2 / 11
第2章
はかりごと
しおりを挟む
塩屋と宇左衛門は、翌日の朝早く、正論寺の隣の道場へと赴いた。
「エイ、ヤア」
「トオーッ」
道場はにぎわっていた。
童から初老まで、五十人はいるかと思われる男たちが汗を流していたが、どうやらほとんどが農民のようだ。
「あの、輪の中心におる、竹刀を地面に付けとる男がそうでないけな」
「あれか…毛もすっかり伸びおって。坊主に戻る気は毛頭ないようじゃのう」
「へえ、なかなかの腕やねえけ。ほれ、また一本。塩屋様も、商人からもののふの道に入ったもんやから、他人とは思えんのでねえけ?」
塩屋は鼻をフン、と鳴らし、
「まあ、あの程度ではわしの足の毛にも及ばぬわ。もののふではなく、あれはものの毛じゃあ」
宇左衛門は白けた。
「…そいで、これからどうするつもりで?」
塩屋は背を伸ばし、言った。
「わしは今ここで、聞き捨てならぬことを聞いた。ものの毛どもは、内ケ島を攻める計画を練っておる。そのようなこと、聞かぬ存ぜぬで通せるはずがない」
「つまり、ものの毛どもに謀反の意ありと、流言を流す、いうことですけ?」
「その通りじゃ。宇左衛門、ぬしは顔が知れておるゆえ、今日はわしが村を回り、塩と流言を撒き散らしてくる。ぬしは急いで越中へと向かい、わが軍勢を連れてこい」
「へい」
そうして塩屋は村を歩き回り、流言はたちまち広がった。
白川郷の領主・内ケ島の耳に届くまでに、たいして時間はかからなかった。
内ケ島は正論寺の住職を呼び出し、問い詰めた。
「坊主あがりが、この内ケ島を倒そうというのか」
「滅相もございませぬ。不肖の倅、分不相応に武士に憧れを抱き、ついには道場を開くに至りましたが、ご領主に仇を為すなどという思いは決して持ち合わせませぬ」
「鍛錬だけなら坊主でもできるわ。それを、継嗣を断り武士になり、道場まで開くとは、野心があったということに他ならぬ」
住職は必死に弁明したが、息子が道場を開いたという事実は消しようもない。
住職は追い込まれた。
自害を選ぶほか、道はなかった。
跡を継ぐはずだった次男は、加賀へと逃亡した。
一方ものの毛は、空になった正論寺に、道場の門弟たちを集めていた。
「先生」「先生」
不安そうな面持ちでものの毛を見つめる門弟たちは、30人程度であった。
「皆聞け。今までの鍛錬はすべて、今日これからのためにある。皆の命、わしにくれぬか?」
門弟たちはすぐには応、とは答えなかった。
こんな筈ではなかった、と唇を噛む者、涙を我慢する者、運命には抗えないと悟る者。
農民のほとんどは、いずれこの雪深い白川郷を出て、越中で武士になりたい、という密かな志を持って、
道場に入門したのであった。
その時、本堂の引き戸が、ゆっくりと開いた。
甲冑姿の宇左衛門は、粗末な武具を纏った門弟たちに言った。
「おお、みんな、ここにおったけ。邪魔するでな。わしゃ普段は塩売りの宇左衛門やけど、今日は戦の支度してきたがや。わしのカシラの塩屋様も、あんたらに味方する言いよるで、連れてきたちゃ」
宇左衛門が話し終わる前に、塩屋の兵がどんどん本堂に流れ込んでくる。
塩屋がものの毛の前に座った時、ものの毛は目を濡らし、こう言った。
「これは…御仏のお導きか…!」
「ぬしは、よう抜かすな」
坊主でもないくせに。と、塩屋は呆れた。
「エイ、ヤア」
「トオーッ」
道場はにぎわっていた。
童から初老まで、五十人はいるかと思われる男たちが汗を流していたが、どうやらほとんどが農民のようだ。
「あの、輪の中心におる、竹刀を地面に付けとる男がそうでないけな」
「あれか…毛もすっかり伸びおって。坊主に戻る気は毛頭ないようじゃのう」
