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第四章

三、

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「母上、どうぞ」
手に乗せられた笹舟を見て、いぬいは微笑んだ。
「おおきに。笹舟に乗っているのはホオズキとススキですか」
「違います。お屋形様とお屋形様の傘だで」
七歳になった三法師がふくれっ面をする。
三法師は四歳の時に会った武衛のことをよく覚えていて、唐紅の直垂と白傘袋に入った傘を再現して見せたのだが、いぬいにはわかるはずもない。
かつて武衛が車楽舟に乗っていたことを五郎左に聞いて以来、三法師は笹舟を作っては中に鮮やかな色の花を入れ、雅な祭と武衛の姿を思い出しているのである。
天王社の中のお堂に手習いに通うようになってから、三法師の駄々っ子もようやく終わりを告げ、家中は以前とは比べ物にならぬほど穏やかになった。弾正が家督を継いでから既に十年が経ち、弾正をはじめとして家中はよくまとまっていた。五郎左にもようやく家老としての風格が漂い始めた。
「弾正様のお戻りにございます」
五郎左の声が屋敷に響いた。
与三とともに清洲に出向いていた弾正が、勝幡に戻ってきたのである。
いぬいと三法師は重臣たちや五郎左に続いて広間に入っていく。後から来て腰を据えた弾正が開口一番に言う。
「五郎左に問われる前に言うておくが、此度も恩賞について触れられることはなかった」
五郎左は項垂うなだれた。
遠江での戦から二年が経つ。弾正忠家の活躍もあり、引間城は再び武衛方の大河内氏の手に渡ったが、弾正忠家に贈られた褒賞は、ほんのわずかな銭のみであった。
何度かに分けてもらえるものと思ううちに歳月は過ぎた。弾正はいったん自らの領地で得た銭を家臣たちに分け与え、家中からの反発を収めた。
「さてはお屋形様からもらった恩賞を、大和守様が独り占めしておるのではあるまいな」
いぬいの疑念に与三が答える。
「ありえますな。されど、それがまことでも大和守様を問い詰めることは出来ませぬ。先の戦ではただでさえ大和守様の妬みを買いましたゆえ」
与三の言葉に五郎左も続く。
「お屋形様の懐に入りこんだときは嬉しくてたまらなんだが、得たものは徒労と妬みと言うわけか」
「そういうな、五郎左」
五郎左を制止はしたものの、弾正も思いは同じであった。
「お屋形様のために戦をしても、褒美はもらえへんのですか」
そう言ったのは三法師であった。広間に集う重臣たちは驚き、一斉に三法師に視線を集めた。この場に三法師が居るのはあくまで儀礼的なことであり、三法師は発言せぬものだと思っていたのである。
弾正はいぬいと目を合わせてほほ笑んだ後、ゆっくりと話し始めた。
「駿河には今川に恨みを抱く民が多いと聞く。今川は民から多額の銭を取り立て、田植えの最も忙しい時期に百姓を作事に連れていくという。お屋形様から恩賞がないのは、無理に取り立てをしておらぬことの証じゃ」
「よかった。やっぱりお屋形様はご立派やった」
弾正の言葉に納得した三法師は、満足そうに頷いた。
弾正忠家が割を食う一方で、得をしたのは次郎大夫であった。駿河の檀那を一気に増やし、戦の翌年には駿河から参詣客がどっと押し寄せた。宿が足りず次郎大夫の屋敷にも客を泊めたという。戦の終わりと共に役割を終え、一族にも武衛との関わりを知られずに済んだ次郎大夫は、間もなく始まる祭の支度に追われていた。

