金魚譚

千屋ゆう子

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第2話

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 蜷川美嘉は考えあぐねていた。

 リビングの床に寝転ぶ美嘉の目の前には、写真が二枚置かれている。

 その写真に写っているのは若々しい漆の姿であった。

 右の写真の漆は図書室で勉強をしている所だ。端正な表情を浮かべ、ノートにペンを走らせている。それは知的で繊細さを感じさせる。

 左の写真の漆はサッカーの試合の最中に水分補給をしている所だ。焼けた肌と逞しい筋肉がワイルドで色っぽさを感じさせる。

 高校生の時の漆は今より日焼けしていて、髪こそ染めてはいないがツンツンと立った黒髪から若々しさを感じる。相変わらずの強面も、シワが無い分今と比べればだいぶ穏やかな方だ。

 そして美嘉はどちらがよりセクシーか、自分の中で判断したいのである。

「んー……なやむぅぅぅ」

 リビングに置かれた水槽の中で、金魚が訝しげに踵を返した。

「なあにやってんだ?ん?」

 そこへ昼食後の歯磨きを終えた漆がやって来て、興味津々に背後から美嘉の目前を覗く。そしてうら若き時代の自分の写真を見るなり「うわっ」という嫌悪感を含んだ何ともこもった低声を上げた。

「これ俺じゃん。どっから出して来たんだよ。てか何でそんなもんジッと見てんだ?」

「みぎのうゆししゃんはとってもセクチーなんだけどぉ、ひだいのうゆししゃんもとってもセクチーなのぉ」

「あ?」と漆が疑問符を付けたくなるのも解るが、何せ美嘉の賢さ、思考回路は、学業的には中学二年生程で止まっており、その後の学習は同居人であった漆が教師代わりとして教えていたが、いくら経済大学出の漆でも限界はあり、元々あまり賢さの無い美嘉のおつむの所為もあって、物凄くレベルが低い。

 故に美嘉が何を言ってるのか、何を言いたいのかが解らない時があるのも仕方の無いことなのだ。

 こういう時、漆は脳味噌をフル回転させるが、今回は本人に訊いてみなくては理解の出来ない難題だったようだ。

「あのね、どっちのうゆしゃんがセクチーかきめたかったのぉ」

 なるほど、と漆は思ったが、いや、何がなるほどだ?と、再び疑問符を付けざるを得ないこの難題に、少しかまけてイタズラに美嘉を背後から抱き締める。もちろん、美嘉の話を逸らそうとか、そんな愛妻家らしからぬ行動はとっていない。そうではなく、ただただ美嘉が愛おしくなって。

 美嘉はそのまま続けて話すが、実に嬉しそうである。

「あのねー、なんかねー、んー、うゆししゃん……とってもおかおやふんいきがうつくしいのよぉー」

 漆はその言葉に照れて、「じゃあ今の俺は老けたから美しくない?」と、意地悪っぽく訊く。ついでに美嘉の首筋に数回キスをする。

「んー?いまのうゆししゃんもとってもきえいよぉー?びだんしー」

 いわゆる『イケオジ』という奴か?漆はそう思ったが、自分がイケてる“オジサン”という事実に何となく納得したくはない様子であった。けれども、愛する妻が自分を格好良いと言ってくれるのは素直に嬉しい。

「うゆしゃんはいくつになってもかっこよいのよぉ~」

 美嘉は歌うように言って漆の唇にチュッチュと自分の唇を重ねる。小さな両手を漆の頬に添えながら。

 それでほんのりものを滾らせた漆は「この罪びとめ……」と悪い顔して美嘉を絨毯に押し倒した。



「ふあっ……くしゅぐったあい……」

 美嘉の背中を漆の大きな手が弄る。ブラホックを外したいが、Tシャツの中で手間取っていると美嘉はそのこそばゆさに体を捩らせるから、更にブラホックを外しづらくなってしまっている。

