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2、紅茂/駒
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加治田城へ戻ると、家中の者が右へ
左へと駆け回り、まるで今から再び戦が始まるかのような慌ただしさであった。
戦勝祝いの酒宴の支度かと思いながら侍女のツルを探すが、膳所にも寝所にもツルの姿がない。
母上の居室の前まで足を進めると、どうにも中が騒がしい様子であった。
「母上、よろしゅうございますか」
「紅茂か。入れ」
そこにはツルもいた。
ツルだけではない。女子衆が肩を寄せて、母上の前に控えていた。
「何事にございますか」
女たちのひしめく居室の中に分け入って、母上の目の前に腰を下ろした。
「今宵、この加治田城に信長様をお迎えすることに相成ったのじゃ。明日には庭に敵の首をうち揃え、ご検分なされる。信長様とご家来衆のご酒や膳、器の支度、寝床の支度、さらに明日の検分に備え多くの白粉も要る。そなた、京から取り寄せた漆の碗の場所を知っておろう?ここらの女子衆を2、3人引き連れ、急ぎ支度せよ」
「…心得ました」
母上は未だ、姉さまの遺骸と対面しておらぬ。姉さまの死を悼むこともできず、忙しく立ち回らねばならぬその心中は、いかばかりであろうか。
父上が嬉々として信長様の逗留を母上に伝える様が目に浮かぶ。姉さまが身罷られたことなどとうに忘れ、信長様をお迎えする誉れに酔いしれておられるに相違ない。
ツルと女中頭を引き連れ、明かりを手に納戸の奥に入ると、既に別の女中が、取り出した木箱を四方八方に置きやり、戸棚の中を漁っているところであった。
「これ、何を探しておる」
「はい、信長様にお出しする茶道具を、探しておりました」
「茶道具はここにはない、父上の居室じゃ」
女中は恐縮し、木箱を急ぎ片付けると、バタバタと納戸を後にした。
「ツル、踏み台を持て。漆椀はあの高い所の戸棚じゃ」
「はい」
漆椀だけでも何種類もあり、それに合った高足膳も用意せねばならない。
女中頭が踏み台に乗り、木箱を取り出そうとするが、この暗さでは戸棚の奥の木箱が全くもって見えない。
このように暗い時分に支度をするなど初めてのことだが、火を用いると危うい。が、今宵限りはそうも言ってはいられまい。
「やれやれ、燭台では役に立たぬ。松明を持て。それと、男手がいる」
はい、とツルが答え、納戸の戸を開けた。
すると、ちょうど先ほど茶道具を探しに出て行ったはずの女中が戸の外にいたため、ツルと鉢合わせになった。
驚いて声を上げるツルをよそ目に、「まだ、なんぞ用か」と女中に声を掛ける。
「はい。殿が、紅茂様をお呼びにございます」
父上が…。何か悪しきことを言われるようで、嫌な心持ちであった。
「父上、紅茂にございます」
「おお、紅茂、来たか。そなた今から、湯殿に参れ」
姉さまのことを言うでもなく、戦のことを言うでもなく、湯あみをせよとはどういうことか。
戦勝の寿ぎの言葉を用意しておったのに、思いもよらぬ言葉で言いそびれた。代わりに訝しい目で父上を見る。戦場に出ていない私よりも、父上のほうがよほど湯殿に行って然るべきであろう。
「それから、そなたの母より大事な話がある。しかと聞け」
「大事な話とは?」
「わしに言わせるな。閨のことじゃ」
「閨?」
「わからぬか。今宵信長殿はこの城で御寝あそばされるのじゃ。それだけでもまことありがたきことなれど、もしも、そなたにお手がつけば、さらに子を授かれば、わが佐藤家は織田の一族になる。このような機会、またとないわ」
父上は満面の笑みで答えるが、当の私はあまりのことに息が止まった。
強きに阿り弱きを挫く、それが父上であることは、よくわかっている。
しかし娘の気持ちを慮りもせぬ父上の様子に、世迷言を申さずにはいられない。
「…戦に勝たれただけでは、足りませぬのか」
「すべてはこの家のためじゃ。よいか、そなた宴までに湯あみを済ませ、信長殿に酌をせよ。くれぐれも、粗相のないようにの」
父に逆らえるはずもない。子のさだめである。
「あいわかりました、それで」
この問いだけは、言わぬわけにはいかぬ。
「龍福寺の姉さまには今宵、会いに行かれるのでございましょう?」
父上はしばし押し黙った。
「今宵は忙しい。そなたとゆるりと話している時はない。早う行け」
逃げた。
いかぬならいかぬと、はきと申せばよいのに。
家が大事、加治田衆が大事、織田との誼が大事、そんなことは私でもわかる。
されど、岸を裏切り、姉さまを見殺しにし、私を信長の妾にしようとする父上は、身内を人ではなく、駒としてしか扱われぬ。
「心苦しいが、どうか力になってくれ」
と誠意を尽くし仰るなら、このように腹の立つこともなかろうに。