祭を翌日に控えた六月の朝、弾正は馬の鳴き声で目を覚ました。
体を起こして脇差を手に取る。寝所の障子が開き、清洲からの早馬が来ていることを与三が告げた。
庭に通された大和守の使者は甲冑姿だった。肩で息をしている。
「大和守様より、戦備えをしてすぐに清洲に馳せ参ぜよとの由。引間城の大河内殿、今川に攻められ落城寸前にございます」
弾正は唖然とした。今川は甲斐で戦に明け暮れているはずではなかったか。
弾正はすぐさま五郎左に使いを出し、与三には皆を集めよと指図した。隣で寝ていたいぬいは既に身支度を終え、弾正の具足の支度を始めている。
「今川と戦にございますか」
取り乱す様子もなくいぬいは弾正に問う。
「ああ。厳しい戦になるやもしれぬ」
いぬいは弾正の襟元を直しながら、耳元でそっと囁いた。
「お屋形様の命を鵜呑みにはなさいますな。殿がおればこそのお屋形様にございますぞ」
輿入れの時のような、冷たい口調だった。
だがそれを聞いた弾正の体はかっと熱くなった。いぬいの言葉は弾正の今までの概念を覆した。会えば足が竦み、佇まいに圧倒される。武衛は弾正にとって絶対的な主であった。それをいぬいはいとも簡単に覆し、弾正がおればこその武衛だと言うのである。
いぬいに言い返そうと思った時、五郎左の弾正を呼ぶ声がした。弾正は我に返る。
「五郎左、来たか。引間城が襲われた。今から遠江に向かう」
「引間城が?今川は甲斐の武田と戦の最中ではござらぬのか」
「おそらく和議を結んだのだろう。次郎大夫がおらぬと、こうも後手になるとはのう」
皮肉と諦めの混じった弾正の言い分を聞き捨てた五郎左だが、心中ではその通りだと思っている。
「して、敵の数は」
「わからぬ」
「今から我らが向かった所で、持ち堪えることは出来ますのか」
「知らぬ」
五郎左は腕を組んだ。遠江の状況が全く見えてこない。徒労に終わるかもしれない。また恩賞がないかもしれない。家中の者を犬死にだけはさせたくない。
「こうもわからぬことが多いと策の立てようもありませぬな。次郎大夫を呼んで参りましょうか」
不承不承五郎左は次郎大夫の名を出したが、弾正は否と言う。
「呼んでどうする。あいつは武門ではなく御師だぞ」
弾正はいら立っていた。負け戦となることは必至であるのに、よい策がまるで浮かばない。
亡き父上ならどうするであろう。弾正はついに天を見上げた。
「では私から申し上げます。此度は戦わぬのがよろしいかと存ずる」
淀みなく五郎左が言った。こんなときによくも戯れをと、弾正は眉を吊り上げた。
「お前、正気か?お屋形様の命に背くと言うのか」
「背きはしませぬ。ただ手を抜くだけの事。お屋形様は我らがおらぬと何もできませぬ。動かぬ大和守様、追従する藤左衛門家、彼奴等に阻まれて動けずにおられたお屋形様をようやっと動かしたのは、他でもない我らにございます。つまりこの戦も、我ら次第ということ」
弾正は思わずいぬいを見た。いぬいは頷くが、弾正は不機嫌に目を逸らした。
「お屋形様を騙すなどありえぬわ」
吐き捨てた弾正に、世間話のような塩梅でいぬいが軽やかに口を挟んだ。
「殿が今までお屋形様と相まみえたのはせいぜい二、三度でございましょう。五郎左は殿の倍以上はお屋形様と会うておるはず。つまりは殿よりも五郎左のほうがお屋形様の事をよく存じておるのです。殿が昔、大和守様に憧れていた私に、どこがいいのじゃと言ったのと同じこと。政に憧れは無用にございます」
「憧れなどという安易なものではない」
弾正はいまだ受け入れようとしない。しかしいぬいのおかげで踏ん切りがついた五郎左は、弾正を説き伏せようと語気を強めた。
「弾正忠家の家老として弾正様に申し上げます。この戦では勝たぬ方が良いでしょう。勝てばお屋形様は再び力を持ち、負ければお屋形様の影響力は地に落ちる。ここでお屋形様の力を削いでおけば、我らは後々思うままに動ける。戦わねば犬死もせぬ。今弾正様がなすべきことはお屋形様のために動くことではなく、弾正忠家の主として、この家のために動くことにございます」
弾正は両の手で顔を覆った。
しばらくそうしていたが、やがてふっきれたように顔を上げた。
「わかった。俺の覚悟が足りなんだ。これより清洲へ向かう。遠江についたら戦の構えのみ見せるよう、皆に伝えい」

およそ三百人の家臣を引き連れ、弾正は大和守の軍勢の後に付いて清洲を出立した。
引間に着いた時、落城寸前の引間城はまだ持ち堪えていたが、敵の今川勢はおよそ三千、尾張勢の倍を超える数であった。
軍議では大和守と清洲三奉行が集まり、それぞれに案を出し合ったが、皆今の戦況を話すばかりでどう攻めるかの話し合いにさえならない。痺れを切らした武衛は、ついに直接弾正に問い質した。
しかし弾正は、これほど敵の数が多ければ容易には動けない、下手に動くと総崩れになる可能性があると繰り返すばかりであった。互いに動かぬまま、戦は長期戦の様相となった。

