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第五章
二、
しおりを挟む一五二四年の正月を過ぎた頃、十三歳となった三法師の元服式が急遽執り行われることと相成った。
津島衆との戦に先立ち、三法師を元服させて初陣として陣に加わらせる肚であった。
元服に先立ち話を聞いた三法師は、戦と言う言葉に戸惑っていた。戦に負けたらどうなるのかとの三法師の問いに、弾正はまずこの戦が勝つまで終わらぬ戦であることを告げた。その上で、負け続ければ死人が増え銭もなくなるが、勝てば我らは天王社と一体となり、津島衆との行き来も増えて銭も潤うのだと説いた。
「つまり、勝たねば酒も飲めん、祭も行けん、能も見れんいうことですね?父上」
弾正は頷く。動機は何でもよい。何年か先には必ず今川と戦になる。そのためには早いうちに戦を経験させ、津島衆を味方につけねばならない。それが弾正と五郎左の思いであった。
元服にあたり諱をどうするか、弾正は迷った。
主から一文字もらうのが通例だが、弾正忠家には既に実質的な主はいない。
この弾正忠家の行く末を見定め、三法師を導いてくれる者から諱をもらう。そう決めた弾正は、三法師の新たな名を自ら筆にとってしたためた。
―織田弾正忠三郎信秀。
五郎左の諱、政秀から秀の字を取って、三法師に与えたのである。
三法師は織田弾正忠家の嫡男として、これからは三郎と呼ばれることになる。
翌二月、大橋の奴野の屋敷に弾正からの文が届けられた。
弾正からの文と聞き、大橋は訝しんだ。今まで織田弾正忠家から文などもらったことはない。顔を合わせれば挨拶を交わし、弾正忠家から天王社に寄進や奉納を受けたこともある。だが政で弾正忠家と大橋が交わることは一切なく、互いに干渉もしなかった。
大橋が文を開けると、織田弾正忠家の配下となれとの恫喝に近い内容が書かれていた。手を組まぬかなどの誘いならまだしも、いきなり文を送りつけ、脅しをかけてきたのである。
弾正忠家のこのやり方に、大橋は怒り沸騰であった。
「おのれ弾正め。今川がいずれ尾張に攻め入ると見て、我らに目をつけたか」
大橋は文を丸め、庭の外に放り投げた。弾正への返書は送らず、そのまま黙殺した。
そのひと月ののち、再び弾正からの文が届いた。その文はさらに過激なものであった。
―返書がないのはいかなることか、ひと月待って返書がなければ津島に攻め入る。
大橋は怒り狂った。あまりにも一方的である。大橋は文を引きちぎり刀を手に取ると、屋敷を出て急ぎ天王社に向かった。
「次郎、次郎はおるか」
天王社の詰所で肩肘をついて横になっていた次郎大夫は、大橋の姿を見て飛び起きた。
「お、大橋様。いかがなさいました」
「お前、弾正んとこの家老と親しゅうしとったやろ。何か聞いとらんか」
「いえ、祭の折に会ったきりで近頃は会っておりませぬ。何かあったのですか」
大橋が事の次第を話すと、次郎大夫の顔は見る間に青ざめた。
「嘘じゃ、弾正忠家に限って我らを襲うなどありえませぬ。弾正忠家には事あるごとに諸国の世情を伝え、何度も恩を売っております。もしや…もしやお屋形様の命でしぶしぶ申しておるのではございませぬか」
「お屋形様が?お屋形様はうちらを保護し、寄進もしてくれとるやないか」
「遠江を取られ、焦っておられるのかもしれませぬ。一度お屋形様の元を訪れ、訳を聞いてはいかがです」
大橋はしばし考えてから同意した。
「お前も一緒に来い」
大橋の命に次郎大夫は首肯したが、心には暗雲が渦巻いていた。何故こんなことになったのか。まさか五郎左との小さな諍いが原因ではないか。考えても考えても、答えは出なかった。
数日後、清洲城の武衛屋形に参上した大橋と次郎大夫は、隠居した武衛の安穏とした表情にやや辟易した。尾張を率いていた頃のぎらぎらとした目つきや佇まいはとうに消え去り、政から離れて存分に余生を楽しんでいることが見て取れる。
大橋が今回の訪れの訳を話すと、武衛は一言、さようか、と興味がなさそうに言った。その表情からはこの企みを事前に知っていたかどうかは計れない。
次郎大夫の隣で大橋が武衛に訴える。
