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第四章
一、
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立ちこめる蒸し暑さと足にまとわりつく泥土、そして肩にのしかかる重みは、まるで戦に向かうような過酷さであった。明け方の激しい雨は小雨に変わり、三法師の羽織る蓑からは玉の雫が滴る。五郎左は三法師を背負いながら、手にした黒傘を時折傾ける。肩に食い込む子守帯を、少しずつずらさねば痛くてたまらない。
「五郎左、傘ちいさい」
「大きい傘は公方様やお屋形様しか持てませぬ」
「これ脱ぎたゃあ」
「蓑は脱がぬとお母上と約束なさったでしょう。脱ぐならお家に帰りますぞ」
「嫌じゃ」
先程から同じやりとりを繰り返す三法師に、五郎左はさすがに苛立っていた。この小さな暴れん坊のせいで、いぬいをはじめ奥向きの奉公人は日々疲弊している。弾正が鬼の形相で叱ればその時は神妙な顔をするが、しばらくするとまた悪戯をする。仕置きをしても平気な顔でじっとしているので、最後にはこちらが心配になり根負けする。
今日は三法師が前々から楽しみにしていた津島の天王祭の日であった。ところが起きてみればあいにくの雨で、今日は祭はございませぬと乳母が言うと、泣いて喚きちらした。祭をやるかどうか行かぬとわからぬ、この目で確かめる、と転がり回って訴える三法師に根負けしたいぬいは、ついに五郎左に助けを求めたのであった。
五郎左は幼い頃に行った祭を思い出していた。橋の上に出来る人だかり、舟の上で悠然と舞われる能。あの人だかりの中で三法師がもし暴れたら、群衆が三法師を押さえつけるかもしれない。長い能を静かに見よと言っても、三法師がじっとしているわけもない。つまり雨が降ったのは幸いだ。心の中で自らに言い聞かせ、五郎左は天王橋に向かう。
橋を渡りきったところで、五郎左はようやく三法師を降ろした。小雨はさらに弱まり、霧となって頬を打つ。五郎左は三法師の蓑を脱がせ、開いたままの傘を足元に置いた。
五郎左は三法師の手を取って、土手の際まで足を進める。川の水位は三法師の背を超え、濁流が白波を立てる。時折土色の水から顔を出す木の枝が、物凄い速さで流れていく。
「三法師様、天王川は見ての通りです。舟など出られるはずもございませぬ。祭はござらぬ。これで気が済みましたか」
三法師は答えず、固く口を閉じている。
言葉なく川を見つめる二人の袖が、急にぶわあと翻った。強く生ぬるい風が五郎左の目を襲う。塵が目に入った五郎左は思わず手を放し、目をこすった。
ようやく痛みが治まり目を開けると、そばにいたはずの三法師の姿がない。
「三法師様!」
五郎左は慌てて川の中を覗いたが、三法師の姿はない。後方を向いて天王社の入口あたりに目を向けると、ここから半丁ほど先に黒い傘を回して遊ぶ三法師の姿が見えた。ちょうど次郎大夫の屋敷の目の前である。
道の途中には小さな草履が落ちている。五郎左は小さな草履を拾いつつ、ぬかるんだ道を駆けていく。
「傘が飛んだで、追いかけた」
三法師は得意げな顔で五郎左に傘を差しだした。
「傘を追いかけて下さったか。おおきに、おおきに」
五郎左が傘を受け取ると、三法師は右手にある天王社に向かって駆けだした。
舟は出ずとも祭はある。社では神事が行われている。それを知っている五郎左は三法師が社に行くのを何としても阻止したかったが、すでに駆け出した三法師を止められない。
社では新しい鳥居の普請が始まっている。大和守の謀反の騒動の後、武衛から天王社に多額の寄進があったという。領主の大橋や宮司の氷室は多額の寄進に歓喜したが、それが次郎大夫のおかげだとは知る由もなかった。
