手く出来ない叶夢は、魔力暴走を度々起こす。その度に身に覚えのない別人格が現れてしまう。
アシェルの力を狙う者達から逃げる日々の中、天涯孤独の叶夢は執着系イケメンと邂逅し、愛されていく。
◇◇お知らせ◇◇
数ある作品の中、読んでいただきありがとうございます。
お気に入り登録下さった方々へ
最後まで読んでいただけるように頑張ります。
R18には※をつけます。
【完結】うちの子は可愛い弱虫
cyan
BL
エリオットは公爵家に産まれ魔法騎士団では副団長を務めているが、幼い頃のトラウマにより自分に自信が持てず弱気な性格の持ち主だった。
そして、自分はダメな人間だと膝を抱える日々を送っている。
そんなエリオットの将来を心配した母が見つけてきたのは、ノアという魔法薬を研究する友人候補だった。
友人として親睦を深める2人がほのぼのと愛を育む。
R-18の内容が含まれる話のタイトルには※をつけています。
表紙はAIで作成しています。
僕を拾ってくれたのはイケメン社長さんでした
なの
BL
社長になって1年、父の葬儀でその少年に出会った。
「あんたのせいよ。あんたさえいなかったら、あの人は死なずに済んだのに…」
高校にも通わせてもらえず、実母の恋人にいいように身体を弄ばれていたことを知った。
そんな理不尽なことがあっていいのか、人は誰でも幸せになる権利があるのに…
その少年は昔、誰よりも可愛がってた犬に似ていた。
ついその犬を思い出してしまい、その少年を幸せにしたいと思うようになった。
かわいそうな人生を送ってきた少年とイケメン社長が出会い、恋に落ちるまで…
ハッピーエンドです。
R18の場面には※をつけます。
この恋は運命
大波小波
BL
飛鳥 響也(あすか きょうや)は、大富豪の御曹司だ。
申し分のない家柄と財力に加え、頭脳明晰、華やかなルックスと、非の打ち所がない。
第二性はアルファということも手伝って、彼は30歳になるまで恋人に不自由したことがなかった。
しかし、あまたの令嬢と関係を持っても、世継ぎには恵まれない。
合理的な響也は、一年たっても相手が懐妊しなければ、婚約は破棄するのだ。
そんな非情な彼は、社交界で『青髭公』とささやかれていた。
海外の昔話にある、娶る妻を次々に殺害する『青髭公』になぞらえているのだ。
ある日、新しいパートナーを探そうと、響也はマッチング・パーティーを開く。
そこへ天使が舞い降りるように現れたのは、早乙女 麻衣(さおとめ まい)と名乗る18歳の少年だ。
麻衣は父に連れられて、経営難の早乙女家を救うべく、資産家とお近づきになろうとパーティーに参加していた。
響也は麻衣に、一目で惹かれてしまう。
明るく素直な性格も気に入り、プライベートルームに彼を誘ってみた。
第二性がオメガならば、男性でも出産が可能だ。
しかし麻衣は、恋愛経験のないウブな少年だった。
そして、その初めてを捧げる代わりに、響也と正式に婚約したいと望む。
彼は、早乙女家のもとで働く人々を救いたい一心なのだ。
そんな麻衣の熱意に打たれ、響也は自分の屋敷へ彼を婚約者として迎えることに決めた。
喜び勇んで響也の屋敷へと入った麻衣だったが、厳しい現実が待っていた。
一つ屋根の下に住んでいながら、響也に会うことすらままならないのだ。
ワーカホリックの響也は、これまで婚約した令嬢たちとは、妊娠しやすいタイミングでしか会わないような男だった。
子どもを授からなかったら、別れる運命にある響也と麻衣に、波乱万丈な一年間の幕が上がる。
二人の間に果たして、赤ちゃんはやって来るのか……。
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