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その馬、暴れ馬
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とある県、海沿いにあるそこそこ設備が整った牧場になんの異常もなくその馬は生まれた。明らかに体格が大きいとか特別に筋肉質であるとかそういったことがあるわけもなく他の馬と同じような仔馬である。強いて違いを挙げるというのならば綺麗な白馬であったことくらいであろうか。
その日、同じ牧場でもう2頭仔馬が生まれていた。同時出産ということもあり現場は忙しくなっていたものの、無事に産まれた今は和んだ雰囲気である。
インターネット、世界中の情報が飛び交う空間にも馬を好むものはいた。
『どうもー。こんウマー。馬ノ尾トーノクです。今日は有馬記念を同時視聴ということで皆さんはどの馬に賭けましたか~? 私はハギノバスターですね。馬体の状態も見た感じ良さそうですし、何よりハギノキングが父ですからね、この馬なら絶対勝てます!』
やや興奮したような声が発せられているのはタブレット端末からである。机に置かれた大きめのそれに窓から差し込む日の光が反射し老けた男の顔を照らした。日光を煩わしく思ったのかお気に入りの椅子からゆっくりと立ち上がり、カーテンを閉めてまたゆっくりと腰を椅子に沈めた。
椅子に座りこれからコーヒーでも飲もうかとした時、スマートフォンから着信音がけたたましく鳴り響いた。
スマートフォンを手にした男は着信元の名前を見てすぐに電話に出た。
「はい、もしもし」
『あー萩野さん。3頭とも無事産まれましたよ」
「そうか、それは良かった」
報告を受けた男──萩野の頬が緩んだ。この男、萩野は少々小さいながらも牧場のオーナーをしている。小さいと言っても三冠馬を一頭輩出しているのでそこそこ名のある牧場ではある。
『ところで見に行かなくて良かったんですか、有馬記念』
「孫が遊びにくるのに行けるわけないだろう」
『馬より孫ですか。孫がいないんで分からないですけど、孫はかわいいでしょうねぇ』
羨ましそうな色を一切感じさせない相手の声を聞いて萩野もにこやかに言葉を返す。馬も可愛いが孫には劣ると萩野はそう思っている。孫ができる前まではそんなことはなかったのだが。
「あぁ、目に入れても痛くないってのは本当さ」
『今度お孫さん連れて牧場来たらどうです? キングもきっと待ってますよ。お孫さんキングに乗せてみたらどうです?なかなかできない経験になりますよ』
スマートフォンから聞こえる声は依然として嬉々としている。三冠馬、そもそも競馬の中でG1という大きな舞台を走り抜けるだけでも上澄みの中の上澄みの馬であるが、その大舞台で1着を3度取れるというのはとんでも無いことなのである。
電話の向こうの男はその三冠馬を萩野の孫に自慢したいだけなのだが、萩野は孫を連れて牧場に一度も来たことがないので孫を連れてこないかと提案してくるのである。
「キングには流石に孫は乗せられんよ。あいつ気性荒いし、今野にしか懐いてないだろう」
『三冠馬に乗れるなんてなかなか無い経験だと思いますけどね』
「ま、考えておくよ。仔馬達をよろしく頼むよ」
『えぇ、任せてください』
萩野はスマートフォンを机の上に置いた。タブレットの中では馬のフェイスマスクを被った男がハギノバスターという名の馬を応援している。
『行け!逃げろ!走れ!いいぞ、脚がまだ有る!まだ伸びる!勝った!勝ったぞハギノバスター!まだ伸びる!2馬身、いや3馬身差をつけた!タイムは、これはレコードだ!
あぁ…… 皐月賞から長かった、待ち遠しかったぞハギノバスター! G1、2勝目! その力と格の差を見せつけた!……マジでありがとう!10万勝った!ありがとう! 』
馬のフェイスマスクのせいか、それとも興奮したせいなのかその人物は息切れを起こしている。今回の有馬記念の勝ち馬、ハギノバスターは1年近く勝っていなかった。怪我があったわけではないが勝ちきれないことが多かったのだ。愛馬の久しぶりの勝ちに萩野は少し浮かれていた。
萩野は1年ほど、この『馬ノ尾トーノク』という配信者を見ている。配信を見ていると言っても競馬関係のものだけではあるが、自分の愛馬をずっと応援し続けてくれるということで彼を知ったのだ。ご機嫌だった萩野は配信サービスにある投げ銭のシステムから10000円をその配信者に投げつけることにした。
『萩野さん赤スパありがとうございます……えっ萩野さん?! 『あなたの名前を今生まれた仔馬に付けてもいいですか?』え、逆にこちらの名前なんて付けてもらっていいんですか。ありがとうございます。是非使ってください!』
時は流れ6月。とある県、海沿いのとある牧場。今野は仕事中であったがスマホで競馬を見ていた。
「やっぱハギノバスターは強いなぁ。そうだろハク?」
「ヒン?」
「ほら、この馬だよ。早いだろう? カッコいいと思うだろう?」
ハギノバスターはG1三冠を遂げた。この牧場2頭目の三冠馬だ。今野は仔馬の時からハギノバスターを見てきたので自分の子供のような感覚を少し持っていた。
「ヒン!」
「そうかお前もそう思うか」
ハクと呼ばれたその白馬の目は輝いたまま画面を食い入るように見つめていた。それから時は流れ7月。その白馬はすくすくと成長した。
「ハクどうしたんだよ。あーやめろやめろ。分かった見せてやるから。柵に頭突きするのもダメだからな。呼んだら見せてやるから」
今野は頭を掻きながらその白馬と競馬を見ていた。今年で4歳になるハギノバスターは好調でG1には出ていないもの1着を取っている。ハクと呼ばれる仔馬は事あるごとに競馬を見ようと今野に要求しており、今野もどう対応したものかと頭を悩ませていた。
時は流れ8月。牧場から徒歩5分の立地にある今野家のインターホンがなった。人付き合いの少ない今野は何か通販で注文した覚えもないので誰なのかと注意しながらゆっくりと扉を開いた。
「はいどちら様で……ハクぅ!?」
扉を開けると白い仔馬がいた。インターホンは口に加えた枝で押したようだ。そもそもインターホンを押すという文化が馬にあるのかは分からないが、今問題なのはそこではない。
「ヒン?」
「お前……お前それはダメだろうよ」
厩舎からハクと呼ばれるその馬は脱走するようになっていた。脱走してどこへゆくかというと今野の家である。これが問題なのである。
「ダメだって。部屋に上がるにしてもお前、汚いだろう」
「ヒン?!」
「汚いと嫌われるぞー。今度洗ってやるからなー。今日は帰ろうなー」
「ヒン……」
その馬はとぼとぼと帰っていった、今野を置き去りにして。
「いや、ちょっと待て! 少し待てハク! 俺が連れて行ってやるから待て! 人の話を聞いてくれぇ!?」
今野は慌てて後を追いかけるがハクは見つからず心配して探し回っていた。その20分後ハクはずぶ濡れで厩舎に戻ってきた。
「……海水、か? お前海で泳いできたのか?」
「ヒン!」
「水で洗い流してやるからこっち来い」
今野はだいぶこの馬が手に負えないと気づき始めたらしく疲れ切った顔をしていた。
年を越して3月。ハクはそこそこ大きくなっていた。同期のクロノと呼ばれている青鹿毛の馬はかなり体つきが良いがそれは特別という他ない。クロノは六冠馬とニ冠馬の仔なのだ。
同期のもう一頭はチャマル。栗毛の普通の馬だがこちらも六冠馬の仔である。チャマルの母父はニ冠馬で血統はかなり良いようだ。
ちなみにハクは三冠馬と一冠馬の仔である。血統はいろんなものがごちゃ混ぜになっている。まぁ、血筋としてはエリートであることには違いはないのだがダートのスプリンターと芝のステイヤーの血筋なのだ。
この頃になるとハクは自分でホースの水を被るようになっていた。冬の海の水は冷たかったらしい。
「もう何もいうまい。ハク、厩舎にテレビ持って行くからそれで我慢してくれないか……」
今野は苦笑いしながらリビングの窓からテレビを見ているハクに語りかけた。
「ヒン!」
「あっ、ちょっと待て! 速っ?!」
この頃のハクは怒られそうになると逃げることを覚えていた。
4月、ハクに異変が起きた。
「……お前。引きこもりはいかんだろ」
「ヒンー」
テレビを見ながらバツが悪そうにだらけている白馬の姿がそこにはあった。引きこもりのせいかハクの体は少し弛んできているかもしれない。