「おい落ち着けよ美嘉。ブラ外せねぇ」

「だってだってぇ……ァんん……きもちいい……あ、イグぅ────」

 美嘉はどうやら背中も性感帯のようだ。他に唇や乳首、アソコといった、とてもオーソドックスな部位が性感帯のようだが、背中をさすられただけでイッてしまうような、とても敏感な肌の持ち主みたいだ。

 甘く可愛らしい嬌声を上げた後、美嘉は一人で果てた。少し息を荒げ、顔を赤らめて、秘部が鼓動のように疼くのを堪えている。

 そんな健気な美嘉を目の前に見て、漆は事の開始早々ご満悦そうに顔を綻ばせた。

 漆の腕の中で呼吸を整える美嘉。これからという折り、ザッと雨が降ってきた。

「え!あ!?せんたくもにょ!?」

「あ!?ヤベッ!?」

 二人は大慌てで起き上がり、洗濯物が干してあるベランダへと走った。



   ***



「えーとぉ、このめーゆはおくったしぃ、あえぇ?こえとこえ、どうしちゃったっけ??ふぁーたいへん!」

 こんな感じでも、美嘉は只今仕事中なのである。

 “仕事”というのは文字通り。職種は占い師だ。自宅から近場で中卒者でも受け入れてくれる会社、そして元々趣味でやっていた事でもあった為、美嘉に合った求人だったようだ。

 占い師と言うと、多少なりいかがわしさを感じさせる職業のように思うかもしれないが、美嘉のしている占いというのは、霊感に頼らず引いたタロットカードから得た情報で客の悩みに的確にアドバイスをする、という、言ってしまえば『悩み相談』に近いものがある。とは言えど、そこには少し何か不思議な力が働くのか、悩みと出たカードがとてもよく噛み合うのだ。

 そんな事、美嘉に出来るのか?と思われるだろうが、美嘉は若いなりにもちょっと普通ではない人生を送って来たということもあり、苦労して来たその経験からそれなりに人にアドバイスが出来るのだ。

 しかも『美嘉さんの言葉はとても温かい』と、客の間で定評がある。そんな心優しい美嘉の占いにハマってしまう客も多いようだ。

 だが美嘉は幼い見た目とろれつの回らない喋り方だと、対面占いでは上手く仕事をやって行く自信がないと言い、所属する占いの館〈エンプレス〉のオーナーにネット、つまり文字だけのやり取りにしてほしいと頼み込んだ。中卒の美嘉にとってはかなり不利な頼み事だが、オーナーがえらく美嘉を気に入っていることもあって幸いそれは聞き入れられた。

 なので、美嘉は最初の頃はネットや電子メールを使っての仕事に注力していた。次第に美嘉の有能さが広まって行き、知名度も上がると、多方から美嘉に直接会って占ってほしいという声が上がり出した。皆、美嘉に会ってみたいと言うのだ。それは美嘉の人柄の良さが関係しているだろうが、謙遜な美嘉は暫し悩んだ。

 漆に相談すると、「お前の好きなようにやったらいいよ」という返事。好きなように……か。美嘉はそれで何か吹っ切れたように、オーナーに、週一で対面占いをしたいとお願いすると、「美嘉さんならきっと上手くいくよ」と快い返事を貰えたのだった。

 それから四年。美嘉は二十歳になった今でも占い師の仕事を熱心に続けている。

「このかたのおなやみはむずかちぃなぁ……」

「美嘉ぁ?飯食い行……あ、まだ仕事してたのか、邪魔してすまねぇ」

「んーん、だいじょぶだよぅ!みかもおなかすいたし!」 

 そんなこんなで美嘉は仕事から上がり、漆と夕飯を食べに繁華街へと繰り出すのだった。





 翌朝、美嘉は家事に追われていた。朝食作りとその片付け、各部屋の掃除、洗濯、トイレ掃除。午前中にはやらなきゃいけない事が沢山詰まっている。ただ、美嘉だけがその負担を負うのかと言えばそうでもない。