「へえ、なかなかの腕やねえけ。ほれ、また一本。塩屋様も、商人からもののふの道に入ったもんやから、他人とは思えんのでねえけ?」
塩屋は鼻をフン、と鳴らし、
「まあ、あの程度ではわしの足の毛にも及ばぬわ。もののふではなく、あれはものの毛じゃあ」
宇左衛門は白けた。
「…そいで、これからどうするつもりで?」
塩屋は背を伸ばし、言った。
「わしは今ここで、聞き捨てならぬことを聞いた。ものの毛どもは、内ケ島を攻める計画を練っておる。そのようなこと、聞かぬ存ぜぬで通せるはずがない」
「つまり、ものの毛どもに謀反の意ありと、流言を流す、いうことですけ?」
「その通りじゃ。宇左衛門、ぬしは顔が知れておるゆえ、今日はわしが村を回り、塩と流言を撒き散らしてくる。ぬしは急いで越中へと向かい、わが軍勢を連れてこい」
「へい」
そうして塩屋は村を歩き回り、流言はたちまち広がった。
白川郷の領主・内ケ島の耳に届くまでに、たいして時間はかからなかった。
内ケ島は正論寺の住職を呼び出し、問い詰めた。
「坊主あがりが、この内ケ島を倒そうというのか」
「滅相もございませぬ。不肖の倅、分不相応に武士に憧れを抱き、ついには道場を開くに至りましたが、ご領主に仇を為すなどという思いは決して持ち合わせませぬ」
「鍛錬だけなら坊主でもできるわ。それを、継嗣を断り武士になり、道場まで開くとは、野心があったということに他ならぬ」
住職は必死に弁明したが、息子が道場を開いたという事実は消しようもない。
住職は追い込まれた。
自害を選ぶほか、道はなかった。
跡を継ぐはずだった次男は、加賀へと逃亡した。
一方ものの毛は、空になった正論寺に、道場の門弟たちを集めていた。
「先生」「先生」
不安そうな面持ちでものの毛を見つめる門弟たちは、30人程度であった。
「皆聞け。今までの鍛錬はすべて、今日これからのためにある。皆の命、わしにくれぬか?」
門弟たちはすぐには応、とは答えなかった。
こんな筈ではなかった、と唇を噛む者、涙を我慢する者、運命には抗えないと悟る者。
農民のほとんどは、いずれこの雪深い白川郷を出て、越中で武士になりたい、という密かな志を持って、
道場に入門したのであった。
その時、本堂の引き戸が、ゆっくりと開いた。
甲冑姿の宇左衛門は、粗末な武具を纏った門弟たちに言った。
「おお、みんな、ここにおったけ。邪魔するでな。わしゃ普段は塩売りの宇左衛門やけど、今日は戦の支度してきたがや。わしのカシラの塩屋様も、あんたらに味方する言いよるで、連れてきたちゃ」
宇左衛門が話し終わる前に、塩屋の兵がどんどん本堂に流れ込んでくる。
塩屋がものの毛の前に座った時、ものの毛は目を濡らし、こう言った。
「これは…御仏のお導きか…!」
「ぬしは、よう抜かすな」
坊主でもないくせに。と、塩屋は呆れた。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
姫様、江戸を斬る 黒猫玉の御家騒動記
あこや(亜胡夜カイ)
歴史・時代
旧題:黒猫・玉、江戸を駆ける。~美弥姫初恋顛末~
つやつやの毛並みと緑の目がご自慢の黒猫・玉の飼い主は大名家の美弥姫様。この姫様、見目麗しいのにとんだはねかえりで新陰流・免許皆伝の腕前を誇る変わり者。その姫様が恋をしたらしい。もうすぐお輿入れだというのに。──男装の美弥姫が江戸の町を徘徊中、出会った二人の若侍、律と若。二人のお家騒動に自ら首を突っ込んだ姫の身に危険が迫る。そして初恋の行方は──
花のお江戸で美猫と姫様が大活躍!外題は~みやひめはつこいのてんまつ~