「外歩け!うわっ!泥をピチャピチャさせるな! 後で洗ってやるから体動かせって」
外に無理やり連れて行くと雨の影響でぬかるんだ土が気に入らないとばかりに泥を跳ねさせ抗議していた。6月、梅雨の時期に入るとハクの引きこもりは悪化した。今野の目から見てもハクは雨にうんざりしているように見えた。
「明日は晴れると良いな」
「ヒン」
「クロノとチャマルもそう思うだろ」
「「……」」
クロノとチャマルは返事をしない。そもそもハクがタイミングよく鳴いているだけでは? と思った。しかし、テレビで競馬の中継を見て喜んでいるこいつだけは例外なんじゃ無いかと今野は思い直した。
「お前は頭が良いな」
その言葉にその仔馬は上機嫌そうに鳴いて応えた。
7月、梅雨が明けて蒸し暑くなってくるとハクは時々姿を消すようになった。その度に今野は探し回るのだが大体海で泳いでいることが発覚した。
「ハク!戻ってこい!りんごやるから!」
今野は毎回リンゴを餌にハクを呼び戻していた。海で泳ぐとリンゴを餌にしてでも呼び戻さなければならない、それを分かっていてハクは海に泳ぎに行くのでは無いかと今野は疑いの目をハクに向けた。
スッとハクは目を逸らした。馬の視野は広い。そのせいか完璧に今野と逆方向を向いている。
厩舎に帰り約束のリンゴを食べるハクは満足げな顔をしていた。クロノとチャマルにも今野はリンゴを与えた。彼らは食い意地を張っているせいでりんごが貰えないと拗ねて面倒なことになるのだ。
脱走が何度も起こるのはどう考えても問題でしか無いので脱走防止のための対策を今野はいくつか行ったのだが……
どうにも厳重にしたはずのハクの厩舎からハクが普通に脱走している。これはおかしいと監視カメラを今野が見たところチャマルとクロノが手引きしていた。どうやらグルだったらしい。
8月になってハクは毎日のように海で泳ぐようになっていた。クロノとチャマルまで脱走されては叶わないので今野は目を光らせていた、ハクにではなくクロノとチャマルの方にである。
ハクには新人の田島を見張りにつけていた。やはりというべきか今野の予想通りと言うべきか競馬の中継が始まる時間の前になるとハクは田島を浜辺に取り残してそのまま帰ってくるのだ。田島が泣き言を言っているようだが今野も少し泣きたい気分だった。
9月になると3頭とも大分体つきが大きくなってきている。そろそろトレーニングセンターに送るのかなと今野は考えていた。
「そろそろお別れだなぁ。お前が帰ってくるのはいつになるかな」
「ヒン?」
10月某日。3頭の馬がトレーニングセンターへ向け出発した。今野はハクなら別れを惜しむのでは無いか、と思ったがどうやらハクは乗り気なようで嬉々としながら出発して行った。
「あいつ、向こうの厩舎にはテレビがないって分かってるのかな」
分かっていなかった。当然のようにハクは大暴れ。その暴れ方が厩務員のスマートフォンを次々に強奪しヨダレまみれにする他、連日脱走、プールを勝手に使用、他の馬と勝手に併走、厩務員の休憩室に突撃しテレビ前を陣取る、ジョッキーのムチに噛みつきムチを投げ捨てるなどなど多岐にわたる。
いつしかトレーニングセンターで付いたあだ名は脱獄王である。
ところ変わって、萩野は馬名で悩んでいた。ハクの分は既に決まっている為、孫と遊びながら適当に書いて提出したもののクロノとチャマルの名前は決めかねていた。
今日は孫が遊びにきているし明日でもいいかなと考えていると孫が戦隊もののポーズを取っていた。すかさず萩野はスマートフォンのカメラ機能を起動させた。
「時を駆ける!クロノスレンジャーレッド!」
「ん?なんだいそれ?」
「えー!爺ちゃん知らないのー?時空戦隊クロノスレンジャーだよ!」
「いやー知らなかったなぁ。教えてくれるかなー?」
孫のお気に入りの戦隊の名前から、という理由でハギノクロノスとハギノレンジャーという馬名が生まれた。
しかし萩野は予想できていただろうか。自分の字が汚いあまりに読み間違いをされるという可能性を。
『ウマノオトーノク』は『トーノ』の部分が汚く続いて見えていた為に『タ』と見間違われ『ウマノオタク』に。
『ハギノクロノス』はクロノスの『ノ』がほぼ横一線だった為に『ハギノクロース』に。
『ハギノレンジャー』はどういうわけか『ハギノデンジャー』に。
ハギノクロノスとハギノレンジャーの間違いはセイント戦隊、クロースレンジャーと爆破戦隊、デンジャーレンジャーが存在したせいだろう。
ウマノオトーノクは……その名を付けられた馬が他の馬に擦り寄ったり、じっと見ていたり厩舎内で怪しい動きをしていたせいかもしれない。
そして時は進み7月。芝1200、右回り。天候は雨、馬場状態は重。無敗で3勝したウマノオタク初のG3挑戦。
その同時視聴が始まっていた。
『はいどうもー。こんウマー。馬ノ尾トーノクです。えー、今回はなんと萩野さんのご好意で私の名前が付けられた馬の重賞初挑戦ということで枠を取らせてもらいました。
本当に萩野さんありがとうございます。あ、赤スパありがとうございます。えーと『手違いでウマノオトーノクのはずがウマノオタク』になっていますって……あー、いえいえ私も馬のオタクと呼んで差し支えない存在ですからお気遣いなく!」
馬がパドックに次々と登場する中、その馬──ウマノオタクはカメラマンの横をキープしていた。雨が降っているせいか機嫌が悪い。
『お!8番ウマノオタク!パドックでは貫禄たっぷりとカメラマンの横をキープして落ち着いてましたけど馬場に向かい始めてから落ち着きがないですね。おっと立ち上がってジョッキーを振り落とした。どうやらかなり落ち着かない様子。……え、大丈夫なんすかこの馬。あれ、ジョッキーからムチを奪った ……え、ぶん投げた』
ムチを奪われたジョッキーは気にした様子もなくもう一度ウマノオタクに乗る。するとウマノオタクは落ち着きを取り戻したようで最速でゲートの中に入って行った。
『気性が荒いというより気紛れでしょうか。ウマノオタク頑張ってくれ……ジョッキーはムチを持ってなかったですけど大丈夫なんですかね。あっ、青スパありがとうございます。これは有識者の方ですね。『ムチなしで3勝してるから問題なさげ』ってこれ本当ですか? と、ここでゲートの中に全頭入りましたね』
鞍上の新人ジョッキー橋下はビビりまくっていた。これまで3回この馬で勝っているが毎回ムチを取られて表情には出さないものの泣きそうな気持ちで乗っていた。
(なんで毎回ムチ取るのぉ……とにかく走ってくれぇ!頼む!)
雨音が響く。雨のせいか観客は多くない。橋下はその時を静かに待った。ゲートの中でここまで落ち着いている馬は珍しいだろう。しかし、馬の上に乗っているからこそわかることがある。少しずつこの馬の心拍数が上がっているのだ。確実にこの馬は準備が出来ている。
そしてゲートが開いた瞬間には横に並び立つものが居なくなっていた。
まさに電光石火。橋下は必死に重心を乱さないようにしがみつく。風と雨粒があっと言う間に後方へ流れていく。
『速い速い!ウマノオタク!最後に失速だけはしてくれるなよ!』
力強く、軽やか。そして、この馬はまだ先があるように感じさせる豪快な走り。雨だというのにどういうことかペースが落ちない。グングンと差が伸びる。
3コーナーを迎え後方とのその差は7馬身はあるだろうか。きつめのカーブ、そして上り坂だ。普通の馬であればここで失速するなり息を入れるなりするところだろう。
ドシャっとウマノオタクが大地を踏み締めるたびに泥が高く舞う。上り坂であるはずがまるでそうだとは感じさせない。むしろ上り坂だというのに加速しているような気さえしてくる。
撒き散った泥がその力強さを示していた。
『伸びる伸びる!ウマノオタクまだ止まらない!そのままいけ!いけ!』
4コーナーを迎える。その姿を映すカメラには他の馬は映らない。重賞初参加でそのような走りをする馬が居ただろうか。4コーナーを抜けた。ここからは下り坂。
ストレートが見えた瞬間、橋下は身構えた。カーブの時に溜めていた脚力が爆発するのでは無いのだろうかと。グンっと体が後ろに持っていかれそうになるのを橋下は想像したが衝撃は来なかった。
(流石にちょっとはバテ始めたか。後ろと差もあるし下り坂だし丁度いいか?)
