さよならアヒージョ

くさなぎ秋良

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療育を受けたかったのは誰よりも私だった、という話

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 私の2人の息子たちはいわゆる『育てにくい子』だった。多動傾向があり、突拍子もなく走り出したり目につくものを次々いじったり、じっとしていられない。足並み揃えてみんなと同じことをするのが苦手で、なにより言葉が遅かった。

 現在4歳になる長男は療育センターで月に2回のリハビリを受けている。知育玩具や運動を取り入れた遊びを通し、先生と40分ほど接する。
 対人関係の意識の変化や表現の仕方の導き、そして彼がどんな特性がありどのような状況で何が手助けになるかを見る時間なのだろう。

 療育センターに通うようになったきっかけは、2歳のときの健診で私が「発達検査を受けさせたい」とお願いしたことだ。

 正直に言うと、その頃の私は育児鬱だったと思う。どんなに止めても走り出し、高いところに登り、どんなものもいじる彼から一瞬でも目が離せない。怒るのではなく叱りたくても、言葉なんか届かない。『目を見て諭しましょう』なんて育児書なんかくそくらえと呪いたくなるほど。

 それが毎日続くのだ。彼が寝たらたまった家事をする。おまけに1歳6ヶ月違いの次男の世話もある。休めるわけがなく、毎日擦り切れていく。噛み締める奥歯は折れんばかり。髪をかきむしり、気が狂いそうで大声を上げて泣く日が絶えなかった。

 助けてほしかった。1時間でもいい、何も気にせず無防備に眠りたい。買い物したい、トイレに行きたい、座ってご飯を食べたい、ただそれだけの『普通』が叶わない。

 そして誰かに教えてほしかったのだ。

 なぜ彼はこうなんだろう? なぜ走り出す? なぜ何度も落ちて痛い思いをしても高いところに登りたがる? なぜ他の子は普通に会話できるのに何も言ってくれないのだろう?

 言葉のコミュニケーションができないもどかしさは想像以上に辛かった。「親のあなたがたくさん話しかけなきゃ」と何度言われたことか。いくら話しかけても返事のないやりきれなさは経験しないとわかるまい。

 心から専門家の目が必要だと思った。インターネットで調べまくり、玩具を並べるなどの発達障害の特徴的な言動がいくつか長男にも見られると気づいてからは、この思いは更に強くなった。発達障害だとしたら、なおさら私1人では共に歩く術が見えない、と。

 健診で相談員の女性に発達検査をお願いしたとき、引っかかることがあった。相談員は私の申し出を聞いて「検査を受けてくれますか」と明らかにホッとした顔になったのだ。発達検査を躊躇う親もいると知ったのは、それからしばらくしてからのことだ。

 子どもが発達障害と診断されることが受け入れられない、怖いという人もいるかもしれない。けれど子どもの特性は生まれついてのもので隠せるものでもなくせるものでもない。あなたがあなたであることを変えられないように、と思う。そして「あれ、もしかしてうちの子は何かが違う」という違和感は親よりもいずれは子どもを苦しめるだろう。

 私も幼い頃、『普通』とはいえない独特な子だった。思えば私もグレーゾーンだったのだろう。過集中もあったし、みんなと同じお遊戯ができなかった。幼稚園では先生から持て余されたのをいまだに記憶している。

 みんなと同じことをできないのは、何をどういう流れでやればいいのか把握するのが苦手だったためだ。そしてなぜ自分がそんなことをしなくてはならないのか納得できない幼稚園児だった。その一方でみんなと同じように何かをしなくてはならない焦りは感じていた。なのに何をすべきかわからなくてパニックになる。

 普通とズレる違和感は子どもが1番しんどいのを忘れられない。もし自分もリハビリを受けていたらもっと生きやすい幼少期だったのかもしれないという思いと、育児鬱から救われたいがために、子どものためというよりは自分のために、私は検査を申し出た。それ以来、リハビリも子どものためであり私のためでもあり続けている。