「美嘉、洗濯と部屋掃除は俺に任せろ!」

「うゆしゃんいつもあいがとう!じゃあおねがいしましゅ!」

 分担すれば家事も楽になる。漆は『手伝ってやる』、という思考はなく、『そもそも家事というものは夫婦両人が負担するもの』という感覚で居る。それがどれだけ嬉しい事か、美嘉は日々、漆の優しさに心からの感謝をしている。



「フンフフ~ン、フフンフ~ン」

 ご機嫌で美嘉が庭の掃き掃除をしていると、青い蝶が一頭、羽をはためかせ、美嘉の小さな鼻の頭に留まる。美嘉は「ぉぉぉ……」と萎縮するが、寄り目で見るとその美しさに惚れぼれしてしまう。

 濃い青色が透き通って、陽の光をまとう蝶。その輝かしさに美嘉は感動していた。

 だがだんだんムズムズしてくる鼻が今、「クチン!」と可愛いクシャミを放つと、蝶はビックリして羽ばたいて行ってしまったが、美嘉はそんな出来事にほっこりし、今日も良い日になるのだろうと頬を緩ませた。

 美嘉はとても幸せだった。愛する夫と日々を共に出来、その中で沢山の人と関わり合え、何のストレスも無く過ぎてゆくこの人生に、楽しさを見出していた。文句なんか一つも無い。ただただ幸せを噛み締めるのみである。

「美嘉、そろそろ事務所行こうか」

「はーい!」



   ***



 火曜日、週一対面占いの日。

 今日も仕事を頑張った。美嘉は帰り道を軽やかな足取りで歩く。自然と鼻歌も出たりして、全くの恨事無くご機嫌だ。

〈エンプレス〉は繁華街の隅に在り、自宅はその対向側に在るので、そこから自宅に帰るには街の中心を横断するのが一番の近道なのだが、今日の美嘉はいつにも増して幸福度が高いようで、少し寄り道してから帰ろうと、百貨店を見て歩いたり、個人経営の雑貨店等を回って歩いていた。

 そうして歩いていると、とあるビルの前で美嘉は立ち止まる。見上げると、夕日がビルの側面のガラスに映り何とも幻想的な色を成していた。

「よってこうかなぁ……」

 そう呟いて美嘉は少し駆け足でそのビルの階段を登って行った。



「誰が立っていいつったあああッッッッッ!!」

「ヒィィイイイイイッッッ!?」

 強烈な怒号と共に胸ぐらを掴まれた酉井充(とりいみつる)は慄いた。体中、鬱血や流血で真っ赤に染まっており、左瞼は腫れ上がり、歯は殆んど折れてしまっていた。

 暴行を加えたのは帝和会傘下鬼木組の組長であり、漆の一卵性の兄である蜷川釉矢(にながわゆうや)だ。

 漆と同じ顔、背格好をしてはいるが、漆程優しさを感じられない面立ちで、実際、彼の経歴は血に塗れている。酉井は鬼木の構成員だったが、鬼木のタブーであるヤクの売買を釉矢に内緒で行っていたのがバレ、こうしてケジメをつけさせられている所なのだ。

「鹿目!バーナー貸せ」

 鹿目(しかめ)と呼ばれた背の高い男は、何も言わず無表情でガスバーナーを釉矢に手渡すが、それに怯える酉井は涙ながらに「だずげてくだざぁい」と懇願する。が、釉矢は心を鬼にして、酉井に過ちの責任を取ってもらっているのだ、そう易々と手を止める訳にはいかない。