『あっとここで勢いが……ってあれ? そんなにスピードは落ちてない? これ、ワンチャンレコードいけるぞウマノオタク!』
下り坂を迎えてもウマノオタクのペースは変わらなかった。ラストの直線はその勢いそのままといった感じでそのまま流すように1着を取った。
『ウマノオタク圧勝です!他の追随を許しませんでした!ついでに20万の勝ちです、ありがとうございます!……って橋下ジョッキー!?どこいくねーん!』
ウマノオタクは少し立ち止まるとそのまま帰ろうとする。何とか止めようとする橋下をウマノオタクは振り落としそのまま帰って行ってしまった。
タイムはレコードには及ばなかったもののかなり近い値であった。これが雨の日に打ち立てられたこと、そしてその圧巻の走り、そして最後のジョッキーの振り落としは見ていたものに衝撃を与えた。
【これは5冠とか狙える馬では?】
【5冠は無理でもG1は勝てそう】
【気性難かな?】
【ヒント:父、ハギノキング。母、ハギノジョテー】
【父も母もとんでもねぇ暴れ馬じゃねーか】
【父は王、母は女帝、息子の白馬はオタク君】
【俺この馬応援しようかな】
この試合を見ていた人はそのようなコメントをしており概ね好意的に捉えているようだ。しかし、好意的に思っていない人物がその場にいた。
(次はゴールしたらすぐに振り落とされる準備しよ……まじ怖かったぁ、あの馬マジで怖ぇ)
鞍上の橋下だけはウマノオタクにビビりまくっていた。橋下からすればいつ暴れ出すか分かったものでは無いのだ。調教の際も振り落とされるわロデオを始めるわで落馬が上手くなってしまった。
最近ではウマノオタクをプール設備から連れ出そうとした際にプールに落ちたこともあり、かなりビビっていた。その時はパニックになったもののウマノオタクが投げ入れたロープによって引き上げられている。
疲れ果てた橋下の元に数は少ないものの記者がやってきた。橋下は背筋を伸ばしてゆっくり構えた。
「通算100勝おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「かなり前半から飛ばしていましたがそういう作戦でしたか?」
実際の作戦も逃げである。しかし1200メートルという短距離で6馬身も差をつける逃げなどするつもりは毛頭なかった。橋下は笑顔で答えた。
「ウマノオタクが頑張ってくれました」
「ウマノオタクといえば先程振り落とされたりムチを取り上げられたりしていましたが、やはり気性が荒いのですか」
「気性が荒いというよりかは気紛れな感じですね」
レース中に調教の時と同じ気まぐれを起こされたらと思うと橋下は顔が自然と強張った。その後橋下は可もなく不可もなくと言った応対をし無事に取材を終えた。
それからしばらくしてウマノオタク2回目の重賞に挑戦。鞍上は橋下。芝1600。右回り。天候は晴れ。馬場状態は良。
結論から言えば負けた。この日のウマノオタクはゲートインを長々と拒んだが観念したのか最後にゲートイン。ウマノオタクは散歩か何かと勘違いしていたのか最後方からのスタート。同時視聴配信をしていた配信者は当然のように吠えた。
『あぁ!出遅れ!逃げ馬なのに!これ追いつくのか!?全然加速するそぶりがないぞ?』
同時視聴で見ていた視聴者もどうやらウマノオタクに賭けていたようでコメント欄は阿鼻叫喚であった。
テレビから橋下ジョッキーの[頼むから走ってください]という懇願の声が僅かに聞き取れると実況も苦笑い。
「9番、ウマノオタク。ジョッキーの様子からして制御不能かもしれません」
「作戦は逃げのはずですが追い込みに変更した、ということはなさそうですね」
「1番、ハルノゴールド続いて8番ニトロバース並んで3番、その後ろに4番。その後方に6番ハギノクロース並んで7番、その外に2番、3馬身ほど離れて9番……いよいよ最終コーナーを迎えます」
最終コーナーを迎え各々がスパートをかけ始めた瞬間、カメラが先頭の馬を映しているとサラッと最後方に居たはずのウマノオタクがそこを何食わぬ顔をして大外も大外、内ラチから5頭目あたりの位置を走っている。
その時、最後尾にいたはずの馬がいつのまにか一位争いに躍り出るという不思議現象が起きていた。
「6番ハギノクロースが馬群を抜けてきた!その大きく外、どこを走っている9番ウマノオタク!というかさっきまで一番後ろだったはず。直線残り300メートル!。ハギノクロース前に出る、ウマノオタクも伸びるぞ……なんで伸びてるの? 残り100メートル!ハギノクロースか!ウマノオタクか!同時にゴールイン!」
ゴール時の写真、僅差差でウマノオタクが勝っているかと思いきや、ウマノオタクは首を器用に横に曲げハギノクロースの方を見ていた。首を伸ばしていたハギノクロースが1着。余所見をしていたウマノオタクが2着となった。
「えー写真判定の結果、1着は6番、ハギノクロース。1着は6番ハギノクロースです。ハナ差で9番、ウマノオタク。2馬身差でニトロバース・・・」
ナレーターが淡々と結果を読み上げていく。ウマのフェイスマスクを被った配信者は前のめりになっていたが興奮が収まったのかゆっくりと椅子に座り直した。
そして座り直したのは萩野も同じであった。
『ハギノクロースは元々先行と差しで戦ってますから伸びてくるのがわかってましたけど……まさか追い込みでウマノオタクがここまで伸びてくるとは思いませんでした』
「いや、本当にそうだよ」
馬ノ尾トーノクの感想に思わず萩野は返事を返した。
それからウマノオタクは年内に6つのレースに出場。年が終わった時には誰にもなにが起こったのか分からないまま何とG1を勝っていた。
10月に2回レースに出場。
G3レース、ダート1600、天候は曇り、馬場は稍重。閃光の如くスタートを切ったかと思えばどんどんと差を離し8馬身差で1位。
G3、芝1600、天候は晴れ、馬場は良。ゲートインを拒んだところで前回の大きな出遅れという嫌な予感が観客に広がる。
その予感は的中し大きく出遅れ最後方からの追い込みに。最終コーナーまで加速する気配を見せないものの気づけば一番人気の馬の隣を並走している。ゴールの際はやはり僅差で写真判定をしてみると何故か横を向いている。ハナ差で2着。
11月にも2回レースに出場。
G2、芝1400、天候は晴れ、馬場は良。芝のレースでは勝ちきれないという印象をこのレースでウマノオタクは決定づけることになる。このレースもゲートインを拒み大きく出遅れ、いつのまにか1着争いをしているがいつものように2位である。
G2、ダート1400、天候は晴れ。馬場は良。ダートでは安定した強さを見せるウマノオタクは内枠1番。最速でスタートをするこの馬を止めるものは誰もおらずゴールまでその足が衰えることはなかった。
G3、2勝。G2、1勝で迎えた12月。ウマノオタクはダート最高峰の戦いに挑むことになった。
Jpn1、全日本2歳優駿。ダート左回り・1200。天候は晴れ、馬場は良。
冬の風が強く吹く中、ウマノオタクはいつものように橋下のムチを強奪して投げ捨てた後に最速でゲートインした。橋下も慣れた様子でムチを奪われそうになるとそのまますぐ渡すようになっていた。
「今日も頼むぞー」
「ヒン」
「おー心強いなぁ……よしそろそろだ。いくぞ」
「ヒン」
他のジョッキーからすればブツブツと独り言を言ってるように聞こえるかもしれないが、橋下は割と真面目にウマノオタクと会話している気分だった。
ガシャンとゲートが開いた瞬間、一瞬でウマノオタクは先頭に躍り出る。
ダートでは敵無しのこの馬に騎乗して橋下は負ける気がしなかった。
(最近出遅れとか余所見とかあったけどな、この馬は中央のゲート試験1発で合格してるし何よりゲートからの100メートルでこの馬より早い2歳馬はいない……多分な)
ゲートが開いてから僅かだというのに既にウマノオタクは2馬身差をつけた。500メートルをどの馬より速く駆け抜けて最初のコーナーに差し掛かる。タイトな左回りのコーナーでジョッキーとその馬のコーナーへの対応力が出る場所だ。
(いやぁ、オタク君コーナー上手いねぇ。機嫌がいい時のこいつは乗ってるだけでいいもんなぁ)
橋下はそんなことを考えながら鞍上でウマノオタクに合わせていた。2コーナーを抜けるとまた500メートル近い直線。橋下はその時をじっと待っていた。正確には身構えていたというのがあっているだろう。
(3、2、1……ほら来たぁ!)
