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第10章
さらば、憎めぬ男よ
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井右衛門の知らせを受けた信長は、急いで越中に兵を向かわせ、
黒崎と斎藤信利を捕らえた。
馬揃えののちに、黒崎は成敗されたが、
斎藤信利はどう申し開きをしたのか、お咎めなしであった。
(運のいい奴め。信長の相婿である、姉小路の力か)
歯噛みする塩屋の隣で、
「もしや、塩屋様が書いたことが、バレたんでねえすけ」
と井右衛門は言う。
「そのようなこと、あるわけがなかろう。ぬしは肝が小さいのじゃ」
塩屋はそう叱りつけるが、内心では井右衛門と同じように、一抹の不安を
抱えていた。
後日、信長から書状と、品物が届いた。
内通の知らせに関する礼状と、金5000文であった。
「ほれみろ、信長殿はわしが信利の名を書いたなどと、露にも思っておらぬわ」
勝ち誇って井右衛門に告げると、返礼の品を何にするか、考えはじめた。
(馬や鷹が常なれど、それではつまらぬ。何が良いか…そもそも、わしは5,000文が欲しいのか?)
考えた末、塩屋は井右衛門に言った。
「よし、決めた、来月早々に、安土城に返礼に行く。ぬしも来い」
「へえ。で、返礼の品は何になさるがけ?」
「返礼の品はなしじゃ。その代わり、もらった金5,000文を持参する」
「はあ?礼をもらわずに、お返しする、ちゅうことですけ?」
「まあ、そうなるのう。わしは5,000文よりも、もっと欲しいものがあるのじゃ。信長殿にも、返礼に何が欲しいか、直接聞くのが一番手っ取り早い」
井右衛門は絶句した後、ようやく口を動かし、
「塩屋様はまこと、命知らずだが」
と言った。
安土城のふもとまで来て、塩屋は度肝を抜かれた。
「井右衛門よ、…ここは、日の本で間違いないか?」
「そのはずちゃ・・」
この色、この高さ、この石垣、初めて目にするこの城は、実に奇妙であった。
城の中も魔訶不思議で、金色の壁に、
人、鬼、花、鳥などのあらゆる絵が描かれている。
城には驚いた塩屋だが、要人と会うのは二度目である。
御座の間に信長がやってきても、塩屋は緊張はしなかった。
「面を上げよ」
と言われたらどうするのか、おおよそ要領は得ていた。
塩屋の隣には井右衛門がいる。
井右衛門の膝の前には、漆箱に入れ布をかけた金5,000文が置かれている。
「この度は、金5,000文を賜り、恐悦至極に存じます」
塩屋はまず、形通りの挨拶をした。
信長も同じであった。
「うむ、ぬしの働き、誠に感心であった。わしがおらぬ間に上杉に寝返ろうとする輩が、向後も出ぬとは限らぬ。その折はまたいち早く知らせるように」
「ははっ」
塩屋はちらりと信長を見るが、表情は動かない。
「ところで、頂戴した5,000文にございますが…」
塩屋は思い切って顔を上げた。
「返上致したい、と思うておりまする」
信長の家臣たちはぎょっとして、塩屋を二度見した。
井右衛門がこわごわと、漆箱を前に差し出す。
家臣が口を開こうとしたのを遮って、塩屋は言った。
「この5,000文の返礼の品を何にしようかと考えた所、欲しくもないものをもらっても、信長殿も迷惑じゃろうと思いましてな。馬や鷹なら有り余るほどお持ちのはずじゃ。同様に、わが身に置き換えれば、わしも5,000文よりもっと欲しいものがござった。しかるに、こうして直接腹を割って、所望の品を互いに話せばよい、と思った次第にござる」
家臣たちは揃って立ち上がった。
「この無礼者!上様の前でよくもそのような傍若無人な」
塩屋は驚いた。
至極尤もなことを言っているのに、なぜ無礼になるのか。
身構えたが、信長は笑いながら、
「よせ、よせ。この者の言うことは理にかなっておるわ」
と、家臣たちを制止した。
「ぬしは何を所望じゃ」
待っておった、とばかりに、塩屋は目を輝かす。
「わしは今、飛騨の一部と越中の一部に城を持ちまする。しかしそれでは、一国の主にはなれぬゆえ、国の境を取り払って、わしの持つ所領を、一つの国にしてほしいのでござる」
信長は目を丸くし、頬を緩めた。