父上の居室の外では、ツルが真新しい襦袢を持って、控えていた。
湯殿に向かう間、つと涙が落ちた。
左へと駆け回り、まるで今から再び戦が始まるかのような慌ただしさであった。
戦勝祝いの酒宴の支度かと思いながら侍女のツルを探すが、膳所にも寝所にもツルの姿がない。
母上の居室の前まで足を進めると、どうにも中が騒がしい様子であった。
「母上、よろしゅうございますか」
「紅茂か。入れ」
そこにはツルもいた。
ツルだけではない。女子衆が肩を寄せて、母上の前に控えていた。
「何事にございますか」
女たちのひしめく居室の中に分け入って、母上の目の前に腰を下ろした。
「今宵、この加治田城に信長様をお迎えすることに相成ったのじゃ。明日には庭に敵の首をうち揃え、ご検分なされる。信長様とご家来衆のご酒や膳、器の支度、寝床の支度、さらに明日の検分に備え多くの白粉も要る。そなた、京から取り寄せた漆の碗の場所を知っておろう?ここらの女子衆を2、3人引き連れ、急ぎ支度せよ」
「…心得ました」
母上は未だ、姉さまの遺骸と対面しておらぬ。姉さまの死を悼むこともできず、忙しく立ち回らねばならぬその心中は、いかばかりであろうか。
父上が嬉々として信長様の逗留を母上に伝える様が目に浮かぶ。姉さまが身罷られたことなどとうに忘れ、信長様をお迎えする誉れに酔いしれておられるに相違ない。
ツルと女中頭を引き連れ、明かりを手に納戸の奥に入ると、既に別の女中が、取り出した木箱を四方八方に置きやり、戸棚の中を漁っているところであった。
「これ、何を探しておる」
「はい、信長様にお出しする茶道具を、探しておりました」
「茶道具はここにはない、父上の居室じゃ」
女中は恐縮し、木箱を急ぎ片付けると、バタバタと納戸を後にした。
「ツル、踏み台を持て。漆椀はあの高い所の戸棚じゃ」
「はい」
漆椀だけでも何種類もあり、それに合った高足膳も用意せねばならない。
女中頭が踏み台に乗り、木箱を取り出そうとするが、この暗さでは戸棚の奥の木箱が全くもって見えない。
このように暗い時分に支度をするなど初めてのことだが、火を用いると危うい。が、今宵限りはそうも言ってはいられまい。
「やれやれ、燭台では役に立たぬ。松明を持て。それと、男手がいる」
はい、とツルが答え、納戸の戸を開けた。
すると、ちょうど先ほど茶道具を探しに出て行ったはずの女中が戸の外にいたため、ツルと鉢合わせになった。
驚いて声を上げるツルをよそ目に、「まだ、なんぞ用か」と女中に声を掛ける。
「はい。殿が、紅茂様をお呼びにございます」
父上が…。何か悪しきことを言われるようで、嫌な心持ちであった。
「父上、紅茂にございます」
「おお、紅茂、来たか。そなた今から、湯殿に参れ」
姉さまのことを言うでもなく、戦のことを言うでもなく、湯あみをせよとはどういうことか。
戦勝の寿ぎの言葉を用意しておったのに、思いもよらぬ言葉で言いそびれた。代わりに訝しい目で父上を見る。戦場に出ていない私よりも、父上のほうがよほど湯殿に行って然るべきであろう。
「それから、そなたの母より大事な話がある。しかと聞け」
「大事な話とは?」
「わしに言わせるな。閨のことじゃ」
「閨?」
「わからぬか。今宵信長殿はこの城で御寝あそばされるのじゃ。それだけでもまことありがたきことなれど、もしも、そなたにお手がつけば、さらに子を授かれば、わが佐藤家は織田の一族になる。このような機会、またとないわ」
父上は満面の笑みで答えるが、当の私はあまりのことに息が止まった。
強きに阿り弱きを挫く、それが父上であることは、よくわかっている。
しかし娘の気持ちを慮りもせぬ父上の様子に、世迷言を申さずにはいられない。
「…戦に勝たれただけでは、足りませぬのか」
「すべてはこの家のためじゃ。よいか、そなた宴までに湯あみを済ませ、信長殿に酌をせよ。くれぐれも、粗相のないようにの」
父に逆らえるはずもない。子のさだめである。
「あいわかりました、それで」
この問いだけは、言わぬわけにはいかぬ。
「龍福寺の姉さまには今宵、会いに行かれるのでございましょう?」
父上はしばし押し黙った。
「今宵は忙しい。そなたとゆるりと話している時はない。早う行け」
逃げた。
いかぬならいかぬと、はきと申せばよいのに。
家が大事、加治田衆が大事、織田との誼が大事、そんなことは私でもわかる。
されど、岸を裏切り、姉さまを見殺しにし、私を信長の妾にしようとする父上は、身内を人ではなく、駒としてしか扱われぬ。
「心苦しいが、どうか力になってくれ」
と誠意を尽くし仰るなら、このように腹の立つこともなかろうに。
父上の居室の外では、ツルが真新しい襦袢を持って、控えていた。
湯殿に向かう間、つと涙が落ちた。
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