コーナーを曲がるために多少加減していたウマノオタクが全開で走り始める。突然荒くなる振動ももう慣れたもので橋下は若干愉しみ始めていた。ウマノオタクは軽快に走り後方との距離を空けていく。
「3番ウマノオタクは3コーナーに差し掛かるかというところ4馬身開いて4番並んで2番、その少し後5番、9番が抜けてきたか、7番ホシノキラメキが前を狙っている。コーナーに入ってホシノキラメキ伸びてきた」
気づけばどれほど距離が開いていただろうか。7番ホシノキラメキに乗っていたジョッキーの遥か前方にその馬はいる。それは決して捉えることができない距離。分かってしまう、どの馬がここから最後まで全力を尽くそうと追いつけはしないと。
「3番ウマノオタクは遠い!ウマノオタクに誰も追いつけない!ウマノオタクは悠然と最終コーナーを抜けてストレートに入りました!
独走だ!圧倒的というしかない!全日本2歳優駿は3番ウマノオタク、今ゴールイン!後方から7番ホシノキラメキ伸びてきた、ごぼう抜きだが1着には手が届かなかった。2着は7番……」
Jpn1という大舞台で1着は輝かしい成績である。ウィナーズサークルに向かおうと橋下は思ったのだがその馬が大人しいままであるはずがなかった。
「頼む、お願いしますから。口取り式までは待ってください」
橋下の必死の懇願にも関わらずウマノオタクは知らないとばかりに帰ろうとする。
「アー!待って、お願いします!向こう……あっ、やっとわかってくれたか。いい子だ。その調子で頼みますよ~」
橋下が鞍上で騒いでいるとウマノオタクは馬の列から離れ観客席の方へと向かっていった。そして観客席の前、コースのど真ん中で立ち止まった。
勝利した馬の嘶きが響いた。
それに応えるように観客の誰かがその嘶きに対して叫んだ。
「オタクー!」
「ヒィーン!」
その叫びに応え、ウマノオタクは再び嘶く。そして釣られるようにウマノオタクに馬券を賭けていたであろう人達の息が合った。それから3回ほどコールアンドレスポンスを行うとウマノオタクは帰っていこうとする。
「いや、ちょっと待てぇ!」
「……ヒン」
「うおぁ!?」
口取り式のことを思い出した橋下が止めようとするとウマノオタクは橋下をダートに振り落としそのまま帰っていった。落馬が上達してしまった橋下は直ぐに立つと服についた土を叩いて取っていく。
「俺の初めてのJpn1、1着……こんなのあんまりじゃないか?」
そして続いてホープフルステークスにもウマノオタクはチャレンジした。
芝2000メートル。芝では勝ちきれないと言われ始めたウマノオタク。レース当日は雨が降っていた。馬場状態は重。橋下は5ヶ月前のG3レースを思い出していた。
「ほらムチだ」
「ヒン」
どうせ強奪されて投げ飛ばされるならとムチを差し出すと、やはりというべきかムチを受け取ったウマノオタクはコース外へムチを投げ飛ばした。
橋下を鞍上に乗せると一目散にゲートイン。橋下は雨宿りでもしているようだ、と苦笑いした。
他の馬がゲートインを少し嫌がったせいか長々と待たされたウマノオタクだが集中力は切れているようには見えなかった。少なくとも橋下はウマノオタクのことをなんだかんだで信用している。
(調教しててやっとわかった。名は体を表すというがこいつの場合は本当にそれだ。晴れの日は他の馬が見たいが為にゲートインは拒むし、お目当ての馬を探す為にわざと出遅れて後方で観察してるし、その馬が馬群から抜けて一番近づけるタイミングで勝手に近づくし……)
晴れの日のウマノオタクはどこか浮ついているのだ。パドックでも一番人気と言われる速い馬にすり寄っていくしゲートインした後も左右に首を振って落ち着きがない。
(だけど砂とか泥とかこの馬は嫌いなんだろうな。調教の時もダートに行こうとすると振り落として逃げて行くし、雨降ってぬかるみがある日はなかなか厩舎から出ようとしないし)
雨の日、馬場状態が悪い時のウマノオタクは一味違った。ゲートが開いた瞬間、橋下を急激な加速が襲う。
(危ねぇ……バランス崩して危うく落馬するかと思ったぁ)
外枠のはずが既に内ラチに近づいている。いつもよりペースが早い。いや早すぎる。中山芝2000メートルでは逃げ馬は苦戦すると言われているのにだ。もちろん橋本が逃げを打とうとしているわけでは無い。
直線400メートル、高低差2.2メートルの坂を登り切ってもウマノオタクはその勢いを緩めない。思わず独り言を橋下は溢した。
「おい、流石に飛ばしすぎなんじゃないか?」
別に橋下はその言葉に返事は求めていなかった。しかし返事が聞こえてきたのだ。こんなにも速く走っているのに。
「ヒン?」
「おいおい、嘘だろ……余裕なのか?」
「ヒン!」
「……残り大体1600メートル、ペース配分考えていくぞ。息の入れ方は分かるな」
橋下は後ろをチラッと振り返る。後先考えていないように見える大逃げ。このペースについてこようとする馬は流石にいないらしい。
2コーナーを曲がる頃には12馬身以上差がついていた。
「ここから先は下りだから息入れていけ、また登りが来るぞ」
「ヒン!」
橋下はムチを持っていない、故に些細な体重移動と手綱の捌き、プラス伝わるかよくわからない言葉でウマノオタクに意思を伝えようとしていた。橋本のジョッキーとしての経験は浅い、だがムチなしでこの気性難な馬に乗り続けた橋本にはそれができる気がしたのだ。
そしてウマノオタクという馬はその意志をしっかりと汲み取ることのできる馬であった。
2コーナーを過ぎた後の下り坂で少しペースを落とすウマノオタク、それを見ていた観客たちは気が気でなかった。
この馬が経験した距離は最大で1800メートルまでしかないからだ。血統で言えば父がハギノキングであるから圧倒的にステイヤー系なのだが短距離でのあの走りを見せられれば、ステイヤー系の血統から突然変異的に生まれたダート短距離のG1馬、母ハギノジョテーの特性が強く出たスプリンター系にしか見えない。
大体1200メートルを走ったところで後方との距離がジリジリと縮まってきた。緩い上りを駆け上がり3コーナーを迎える。後方との距離はおよそ4馬身。だが十分に脚を溜めていたおかげで実はまだまだ余裕がたっぷりある。
3コーナーを抜けて4コーナー。残り約400メートル。縮まらない4馬身に後方から焦りの色が見える。4コーナーを曲がる。ウマノオタクはコーナーが上手い。少しずつ加速しながらコーナーを駆け抜けていく。
後方との距離は未だ4馬身、最後の直線310メートル。晴れの日に見せた異常なほどの加速。余所見やら盛大な出遅れやらで見逃されがちだがこの馬は実の所、上がり3ハロンもかなり早い。
残り200メートル、坂に差し掛かる。1800メートルから先、ここからはウマノオタクにとって未知の領域だ。
(あ、勝った)
しかし橋下は残り200メートルを示す標識を見てそんな気の抜けたことを思った。後方の馬たちは馬場が重い為か、なかなか伸びてこない。反対にウマノオタクは止まらない。後方との差を4馬身のまま100%の力を出さずに流すようにゴールイン。
ゴールした後、ウマノオタクは軽く駆けて外ラチ側に寄っていくと橋下を振り下ろして帰ろうとする。どうにか振り落とされまいと橋本は頑張るが、あえなく落下した。
しかしG1、Jpn1も大きいがここだけは譲れない。橋下は振り下ろされた後、帰ろうとするウマノオタクを追いかけ始めた。毎回振り落とされたままでは格好がつかないというのもあるが人生初のG1勝利である。Jpn1に続いてそんな記録が残るのは橋下としては避けたかった。
「ヒン?」「ちょっと待てやぁ!」「ヒヒン」「あ、この野郎!」
軽く逃げるG1勝利馬、そしてそれを全力疾走で追いかけるジョッキー。しかし馬に勝てるはずもなく、橋本が息切れして立ち止まったところでウマノオタクが心配そうに駆け寄って来るという事態になった。
こんな珍事態をカメラが捉えていないわけもなく小さなニュースとして取り上げられ、橋下はそのニュースを見て頭を抱えるのだった。
「ま、俺みたいな新米がG1取れるのはお前のおかげか」
「ヒン?」
「ほらここだよここ。お前と俺だ」