新しい鳥居の脇を通り、三法師と五郎左は境内へ入っていく。草木で手足を清めようと右手にある茂みに向かうと、古い楼門の下で一人の男が腰を下ろしていた。門にもたれかかるその男は、白い袋に覆われた長柄を手に持ったまま、居眠りをしていた。五郎左と三法師が草手水で汚れを落とす間も、男は二人に全く気づかない。祭目当てに津島を訪れた者の従者だろうが、よくもまあ長柄を持ったまま眠れるものだと五郎左は感心した。
「大きい傘」
三法師が呟いた。
「おお、傘よ傘よ。よう覚えておいででしたな、今度こそ傘は忘れませぬぞ」
五郎左は茂みの傍に置いた黒傘を手に取り、三法師の手を引いて社の入口へと向かった。
「もし」
社の入口で大声で呼びかけるが、返答はなく誰も姿を現さない。社の中には次郎大夫がいるはずだった。次郎大夫に頼み参拝の後に少し休ませてもらおうと思ったが、やはり祭の神事となると慌ただしくそんな暇はないのだろう。
「三法師様、今日は外でお参り致しましょう」
「嫌じゃ、中に行く」
再び三法師の駄々っ子が始まろうとしていた。
その時、入口の奥が急に騒がしくなった。大勢の足音と話し声は少しずつ大きくなり、回廊を曲がってこちらに人が向かってくるのがわかる。
姿を現したのは宮司の氷室であった。静かな氷室の後に続くのはおそらく大橋であろう。参拝を頼むのにちょうどいいと、五郎左は氷室を手招きした。ところが氷室はあからさまに嫌な顔で、後ろを振り返り大橋に耳打ちした。
大橋は大げさに呆れて見せた。
「またお前か!どうなっちょる」
「またとはなんじゃ、参拝の何が悪い」
五郎左が言い返す。
五郎左を追い返そうと大橋が足を踏み出した時、大橋の肩に手をかけた男がいた。
「お屋形様」
その言葉に五郎左は凍り付いた。大橋の後ろには、鮮やかな唐紅の直垂をまとった武衛の姿があった。
武衛の後ろにいた次郎大夫が、驚いたように五郎左と三法師を見つめていた。
「また会うたな。よほど縁があると見える」
五郎左の隣で武衛はつぶやく。床几に腰かける武衛と、板間で胡坐をかく五郎左で目線の違いはあるとはいえ、これほど近くで顔を拝すのはあまりにも恐れ多く、五郎左は左を向けない。五郎左の膝の上には三法師が、五郎左の後ろには次郎大夫が座している。子守が要るゆえそなたも来いと武衛に指名された次郎大夫は、氷室や大橋に変に勘繰られはしないかと気が気ではない。
誰の目も入らぬところでこの者らと話がしたい。武衛の申し出に、氷室はいつもは開けることのない本殿の扉を開いた。正面にはご神体があり、何人も背を向けることは出来ない。御簾を下ろした本殿の中は薄暗くひんやりとしている。常ではないものを感じたか、三法師は珍しくじっとしたまましゃべらない。
「弾正の子か」
「はい。三法師様にございます」
武衛は三法師をじっと見つめた。すると三法師は五郎左の腕にしがみついた。怖いのだ。
「主らには礼を言わねばならぬ。おかげでわが命は長らえた」
「痛み入りまする。すべては弾正様のお指図にございます」
五郎左は体を左に向け、頭を下げた。
「弾正は強いか」
「はい。幼き頃より鍛錬を欠かさず続けておられます」
そう答えたものの、弾正も五郎左も実戦をしたことがない。亡き先代の弾正が大和守は弱いと言っていたが、とどのつまり弾正忠家は強いのだと、五郎左は捉えていた。
「ならば」
五郎左を試すように、武衛は言葉を区切った。
「遠江を取れるか」
さすがに言葉を失う五郎左に、武衛は畳みかける。
「我は強い家臣が欲しい。大和守は先代も今も、どちらも腑抜けよ」
武衛は弾正を欲していた。しかし弾正忠家は陪臣である。
大和守を超えて武衛が弾正忠家に命を下すことは出来ない。むろん武衛はそのことを知っている。
「強さとは武力に限らぬ。先を読む力、見聞を集める力、そして知恵。主らはそれを備えておると我は見ておる」
