幻のスロー

道端之小石

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自分の体

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 頭から痛みが引いていく。だが体が熱い、いや寒い……しかしてそのどちらでもある。この感じはどうやら風邪をひいたらしいと伊藤 純は理解した。熱に浮かされて何十年前のことが夢に出てくるなんて相当心がヤバいらしい、そう純は悪態をつきため息を吐いた。

 鏡に映った幼かった頃の自分の姿。夢や幻でなければなんだというのか。現実であれば良いが現実であった試しがこれまでにない。

『全く、45にもなって酒に酔って寝て風邪をひくなんてみっともねぇ……』

 どうやら本能的にベッドの上に戻っていたらしいことだけは幸運といえるであろう。だがそんな幸運は、どうやら純にとっては些細なことであったらしい。

『あ、ドクターに連絡しないと……確か公式戦が近くて練習で俺みたいに怪我しそうなやつがまだ、いやそういえばもうそのことは注意しておいたんだった』

 純は慌ててベッドから起き上がろうとするが体が重い。喉は痛いし咳が出る。手探りでベッドサイドにおいてあるはずの携帯を探るが携帯の入ったカバンはリビングのソファーの上だ、と純は思い出した。
 純は起こしかけた体をまたベッドの上に倒した。

『……まぁ15年間無遅刻無欠勤だし、連絡が遅れることは大目に見て許してほしいなぁ。それにしても独身が風邪にかかるとこんなに辛いとは思いもしなかった』

 とりあえず考えることを放棄した純は、のんびりと辛さを我慢しておくことにした。喚いたところで独身なので誰かが助けてくれるわわけでもなく独り言を言う元気も残っていなかった。
 その時ガチャリとドアが開く。独身貴族の純に女はいない。

『なんだ?誰だ?物取りなら荒らすだけ荒らしてとっとと帰ってくれ……』

 純は諦めの境地に達して目を瞑った。どうせやれることはないのだ。心配して来てくれた選手やコーチと言った可能性もなきにしもあらずだが、合鍵など誰にも渡していないので盗人だと思ったのだ。

「純、ただいま。起きてる?体の調子はどう?」

 しかし、聞こえてきたのはかなり昔に聞いた母親の声だった。無性に純は嬉しいような悲しいような気持ちになった。先程見た『夢』がまだ続いているのだろうか。いくらなんでも幼少期に戻れるなんてありえない話だ。伊藤 純はそう思いながらも母を心配させまいと返事をする。

「えっぐ……ケホッ。だいじょうぶ」
「咳出てるじゃない、 ちゃんと休んでた?」
「うん」

 意識は朦朧としているようで明瞭な状態だった。

『ああ、これはあれか。きっとアル中で死んじまったんだな』

 純はぼんやりしながら話に答える。するとドアの奥から見慣れた高身長がぬるっと出てきた。最近老人ホームに入ったはずの父さんの若い頃の姿だ。

「絵里、聞いてくれよ。純がさぁ」
「うんうん、どうせ抜け出したのね」
「そうなんだよ。そこでしかも倒れちゃって……」

 小さい頃を思い出した彼は突如くる眠気に耐えられず眠ることにした。次に意識が覚醒した時は母親の顔が近くにあった。純はすごく懐かしくて心がよくわからない気持ちでいっぱいになった。

 気づけば母親に抱きついていた。涙が出ていた。母親は驚いたような顔を見せたが優しく抱擁してくれた。情けない声が出た、止まらなかった。ただ泣き続け、泣き疲れた。自分の熱が高いからか母親は少し冷たいように感じ、それがリアルであることを訴える。

「怖い夢を見たんだ……」
「そっか、頑張ったね。ところで熱は大丈夫?辛くない?」
「うん……うん、大丈夫」

 母親がどこかへ去った後、純はどこか直視することを避けていた自分の手を見た。その手はゴツゴツした手ではなくプニプニの小さい手だった。きっと野球ボールなんぞまるで触っていないだろう柔らかい手だった。

 純は泣いた。夢ならば覚めないでほしいと思った。やり直す機会を与えたいるかどうかも分からぬ見知らぬ神に感謝した。今までが悪夢だったのか、それとも今が夢なのか……何にせよ彼にとってぼやっとしていた意識がハッキリとした瞬間だった。

 焦ったように母親が戻ってくると号泣している純の元に駆け寄った。

「やっぱり辛いんじゃないの!ちょっと薫くんっ!うわっ熱っ!病院呼んで!」

 母親である絵里は軽くパニックになっていた。めちゃくちゃ純が熱いからだ。

「どうしたって純っ!大丈夫かっ!?」

 絵里の声を聞いて駆けつけた父親の薫。純を心配してくれているようで慌ててかけよる。がこういう時の父親というのは役に立たない場合が多々ある。薫もそんな役立たずになってしまう父親の1人だった。