 お前らコイツ押さえてろ。釉矢の一声で、酉井の周りを囲んでいた体躯の良い男達数人が酉井を押さえ込み自由を奪う。

「酉井よぉ、俺は心底ガッカリしてるぞ?人間誰しも間違いはあるがなぁ、あんな大層な間違い、誰が犯すんだ?ああっ?」

 釉矢はそう言うと、点火する。

「ヤク売った金でさぞかしウメェもん食ってたんだろうなぁ。もう充分食っただろう、なら舌は要らねぇよなぁ?おい舌出せ舌」

 酉井は逆らえず、言われるがままに舌を出す。

「やも、や、やだ、やもてくださ、お、あ」

 ガスバーナーの火に怯える酉井。あと数センチで舌が焼かれる。



「ここ……だよね?」

 美嘉が階段を登り切ると、通路の奥にあるドアの前に厳つい顔の男が一人、立っている。

「あの……おにきぐみのじむしょはここであってますか??」

 恐るおそる男に訊くと、顔を顰めた男が「ここはガキの来る場所じゃねぇよ」と手で追い払う。

「わたし、にながわゆうやのおとうとうゆしのつまです、ゆやしゃんにあいにきまちた」

「は?」



「あの、親父」

「何だ後にしろ」

「そ、それが……」

 部下に耳打ちされた釉矢の手が止まる。

 釉矢はゆうるりと火を消した。

「……命拾いしたな」

 酉井の耳元でボソッと言って肩を叩くと、酉井は心底安心した様子でフローリングに横たわった。



 酉井とは別の部屋に通された美嘉。それもそうだろう、あんな凄惨な事があった場所に通したら美嘉に多大なるショックを与えてしまう。

 通された部屋は風通しが良く、陽の光も良い感じに入る。とは言え物が乱雑に置いてあり、落ち着いて過ごせるような雰囲気ではないのが残念ポイントである。

「美嘉ちゃん久しぶり!」

 何食わぬ顔で釉矢が片手を挙げると、美嘉は元気そうな釉矢を見て顔を緩ませた。

「ゆやしゃん!おひさしぶいなの~!」

「何?どうしたの?一人で鬼木の事務所来るなんて珍しいじゃん」

「いまね、おしごとおわってかえいなんだけどぉ、きょうすっごくいいおしごとできたかやなんかウキウキしちゃって。そんなときここのまえとおったかや、せっかくだし……とおもって」

 美嘉は出されたアイスミルクをストローで啜る。

「おぉ、お疲れ様。良い仕事か、そういうとこ、見習いてぇもんだなぁ。そういや仕事って今も占い師の??」

「うん!ことしでよねんめだよ!」

「そうかー、頑張ってんだなー。漆も安心だよなぁ」

 こんな風に気さくに話してはいるが、蜷川釉矢という男、かなり凶暴性がある人間であり、双子の兄弟である漆とは相対的な箇所も多い。漆と違い、極道らしい極道であると言っても過言ではない。

 美嘉は自分の夫にそっくりな釉矢を目の前にしても、格好良さに感嘆、とはならない。何故なら釉矢のその凶暴性を知っているからだ。

 とは言え、釉矢の優しさは漆の優しさに匹敵するものがある。単に凶暴な訳ではないのだ。



 二人は一時間程喋っただろうか。

 美嘉も釉矢も満足気に出された飲み物を飲み干した。

「みかそよそよかえやないと」

「あ、ああ、そっか、いや楽しかったよ美嘉ちゃん。また近々会おうな!」

「うん!にながわのじむしょにもまたあそびにきてね!」

 あいよと返事した釉矢はふと何かを思い出し、ちょっと待っててと美嘉を置いて別室に行ってしまった。

 数分後、釉矢が何かを持って戻って来た。

「これ、〈万悠堂(ばんゆうどう)〉で買った疲労回復薬なんだけどさ、沢山あるからお裾分け」

「こんなに、いいの??」

「うん。まあまだ試してねぇんだけどな、庵蓮(あんれん)の調合した薬なら何でも効くだろ?」

 釉矢の言う〈万悠堂〉とは、蜷川組の女構成員・万蘭艶(ばんらんえん)の兄・万庵蓮(ばんあんれん)が経営する個人経営の薬局のことである。裏社会との繋がりのある薬局のようだ。