主らと言われ、次郎大夫がびくっと体を動かす。弾正忠家だけの話かと思っていた。
「京兆家はかつて、山伏を使って見聞を集めたという」
ケイチョウという言葉に聞き覚えがあったが、何のことだか五郎左には思い出せない。
武衛の意図をすぐに汲み取った次郎大夫の口から、反論が衝いて出た。
「恐れながら我ら津島衆は惣を組み、武家の方々とは一線を画しておりまする」
「今はな。だが見よ、国の内外で寺社領の横領はますます進んでおる。今川が尾張を獲れば、寺社領などたちまち奪いおろう」
次郎大夫は黙り込んだ。諸国を回った次郎大夫にはそれが単なる脅しではないことがわかる。
「大夫よ、津島の衆すべてを巻き込めとは言わぬ。大夫一人で十分よ。津島衆には内密で、主は弾正忠家の手足となり、弾正忠家と我との間を取り持ってくれぬか」
武衛は振り返って体を次郎大夫の方に向けた。異例のことである。
次郎大夫は答えない。ここで武衛と一つ同じ場にいることでさえ後ろめたいのに、妙な動きが明るみに出ればどうなるのか。
しばらく口を閉ざしたままの次郎大夫に、五郎左は痺れを切らした。武衛の頼みをまさか断りはしないか。次郎大夫が粗相をしたら、五棒の時のように赦されるとは限らない。五郎左は後ろを振り向き、無理やり話に割って入った。
「何を恐れておるのじゃ。津島衆にばれるのが怖いなら、最もらしい訳を考えればよい」
「どのような訳じゃ」
むすっとした様子で次郎大夫が尋ねる。
「次郎大夫は今からお屋形様に祈祷をするのじゃ。社の隅々まで届くほどの大声で祝詞を読め」
「先ほど氷室様が祈祷をなさったばかりじゃ」
「氷室様の祈祷では治らなんだお屋形様の歯痛を、お前が治すのじゃ。再び痛めば再びお前が治す。それでお屋形様と次郎大夫の繋がりが出来よう」
歯痛と聞いて思わず次郎大夫は武衛の顔を見上げた。
武衛は大声で笑い始めた。
「はっはっはっ、よかろう。主らのために我は歯痛持ちとなる。五郎左よ、思うたとおり主は良き策士じゃ。引き続き遠江攻略の策を考えよ。大夫も、よいな」
次郎大夫は得心のいかぬ顔で、しぶしぶ頭を下げた。
「五郎左、傘ちいさい」
「大きい傘は公方様やお屋形様しか持てませぬ」
「これ脱ぎたゃあ」
「蓑は脱がぬとお母上と約束なさったでしょう。脱ぐならお家に帰りますぞ」
「嫌じゃ」
先程から同じやりとりを繰り返す三法師に、五郎左はさすがに苛立っていた。この小さな暴れん坊のせいで、いぬいをはじめ奥向きの奉公人は日々疲弊している。弾正が鬼の形相で叱ればその時は神妙な顔をするが、しばらくするとまた悪戯をする。仕置きをしても平気な顔でじっとしているので、最後にはこちらが心配になり根負けする。
今日は三法師が前々から楽しみにしていた津島の天王祭の日であった。ところが起きてみればあいにくの雨で、今日は祭はございませぬと乳母が言うと、泣いて喚きちらした。祭をやるかどうか行かぬとわからぬ、この目で確かめる、と転がり回って訴える三法師に根負けしたいぬいは、ついに五郎左に助けを求めたのであった。
五郎左は幼い頃に行った祭を思い出していた。橋の上に出来る人だかり、舟の上で悠然と舞われる能。あの人だかりの中で三法師がもし暴れたら、群衆が三法師を押さえつけるかもしれない。長い能を静かに見よと言っても、三法師がじっとしているわけもない。つまり雨が降ったのは幸いだ。心の中で自らに言い聞かせ、五郎左は天王橋に向かう。
橋を渡りきったところで、五郎左はようやく三法師を降ろした。小雨はさらに弱まり、霧となって頬を打つ。五郎左は三法師の蓑を脱がせ、開いたままの傘を足元に置いた。
五郎左は三法師の手を取って、土手の際まで足を進める。川の水位は三法師の背を超え、濁流が白波を立てる。時折土色の水から顔を出す木の枝が、物凄い速さで流れていく。