 検査の予約は数ヶ月待ちだった。診断は出なかったが、対人関係の経験が乏しいし特性らしきものはあるのでグレーゾーンとしてリハビリをすぐ開始した。

 その直後こども園に入園したのだが、面談の日、息子の特性を見た年配の理事長は「今後のことを考えましょうね。理想論ではやっていけませんから」と言った。うちでは面倒みきれるか保証しませんと言わんばかりの態度だった。

 あとになって担任の先生からは「あのときのことは本当に申し訳ない」と頭を下げられたものの、小さく柔らかな息子の手を握り、とぼとぼ歩きながら流した涙は一生忘れられない。

 やっと預けられる園が見つかってほっとしたと思ったのにどうしてあんなことを言われなきゃいけないのだという悔しさ、惨めさ、そして息子を「あの子は困った子だ」と差別的な目で見る大人が存在するのだという事実への悲愴と、他の子にはない壁を与えて産んでしまったと申し訳ない気持ちが混濁していた。

 そのあとも初めての発表会の劇で台詞も言えず一人の世界に浸りながらステージの端に立つだけの息子を見た理事長は、私にこう言った。

「このままだったら、他の道も検討してくださいね」
「それはこの園をやめてくれということですか?」
「まぁ、だってあれじゃあ、他の子の足を引っ張るでしょう? せっかくの晴れの舞台なのに」

 耳を疑った。担任の先生に話すと、真っ青な顔になり、何度も頭を下げられた。次の春には理事長の息子が園長となり、理事長は引退した。理事長が他の保護者とも何かしら波風が立っていたらしいと知ったのは、そのときのことだ。新しい園長は理事長とは対極で、理解と歩み寄りのある人だったので、ほっと胸を撫で下ろしたものだ。

 こども園での生活を送るうち、よその子が会話をし、手を繋がなくても隣を並んで歩けることに「これが普通なんだ」と驚愕し、うちの育児がハードモードだったのだ、そりゃあ気も狂いそうになるわと再認識した。

 そういった困惑と嘆きにとらわれるたび、リハビリの先生の存在が大きな助けになってくれた。

 まず1番大きかったのは息子の言葉にならない心の機微を代弁してくれたことだ。

「お母さん、今こちらの反応を見てからイタズラしましたよね。これをいじったら僕が反応するって面白がっているんです。今まではこれがなく、自分だけだった。すごい変化ですよ」

 そんな風に教えてもらえると「あぁ、だからあんな行動をとっていたのか」と納得できることが増えた。そうやって息子への『なぜ』が解明されるたび、こちらもとるべき態度を明確化できる。

 相談できる専門家がいるということは大きなストレスからの解放だった。こども園の先生と直接連絡をとってもらったこともある。
 さらに、リハビリをすることによって自分たちに出来ることはやっているんだと社会に示すことができるのは、時によっては土砂降りの中で雨宿りする場所を見つけたような気持ちになる。

 最近、姑にリハビリの付き添いをお願いしたことがあった。姑は人柄はいいのだが、成績と世間体に厳しいところがある。いつもマイナスなところばかりに目がいき、指摘する。いわゆる褒め下手なのだ。

 そんな彼女に、先生は「せっかく出来ているんですから、もっと褒めてください」と言ったらしい。それを聞き、「よくぞ言ってくれた」と頼もしくなった。
リハビリは子どものためだけにあるのではない。子どもの特性を知り、どう向き合うか学ぶ家族のための時間でもあるのだと思う。

 私は普通でいたかった。
 けれど、我が子の普通は多くの子の普通とは違う。普通はすべての人が持っている『その人が生きやすい領域』だ。そして療育は親の羅針盤のメンテを受け持ち、子どもの航海を見守る灯台でもある。

 今、育児鬱で泣いていたあの頃の自分に会えるとしたら、強く抱きしめてあげたい。そして「育児の辛さは1人で抱え込むものではないし、人は独りでは生きられないと同時に独りでは育てられないと思えばいいのだ」と囁きたい。
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