「だね。あいがとう、うゆしゃんにもすすめてみゆ!」

 その後鬼木の事務所を出た美嘉は、再び軽い足取りで自宅への帰路を辿った。





 食卓に並べられた食事済みの食器を漆さんがシンクに運んで行く。蜷川邸では夕食が済み、私はシンクいっぱいになった食器を洗い始めた。

「美嘉、いいよ、洗うのは俺がやるからリビングで休んでな」

 漆さんにそう言われ、私は感謝と共に心を温めた。

 リビングに行くと、仕事用のバッグをソファーに置いたことに気付き、そう言えば……と釉矢さんから貰った疲労回復薬のことを思い出した。

「きょうもたのしかったけど、なんだかんだでつかえたよなぁ……」

 万ちゃんの調合技術はかなりのもので、蜷川組と鬼木組の人間は病を患ったら速攻で〈万悠堂〉に駆け込むくらいの信頼度がある。ということは、この疲労回復薬も相当な効力を発揮するのだろう。

「何だそれ?」

 程なくして家事を終え、漆さんがリビングにやって来た。

「あ、うゆしゃ、しょっきあやいあいがとう。こえね、きょうゆやしゃんかやもやったの。ばんちゃんがちょうごうしたひようかいふくやくだって。のむ??」

「おお、良いねぇ。俺も今日はくたびれたよ、一錠くれるか?」

「ほい」

 錠剤薬を漆さんの手のひらに転がすと、ローテーブルに置いてあったミネラルウォーターでグビッと飲んだ。

 私も続いて漆さんから手渡されたミネラルウォーターで薬を喉奥に流した。

「あ、じゃあ俺、風呂沸かしてくるね」

 漆さんはそう気遣って風呂場に向かった。



 十五分後。

 浴室のサブリモコンが浴槽に湯を張り終えたことを知らせる軽快な音を鳴らした。

 けれども何だか体の調子がおかしい。

「う、ゆしゃ……どちた、のかな??みか…なんか…へん」

「お、お前もか……?」

 体の芯に火が灯り、燃えるように熱い。と同時に秘部がじわっと濡れてくる。

 やるせない溜め息が漏れ、私は漆さんの肌を求めた。

 絶妙に体を重ね合わせ、ソファーに優しく押し倒されると、私に覆い被さるようになった漆さん。するりショーツの中へと滑って行った漆さんの手の指が、私の大事な部分を舐めるかの如く弄る。

