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第2章
はかりごと
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塩屋と宇左衛門は、翌日の朝早く、正論寺の隣の道場へと赴いた。
「エイ、ヤア」
「トオーッ」
道場はにぎわっていた。
童から初老まで、五十人はいるかと思われる男たちが汗を流していたが、どうやらほとんどが農民のようだ。
「あの、輪の中心におる、竹刀を地面に付けとる男がそうでないけな」
「あれか…毛もすっかり伸びおって。坊主に戻る気は毛頭ないようじゃのう」
「へえ、なかなかの腕やねえけ。ほれ、また一本。塩屋様も、商人からもののふの道に入ったもんやから、他人とは思えんのでねえけ?」
塩屋は鼻をフン、と鳴らし、
「まあ、あの程度ではわしの足の毛にも及ばぬわ。もののふではなく、あれはものの毛じゃあ」
宇左衛門は白けた。
「…そいで、これからどうするつもりで?」
塩屋は背を伸ばし、言った。
「わしは今ここで、聞き捨てならぬことを聞いた。ものの毛どもは、内ケ島を攻める計画を練っておる。そのようなこと、聞かぬ存ぜぬで通せるはずがない」
「つまり、ものの毛どもに謀反の意ありと、流言を流す、いうことですけ?」
「その通りじゃ。宇左衛門、ぬしは顔が知れておるゆえ、今日はわしが村を回り、塩と流言を撒き散らしてくる。ぬしは急いで越中へと向かい、わが軍勢を連れてこい」
「へい」
そうして塩屋は村を歩き回り、流言はたちまち広がった。
白川郷の領主・内ケ島の耳に届くまでに、たいして時間はかからなかった。
内ケ島は正論寺の住職を呼び出し、問い詰めた。
「坊主あがりが、この内ケ島を倒そうというのか」
「滅相もございませぬ。不肖の倅、分不相応に武士に憧れを抱き、ついには道場を開くに至りましたが、ご領主に仇を為すなどという思いは決して持ち合わせませぬ」
「鍛錬だけなら坊主でもできるわ。それを、継嗣を断り武士になり、道場まで開くとは、野心があったということに他ならぬ」
住職は必死に弁明したが、息子が道場を開いたという事実は消しようもない。
住職は追い込まれた。
自害を選ぶほか、道はなかった。
跡を継ぐはずだった次男は、加賀へと逃亡した。
一方ものの毛は、空になった正論寺に、道場の門弟たちを集めていた。
「先生」「先生」
不安そうな面持ちでものの毛を見つめる門弟たちは、30人程度であった。
「皆聞け。今までの鍛錬はすべて、今日これからのためにある。皆の命、わしにくれぬか?」
門弟たちはすぐには応、とは答えなかった。
こんな筈ではなかった、と唇を噛む者、涙を我慢する者、運命には抗えないと悟る者。
農民のほとんどは、いずれこの雪深い白川郷を出て、越中で武士になりたい、という密かな志を持って、
道場に入門したのであった。
その時、本堂の引き戸が、ゆっくりと開いた。
甲冑姿の宇左衛門は、粗末な武具を纏った門弟たちに言った。
「おお、みんな、ここにおったけ。邪魔するでな。わしゃ普段は塩売りの宇左衛門やけど、今日は戦の支度してきたがや。わしのカシラの塩屋様も、あんたらに味方する言いよるで、連れてきたちゃ」
宇左衛門が話し終わる前に、塩屋の兵がどんどん本堂に流れ込んでくる。
塩屋がものの毛の前に座った時、ものの毛は目を濡らし、こう言った。
「これは…御仏のお導きか…!」
「ぬしは、よう抜かすな」
坊主でもないくせに。と、塩屋は呆れた。
「エイ、ヤア」
「トオーッ」
道場はにぎわっていた。
童から初老まで、五十人はいるかと思われる男たちが汗を流していたが、どうやらほとんどが農民のようだ。
「あの、輪の中心におる、竹刀を地面に付けとる男がそうでないけな」
「あれか…毛もすっかり伸びおって。坊主に戻る気は毛頭ないようじゃのう」
「へえ、なかなかの腕やねえけ。ほれ、また一本。塩屋様も、商人からもののふの道に入ったもんやから、他人とは思えんのでねえけ?」
塩屋は鼻をフン、と鳴らし、
「まあ、あの程度ではわしの足の毛にも及ばぬわ。もののふではなく、あれはものの毛じゃあ」
宇左衛門は白けた。
「…そいで、これからどうするつもりで?」
塩屋は背を伸ばし、言った。
「わしは今ここで、聞き捨てならぬことを聞いた。ものの毛どもは、内ケ島を攻める計画を練っておる。そのようなこと、聞かぬ存ぜぬで通せるはずがない」
「つまり、ものの毛どもに謀反の意ありと、流言を流す、いうことですけ?」
「その通りじゃ。宇左衛門、ぬしは顔が知れておるゆえ、今日はわしが村を回り、塩と流言を撒き散らしてくる。ぬしは急いで越中へと向かい、わが軍勢を連れてこい」
「へい」
そうして塩屋は村を歩き回り、流言はたちまち広がった。
白川郷の領主・内ケ島の耳に届くまでに、たいして時間はかからなかった。
内ケ島は正論寺の住職を呼び出し、問い詰めた。
「坊主あがりが、この内ケ島を倒そうというのか」
「滅相もございませぬ。不肖の倅、分不相応に武士に憧れを抱き、ついには道場を開くに至りましたが、ご領主に仇を為すなどという思いは決して持ち合わせませぬ」
「鍛錬だけなら坊主でもできるわ。それを、継嗣を断り武士になり、道場まで開くとは、野心があったということに他ならぬ」
住職は必死に弁明したが、息子が道場を開いたという事実は消しようもない。
住職は追い込まれた。
自害を選ぶほか、道はなかった。
跡を継ぐはずだった次男は、加賀へと逃亡した。
一方ものの毛は、空になった正論寺に、道場の門弟たちを集めていた。
「先生」「先生」
不安そうな面持ちでものの毛を見つめる門弟たちは、30人程度であった。
「皆聞け。今までの鍛錬はすべて、今日これからのためにある。皆の命、わしにくれぬか?」
門弟たちはすぐには応、とは答えなかった。
こんな筈ではなかった、と唇を噛む者、涙を我慢する者、運命には抗えないと悟る者。
農民のほとんどは、いずれこの雪深い白川郷を出て、越中で武士になりたい、という密かな志を持って、
道場に入門したのであった。
その時、本堂の引き戸が、ゆっくりと開いた。
甲冑姿の宇左衛門は、粗末な武具を纏った門弟たちに言った。
「おお、みんな、ここにおったけ。邪魔するでな。わしゃ普段は塩売りの宇左衛門やけど、今日は戦の支度してきたがや。わしのカシラの塩屋様も、あんたらに味方する言いよるで、連れてきたちゃ」
宇左衛門が話し終わる前に、塩屋の兵がどんどん本堂に流れ込んでくる。
塩屋がものの毛の前に座った時、ものの毛は目を濡らし、こう言った。
「これは…御仏のお導きか…!」
「ぬしは、よう抜かすな」
坊主でもないくせに。と、塩屋は呆れた。
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