新聞を馬に見せるジョッキーなんてのはなかなかいないだろう。馬はよくわかっていなさそうな風に首を傾げているがジョッキーの方は満足そうな顔をしている。
「G1連覇が掛かってるからな、また頼むぜ。だから今日はプール調教はやめにしないか?予定にないし体重戻さないといけないし」
「ヒン!ヒン!」
「うわっやめろ!落ちっ!?」
1月のプールにジョッキーが落ちたが大事には至らなかった。
その日、同じ牧場でもう2頭仔馬が生まれていた。同時出産ということもあり現場は忙しくなっていたものの、無事に産まれた今は和んだ雰囲気である。
インターネット、世界中の情報が飛び交う空間にも馬を好むものはいた。
『どうもー。こんウマー。馬ノ尾トーノクです。今日は有馬記念を同時視聴ということで皆さんはどの馬に賭けましたか~? 私はハギノバスターですね。馬体の状態も見た感じ良さそうですし、何よりハギノキングが父ですからね、この馬なら絶対勝てます!』
やや興奮したような声が発せられているのはタブレット端末からである。机に置かれた大きめのそれに窓から差し込む日の光が反射し老けた男の顔を照らした。日光を煩わしく思ったのかお気に入りの椅子からゆっくりと立ち上がり、カーテンを閉めてまたゆっくりと腰を椅子に沈めた。
椅子に座りこれからコーヒーでも飲もうかとした時、スマートフォンから着信音がけたたましく鳴り響いた。
スマートフォンを手にした男は着信元の名前を見てすぐに電話に出た。
「はい、もしもし」
『あー萩野さん。3頭とも無事産まれましたよ」
「そうか、それは良かった」
報告を受けた男──萩野の頬が緩んだ。この男、萩野は少々小さいながらも牧場のオーナーをしている。小さいと言っても三冠馬を一頭輩出しているのでそこそこ名のある牧場ではある。
『ところで見に行かなくて良かったんですか、有馬記念』
「孫が遊びにくるのに行けるわけないだろう」
『馬より孫ですか。孫がいないんで分からないですけど、孫はかわいいでしょうねぇ』
羨ましそうな色を一切感じさせない相手の声を聞いて萩野もにこやかに言葉を返す。馬も可愛いが孫には劣ると萩野はそう思っている。孫ができる前まではそんなことはなかったのだが。
「あぁ、目に入れても痛くないってのは本当さ」
『今度お孫さん連れて牧場来たらどうです? キングもきっと待ってますよ。お孫さんキングに乗せてみたらどうです?なかなかできない経験になりますよ』
スマートフォンから聞こえる声は依然として嬉々としている。三冠馬、そもそも競馬の中でG1という大きな舞台を走り抜けるだけでも上澄みの中の上澄みの馬であるが、その大舞台で1着を3度取れるというのはとんでも無いことなのである。
電話の向こうの男はその三冠馬を萩野の孫に自慢したいだけなのだが、萩野は孫を連れて牧場に一度も来たことがないので孫を連れてこないかと提案してくるのである。
「キングには流石に孫は乗せられんよ。あいつ気性荒いし、今野にしか懐いてないだろう」
『三冠馬に乗れるなんてなかなか無い経験だと思いますけどね』
「ま、考えておくよ。仔馬達をよろしく頼むよ」
『えぇ、任せてください』
萩野はスマートフォンを机の上に置いた。タブレットの中では馬のフェイスマスクを被った男がハギノバスターという名の馬を応援している。
『行け!逃げろ!走れ!いいぞ、脚がまだ有る!まだ伸びる!勝った!勝ったぞハギノバスター!まだ伸びる!2馬身、いや3馬身差をつけた!タイムは、これはレコードだ!
あぁ…… 皐月賞から長かった、待ち遠しかったぞハギノバスター! G1、2勝目! その力と格の差を見せつけた!……マジでありがとう!10万勝った!ありがとう! 』
馬のフェイスマスクのせいか、それとも興奮したせいなのかその人物は息切れを起こしている。今回の有馬記念の勝ち馬、ハギノバスターは1年近く勝っていなかった。怪我があったわけではないが勝ちきれないことが多かったのだ。愛馬の久しぶりの勝ちに萩野は少し浮かれていた。
萩野は1年ほど、この『馬ノ尾トーノク』という配信者を見ている。配信を見ていると言っても競馬関係のものだけではあるが、自分の愛馬をずっと応援し続けてくれるということで彼を知ったのだ。ご機嫌だった萩野は配信サービスにある投げ銭のシステムから10000円をその配信者に投げつけることにした。
『萩野さん赤スパありがとうございます……えっ萩野さん?! 『あなたの名前を今生まれた仔馬に付けてもいいですか?』え、逆にこちらの名前なんて付けてもらっていいんですか。ありがとうございます。是非使ってください!』
時は流れ6月。とある県、海沿いのとある牧場。今野は仕事中であったがスマホで競馬を見ていた。
「やっぱハギノバスターは強いなぁ。そうだろハク?」
「ヒン?」
「ほら、この馬だよ。早いだろう? カッコいいと思うだろう?」
ハギノバスターはG1三冠を遂げた。この牧場2頭目の三冠馬だ。今野は仔馬の時からハギノバスターを見てきたので自分の子供のような感覚を少し持っていた。
「ヒン!」
「そうかお前もそう思うか」
ハクと呼ばれたその白馬の目は輝いたまま画面を食い入るように見つめていた。それから時は流れ7月。その白馬はすくすくと成長した。
「ハクどうしたんだよ。あーやめろやめろ。分かった見せてやるから。柵に頭突きするのもダメだからな。呼んだら見せてやるから」
今野は頭を掻きながらその白馬と競馬を見ていた。今年で4歳になるハギノバスターは好調でG1には出ていないもの1着を取っている。ハクと呼ばれる仔馬は事あるごとに競馬を見ようと今野に要求しており、今野もどう対応したものかと頭を悩ませていた。
時は流れ8月。牧場から徒歩5分の立地にある今野家のインターホンがなった。人付き合いの少ない今野は何か通販で注文した覚えもないので誰なのかと注意しながらゆっくりと扉を開いた。
「はいどちら様で……ハクぅ!?」
扉を開けると白い仔馬がいた。インターホンは口に加えた枝で押したようだ。そもそもインターホンを押すという文化が馬にあるのかは分からないが、今問題なのはそこではない。
「ヒン?」
「お前……お前それはダメだろうよ」
厩舎からハクと呼ばれるその馬は脱走するようになっていた。脱走してどこへゆくかというと今野の家である。これが問題なのである。
「ダメだって。部屋に上がるにしてもお前、汚いだろう」
「ヒン?!」
「汚いと嫌われるぞー。今度洗ってやるからなー。今日は帰ろうなー」
「ヒン……」
その馬はとぼとぼと帰っていった、今野を置き去りにして。
「いや、ちょっと待て! 少し待てハク! 俺が連れて行ってやるから待て! 人の話を聞いてくれぇ!?」
今野は慌てて後を追いかけるがハクは見つからず心配して探し回っていた。その20分後ハクはずぶ濡れで厩舎に戻ってきた。
「……海水、か? お前海で泳いできたのか?」
「ヒン!」
「水で洗い流してやるからこっち来い」
今野はだいぶこの馬が手に負えないと気づき始めたらしく疲れ切った顔をしていた。
年を越して3月。ハクはそこそこ大きくなっていた。同期のクロノと呼ばれている青鹿毛の馬はかなり体つきが良いがそれは特別という他ない。クロノは六冠馬とニ冠馬の仔なのだ。
同期のもう一頭はチャマル。栗毛の普通の馬だがこちらも六冠馬の仔である。チャマルの母父はニ冠馬で血統はかなり良いようだ。
ちなみにハクは三冠馬と一冠馬の仔である。血統はいろんなものがごちゃ混ぜになっている。まぁ、血筋としてはエリートであることには違いはないのだがダートのスプリンターと芝のステイヤーの血筋なのだ。
この頃になるとハクは自分でホースの水を被るようになっていた。冬の海の水は冷たかったらしい。
「もう何もいうまい。ハク、厩舎にテレビ持って行くからそれで我慢してくれないか……」
今野は苦笑いしながらリビングの窓からテレビを見ているハクに語りかけた。
「ヒン!」
「あっ、ちょっと待て! 速っ?!」
この頃のハクは怒られそうになると逃げることを覚えていた。
4月、ハクに異変が起きた。
「……お前。引きこもりはいかんだろ」
「ヒンー」
テレビを見ながらバツが悪そうにだらけている白馬の姿がそこにはあった。引きこもりのせいかハクの体は少し弛んできているかもしれない。