「面白い奴じゃ。そのようなことを申したのは、ぬしが初めてじゃ」
「はは、こればかりはいくら金があっても、わしには出来ぬことゆえ」
信長はしばし考えた。
「わしとて同じじゃ。確かにぬしの所領を合わせれば、一国ほどにもなろう。だが国の境は太古から人々に根付き、わしが変えようとも民が許さぬわ」
塩屋は腑に落ちない。
「天に一番近い信長殿でもできませぬか。美濃の蝮殿のように一国の主になるのが、わしの長年の夢にございますれば」
「出来ぬものは出来ぬ」
信長にそう言い切られ、塩屋はうなだれた。
「蝮か。蝮どころか、ぬしはナメクジのような男じゃ」
「塩屋がナメクジと言われたら堪りませぬ」
「じゃがナメクジに蛇の毒は効かぬぞ。ぬしなりに精進せい」
「はは」
塩屋はそう言いつつ、収穫なしか…と心の内で思った。が、
「ぬしには、黒崎の居城であった、木舟城を与える」
と、信長は言った。
思わぬ褒美に、塩屋は急に元気になった。
「木舟城を?ありがたき幸せにございます!」
(やったわい、戦をせずに、城を手に入れたぞ)
「ところで、新たにわしの配下となった内ケ島とは、ぬしは因縁の仲であるそうじゃな」
信長は話題を変えた。
信長は一向宗徒と和睦し、その流れで内ケ島は織田の配下となっていた。
(もしや)
塩屋は内ケ島の領土がもらえるのかと期待した。
「内ケ島の領土をやるわけにはいかぬぞ」
と、信長は見越して言った。
「その内ケ島に、今度魚津城を攻めさせることになっておる。ぬしも、内ケ島の手助けをせい」
「わしが、内ケ島を?」
塩屋は露骨に嫌な顔をした。
「ぬしは、わしの所望をきかぬつもりか」
塩屋は慌てた。
「信長殿のご所望は、そのことにございますか。なれば、仰せの通りに」
「よし。その5,000文は持ち帰るがよい。その代わり、魚津の戦、必ず戦功を立てよ」
「ははっ」
こうして塩屋は信長との対面を終えた。
(待てよ…わしの所望は結局叶えられなんだのに、信長殿の所望は丸飲みしてしもうた!こりゃ、やられたわい…わ
しとしたことが…。)
こうして塩屋は上杉謙信に続き、
織田信長にも器の違いを見せつけられたのであった。
その後、内ケ島と塩屋は魚津城の戦で勝利をもたらし、
越中はほぼほぼ、織田のものとなった。
ところが。
本能寺の変が起こり、信長は、死んでしまった。
「またか…」
天下が再び揺れるのは必至であったが、塩屋はもう
織田以外につく気はなかった。
しかし、越中では、上杉に寝返るものが続出した。
斎藤信利も、その一人であった。
斎藤信利は寝返るとすぐに、真っ先に塩屋の猿倉城を攻撃した。
「おのれ、信利め…。信長殿と縁戚であることも、命を助けられた恩も忘れおって!」
塩屋は応戦する。が、
鉄砲玉と火薬はあっても、肝心の鉄砲がない。
他の城からの救援を待つものの、援軍はなかなか来ない。
塩屋の配下は皆、塩商人の奉公人あがりである。
それほどの忠誠心もなく、利のない事には動かない。
塩屋は槍でなぎ倒され落馬して、あっけなく首を取られた。
信利は猿倉城にあった塩を、ことごとく奪った。
「この塩で首を漬けよ!上杉に持参するのじゃ」
・・・塩屋は結局、商人にも、武将にもなり切れず、世を去った。
後世に名は知られなかったが、このどうにも憎めない男の人生は、
なかなかに面白いものだったのではなかろうか。
黒崎と斎藤信利を捕らえた。
馬揃えののちに、黒崎は成敗されたが、
斎藤信利はどう申し開きをしたのか、お咎めなしであった。
(運のいい奴め。信長の相婿である、姉小路の力か)
歯噛みする塩屋の隣で、
「もしや、塩屋様が書いたことが、バレたんでねえすけ」
と井右衛門は言う。
「そのようなこと、あるわけがなかろう。ぬしは肝が小さいのじゃ」
塩屋はそう叱りつけるが、内心では井右衛門と同じように、一抹の不安を
抱えていた。
後日、信長から書状と、品物が届いた。
内通の知らせに関する礼状と、金5000文であった。
「ほれみろ、信長殿はわしが信利の名を書いたなどと、露にも思っておらぬわ」
勝ち誇って井右衛門に告げると、返礼の品を何にするか、考えはじめた。
(馬や鷹が常なれど、それではつまらぬ。何が良いか…そもそも、わしは5,000文が欲しいのか?)