籠城する大河内勢、城の真下で睨みを続ける今川勢、今川勢の後ろで挟み撃ちの機会を待つ尾張勢、三者がほとんど動かぬまま二か月が経ち、引間城の兵糧が尽きようとしていた。
しびれを切らした大河内勢は、早暁ついに城の中から門を開け、賭けに出た。門の中で待ち受けていた大河内勢は今川に糞尿や石礫を浴びせ、最後の力を振り絞り、死闘を繰り返す。
門が開いた瞬間、今川勢がどっと門に押し寄せた。と同時に、後方の尾張勢に背を向けた。それを合図に尾張勢は一斉に、今川の背を目掛けて襲い掛かった。
静まり返っていた引間の地から叫び声と土埃が上がる。
今川兵の背には尾張勢の放つ矢が次々に刺さり、背後から槍で頭を一撃された雑兵たちは失神して倒れこむ。このとき尾張勢は数に勝る今川勢を圧倒していた。
このまま勝てるか―と思ったのもつかの間、次第に尾張勢は劣勢となった。城内にいた大河内勢の攻撃が止み、城の頂まで今川勢が入り始めている。今川勢は再び城に背を向けて、尾張勢を押し戻す。
城から離れれば大河内勢の攻撃が今川勢に届かず、挟み撃ちの意味がない。大河内勢の攻撃が止んだのを知ってか知らずか、武衛は声を張り叫んだ。
「引くな、押せ、押せっー」
しかし形勢は一向に変わる気配がない。
その時、武衛の元に伝令が駆け付けた。弾正からの伝令であった。
「申し上げます。弾正様が攻めの許可を求めておられます。回り込んで今川勢の背面を衝くとの事」
尾張勢は今川勢にだいぶ押し戻されている。弾正の策が上手くいき、回り込んで再び挟み撃ちにできれば、一気に逆転できる可能性はある。
「許す。弾正忠家は左から回れ。藤左衛門家も右から加勢し、二家で背面を衝くよう伝えよ」
武衛が即座に命じた。二家が背面にたどり着くまで、武衛の直臣、大和守家、因幡守家の三部隊でこの場を支えねばならない。
「者ども、しばしの間じゃ。決して引くな。討って出よ!」
武衛の掛け声に三部隊が呼応して雄たけびを上げる。しかし数の減った尾張勢に今川を抑えるだけの力はなく、どんどん押されていく。
「弾正と藤左衛門はまだか」
背面からの攻撃は未だなく、今川の勢いが滞る様子はない。
焦った武衛は家臣らが止めるのも聞かず、わずかな直臣と共に騎馬で前線へと駆けだした。
「気の短きお方じゃ。もう少し待てぬものか」
そう言ったのは大和守であった。大和守は武衛の後に続こうともせず、陣の後方にて武衛の後ろ姿を目で追った。
右手に刀、左手に槍を持った武衛は両脇の雑兵をバタバタとなぎ倒し、恐れをなした今川勢は武衛を避け、おのずと通り道が出来ていく。ところが次の刹那、武衛の馬が急に前足を上げて嘶いた。雑兵の一人が馬の後ろに忍び寄り、下腹を刺したのである。馬の背から転げ落ちた武衛は気を失い、今川の雑兵に囲まれた。
「首を獲るでないぞ!生け捕りにせい」
今川の将の甲高い声が、辺り一面に響いた。
「引け、引けーい」
遠目でその光景を見た大和守は退却の号令をかけ、自らもすぐさま馬首を翻した。
因幡守もそれに続き、尾張勢は一斉に退却を始める。
前にも後ろにも敵が居なくなった今川勢が城の中を埋め尽くすのを、弾正と五郎左は城のはるか左から見つめていた。
「弾正様、急ぎ帰りましょう、尾張へ」
五郎左が言った。予定通り、弾正忠家はほとんど兵を失っていない。
「お屋形様はどうなる」
「存じませぬ。されど今川もお屋形様も同じ足利一門、首を獲られることはございますまい」
橙色の陽はいつのまにか白色に変わり、甲冑に熱を浴びせていた。
五郎左は弾正の返事を待たず、家臣らに退却の命を下した。
「さあ、いぬい様や三法師様がお待ちにございますぞ」
弾正の気がかりを撥ねつけるように、五郎左は馬に鞭を打った。
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