「三法師様、天王川は見ての通りです。舟など出られるはずもございませぬ。祭はござらぬ。これで気が済みましたか」
三法師は答えず、固く口を閉じている。
言葉なく川を見つめる二人の袖が、急にぶわあと翻った。強く生ぬるい風が五郎左の目を襲う。塵が目に入った五郎左は思わず手を放し、目をこすった。
ようやく痛みが治まり目を開けると、そばにいたはずの三法師の姿がない。
「三法師様!」
五郎左は慌てて川の中を覗いたが、三法師の姿はない。後方を向いて天王社の入口あたりに目を向けると、ここから半丁ほど先に黒い傘を回して遊ぶ三法師の姿が見えた。ちょうど次郎大夫の屋敷の目の前である。
道の途中には小さな草履が落ちている。五郎左は小さな草履を拾いつつ、ぬかるんだ道を駆けていく。
「傘が飛んだで、追いかけた」
三法師は得意げな顔で五郎左に傘を差しだした。
「傘を追いかけて下さったか。おおきに、おおきに」
五郎左が傘を受け取ると、三法師は右手にある天王社に向かって駆けだした。
舟は出ずとも祭はある。社では神事が行われている。それを知っている五郎左は三法師が社に行くのを何としても阻止したかったが、すでに駆け出した三法師を止められない。
社では新しい鳥居の普請が始まっている。大和守の謀反の騒動の後、武衛から天王社に多額の寄進があったという。領主の大橋や宮司の氷室は多額の寄進に歓喜したが、それが次郎大夫のおかげだとは知る由もなかった。
新しい鳥居の脇を通り、三法師と五郎左は境内へ入っていく。草木で手足を清めようと右手にある茂みに向かうと、古い楼門の下で一人の男が腰を下ろしていた。門にもたれかかるその男は、白い袋に覆われた長柄を手に持ったまま、居眠りをしていた。五郎左と三法師が草手水で汚れを落とす間も、男は二人に全く気づかない。祭目当てに津島を訪れた者の従者だろうが、よくもまあ長柄を持ったまま眠れるものだと五郎左は感心した。
「大きい傘」
三法師が呟いた。
「おお、傘よ傘よ。よう覚えておいででしたな、今度こそ傘は忘れませぬぞ」
五郎左は茂みの傍に置いた黒傘を手に取り、三法師の手を引いて社の入口へと向かった。
「もし」
社の入口で大声で呼びかけるが、返答はなく誰も姿を現さない。社の中には次郎大夫がいるはずだった。次郎大夫に頼み参拝の後に少し休ませてもらおうと思ったが、やはり祭の神事となると慌ただしくそんな暇はないのだろう。
「三法師様、今日は外でお参り致しましょう」
「嫌じゃ、中に行く」
再び三法師の駄々っ子が始まろうとしていた。
その時、入口の奥が急に騒がしくなった。大勢の足音と話し声は少しずつ大きくなり、回廊を曲がってこちらに人が向かってくるのがわかる。
姿を現したのは宮司の氷室であった。静かな氷室の後に続くのはおそらく大橋であろう。参拝を頼むのにちょうどいいと、五郎左は氷室を手招きした。ところが氷室はあからさまに嫌な顔で、後ろを振り返り大橋に耳打ちした。
大橋は大げさに呆れて見せた。
「またお前か!どうなっちょる」
「またとはなんじゃ、参拝の何が悪い」
五郎左が言い返す。
五郎左を追い返そうと大橋が足を踏み出した時、大橋の肩に手をかけた男がいた。
「お屋形様」
その言葉に五郎左は凍り付いた。大橋の後ろには、鮮やかな唐紅の直垂をまとった武衛の姿があった。
武衛の後ろにいた次郎大夫が、驚いたように五郎左と三法師を見つめていた。
「また会うたな。よほど縁があると見える」
五郎左の隣で武衛はつぶやく。床几に腰かける武衛と、板間で胡坐をかく五郎左で目線の違いはあるとはいえ、これほど近くで顔を拝すのはあまりにも恐れ多く、五郎左は左を向けない。五郎左の膝の上には三法師が、五郎左の後ろには次郎大夫が座している。子守が要るゆえそなたも来いと武衛に指名された次郎大夫は、氷室や大橋に変に勘繰られはしないかと気が気ではない。