「我々津島衆は長年天王様を守り、尽くし、仕えて参りました。弾正様の配下になるわけには参りませぬ。どうかお屋形様から弾正様を説き伏せて頂けませぬか」
耳を傾けた武衛だが、出てきた言葉は冷たいものだった。
「あいにくだが我は何も知らぬし、隠居の身では何も出来ぬ。弾正の配下になったとて、今と何も変わらぬであろう」
軽い調子で武衛は言うが、その目は決して笑ってはいない。目の奥には往年のような、これ以上ものを言わせぬ凄みがあった。
それでも次郎大夫は意を決して口を開けた。
「お屋形様、私は尾張のために駿河まで行き、今川の世情を伝えて参りました。尾張のためを思うて危険を承知で旅に出たのでございます。どうか此度はお屋形様が、私を助けてくれませぬか」
武衛は刺すような目つきで次郎大夫を見る。
「随分と恩着せがましい言い方よのう、大夫よ」
次郎大夫は焦った。よく考えずに言葉を発したことを悔やんだが既に遅い。
「そなたが津島に戻らず駿河におれば、遠江を取られずに済んだ」
尾張が負けたのはおまえのせいだ、と言われたようで、次郎大夫は耳を疑った。だが言い返せるわけもない。
「我が何故、ただの御師などを助けねばならぬ」
次郎大夫はついに武衛を睨みつけた。
―その御師がいなければ戦も出来なかったであろうが。
怒りに震える次郎大夫の横で、大橋は二人の不穏な空気を感じ取り、すぐさま次郎大夫の頭に手を置き、ぐっと押さえつけた。
「ご無礼をお許しくださいませ」
武衛は口を歪ませたまま言った。
「話は済んだ。行け」
大橋は次郎大夫を掴み、足早に屋敷を出た。
「くそっ」
次郎大夫は唇を噛んだ。
「お屋形様を頼りにした私がおろかでした」
大橋に詫びた次郎大夫は、これまでの武衛や弾正忠家との間で起こったことを、すべて白状した。
「まことに申し訳ございませぬ。こんなことになろうとはつゆも思わず」
「なんちゅう愚かな。なんで黙って奴らの手足となったんや。いいように利用されただけだが。その上奴らは恩を仇で返そうとしとるんだで」
申し訳なさが募り、三十路の次郎大夫の目から大粒の涙がこぼれた。
「もうええわ。お前だけが原因ではにゃあで。いずれはこうなっとったかもしれん」
次郎大夫を責めたところで状況は変わらぬ、と大橋は思い直す。これから先の事を考えねばならない。
「返書はいかがなさいます」
次郎大夫が声を絞り出した。
「まだ時はある。よう考える」
「明日私が勝幡城に行って、説き伏せてみます」
無駄足だろうと大橋は思ったが、傷心の次郎大夫にそれを伝えるほど非情ではなかった。
その日の夜半、ドンドン、ドンドン、とけたたましく木戸を叩く音で次郎大夫は目を覚ました。表から微かに男の声が聞こえる。
寝ぼけ眼で襖を開け、ふらつきながら屋敷の出入り口に向かう。木戸は激しく揺れて、今にも外れそうである。止め木を外し木戸を開けると、そこには近くに住む御師仲間の真野が血相を変えて立っていた。
「次郎、火事じゃ。天王様が燃えとる!」
戯れを言うなと言いかけて次郎大夫は口ごもった。篝火を持っていないのに、なぜ真夜中に真野の顔がこんなにもはっきり見えるのか。
表に出て空を見ると、黒いはずの空は赤々と燃え、煙が天王社の森を覆っていた。焦げた匂いがこの辺りにまで漂っている。
「まさか」
屋敷の前の通りに飛び出した次郎大夫は、狂ったように喚き散らした。
「なんでじゃ、なんでじゃ!まだ日はあったはずやのに」
「次郎!おい!早う氷室様や大橋様に知らせねば」
真野が次郎大夫の腕を掴む。次郎大夫は真野に訴えた。
「これは弾正忠家のしわざじゃ。弾正忠家は津島を乗っ取るつもりじゃ。俺は奴らを止めに行く。まだ天王様におるかもしれん」
次郎大夫は真野の腕を振り払い、一人天王社の森へと駆けだした。
「やめえ、次郎!」
真野が声を張り上げるが、次郎大夫は振り向きもせず真っすぐに駆けて行く。
「次郎、俺は奴野の大橋様の所へ行くぞ!行くからな!」
少し躊躇したのち、真野は次郎大夫に背を向けて、天王橋を越えた先の奴野へ向かった。駆けながら、弾正の兵が天王社におらぬようにと天に祈った。
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