「大丈夫じゃないから呼んだんでしょう!?」
「ご、ごめん……すぐ車出す!ところで今って病院空いてるか?」
「いいから早く!多分こども病院が空いてるから!」
「わ、わかった!」

 純が病院に行ってわかったことは二つ。新型のインフルエンザに罹っていたこと。そして純自身が間違いなく子供に戻っていることである。純は自分が子供であることを治療の代金が無料だったことで確信した。

 それから1週間経った。純は未だにこの夢のような状態から覚める様子がないことからこれが現実だとしっかり認識した。

 1週間も経てば熱が引き体を動かすのが楽になった。むしろ活力が有り余っているくらいだ、と純は思った。だが大事をとって幼稚園はまだしばらくは休まされそうな雰囲気だ。たまにコケているのは大人の時と感覚が違うせいで風邪は全く関係ないのだが、それが余計に両親の心配を加速させた。

 純はべッドの上で横になる。そしてこれからのことを考えているうちに気づいた。

『俺、ちゃんと幼稚園児できるか?』

 流石に45のおっさんのままではいられない。だが立ち居振る舞いひとつ取ってもおっさん臭が出てしまう。

「よっこらせっと」

 幼稚園児にあるまじき声と共に立ち上がり父親にあるものをねだりに行く。自分の野球ボールとグローブだ。父親である薫も母親である絵里も大の野球好きであるが家にボールはない。グローブもない。しかしサッカーボールはある。何故だ!と純は叫びたい気分だった。

『体も出来上がっていないし、まずはボールを操る感覚を身につけたほうがいいかな。とりあえず父さんとキャッチボールでもして鍛えよう!あぁ、楽しみだなぁ』

 純は病み上がりだが気力マックスの体で薫の所まで歩いていき声をかけた。いつもは『親父』と呼んでいたがそれではまずいということで呼び方を変えることにした。

「父さん!」
「んん"っ……父さん?!パパじゃないくてっ?」

 いつもと違う呼ばれ方をする薫は気が動転している。「マセるの早くないか?」などとボソボソつぶやいている。親父なんて呼んでいたら完全にアウトだっただろう。

『しまった、そうだった。パパって呼んでたな。こうなったら母さんも母さんと呼ぶか……流石にママ呼びは恥ずかしいし』

 今更、昔の呼び方には戻せない。マセたガキだと思われても構わない。どうしてもその呼び方だけは避けたいと純は思ったのだ。主に羞恥心で純自身が持たないのでそんな呼び方はしたくない、と。

「父さん、おれ、やきゅうのボールとグローブほしい!」
「あー、絵里にお小遣いもらわないとなぁ。ちょっと待ってて?」

 悲しいことに薫はお小遣い制である。独身だった純にはわからない制度である。

『きっときついんだろうなぁ』

 という程度は純にもわかるがそんな程度だ。薫が電話を始める。

「あー、もしもし!いや、大丈夫!元気だから。うん……うん、ところでお小遣いの話なんだけどさ……いやそうじゃないんだ!違うんだって!
 飲み代じゃないから。純が野球やりたいからボールとグローブが欲しいって言ってるんだよ。え、うん。でも今買いに行きたいって。はい、はいはいはい、うんわかった。じゃ気をつけてね」

『結婚は人生の墓場だと話には聞いていたが、こりゃ噂は本物だな』

 明らかに尻に敷かれている薫を見て子供がしていけないような同情の表情を浮かべる純、薫はそんな顔を向けられて情けなくなったのか誤魔化しの言葉を放つ。ただどう考えても人生経験は純の方が上である。誤魔化されるわけがない。

「ボールとグローブはママが買ってきてくれるってさ。だから今日はサッカーしよう!サッカーも楽しいぞっ!」

 慌てて笑顔で話題をずらそうとしている。両親は共に野球好きなのに野球ボールとグローブがなくて、サッカーボールがあるのは何故なんだ、と純は何度も思ったが一度も口には出さなかった。

「えー……やきゅうがいい!」

とつい不満は出てしまったが。

「大丈夫、ママが買ってきてくれるから。そうだ!もし買ってきてくれなかったらパパが……そうだなプリンは食べたいし、かと言ってお小遣いが今月は危ないからな……」

 ここで道具が手に入ることがわかった純はプリンがあることを知る。甘いものは美味しい、少なくとも純は大好きである。

「プリンでてをうつよ」
「ひぇっ!?」

 手を打つなんて明らかに幼稚園ではないがそれを気にするような薫ではない。薫は今、目の前のプリンとお小遣いの問題で頭がいっぱいなのだ。

「プリンたべたいな」
「くっ……プリンでいいです」

そして買い物に行っていた絵里が帰ってきた。

「とりあえずボールは3つ買っておいたけどこれでいい?純!グローブだよ」
「ありがとう!母さん!」
「んん"っ……母さん?!」

 夫婦似た者同士である。
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