誰の目も入らぬところでこの者らと話がしたい。武衛の申し出に、氷室はいつもは開けることのない本殿の扉を開いた。正面にはご神体があり、何人も背を向けることは出来ない。御簾を下ろした本殿の中は薄暗くひんやりとしている。常ではないものを感じたか、三法師は珍しくじっとしたまましゃべらない。
「弾正の子か」
「はい。三法師様にございます」
武衛は三法師をじっと見つめた。すると三法師は五郎左の腕にしがみついた。怖いのだ。
「主らには礼を言わねばならぬ。おかげでわが命は長らえた」
「痛み入りまする。すべては弾正様のお指図にございます」
五郎左は体を左に向け、頭を下げた。
「弾正は強いか」
「はい。幼き頃より鍛錬を欠かさず続けておられます」
そう答えたものの、弾正も五郎左も実戦をしたことがない。亡き先代の弾正が大和守は弱いと言っていたが、とどのつまり弾正忠家は強いのだと、五郎左は捉えていた。
「ならば」
五郎左を試すように、武衛は言葉を区切った。
「遠江を取れるか」
さすがに言葉を失う五郎左に、武衛は畳みかける。
「我は強い家臣が欲しい。大和守は先代も今も、どちらも腑抜けよ」
武衛は弾正を欲していた。しかし弾正忠家は陪臣である。
大和守を超えて武衛が弾正忠家に命を下すことは出来ない。むろん武衛はそのことを知っている。
「強さとは武力に限らぬ。先を読む力、見聞を集める力、そして知恵。主らはそれを備えておると我は見ておる」
主らと言われ、次郎大夫がびくっと体を動かす。弾正忠家だけの話かと思っていた。
「京兆家はかつて、山伏を使って見聞を集めたという」
ケイチョウという言葉に聞き覚えがあったが、何のことだか五郎左には思い出せない。
武衛の意図をすぐに汲み取った次郎大夫の口から、反論が衝いて出た。
「恐れながら我ら津島衆は惣を組み、武家の方々とは一線を画しておりまする」
「今はな。だが見よ、国の内外で寺社領の横領はますます進んでおる。今川が尾張を獲れば、寺社領などたちまち奪いおろう」
次郎大夫は黙り込んだ。諸国を回った次郎大夫にはそれが単なる脅しではないことがわかる。
「大夫よ、津島の衆すべてを巻き込めとは言わぬ。大夫一人で十分よ。津島衆には内密で、主は弾正忠家の手足となり、弾正忠家と我との間を取り持ってくれぬか」
武衛は振り返って体を次郎大夫の方に向けた。異例のことである。
次郎大夫は答えない。ここで武衛と一つ同じ場にいることでさえ後ろめたいのに、妙な動きが明るみに出ればどうなるのか。
しばらく口を閉ざしたままの次郎大夫に、五郎左は痺れを切らした。武衛の頼みをまさか断りはしないか。次郎大夫が粗相をしたら、五棒の時のように赦されるとは限らない。五郎左は後ろを振り向き、無理やり話に割って入った。
「何を恐れておるのじゃ。津島衆にばれるのが怖いなら、最もらしい訳を考えればよい」
「どのような訳じゃ」
むすっとした様子で次郎大夫が尋ねる。
「次郎大夫は今からお屋形様に祈祷をするのじゃ。社の隅々まで届くほどの大声で祝詞を読め」
「先ほど氷室様が祈祷をなさったばかりじゃ」
「氷室様の祈祷では治らなんだお屋形様の歯痛を、お前が治すのじゃ。再び痛めば再びお前が治す。それでお屋形様と次郎大夫の繋がりが出来よう」
歯痛と聞いて思わず次郎大夫は武衛の顔を見上げた。
武衛は大声で笑い始めた。
「はっはっはっ、よかろう。主らのために我は歯痛持ちとなる。五郎左よ、思うたとおり主は良き策士じゃ。引き続き遠江攻略の策を考えよ。大夫も、よいな」
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