霧の中に悪魔がいる

full moon

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第三節

ミコトバの乳(2)

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 背後に居る老婆を見ようとちらりと振り返る。

老婆は私をじとっと見続けていた。

老婆の気味の悪さに、私の足取りは急かす。

妻と娘の元へ向かう。

妻は私を席から見ていた。

私を見た妻の表情は仄かに安堵する。

「すみません、どうでしたか?」

歩いている途中、右側の席の人が話しかけてきた。

その声は中性的で物腰の柔らかく優しかった。

私は立ち止まり、その人に顔を向ける。

そこには、一人の青年の男性が座っていた。

足を揃えて座り、両手を膝の上に乗せている。

その両手は、僅かに握り拳を作っている。

男性の隣には、ギターケースが置かれている。

私は、ふと、川瀬で演奏していた男性を思い出した。

白いシャツにジーンズ。

服装も同じだった。

あの男性に違いない。

「誰も居ませんでした」

「そうですか、ありがとうございます」

その青年は、小さく頭を下げてお礼を言う。

「いえ」

私は、さっと答えて、妻と娘の元へ急ぐ。

次の瞬間、店内の照明が点き、テレビから音声が流れ始めた。

眩くて強い刺激に思わず、目を閉じて、立ち止まる。

目を閉じると何も見えなくなった。

照明の明かりが、まぶたに当たり、ほんのり赤みに帯びた白色の視界を映す。

不安感からすぐに目を開けたい。

しかし、思うように開いてくれない、まぶたに不安が増していく。

逃げたいのか立ち向かいたいのか、私の鼓動が高鳴る。

その鼓動に合わせて、そわそわとして体の内側で何かが掻き立てる。

薄っすら目を開ける。

目が明かりに慣れると、まぶたが更に少し開くようになる。

光に慣れていきながら、まぶたを開いていく。

完全に照明の明かりに慣れ、視界がはっきりとする。

私は無意識のうちに、妻と娘の存在を確認していた。

妻と娘はテレビを見ていた。

気が付けば、客の皆はテレビに釘付けだった。

テレビに映る映像に私は驚愕した。

テレビには、青々とした山が映っている。

その山には霧が立ち込めて山の形が微かに見える程度だった。

カメラマンは、その山の麓から撮影しているようだ。

ガードレールが設置されている二車線道路から山を見上げるような映像。

その道路は一台も車は通っていない。

画面の左上には、『ライブ』と表示されている。

カメラマン荒い息づかいが映像に入り込む。

映像は山の斜面を通って下っていく。

そして、一人のアナウンサーにカメラが向けられた。

そのアナウンサーはカメラマンと同じ道路に居る。

アナウンサーは目尻を尖らせて、眉を下げて、呼吸が早い。

何かに畏れている事が容易に理解できた。

一つ大きく深呼吸してアナウンサーは平然を装う。

「ス、スタート!」

カメラマンは動揺を隠せぬまま早口で言う。

アナウンサーはマイクを口元に持っていく。

「ご覧ください! 突如として発生した霧の中で黒い何かが飛び交っています!」

そのアナウンサーから緊迫している事がわかる。

その中でもなるべく冷静な言葉を選んで、リポートしている。

カメラマンは映像を空に向けた。

濃霧に覆われた空。

その濃霧の中には、無数の黒い影が飛び交っている。

続いて、映像を左に動かして市街地を映した。

市街地が目下に広がっている。

その市街地は目を疑う光景が広がっていた。

高層ビルよりも背の高い黒い生物が闊歩していた。

映像はその黒い生物にクローズアップする。

その姿はこの世のものとは思えなかった。

手足が異様に長く、皮膚表面に骨が浮き出ている。

背には蝙蝠のような羽が生え、細長い尾がしなやかに動く。

肋骨も皮膚表面に浮き出ており、心臓付近が赤く点滅して光る。

長くて鋭い犬歯が二本見え、豚鼻がひくついている。

瞳は光を失い、真っ黒に塗り潰したようだった。

耳は尖り、周囲の音を細かく掴んでいる。

まるで想像上のドラキュラのようだった。

「も、もう逃げましょう」

カメラマンの震えた声がする。

映像が揺れる。

「もう少し、もう少しだけ!」

アナウンサーの表情は恐怖と勝ち気に入り乱れる。

カメラマンは手が震えているのだろう。

かたかたと、手とカメラがぶつかる雑音が止まらない。

次第に映像の中の景色が影に覆われていった。

細かく揺れ動く映像は真上を映した。

濃霧によって、姿は微かにしか見えない。

しかし、足の大きさから、山を遥かに超える巨大な生物だと理解できる。

足はすらりと長く、皮膚表面に骨が浮き出ている。

足元は犬のような骨格で、鋭い爪が剥き出しになっている。

その生物は四足歩行で闊歩する。

その足の動きは極めて遅い。

関節一つ一つの動きが、空に浮かぶ雲を見ているように遅かった。

しかし、一歩の歩幅は、ひと山を越える程だ。

一歩踏み込む度に地上を掘り返し、建物や木々が地上の土と混ざり合う。

その軌跡は、地ならしのように平面になっていた。
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