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24、新五利治/主(あるじ)
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身籠もったのは無論、兄上の子である。紅茂の言葉に、虚無感が押し寄せた。
「この半年、殿を、新五様を思わぬ日はございませなんだ。意に添わぬ相手と毎夜床を共にするこの身が、まことに恨めしゅうございました。されど、命を懸けて戦に臨んでおられる殿を思い、忍んでまいりました」
物言いの中に、わしへの非難が込められていた。
わしにどうせよと言うのじゃ。
己だけが辛いと思うてか。
「何が言いたい。身籠ったことを褒めてもらいたいか、それとも、子など流してしまえと言うてほしいか。わしが戦に出る間、そなたは兄上にかわいがられ、この城でのうのうと過ごしておったではないか。それを忍ぶなどと、ようも申すものよ」
紅茂の表情が、驚きから次第に怒りへと変わっていく。
紅茂が何か言おうとした時、襖の外からツルが紅茂に呼びかけた。
「奥方様、利堯様がお呼びにございます」
紅茂は腰を浮かせたが、すぐに思い直して腰を沈め、わしを見た。
「行け」
わしが促すと、紅茂は一礼し部屋を出た。
その時、わしは紅茂に聞こえるように、
「ツルはここにおれ」
と言った。
紅茂の足音がつと止まったが、すぐにまた、床を擦る音が響いた。
主の部屋から退く折は、主の許しを請うのが常である。
されど紅茂は、すぐに腰を上げようとした。
「ツルよ、見たか。紅茂はわしがこの城の主であることさえ忘れておる」
そう言わずにはおれぬほど、腹が立っていた。
「この城の主は誰ぞ」
「無論、殿にございます」
ツルは怯えているようであった。
わしは今まで、紅茂にはもちろんツルにも声を荒げたことはない。荒げるような出来事も起こらなんだ。
されど、戦をしながらの上洛、初めての長い道中、そこからようやく這い出た先が、兄上の子を宿し、わしを責める紅茂であった。
「すまぬ。戦から帰ったばかりで、つい紅茂に辛く当たってしもうたのじゃ」
「滅相もございませぬ。斎藤家を守るため、殿が命を懸けて下さっていること、誠に有難く、皆ご恩を感じておるのでございます」
ツルのその言葉は、わしを大いに慰め、安堵させた。
何故紅茂は、ツルのように優しくわしに言葉をかけられぬのか。
怒りはまだ収まらず、たぎる血が体の奥底を巡る。気がつくとわしはツルに近づき、その体を抱き寄せていた。
「殿、何を」
ツルが慌てた。
「そなたとおらねば、安堵できぬ」
「殿、お気を確かになされませ。私は、奥方様の侍女にございます」
「かまわぬ」
後のことなどどうでもよい。ただ、今この気が収まれば。ツルの腰に手をやり、帯をほどく。
三十路をとうに過ぎ、しわがくっきりと浮かぶ口元をぎゅっと結びながら、ツルは抗うのを諦めてきつく目を閉じていた。その顔が、紅茂に重なった。
兄上と床を共にする折、紅茂もこのような顔をするのか。空しさが、急に押し寄せた。
体を離し、わしはツルに頭を下げた。
「許せ。気が惑うた。紅茂はわしを恨んでおる。されど、わしも兄上の子を宿した紅茂が恨めしい。どうにもならぬ。ゆえに、このような短慮でそなたを傷つけた」
ツルは、立ち上がり帯を締めなおすと、わしの正面に座して静かに言った。
「殿がいらっしゃらないこの城は、奥方様にとって針の筵にございました。利堯様はご自身は茶道に興じておられるばかりで、洪水や熊の退治、城の修理に至るまで、差配を奥方様や治郎兵衛様にすべてお任せになったのでございます。そして毎夜、奥方様を閨にお呼びになりました。奥方様はこれも努めじゃと、強い心で床へ参られましたが、朝方、奥方様の枕は、いつも濡れておられました。昼間は常に気丈に振舞われ、弱い心を見せぬ奥方様が、殿は今頃どうしていらっしゃるかと話すときだけは、女子の顔に戻られるのでございます。殿も奥方様も恨み合うのは、互いを頼りにし、想い合うておられる証拠にございます。長い日を経て、ようやく共にお過ごしになれるのです、なにとぞ、仲睦まじゅうなさってくださいませ」
わしは紅茂からまた一つ、大切なものを奪うところであった。
「誠に相済まぬ。詫びを申す。…済まぬが、紅茂を呼んでくれぬか」
ツルは何事も無かったかのように淡々と返事をし、再び勤めに戻ったのである。
紅茂が居室にやって来ると、わしは言葉が過ぎたことを詫びた。
それでもどことなく、二人の間には目に見えぬ壁があった。
その夜は紅茂と共に過ごしたが、身重の紅茂をかき抱く気にはどうしてもなれなかった。
わしが戻ってから、兄上は紅茂を床に侍らすこともなくなった。紅茂の呼び方も奥方様と改め、腹の子の話も一切口にしなかった。