考えた末、塩屋は井右衛門に言った。
「よし、決めた、来月早々に、安土城に返礼に行く。ぬしも来い」
「へえ。で、返礼の品は何になさるがけ?」
「返礼の品はなしじゃ。その代わり、もらった金5,000文を持参する」
「はあ?礼をもらわずに、お返しする、ちゅうことですけ?」
「まあ、そうなるのう。わしは5,000文よりも、もっと欲しいものがあるのじゃ。信長殿にも、返礼に何が欲しいか、直接聞くのが一番手っ取り早い」
井右衛門は絶句した後、ようやく口を動かし、
「塩屋様はまこと、命知らずだが」
と言った。
安土城のふもとまで来て、塩屋は度肝を抜かれた。
「井右衛門よ、…ここは、日の本で間違いないか?」
「そのはずちゃ・・」
この色、この高さ、この石垣、初めて目にするこの城は、実に奇妙であった。
城の中も魔訶不思議で、金色の壁に、
人、鬼、花、鳥などのあらゆる絵が描かれている。
城には驚いた塩屋だが、要人と会うのは二度目である。
御座の間に信長がやってきても、塩屋は緊張はしなかった。
「面を上げよ」
と言われたらどうするのか、おおよそ要領は得ていた。
塩屋の隣には井右衛門がいる。
井右衛門の膝の前には、漆箱に入れ布をかけた金5,000文が置かれている。
「この度は、金5,000文を賜り、恐悦至極に存じます」
塩屋はまず、形通りの挨拶をした。
信長も同じであった。
「うむ、ぬしの働き、誠に感心であった。わしがおらぬ間に上杉に寝返ろうとする輩が、向後も出ぬとは限らぬ。その折はまたいち早く知らせるように」
「ははっ」
塩屋はちらりと信長を見るが、表情は動かない。
「ところで、頂戴した5,000文にございますが…」
塩屋は思い切って顔を上げた。
「返上致したい、と思うておりまする」
信長の家臣たちはぎょっとして、塩屋を二度見した。
井右衛門がこわごわと、漆箱を前に差し出す。
家臣が口を開こうとしたのを遮って、塩屋は言った。
「この5,000文の返礼の品を何にしようかと考えた所、欲しくもないものをもらっても、信長殿も迷惑じゃろうと思いましてな。馬や鷹なら有り余るほどお持ちのはずじゃ。同様に、わが身に置き換えれば、わしも5,000文よりもっと欲しいものがござった。しかるに、こうして直接腹を割って、所望の品を互いに話せばよい、と思った次第にござる」
家臣たちは揃って立ち上がった。
「この無礼者!上様の前でよくもそのような傍若無人な」
塩屋は驚いた。
至極尤もなことを言っているのに、なぜ無礼になるのか。
身構えたが、信長は笑いながら、
「よせ、よせ。この者の言うことは理にかなっておるわ」
と、家臣たちを制止した。
「ぬしは何を所望じゃ」
待っておった、とばかりに、塩屋は目を輝かす。
「わしは今、飛騨の一部と越中の一部に城を持ちまする。しかしそれでは、一国の主にはなれぬゆえ、国の境を取り払って、わしの持つ所領を、一つの国にしてほしいのでござる」
信長は目を丸くし、頬を緩めた。
「面白い奴じゃ。そのようなことを申したのは、ぬしが初めてじゃ」
「はは、こればかりはいくら金があっても、わしには出来ぬことゆえ」
信長はしばし考えた。