「外歩け!うわっ!泥をピチャピチャさせるな! 後で洗ってやるから体動かせって」
外に無理やり連れて行くと雨の影響でぬかるんだ土が気に入らないとばかりに泥を跳ねさせ抗議していた。6月、梅雨の時期に入るとハクの引きこもりは悪化した。今野の目から見てもハクは雨にうんざりしているように見えた。
「明日は晴れると良いな」
「ヒン」
「クロノとチャマルもそう思うだろ」
「「……」」
クロノとチャマルは返事をしない。そもそもハクがタイミングよく鳴いているだけでは? と思った。しかし、テレビで競馬の中継を見て喜んでいるこいつだけは例外なんじゃ無いかと今野は思い直した。
「お前は頭が良いな」
その言葉にその仔馬は上機嫌そうに鳴いて応えた。
7月、梅雨が明けて蒸し暑くなってくるとハクは時々姿を消すようになった。その度に今野は探し回るのだが大体海で泳いでいることが発覚した。
「ハク!戻ってこい!りんごやるから!」
今野は毎回リンゴを餌にハクを呼び戻していた。海で泳ぐとリンゴを餌にしてでも呼び戻さなければならない、それを分かっていてハクは海に泳ぎに行くのでは無いかと今野は疑いの目をハクに向けた。
スッとハクは目を逸らした。馬の視野は広い。そのせいか完璧に今野と逆方向を向いている。
厩舎に帰り約束のリンゴを食べるハクは満足げな顔をしていた。クロノとチャマルにも今野はリンゴを与えた。彼らは食い意地を張っているせいでりんごが貰えないと拗ねて面倒なことになるのだ。
脱走が何度も起こるのはどう考えても問題でしか無いので脱走防止のための対策を今野はいくつか行ったのだが……
どうにも厳重にしたはずのハクの厩舎からハクが普通に脱走している。これはおかしいと監視カメラを今野が見たところチャマルとクロノが手引きしていた。どうやらグルだったらしい。
8月になってハクは毎日のように海で泳ぐようになっていた。クロノとチャマルまで脱走されては叶わないので今野は目を光らせていた、ハクにではなくクロノとチャマルの方にである。
ハクには新人の田島を見張りにつけていた。やはりというべきか今野の予想通りと言うべきか競馬の中継が始まる時間の前になるとハクは田島を浜辺に取り残してそのまま帰ってくるのだ。田島が泣き言を言っているようだが今野も少し泣きたい気分だった。
9月になると3頭とも大分体つきが大きくなってきている。そろそろトレーニングセンターに送るのかなと今野は考えていた。
「そろそろお別れだなぁ。お前が帰ってくるのはいつになるかな」
「ヒン?」
10月某日。3頭の馬がトレーニングセンターへ向け出発した。今野はハクなら別れを惜しむのでは無いか、と思ったがどうやらハクは乗り気なようで嬉々としながら出発して行った。
「あいつ、向こうの厩舎にはテレビがないって分かってるのかな」
分かっていなかった。当然のようにハクは大暴れ。その暴れ方が厩務員のスマートフォンを次々に強奪しヨダレまみれにする他、連日脱走、プールを勝手に使用、他の馬と勝手に併走、厩務員の休憩室に突撃しテレビ前を陣取る、ジョッキーのムチに噛みつきムチを投げ捨てるなどなど多岐にわたる。
いつしかトレーニングセンターで付いたあだ名は脱獄王である。
ところ変わって、萩野は馬名で悩んでいた。ハクの分は既に決まっている為、孫と遊びながら適当に書いて提出したもののクロノとチャマルの名前は決めかねていた。
今日は孫が遊びにきているし明日でもいいかなと考えていると孫が戦隊もののポーズを取っていた。すかさず萩野はスマートフォンのカメラ機能を起動させた。
「時を駆ける!クロノスレンジャーレッド!」
「ん?なんだいそれ?」
「えー!爺ちゃん知らないのー?時空戦隊クロノスレンジャーだよ!」
「いやー知らなかったなぁ。教えてくれるかなー?」
孫のお気に入りの戦隊の名前から、という理由でハギノクロノスとハギノレンジャーという馬名が生まれた。
しかし萩野は予想できていただろうか。自分の字が汚いあまりに読み間違いをされるという可能性を。
『ウマノオトーノク』は『トーノ』の部分が汚く続いて見えていた為に『タ』と見間違われ『ウマノオタク』に。
『ハギノクロノス』はクロノスの『ノ』がほぼ横一線だった為に『ハギノクロース』に。
『ハギノレンジャー』はどういうわけか『ハギノデンジャー』に。
ハギノクロノスとハギノレンジャーの間違いはセイント戦隊、クロースレンジャーと爆破戦隊、デンジャーレンジャーが存在したせいだろう。
ウマノオトーノクは……その名を付けられた馬が他の馬に擦り寄ったり、じっと見ていたり厩舎内で怪しい動きをしていたせいかもしれない。
そして時は進み7月。芝1200、右回り。天候は雨、馬場状態は重。無敗で3勝したウマノオタク初のG3挑戦。
その同時視聴が始まっていた。
『はいどうもー。こんウマー。馬ノ尾トーノクです。えー、今回はなんと萩野さんのご好意で私の名前が付けられた馬の重賞初挑戦ということで枠を取らせてもらいました。
本当に萩野さんありがとうございます。あ、赤スパありがとうございます。えーと『手違いでウマノオトーノクのはずがウマノオタク』になっていますって……あー、いえいえ私も馬のオタクと呼んで差し支えない存在ですからお気遣いなく!」
馬がパドックに次々と登場する中、その馬──ウマノオタクはカメラマンの横をキープしていた。雨が降っているせいか機嫌が悪い。
『お!8番ウマノオタク!パドックでは貫禄たっぷりとカメラマンの横をキープして落ち着いてましたけど馬場に向かい始めてから落ち着きがないですね。おっと立ち上がってジョッキーを振り落とした。どうやらかなり落ち着かない様子。……え、大丈夫なんすかこの馬。あれ、ジョッキーからムチを奪った ……え、ぶん投げた』
ムチを奪われたジョッキーは気にした様子もなくもう一度ウマノオタクに乗る。するとウマノオタクは落ち着きを取り戻したようで最速でゲートの中に入って行った。
『気性が荒いというより気紛れでしょうか。ウマノオタク頑張ってくれ……ジョッキーはムチを持ってなかったですけど大丈夫なんですかね。あっ、青スパありがとうございます。これは有識者の方ですね。『ムチなしで3勝してるから問題なさげ』ってこれ本当ですか? と、ここでゲートの中に全頭入りましたね』
鞍上の新人ジョッキー橋下はビビりまくっていた。これまで3回この馬で勝っているが毎回ムチを取られて表情には出さないものの泣きそうな気持ちで乗っていた。
(なんで毎回ムチ取るのぉ……とにかく走ってくれぇ!頼む!)
雨音が響く。雨のせいか観客は多くない。橋下はその時を静かに待った。ゲートの中でここまで落ち着いている馬は珍しいだろう。しかし、馬の上に乗っているからこそわかることがある。少しずつこの馬の心拍数が上がっているのだ。確実にこの馬は準備が出来ている。
そしてゲートが開いた瞬間には横に並び立つものが居なくなっていた。
まさに電光石火。橋下は必死に重心を乱さないようにしがみつく。風と雨粒があっと言う間に後方へ流れていく。
『速い速い!ウマノオタク!最後に失速だけはしてくれるなよ!』
力強く、軽やか。そして、この馬はまだ先があるように感じさせる豪快な走り。雨だというのにどういうことかペースが落ちない。グングンと差が伸びる。
3コーナーを迎え後方とのその差は7馬身はあるだろうか。きつめのカーブ、そして上り坂だ。普通の馬であればここで失速するなり息を入れるなりするところだろう。
ドシャっとウマノオタクが大地を踏み締めるたびに泥が高く舞う。上り坂であるはずがまるでそうだとは感じさせない。むしろ上り坂だというのに加速しているような気さえしてくる。
撒き散った泥がその力強さを示していた。
『伸びる伸びる!ウマノオタクまだ止まらない!そのままいけ!いけ!』
4コーナーを迎える。その姿を映すカメラには他の馬は映らない。重賞初参加でそのような走りをする馬が居ただろうか。4コーナーを抜けた。ここからは下り坂。
ストレートが見えた瞬間、橋下は身構えた。カーブの時に溜めていた脚力が爆発するのでは無いのだろうかと。グンっと体が後ろに持っていかれそうになるのを橋下は想像したが衝撃は来なかった。
(流石にちょっとはバテ始めたか。後ろと差もあるし下り坂だし丁度いいか?)
『あっとここで勢いが……ってあれ? そんなにスピードは落ちてない? これ、ワンチャンレコードいけるぞウマノオタク!』
下り坂を迎えてもウマノオタクのペースは変わらなかった。ラストの直線はその勢いそのままといった感じでそのまま流すように1着を取った。
『ウマノオタク圧勝です!他の追随を許しませんでした!ついでに20万の勝ちです、ありがとうございます!……って橋下ジョッキー!?どこいくねーん!』
ウマノオタクは少し立ち止まるとそのまま帰ろうとする。何とか止めようとする橋下をウマノオタクは振り落としそのまま帰って行ってしまった。
タイムはレコードには及ばなかったもののかなり近い値であった。これが雨の日に打ち立てられたこと、そしてその圧巻の走り、そして最後のジョッキーの振り落としは見ていたものに衝撃を与えた。
【これは5冠とか狙える馬では?】
【5冠は無理でもG1は勝てそう】
【気性難かな?】
【ヒント:父、ハギノキング。母、ハギノジョテー】
【父も母もとんでもねぇ暴れ馬じゃねーか】
【父は王、母は女帝、息子の白馬はオタク君】
【俺この馬応援しようかな】
この試合を見ていた人はそのようなコメントをしており概ね好意的に捉えているようだ。しかし、好意的に思っていない人物がその場にいた。
(次はゴールしたらすぐに振り落とされる準備しよ……まじ怖かったぁ、あの馬マジで怖ぇ)
鞍上の橋下だけはウマノオタクにビビりまくっていた。橋下からすればいつ暴れ出すか分かったものでは無いのだ。調教の際も振り落とされるわロデオを始めるわで落馬が上手くなってしまった。
最近ではウマノオタクをプール設備から連れ出そうとした際にプールに落ちたこともあり、かなりビビっていた。その時はパニックになったもののウマノオタクが投げ入れたロープによって引き上げられている。
疲れ果てた橋下の元に数は少ないものの記者がやってきた。橋下は背筋を伸ばしてゆっくり構えた。
「通算100勝おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「かなり前半から飛ばしていましたがそういう作戦でしたか?」
実際の作戦も逃げである。しかし1200メートルという短距離で6馬身も差をつける逃げなどするつもりは毛頭なかった。橋下は笑顔で答えた。
「ウマノオタクが頑張ってくれました」
「ウマノオタクといえば先程振り落とされたりムチを取り上げられたりしていましたが、やはり気性が荒いのですか」
「気性が荒いというよりかは気紛れな感じですね」
レース中に調教の時と同じ気まぐれを起こされたらと思うと橋下は顔が自然と強張った。その後橋下は可もなく不可もなくと言った応対をし無事に取材を終えた。
それからしばらくしてウマノオタク2回目の重賞に挑戦。鞍上は橋下。芝1600。右回り。天候は晴れ。馬場状態は良。
結論から言えば負けた。この日のウマノオタクはゲートインを長々と拒んだが観念したのか最後にゲートイン。ウマノオタクは散歩か何かと勘違いしていたのか最後方からのスタート。同時視聴配信をしていた配信者は当然のように吠えた。
『あぁ!出遅れ!逃げ馬なのに!これ追いつくのか!?全然加速するそぶりがないぞ?』
同時視聴で見ていた視聴者もどうやらウマノオタクに賭けていたようでコメント欄は阿鼻叫喚であった。
テレビから橋下ジョッキーの[頼むから走ってください]という懇願の声が僅かに聞き取れると実況も苦笑い。
「9番、ウマノオタク。ジョッキーの様子からして制御不能かもしれません」
「作戦は逃げのはずですが追い込みに変更した、ということはなさそうですね」
「1番、ハルノゴールド続いて8番ニトロバース並んで3番、その後ろに4番。その後方に6番ハギノクロース並んで7番、その外に2番、3馬身ほど離れて9番……いよいよ最終コーナーを迎えます」
最終コーナーを迎え各々がスパートをかけ始めた瞬間、カメラが先頭の馬を映しているとサラッと最後方に居たはずのウマノオタクがそこを何食わぬ顔をして大外も大外、内ラチから5頭目あたりの位置を走っている。
その時、最後尾にいたはずの馬がいつのまにか一位争いに躍り出るという不思議現象が起きていた。
「6番ハギノクロースが馬群を抜けてきた!その大きく外、どこを走っている9番ウマノオタク!というかさっきまで一番後ろだったはず。直線残り300メートル!。ハギノクロース前に出る、ウマノオタクも伸びるぞ……なんで伸びてるの? 残り100メートル!ハギノクロースか!ウマノオタクか!同時にゴールイン!」
ゴール時の写真、僅差差でウマノオタクが勝っているかと思いきや、ウマノオタクは首を器用に横に曲げハギノクロースの方を見ていた。首を伸ばしていたハギノクロースが1着。余所見をしていたウマノオタクが2着となった。
「えー写真判定の結果、1着は6番、ハギノクロース。1着は6番ハギノクロースです。ハナ差で9番、ウマノオタク。2馬身差でニトロバース・・・」
ナレーターが淡々と結果を読み上げていく。ウマのフェイスマスクを被った配信者は前のめりになっていたが興奮が収まったのかゆっくりと椅子に座り直した。
そして座り直したのは萩野も同じであった。
『ハギノクロースは元々先行と差しで戦ってますから伸びてくるのがわかってましたけど……まさか追い込みでウマノオタクがここまで伸びてくるとは思いませんでした』
「いや、本当にそうだよ」
馬ノ尾トーノクの感想に思わず萩野は返事を返した。
それからウマノオタクは年内に6つのレースに出場。年が終わった時には誰にもなにが起こったのか分からないまま何とG1を勝っていた。
10月に2回レースに出場。
G3レース、ダート1600、天候は曇り、馬場は稍重。閃光の如くスタートを切ったかと思えばどんどんと差を離し8馬身差で1位。
G3、芝1600、天候は晴れ、馬場は良。ゲートインを拒んだところで前回の大きな出遅れという嫌な予感が観客に広がる。
その予感は的中し大きく出遅れ最後方からの追い込みに。最終コーナーまで加速する気配を見せないものの気づけば一番人気の馬の隣を並走している。ゴールの際はやはり僅差で写真判定をしてみると何故か横を向いている。ハナ差で2着。
11月にも2回レースに出場。
G2、芝1400、天候は晴れ、馬場は良。芝のレースでは勝ちきれないという印象をこのレースでウマノオタクは決定づけることになる。このレースもゲートインを拒み大きく出遅れ、いつのまにか1着争いをしているがいつものように2位である。
G2、ダート1400、天候は晴れ。馬場は良。ダートでは安定した強さを見せるウマノオタクは内枠1番。最速でスタートをするこの馬を止めるものは誰もおらずゴールまでその足が衰えることはなかった。
G3、2勝。G2、1勝で迎えた12月。ウマノオタクはダート最高峰の戦いに挑むことになった。
Jpn1、全日本2歳優駿。ダート左回り・1200。天候は晴れ、馬場は良。
冬の風が強く吹く中、ウマノオタクはいつものように橋下のムチを強奪して投げ捨てた後に最速でゲートインした。橋下も慣れた様子でムチを奪われそうになるとそのまますぐ渡すようになっていた。
「今日も頼むぞー」
「ヒン」
「おー心強いなぁ……よしそろそろだ。いくぞ」
「ヒン」
他のジョッキーからすればブツブツと独り言を言ってるように聞こえるかもしれないが、橋下は割と真面目にウマノオタクと会話している気分だった。
ガシャンとゲートが開いた瞬間、一瞬でウマノオタクは先頭に躍り出る。
ダートでは敵無しのこの馬に騎乗して橋下は負ける気がしなかった。
(最近出遅れとか余所見とかあったけどな、この馬は中央のゲート試験1発で合格してるし何よりゲートからの100メートルでこの馬より早い2歳馬はいない……多分な)
ゲートが開いてから僅かだというのに既にウマノオタクは2馬身差をつけた。500メートルをどの馬より速く駆け抜けて最初のコーナーに差し掛かる。タイトな左回りのコーナーでジョッキーとその馬のコーナーへの対応力が出る場所だ。
(いやぁ、オタク君コーナー上手いねぇ。機嫌がいい時のこいつは乗ってるだけでいいもんなぁ)
橋下はそんなことを考えながら鞍上でウマノオタクに合わせていた。2コーナーを抜けるとまた500メートル近い直線。橋下はその時をじっと待っていた。正確には身構えていたというのがあっているだろう。
(3、2、1……ほら来たぁ!)
コーナーを曲がるために多少加減していたウマノオタクが全開で走り始める。突然荒くなる振動ももう慣れたもので橋下は若干愉しみ始めていた。ウマノオタクは軽快に走り後方との距離を空けていく。
「3番ウマノオタクは3コーナーに差し掛かるかというところ4馬身開いて4番並んで2番、その少し後5番、9番が抜けてきたか、7番ホシノキラメキが前を狙っている。コーナーに入ってホシノキラメキ伸びてきた」
気づけばどれほど距離が開いていただろうか。7番ホシノキラメキに乗っていたジョッキーの遥か前方にその馬はいる。それは決して捉えることができない距離。分かってしまう、どの馬がここから最後まで全力を尽くそうと追いつけはしないと。
「3番ウマノオタクは遠い!ウマノオタクに誰も追いつけない!ウマノオタクは悠然と最終コーナーを抜けてストレートに入りました!
独走だ!圧倒的というしかない!全日本2歳優駿は3番ウマノオタク、今ゴールイン!後方から7番ホシノキラメキ伸びてきた、ごぼう抜きだが1着には手が届かなかった。2着は7番……」
Jpn1という大舞台で1着は輝かしい成績である。ウィナーズサークルに向かおうと橋下は思ったのだがその馬が大人しいままであるはずがなかった。
「頼む、お願いしますから。口取り式までは待ってください」
橋下の必死の懇願にも関わらずウマノオタクは知らないとばかりに帰ろうとする。
「アー!待って、お願いします!向こう……あっ、やっとわかってくれたか。いい子だ。その調子で頼みますよ~」
橋下が鞍上で騒いでいるとウマノオタクは馬の列から離れ観客席の方へと向かっていった。そして観客席の前、コースのど真ん中で立ち止まった。
勝利した馬の嘶きが響いた。
それに応えるように観客の誰かがその嘶きに対して叫んだ。
「オタクー!」
「ヒィーン!」
その叫びに応え、ウマノオタクは再び嘶く。そして釣られるようにウマノオタクに馬券を賭けていたであろう人達の息が合った。それから3回ほどコールアンドレスポンスを行うとウマノオタクは帰っていこうとする。
「いや、ちょっと待てぇ!」
「……ヒン」
「うおぁ!?」
口取り式のことを思い出した橋下が止めようとするとウマノオタクは橋下をダートに振り落としそのまま帰っていった。落馬が上達してしまった橋下は直ぐに立つと服についた土を叩いて取っていく。
「俺の初めてのJpn1、1着……こんなのあんまりじゃないか?」
そして続いてホープフルステークスにもウマノオタクはチャレンジした。
芝2000メートル。芝では勝ちきれないと言われ始めたウマノオタク。レース当日は雨が降っていた。馬場状態は重。橋下は5ヶ月前のG3レースを思い出していた。
「ほらムチだ」
「ヒン」
どうせ強奪されて投げ飛ばされるならとムチを差し出すと、やはりというべきかムチを受け取ったウマノオタクはコース外へムチを投げ飛ばした。
橋下を鞍上に乗せると一目散にゲートイン。橋下は雨宿りでもしているようだ、と苦笑いした。
他の馬がゲートインを少し嫌がったせいか長々と待たされたウマノオタクだが集中力は切れているようには見えなかった。少なくとも橋下はウマノオタクのことをなんだかんだで信用している。
(調教しててやっとわかった。名は体を表すというがこいつの場合は本当にそれだ。晴れの日は他の馬が見たいが為にゲートインは拒むし、お目当ての馬を探す為にわざと出遅れて後方で観察してるし、その馬が馬群から抜けて一番近づけるタイミングで勝手に近づくし……)
晴れの日のウマノオタクはどこか浮ついているのだ。パドックでも一番人気と言われる速い馬にすり寄っていくしゲートインした後も左右に首を振って落ち着きがない。
(だけど砂とか泥とかこの馬は嫌いなんだろうな。調教の時もダートに行こうとすると振り落として逃げて行くし、雨降ってぬかるみがある日はなかなか厩舎から出ようとしないし)
雨の日、馬場状態が悪い時のウマノオタクは一味違った。ゲートが開いた瞬間、橋下を急激な加速が襲う。
(危ねぇ……バランス崩して危うく落馬するかと思ったぁ)
外枠のはずが既に内ラチに近づいている。いつもよりペースが早い。いや早すぎる。中山芝2000メートルでは逃げ馬は苦戦すると言われているのにだ。もちろん橋本が逃げを打とうとしているわけでは無い。
直線400メートル、高低差2.2メートルの坂を登り切ってもウマノオタクはその勢いを緩めない。思わず独り言を橋下は溢した。
「おい、流石に飛ばしすぎなんじゃないか?」
別に橋下はその言葉に返事は求めていなかった。しかし返事が聞こえてきたのだ。こんなにも速く走っているのに。
「ヒン?」
「おいおい、嘘だろ……余裕なのか?」
「ヒン!」
「……残り大体1600メートル、ペース配分考えていくぞ。息の入れ方は分かるな」
橋下は後ろをチラッと振り返る。後先考えていないように見える大逃げ。このペースについてこようとする馬は流石にいないらしい。
2コーナーを曲がる頃には12馬身以上差がついていた。
「ここから先は下りだから息入れていけ、また登りが来るぞ」
「ヒン!」
橋下はムチを持っていない、故に些細な体重移動と手綱の捌き、プラス伝わるかよくわからない言葉でウマノオタクに意思を伝えようとしていた。橋本のジョッキーとしての経験は浅い、だがムチなしでこの気性難な馬に乗り続けた橋本にはそれができる気がしたのだ。
そしてウマノオタクという馬はその意志をしっかりと汲み取ることのできる馬であった。
2コーナーを過ぎた後の下り坂で少しペースを落とすウマノオタク、それを見ていた観客たちは気が気でなかった。
この馬が経験した距離は最大で1800メートルまでしかないからだ。血統で言えば父がハギノキングであるから圧倒的にステイヤー系なのだが短距離でのあの走りを見せられれば、ステイヤー系の血統から突然変異的に生まれたダート短距離のG1馬、母ハギノジョテーの特性が強く出たスプリンター系にしか見えない。
大体1200メートルを走ったところで後方との距離がジリジリと縮まってきた。緩い上りを駆け上がり3コーナーを迎える。後方との距離はおよそ4馬身。だが十分に脚を溜めていたおかげで実はまだまだ余裕がたっぷりある。
3コーナーを抜けて4コーナー。残り約400メートル。縮まらない4馬身に後方から焦りの色が見える。4コーナーを曲がる。ウマノオタクはコーナーが上手い。少しずつ加速しながらコーナーを駆け抜けていく。
後方との距離は未だ4馬身、最後の直線310メートル。晴れの日に見せた異常なほどの加速。余所見やら盛大な出遅れやらで見逃されがちだがこの馬は実の所、上がり3ハロンもかなり早い。
残り200メートル、坂に差し掛かる。1800メートルから先、ここからはウマノオタクにとって未知の領域だ。
(あ、勝った)
しかし橋下は残り200メートルを示す標識を見てそんな気の抜けたことを思った。後方の馬たちは馬場が重い為か、なかなか伸びてこない。反対にウマノオタクは止まらない。後方との差を4馬身のまま100%の力を出さずに流すようにゴールイン。
ゴールした後、ウマノオタクは軽く駆けて外ラチ側に寄っていくと橋下を振り下ろして帰ろうとする。どうにか振り落とされまいと橋本は頑張るが、あえなく落下した。
しかしG1、Jpn1も大きいがここだけは譲れない。橋下は振り下ろされた後、帰ろうとするウマノオタクを追いかけ始めた。毎回振り落とされたままでは格好がつかないというのもあるが人生初のG1勝利である。Jpn1に続いてそんな記録が残るのは橋下としては避けたかった。
「ヒン?」「ちょっと待てやぁ!」「ヒヒン」「あ、この野郎!」
軽く逃げるG1勝利馬、そしてそれを全力疾走で追いかけるジョッキー。しかし馬に勝てるはずもなく、橋本が息切れして立ち止まったところでウマノオタクが心配そうに駆け寄って来るという事態になった。
こんな珍事態をカメラが捉えていないわけもなく小さなニュースとして取り上げられ、橋下はそのニュースを見て頭を抱えるのだった。
「ま、俺みたいな新米がG1取れるのはお前のおかげか」
「ヒン?」
「ほらここだよここ。お前と俺だ」
新聞を馬に見せるジョッキーなんてのはなかなかいないだろう。馬はよくわかっていなさそうな風に首を傾げているがジョッキーの方は満足そうな顔をしている。
「G1連覇が掛かってるからな、また頼むぜ。だから今日はプール調教はやめにしないか?予定にないし体重戻さないといけないし」
「ヒン!ヒン!」
「うわっやめろ!落ちっ!?」
1月のプールにジョッキーが落ちたが大事には至らなかった。
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