「ん……んはぁ……」

 次第に割れ目に入って行く指が、まるで男根のようで、あたかもセックスをしているみたいな感覚に捉われる。

 私はあまりの気持ち良さに躰を捩らせ、漆さんの情愛に溺れてしまいそうになっていた。

 時折漆さんは私の乳首を、キャミソール越しに食む。薄い生地に唾液が染み込み、その辺りにシミが出来てしまっている。

 割れ目の中でグチュグチュ端ない音が立ち、それは静かなリビングに際立った。

「美嘉……」

 目と目が合う。そして互いの吐息が混じり合う。もっとして。もっと漆さんが欲しい。

 舌と舌を激しく絡ませ合い、貪るような性交に私は耐えられずに居た。こんなに欲しいのに、辛い。

「んっん、いやぁっ…」

 思わず口にしてしまった「嫌」という言葉に漆さんが反応する。

「嫌、じゃねぇよ。お前にそんなことを言う権利はねぇ」

 交わしていたキスを中断し、漆さんは再度、視線を絡ませてきた。

「ふ…んんぅ」

 今にも泣きそうな私は堪えながら声にならない声を出した。すると漆さんは私の片手首を掴んで私の頭上に固定した。これでは腋が丸見えだ。

 漆さんはそうしてその腋に舌を這わせてきた。

 背筋がぞくぞくする。体勢的に抵抗したくても出来ないし、もうこれ以上我慢出来ない程の心地良さに支配されてしまいそうで、私は涙を零した。

 私は強い快感に弱い。あまりにも気持ちが良過ぎると、耐えられずに涙腺が崩壊してしまうのだ。漆さんはそれを知っている。けれどもそんな私を見ると漆さんはもっと私を辛くさせたくなる衝動に駆られると以前話していた。躰が限界なのに、漆さんは拷問を加えて楽しむかのような行為に出る。それが私にとっては辛さを兼ねた悦楽になるのだが。

 太い指で漆さんは私の涙を拭ってくれた。

「んんっ」

 でも涙が止まらない。

 そんな私を、漆さんは包み込むように抱き締めてくれた。

「すまねぇ、ちょっと意地悪し過ぎたな」

 私はその問いに対し首を横に振った。漆さんの体温がいつもより熱い。頭がクラクラする。

 そうしていると、漆さんがジーンズのベルトを外し、脱いだ。グレーのボクサーパンツの前面が腫れたものでパンパンになっている。それも脱いで漆さんは臨戦体勢に入った。

「うつ伏せになってごらん」

 漆さんにそう言われ、私はお腹を下にした。ショーツを脱がされて、ゆっくりと漆さんの大きくて太く硬いものが、陰裂を割って挿って来た。

 貫かれるような刺激に私は大きな嬌声を上げそうになったが、もう声にならない声が心中に込み上げて、それは甘い吐息として私の口から出て行った。

 漆さんの陰茎と私の陰部が荒々しく情交する。ソファーが大きく揺れ、掴む場無く私は仕方無しに目の前にあるクッションを握った。

「アッ──、んアッ──、ッ──」

 気持ち良いなんてもんじゃない。まだ生きているから天国には行ったことがないけれど、言うなればここは天国なのかもと、ふやけた頭で思った。



 気付いたら性交は終わっていた。体の熱ももう冷めている。

 私の背中にはたっぷり漆さんの精液が。それをティッシュで拭き取ってくれる優しい漆さん。

「これだな、俺達がおかしくなった原因は」

 ローテーブルに置いておいた疲労回復薬を、漆さんは手に取って眺める。

 その折、漆さんのスマホに電話が来た。

「もしもし」

『あ、漆?俺おれ、釉矢』

「兄貴!何であんな薬美嘉に渡したんだよ!!」

『あ、その口振りだともう飲んじまった感じだな。アレさぁ、庵蓮が間違えて媚薬を俺に渡しちまったらしいんだよ』

「……ああなるほど。おかげで良い時間を美嘉と過ごせたわ」

『ハハッ、なら良かった!要件はそれだけ。じゃ、またな』

 ブツッと電話が切れたみたいだ。漆さんは軽く溜め息を吐く。

「コレ、媚薬だってよ」

「うそぉん……」

 二人で笑ってしまった。あの有能薬師万ちゃんでも間違うことあるんだな…。弘法にも筆の誤り、か。



 私の毎日はこんな風に過ぎて行く。きっと、『ヤクザの妻』という非日常の人生の中にも日常的な幸せは沢山混じってて、私のこの人生は数奇なものだし、色々あったけど、私自身とても気に入っている。

「明日はデートするか」

 湯船に浸かりながら漆さんは私の肩にお湯を掛ける。

「ホント!?」

 舞い上がる私を見て漆さんは私の体を抱き寄せた。

「ついでにホテルに泊まっちゃおうか」

 その言葉に顔を赤くすると、「ハハッ、もうのぼせちまったのか?」と漆さんは濡れた黒髪を掻き上げた。

「やくそくだかやね?」

 ああ約束な。漆さんが柔く答え、ともかくも私は多幸感というものに愛おしさを感じずにはいられなかった。
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