第6回歴史・時代小説大賞で大賞を頂きました!皆さまよりの応援、お励ましに心より御礼申し上げます。
有難うございました。
~お知らせ~現在、書籍化進行中でございます。21/9/16をもちまして、非公開とさせて頂きます。書籍化に関わる詳細は、以降近況ボードでご報告予定です。どうぞよろしくお願い致します。
夕映え~武田勝頼の妻~
橘 ゆず
歴史・時代
天正十年(1582年)。
甲斐の国、天目山。
織田・徳川連合軍による甲州征伐によって新府を追われた武田勝頼は、起死回生をはかってわずかな家臣とともに岩殿城を目指していた。
そのかたわらには、五年前に相模の北条家から嫁いできた継室、十九歳の佐奈姫の姿があった。
武田勝頼公と、18歳年下の正室、北条夫人の最期の数日を描いたお話です。
コバルトの短編小説大賞「もう一歩」の作品です。
悲恋脱却ストーリー 源義高の恋路
和紗かをる
歴史・時代
時は平安時代末期。父木曽義仲の命にて鎌倉に下った清水冠者義高十一歳は、そこで運命の人に出会う。その人は齢六歳の幼女であり、鎌倉殿と呼ばれ始めた源頼朝の長女、大姫だった。義高は人質と言う立場でありながらこの大姫を愛し、大姫もまた義高を愛する。幼いながらも睦まじく暮らしていた二人だったが、都で父木曽義仲が敗死、息子である義高も命を狙われてしまう。大姫とその母である北条政子の協力の元鎌倉を脱出する義高。史実ではここで追手に討ち取られる義高であったが・・・。義高と大姫が源平争乱時代に何をもたらすのか?歴史改変戦記です
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
シンセン
春羅
歴史・時代
新選組随一の剣の遣い手・沖田総司は、池田屋事変で命を落とす。
戦力と士気の低下を畏れた新選組副長・土方歳三は、沖田に生き写しの討幕派志士・葦原柳を身代わりに仕立て上げ、ニセモノの人生を歩ませる。
しかし周囲に溶け込み、ほぼ完璧に沖田を演じる葦原の言動に違和感がある。
まるで、沖田総司が憑いているかのように振る舞うときがあるのだ。次第にその頻度は増し、時間も長くなっていく。
「このカラダ……もらってもいいですか……?」
葦原として生きるか、沖田に飲み込まれるか。
いつだって、命の保証などない時代と場所で、大小二本携えて生きてきたのだ。
武士とはなにか。
生きる道と死に方を、自らの意志で決める者である。
「……約束が、違うじゃないですか」
新選組史を基にしたオリジナル小説です。 諸説ある幕末史の中の、定番過ぎて最近の小説ではあまり書かれていない説や、信憑性がない説や、あまり知られていない説を盛り込むことをモットーに書いております。
陣代『諏訪勝頼』――御旗盾無、御照覧あれ!――
黒鯛の刺身♪
歴史・時代
戦国の巨獣と恐れられた『武田信玄』の実質的後継者である『諏訪勝頼』。
一般には武田勝頼と記されることが多い。
……が、しかし、彼は正統な後継者ではなかった。
信玄の遺言に寄れば、正式な後継者は信玄の孫とあった。
つまり勝頼の子である信勝が後継者であり、勝頼は陣代。
一介の後見人の立場でしかない。
織田信長や徳川家康ら稀代の英雄たちと戦うのに、正式な当主と成れず、一介の後見人として戦わねばならなかった諏訪勝頼。
……これは、そんな悲運の名将のお話である。
【画像引用】……諏訪勝頼・高野山持明院蔵
【注意】……武田贔屓のお話です。
所説あります。
あくまでも一つのお話としてお楽しみください。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる