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前半戦

19.獄主、運搬方法の再考を!

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 テキロが心配そうな目を向けてくるのは、もう何回目だろうか。
 そんなに俺は酷い状態に見えるのか。そう思いながら、聡一朗はテキロに笑いかける。

「テキロ、俺は大丈夫だって」
「そうか、それなら良いけど……」

(やっと十居に帰れる)
 中庭をテキロとゆっくり歩きながら、聡一朗は雨に濡れる花々を見た。

 傘を差してくれているのはライトだ。自分で差して歩くと言ったのに、断固として拒否された。
 過剰なほど労われると、逆に居心地が悪い。

 フウトは斜め前を、傘を差すことなく歩いている。護衛は傘なんて差さないらしい。
(確か自衛隊も警察官も、傘は差さなかったな)
 そんなことを考えながら、未だに怠さの残る身体を進める。


 昨晩の事は、最悪なことに殆ど覚えていた。

 野獣のように怒り狂う獄主に、散々虐め抜かれた事も。自分があられもない嬌声を上げて、よがった事もだ。
 夜中も急な口付けで起こされ、撫でまわされ、果てて意識を失った。それが数回繰り返され、気付いたときにはもう昼前だった。

 思えば夜中の急なキスは、自分がうなされていたのを引き戻すためだったのかもしれない。

 散々追い詰められた時とは違い、優しく口付けられ、壊れものでも触るかのように愛撫された。
 それが自分を気遣っての事だという事は、馬鹿でも分かる。

 だからこそ、性質が悪い。
 憎まれ口の一つぐらい言ってやりたかったのに、救われてばかりだ。


 十居の入り口が見え始めた。

 慣れた小道に頬を緩ませていると、フウトが急に立ち止まる。
 フウトの目線を追うと、八居の小道から鬼をゾロゾロ連れた候補者が出てきた。

 八居の候補者は、痩身で背が高く、スタイルも抜群に良い女性だ。
 まるでパリコレのモデルのように細身で、手足が長い。目が細めだが整っており、アジアン美女という言葉がそっくり当てはまる。

 わざわざ雨の中出てきたという事は、何か用事があっての事だろう。

 聡一朗が黙って見つめていると、八居の候補者の顔がみるみる粗暴に歪んでいく。八居の鬼たちが候補者の異変に気付いたのか、慌ててこちらへ歩を進めてきた。

「失礼だぞ。十居の候補者!彩花様に挨拶をせぬか!」

 聡一朗は目を瞬かせた。

 少し考えを巡らせたが、なるほど、ランキング最下位の自分は、礼を尽くさなければいけないのだという答えに行きつく。
 テキロが不快感を露わにしているのを横目で見ながら、聡一朗は頭を下げた。

「申し訳ありません。外に出るのが久方ぶりなもので、失念しておりました。八居の候補者様に、ご挨拶を」
 テキロが頭を下げる聡一朗を、目を見開き見つめている。その顔から悔しさが滲み出ているのを、聡一朗は不思議に思った。

 八居の候補者、彩花は粗暴な顔のまま笑顔を捻じ込む。

「ふっ……出来そこないは、その程度よね。咎津が無いって突き放されたくせに、友人だと言って獄主様に取り入って……恥ずかしいとは思わないの?」

(うわぁ、かなりディスられてる……)

 見るからに10近く歳が離れている美女に詰られても、怒りすら湧かない。
 後宮の争いというエンタメを突き付けられている気がするが、突き付ける先を間違っているのではないだろうか。

「彩花様、でしたっけ?こんなオジサンに嫉妬を向けている時間が、勿体無いと思いませんか?」
「……っ!十居のくせに、この私に意見しないでよ!」
「一応、年上なので進言したまでです。明日は食事会もありますし、身体冷やさない方が良いんじゃないかな、雨だし」

 聡一朗の言葉に彩花は増々機嫌を悪くし、じりじりとこちらに近付いて来る。
 あちらの鬼たちも彩花に倣って、こちらに距離を詰めてくる。だが、顔に恐怖の色を滲ませているのを隠せていない。

 無理もない。こちらには最強の鬼といわれる、フウトとライトがいるのだ。


「数日前から、獄主様は誰の居にも行ってないのよ!お前が周りをウロチョロしてるんのは分かってんだよ!このクソオヤジ!」
「うっわ、クソ親父って久々に言われた。まさか君、こんなオジサンを牽制するために、こんな雨の中出てきたのか?だとしたら不毛すぎるよ。早く帰りなさい」