また政でも表に出ることはなく、殿の思うがままにと、何につけてもわしに委ねた。
「この半年、殿を、新五様を思わぬ日はございませなんだ。意に添わぬ相手と毎夜床を共にするこの身が、まことに恨めしゅうございました。されど、命を懸けて戦に臨んでおられる殿を思い、忍んでまいりました」
物言いの中に、わしへの非難が込められていた。
わしにどうせよと言うのじゃ。
己だけが辛いと思うてか。
「何が言いたい。身籠ったことを褒めてもらいたいか、それとも、子など流してしまえと言うてほしいか。わしが戦に出る間、そなたは兄上にかわいがられ、この城でのうのうと過ごしておったではないか。それを忍ぶなどと、ようも申すものよ」
紅茂の表情が、驚きから次第に怒りへと変わっていく。
紅茂が何か言おうとした時、襖の外からツルが紅茂に呼びかけた。
「奥方様、利堯様がお呼びにございます」
紅茂は腰を浮かせたが、すぐに思い直して腰を沈め、わしを見た。
「行け」
わしが促すと、紅茂は一礼し部屋を出た。
その時、わしは紅茂に聞こえるように、
「ツルはここにおれ」
と言った。
紅茂の足音がつと止まったが、すぐにまた、床を擦る音が響いた。
主の部屋から退く折は、主の許しを請うのが常である。
されど紅茂は、すぐに腰を上げようとした。
「ツルよ、見たか。紅茂はわしがこの城の主であることさえ忘れておる」
そう言わずにはおれぬほど、腹が立っていた。
「この城の主は誰ぞ」
「無論、殿にございます」
ツルは怯えているようであった。
わしは今まで、紅茂にはもちろんツルにも声を荒げたことはない。荒げるような出来事も起こらなんだ。
されど、戦をしながらの上洛、初めての長い道中、そこからようやく這い出た先が、兄上の子を宿し、わしを責める紅茂であった。
「すまぬ。戦から帰ったばかりで、つい紅茂に辛く当たってしもうたのじゃ」
「滅相もございませぬ。斎藤家を守るため、殿が命を懸けて下さっていること、誠に有難く、皆ご恩を感じておるのでございます」
ツルのその言葉は、わしを大いに慰め、安堵させた。
何故紅茂は、ツルのように優しくわしに言葉をかけられぬのか。
怒りはまだ収まらず、たぎる血が体の奥底を巡る。気がつくとわしはツルに近づき、その体を抱き寄せていた。
「殿、何を」
ツルが慌てた。
「そなたとおらねば、安堵できぬ」
「殿、お気を確かになされませ。私は、奥方様の侍女にございます」
「かまわぬ」
後のことなどどうでもよい。ただ、今この気が収まれば。ツルの腰に手をやり、帯をほどく。
三十路をとうに過ぎ、しわがくっきりと浮かぶ口元をぎゅっと結びながら、ツルは抗うのを諦めてきつく目を閉じていた。その顔が、紅茂に重なった。
兄上と床を共にする折、紅茂もこのような顔をするのか。空しさが、急に押し寄せた。
体を離し、わしはツルに頭を下げた。
「許せ。気が惑うた。紅茂はわしを恨んでおる。されど、わしも兄上の子を宿した紅茂が恨めしい。どうにもならぬ。ゆえに、このような短慮でそなたを傷つけた」
ツルは、立ち上がり帯を締めなおすと、わしの正面に座して静かに言った。
「殿がいらっしゃらないこの城は、奥方様にとって針の筵にございました。利堯様はご自身は茶道に興じておられるばかりで、洪水や熊の退治、城の修理に至るまで、差配を奥方様や治郎兵衛様にすべてお任せになったのでございます。そして毎夜、奥方様を閨にお呼びになりました。奥方様はこれも努めじゃと、強い心で床へ参られましたが、朝方、奥方様の枕は、いつも濡れておられました。昼間は常に気丈に振舞われ、弱い心を見せぬ奥方様が、殿は今頃どうしていらっしゃるかと話すときだけは、女子の顔に戻られるのでございます。殿も奥方様も恨み合うのは、互いを頼りにし、想い合うておられる証拠にございます。長い日を経て、ようやく共にお過ごしになれるのです、なにとぞ、仲睦まじゅうなさってくださいませ」
わしは紅茂からまた一つ、大切なものを奪うところであった。
「誠に相済まぬ。詫びを申す。…済まぬが、紅茂を呼んでくれぬか」
ツルは何事も無かったかのように淡々と返事をし、再び勤めに戻ったのである。
紅茂が居室にやって来ると、わしは言葉が過ぎたことを詫びた。
それでもどことなく、二人の間には目に見えぬ壁があった。
その夜は紅茂と共に過ごしたが、身重の紅茂をかき抱く気にはどうしてもなれなかった。
わしが戻ってから、兄上は紅茂を床に侍らすこともなくなった。紅茂の呼び方も奥方様と改め、腹の子の話も一切口にしなかった。
また政でも表に出ることはなく、殿の思うがままにと、何につけてもわしに委ねた。
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