「わしとて同じじゃ。確かにぬしの所領を合わせれば、一国ほどにもなろう。だが国の境は太古から人々に根付き、わしが変えようとも民が許さぬわ」
塩屋は腑に落ちない。
「天に一番近い信長殿でもできませぬか。美濃の蝮殿のように一国の主になるのが、わしの長年の夢にございますれば」
「出来ぬものは出来ぬ」
信長にそう言い切られ、塩屋はうなだれた。
「蝮か。蝮どころか、ぬしはナメクジのような男じゃ」
「塩屋がナメクジと言われたら堪りませぬ」
「じゃがナメクジに蛇の毒は効かぬぞ。ぬしなりに精進せい」
「はは」
塩屋はそう言いつつ、収穫なしか…と心の内で思った。が、
「ぬしには、黒崎の居城であった、木舟城を与える」
と、信長は言った。
思わぬ褒美に、塩屋は急に元気になった。
「木舟城を?ありがたき幸せにございます!」
(やったわい、戦をせずに、城を手に入れたぞ)
「ところで、新たにわしの配下となった内ケ島とは、ぬしは因縁の仲であるそうじゃな」
信長は話題を変えた。
信長は一向宗徒と和睦し、その流れで内ケ島は織田の配下となっていた。
(もしや)
塩屋は内ケ島の領土がもらえるのかと期待した。
「内ケ島の領土をやるわけにはいかぬぞ」
と、信長は見越して言った。
「その内ケ島に、今度魚津城を攻めさせることになっておる。ぬしも、内ケ島の手助けをせい」
「わしが、内ケ島を?」
塩屋は露骨に嫌な顔をした。
「ぬしは、わしの所望をきかぬつもりか」
塩屋は慌てた。
「信長殿のご所望は、そのことにございますか。なれば、仰せの通りに」
「よし。その5,000文は持ち帰るがよい。その代わり、魚津の戦、必ず戦功を立てよ」
「ははっ」
こうして塩屋は信長との対面を終えた。
(待てよ…わしの所望は結局叶えられなんだのに、信長殿の所望は丸飲みしてしもうた!こりゃ、やられたわい…わ
しとしたことが…。)
こうして塩屋は上杉謙信に続き、
織田信長にも器の違いを見せつけられたのであった。
その後、内ケ島と塩屋は魚津城の戦で勝利をもたらし、
越中はほぼほぼ、織田のものとなった。
ところが。
本能寺の変が起こり、信長は、死んでしまった。
「またか…」
天下が再び揺れるのは必至であったが、塩屋はもう
織田以外につく気はなかった。
しかし、越中では、上杉に寝返るものが続出した。
斎藤信利も、その一人であった。
斎藤信利は寝返るとすぐに、真っ先に塩屋の猿倉城を攻撃した。
「おのれ、信利め…。信長殿と縁戚であることも、命を助けられた恩も忘れおって!」
塩屋は応戦する。が、
鉄砲玉と火薬はあっても、肝心の鉄砲がない。
他の城からの救援を待つものの、援軍はなかなか来ない。
塩屋の配下は皆、塩商人の奉公人あがりである。
それほどの忠誠心もなく、利のない事には動かない。
塩屋は槍でなぎ倒され落馬して、あっけなく首を取られた。
信利は猿倉城にあった塩を、ことごとく奪った。
「この塩で首を漬けよ!上杉に持参するのじゃ」
・・・塩屋は結局、商人にも、武将にもなり切れず、世を去った。
後世に名は知られなかったが、このどうにも憎めない男の人生は、
なかなかに面白いものだったのではなかろうか。
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