 顔を真っ赤にした彩花が目の前に迫り、フウトが聡一朗を遮るように立つ。
 彩花は一瞬驚いたものの、直ぐに凶悪な顔に戻った。

「こんな強そうな鬼引き連れて、何様のつもりなの?……ふん、どうせ、鬼は候補者には手を出せないんだもの、恐くないわ」

 彩花が腕を振り上げた事に、聡一朗は驚いた。
 フウトは甘んじて受けようとしている。少し視線を落として、頬を差し出しているようにも見えた。

 気が付いたときには、もう身体が動いていた。
 フウトの前に回り込み、聡一朗は振り下ろされた彩花の平手を受ける。パシンと派手な音が響き、額に鋭い痛みが走った。

「いったぁ!爪伸びすぎ!」
「聡一朗様!」

 聡一朗はフウトの制止も聞かず、振り下ろされた彩花の手を掴み、その爪を確認する。
 ネイルは施されていたが、鋭くは無い。
 指に嵌められたいくつもの指輪の飾りに、鋭く尖っている部分がある。ここが皮膚を引っ掻いたんだろう。

「なにすんのよ!」
 手首を掴まれた彩花が叫ぶ。聡一朗は手首を離さないまま、彩花を睨み付けた。

「危ないだろ!危うくフウトさんの顔が傷つくところだったんだぞ!?あの人誰だか知ってんのか?獄主の護衛だよ?超恐いんだからな!」

 フウトとライトは、本当は聡一朗の護衛ではない。こちらを守ってもらっている間に、負傷なんてしたら増々会わせる顔が無い。

 痛みを感じた額から、タラリと生温かいものが頬まで垂れるのを感じる。それを聡一朗は雑に手で拭った。真っ赤な血が手首に付き、それを雨と一緒に掃う。

「大体、何でそんなに気安く人……いや、鬼を殴るんだ?何の非も無いだろ?」
「煩いわね!手を離してよ!ヘンタイ!」

 聡一朗と彩花の剣幕に、フウトは青い顔をしたまま固まっている。まさか聡一朗が自分を守るとは思っていなかったようだ。

 ライトがフウトを押し退け、揉み合う2人の間に入る。
 候補者の身体は、獄主以外は最低限触らないとの決まりがあるようだ。触れないように身体を滑り込ませ、聡一朗の方を見る。

 聡一朗の眉の上には裂傷があり、そこから血が流れている。雨が血を薄めていくが、傷口からは絶えず鮮血が湧きあがる。中々の出血だ。

「そ、聡一朗様、まずは傷の手当てを………」

 そこでライトは固まった。同じくフウトも固まっている。恐らく、この集団で先立って気付けたのは2人だけだろう。

 背中に冷たい何かを突き付けられたような感覚。冷ややかで、腹の底を押し下げられるような気配。
 この場に一番来てはいけない人物が近付いている。

 氷のように固まったフウトとライトを見て、聡一朗は何事かと狼狽えた。

「え?何?熊でも現れた?」
「そ、聡一朗様……非常にまずいです」
「……え?」

 その言葉に聡一朗が目を丸くしていると、彩花がパッと笑顔を浮かべる。そして先ほど喧嘩していた声色からは想像できない程の、甘い声を上げた。

「獄主様!」

 聡一朗は固まった。

 どうやら後ろに獄主がいるらしい。この垂れ流しの威圧感からすると、多分、いや確実に怒っている。

「何をしている」

 冷たく、張りつめた声だ。
 だが、そんな声でも彩花は嬉しいらしい。怪し気に笑みを浮かべると、聡一朗に掴まれた手を掲げた。

「獄主様ぁ!十居の候補者様に、乱暴されているんです!助けて!」

(そう来たか……)
 聡一朗は繋いでいた手を離した。彩花はその手首を震える手で擦り、潤んだ瞳で獄主へ訴えかける。

「この方が、どうしても私を触りたいと言って……私の事、無理矢理っ……!」
 彩花は自身の胸を、恥じらうように掻き抱く。
 驚くほど堂に入った演技だ。生前は女優だったのかもと、聡一朗は思った。

「聡一朗……そうなのか?」
「……」

 ここまで言われて聡一朗が反論しないのには、理由があった。

 獄主の顔を見れないのだ。言葉すら出ない。そう、非常に気まずい。
 殆ど全てを曝け出した相手が男で、地獄の長で、友人だなんて、合わせ技一本で負ける。

「嘘じゃありません!実際お尻は揉まれました!」

 彼女の嘘は留まるところを知らない。聡一朗が黙っているのを良いことに、獄主の前で都合の良いことを並べたてる。

 それほど獄主が魅力的なんだろう。そう思うと聡一朗は増々、獄主に顔向けが出来ない。
 昨夜身体を合わせたのは、主に聡一朗の中毒を抑えるためだったのだから。

「ほお?雨の降る中、随分と元気だな?」

 聡一朗の真横にまで移動した獄主は、そのままピタリと止まる。聡一朗は獄主と逆方向に顔を向け、口を引き結んだ。
 顔を背けた耳に、獄主の熱い吐息が掛かる。

「しかし妙だな。こいつに、そんな元気は無いはずだ」
「……っ!」

 まるで耳を食むように掛けられた言葉に、聡一朗の顔がカッと熱くなる。思わず俯くと、何故か獄主が息を詰めた。

 不思議に思い聡一朗が顔を上げると、獄主の瞳が自分の額に向けられているのを知る。
 傷はじんじんと痛むが、軽い怪我である筈だ。しかし目の前の獄主は、看過できない程真剣だ。

「聡一朗、それはどうした?」
「……」

 彩花に傷つけられた、と言えば良いのだろうが、言い留まってしまう。あれだけの嘘を並べられては、流石に言いづらい。

 何か良い言い訳は無いかと考えていると、彩花が獄主の腕を掴んだ。絡みつくように密着すると、猫なで声を発する。

「触られそうになって抵抗した時に、ちょっと引っ掻いちゃって……。恐かったんです、獄主様。私の方が、被害者なんですからぁ」

 彩花は豊満な胸を、獄主の腕に押し付けている。

 明らかに故意的だ。女性の多岐にわたるアプローチ例を披露されて、聡一朗は自分の恋愛経験がいかに乏しいかを再確認した。ちょっと悔しい。

 獄主は、彩花を見遣った。
 その瞳には、何の感情も宿っていない。初めて出会った頃の獄主は、今の様に冷たい鉄仮面で覆われたような顔をしていた。

 ふと、聡一朗は違和感を覚える。何故か獄主に、そんな顔をさせてはいけないような気がしたのだ。


「……八居の候補者よ。居に戻れ」
「え?」

 獄主の冷たく突き放すような声は、八居の鬼たちを委縮させた。だが彩花は止まらない。

 獄主の腕を更に抱き込み、顔を持ち上げ、まるでキスをねだるようにうっとりと瞳を潤ませる。
「では、このまま私の居へお越しください。雨に濡れた身体を……温め合いませんか、獄主様……」
 囁く声は官能的で、獄主の腕を擦る彩花の手つきは妖艶に動く。

 咄嗟に、聡一朗はテキロの目を塞いだ。未成年に見せてはいけない気がしたのだ。テキロが未成年なのかは知らないが、黒目がなくなるのは困る。

「二度は言わん」

 その獄主の言葉に、八居の鬼たちが弾かれたように動いた。獄主に絡みつく彩花を引き剥がし、頭を下げる。

「彩花様、戻りましょう」
「何よ、あんたたち!逆らうの?」

 揉み合う彩花と鬼たちをチラリと一瞥した後、獄主は聡一朗に目線を移した。

 未だテキロの目を覆っている聡一朗を、怪訝そうに見つめる。

「なにしてる」
「……黒目を保護しています」
「意味がわからん」

 言うなり、獄主は聡一朗の首根っこを掴んで引き寄せた。よろけて不安定になった身体の膝裏に、手を差し込まれる。

 これは、この感覚は……そう、お姫様だっこの再来である。

「ああああ、ちょっと、まじで止めて、下さい!」
「……」

 腕の中の聡一朗を、獄主はギロリと睨む。小さく舌打ちすると、獄主はテキロを見遣った。

「先に行き、急ぎ風呂を沸かせ」
「は、はいぃ!!」

 テキロが脱兎のように駆け出したのを見届けると、獄主は次にフウトとライトを見た。
 2人は既に跪いており、頭を垂れている。
「……お前らも、十居へ来い」
「御意」

 獄主が歩き出したのを感じ、聡一朗は身を捩った。
 まさかこの状態で、十居へ行くつもりなのか。絶望感が身を穿ち、あわあわと呼吸を繰り返す。

「すみません。後生です。降ろしてくれませんかね?獄主様?」
「拒否する」
「俺、久しぶりに十居へ戻るんですよ。皆の事、久しぶりに見るんです。オッサンがお姫様抱っこで登場なんて、そんな気持ち悪いサプライズなんて見たくないと思うんですが、どうでしょうか?」

 大の大人を抱き込みながら、獄主は重さを感じさせない足取りで十居へ進む。
 チラリと聡一朗を見遣ると、獄主は少し眉を寄せた。少し拗ねているような表情だ。

「喧しいな。……聡一朗は、少し弱っているくらいが可愛い」
「……あらら……トウゴさんに診て貰ってください。激務すぎて頭がおかしくなっているのかも……」
「絶対に降ろさん」

 獄主の断固とした声に、聡一朗はふしゅうと息を吐いた。諦めるしかない現実に、身体も力を無くしていく。

「お前に言いたいことはたくさんあるが、まずは風呂に入れ。身体が冷え切っている」
「はい、了解です」
「いや、風呂の前に桃鹿水を飲め。八居の候補者に触れたろう?」
「触れ……ましたね」

 触れたと言っても、尻は触ってない。そう弁解しようと思っていたら、十居に着いた。

 数日離れただけなのに、懐かしさが胸を突く。薔薇の香りがふわりと漂い、聡一朗は思わず頬を緩めた。

「聡一朗様!」

 慣れた声が複数聞こえ、駆け寄ってくるのが分かる。嬉しい反面、非常に複雑だ。
 目の前で固まっている鬼たちを見ながら、聡一朗はヒクヒクと無理矢理笑みを作った。

「た、ただいまぁ、みんな……」
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