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病は気から
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『病は気から』とは、病気は気の持ちようひとつで、よくも悪くもなるということ。
病気の場合、気持ちひとつではどうにもならないことも多々ありますが、それでも治療への向き合い方や選択を迫られる局面で、メンタル面が大きく左右することもあるのかも。
私がそう思うのは、母が『悪性リンパ腫』というガンを経験しているからです。
最初は、半年ほど風邪のような症状が続き、病院に行っても原因がわかりませんでした。
特に咳がこんこんと出続けていたのを覚えています。総合病院の若い内科医が主治医だったのですが、どんなに薬を変えても治りません。
そんなある日、たまたま代診した血液の専門医が「これは、何かおかしいぞ」と詳しく検査して、ガンだと発覚しました。
リンパですから切除できず、全身を巡っているので体調もあちこち悪かったらしいです。帯状疱疹も出ました。
当時、父は単身赴任中で北海道ではなく本州にいました。弟は朝から真夜中まで働く仕事に就いたばかり。妹は専門学校生。私はたまたまその総合病院の事務に勤務していたので、母の病が発覚したときから、入院の手続きや同意書のサイン、治療費の支払い、毎日の見舞い、家事はすべて私が請け負うことになりました。
母が入院してすぐだったと思うのですが、医師からまず私一人で病状説明を受けました。看護師が必ず一人は立ち会い、説明の様子を書き取ります。医師は図を書きながら、私に母の容態を説明してくれました。
そのとき、はっきりと「明日死んでもおかしくない」と言われました。ガン検査の数値が、グラフを突き抜けておさまりきらないほどだったのです。
説明を終えて部屋から出ると、立ち会っていた看護師が追いかけてきて「必要なことがあったら、なんでも声をかけてね」と励ましてくれたのですが、何度も会釈するばかりで、ろくに返事もできなかったのを覚えています。
抗がん剤の投与が始まったものの、とても珍しいことに抗がん剤に対して抗体が出来てしまい、それは使えなくなりました。
困り果てていたそのとき、たまたま他院から血漿交換の医療機器を借りることができ、全身の血漿を入れ替えました。そして、これまた偶然に発表されたばかりの新薬があったので、それを投与することに。
抗がん剤のため、髪も抜け落ち、眉毛もなく、ただでさえ薄い顔がもっと薄くなりました。寝たきりが数ヶ月続き、足もみるみるうちに細くなっていきます。骨が浮き彫りになった足や、いつもは化粧で隠しているシミが浮き出たすっぴんの頬に切なさがこみあげます。
けれど母は「髪の毛、早く全部抜けないかしら。かえって頭洗うの楽でいいわ。顔を洗うついでにつるんと洗えちゃうのよ」と笑っているばかり。
治療のため抵抗力が全くなくなっているので、無菌室生活が何週間も続きました。
その間、生ものが食べられないのです。病院食も特別メニューで、すべて火を通したものでした。
差し入れに許されたものはインスタントラーメンのみ。なんと、意外なことにインスタントラーメンが無菌で一番安全なんだそうです。
母は普段はインスタントラーメンなんて食べることがないのですが、このときは「私、すっかりラーメンに詳しくなっちゃったわ。あのメーカーの味噌味が今のところ一番ね」などと笑っていました。
病院からの毎日の帰り道、私は母を失うかもしれないと涙をこらえるのに必死でした。バスの中で顔を歪ませて、きつく拳を握りしめていたのを思い出します。
カルテを整理する仕事をしていたので、母のカルテを整理することもありましたが、どんどん分厚くなるばかり。このカルテに退院の処理が出来るのはいつになるのかと哀しくなりました。
一方、母はどんと構えて常におおらかでした。弱音を吐くどころか一度も涙を見せず「治るためにはなんでもするわ」とガッツポーズ。積極的に提案された治療法はどんなに苦しくても、どんなに高額でも、すべて受けました。そのかいあって、今も元気です。
退院して数年は、出かける体力がなくなりました。ちょっと歩いては息切れがし、動けなくなるのです。でも、彼女は家にこもることなく、少しずつ体力を戻していきました。
数年後に一緒にガンを特集したテレビ番組を観ていた妹からふと、「お母さん、死ななくてよかったね」と言われ、「私、死ぬところだったの?」と驚いたそうです。ガンだとは説明されていたけれど、そんなに悪い状況だと思っていなかったらしいんですね。無菌室にあれだけ閉じ込められていて、それだけ楽観視できるのもすごいと思うのですが。そのおおらかさが、功を奏したこともあったのかなぁと思います。
ちなみに彼女の抗体が出来た症例はとても珍しかったらしく、医学雑誌に論文として掲載されました。主治医が「あの……気を悪くしたらごめんなさい。今回の症例を論文にしていいですか?」とおずおずと訊ねてくるので、母と娘で「どうぞどうぞ」と快諾。「なぁんだ、名前は出ないの? ネタを提供したお礼とかもらえないのかしら?」などと笑っていたのは、退院してほっとしていたせいもあるでしょうが。
つい最近、母に「あのときは、よく生きてたよね」と言うと、「そうなの、私ってラッキーだったわぁ。ねぇ?」とのほほんとした声。
そのとき、この母には一生かなわないのだろうと思ったのでした。
病気の場合、気持ちひとつではどうにもならないことも多々ありますが、それでも治療への向き合い方や選択を迫られる局面で、メンタル面が大きく左右することもあるのかも。
私がそう思うのは、母が『悪性リンパ腫』というガンを経験しているからです。
最初は、半年ほど風邪のような症状が続き、病院に行っても原因がわかりませんでした。
特に咳がこんこんと出続けていたのを覚えています。総合病院の若い内科医が主治医だったのですが、どんなに薬を変えても治りません。
そんなある日、たまたま代診した血液の専門医が「これは、何かおかしいぞ」と詳しく検査して、ガンだと発覚しました。
リンパですから切除できず、全身を巡っているので体調もあちこち悪かったらしいです。帯状疱疹も出ました。
当時、父は単身赴任中で北海道ではなく本州にいました。弟は朝から真夜中まで働く仕事に就いたばかり。妹は専門学校生。私はたまたまその総合病院の事務に勤務していたので、母の病が発覚したときから、入院の手続きや同意書のサイン、治療費の支払い、毎日の見舞い、家事はすべて私が請け負うことになりました。
母が入院してすぐだったと思うのですが、医師からまず私一人で病状説明を受けました。看護師が必ず一人は立ち会い、説明の様子を書き取ります。医師は図を書きながら、私に母の容態を説明してくれました。
そのとき、はっきりと「明日死んでもおかしくない」と言われました。ガン検査の数値が、グラフを突き抜けておさまりきらないほどだったのです。
説明を終えて部屋から出ると、立ち会っていた看護師が追いかけてきて「必要なことがあったら、なんでも声をかけてね」と励ましてくれたのですが、何度も会釈するばかりで、ろくに返事もできなかったのを覚えています。
抗がん剤の投与が始まったものの、とても珍しいことに抗がん剤に対して抗体が出来てしまい、それは使えなくなりました。
困り果てていたそのとき、たまたま他院から血漿交換の医療機器を借りることができ、全身の血漿を入れ替えました。そして、これまた偶然に発表されたばかりの新薬があったので、それを投与することに。
抗がん剤のため、髪も抜け落ち、眉毛もなく、ただでさえ薄い顔がもっと薄くなりました。寝たきりが数ヶ月続き、足もみるみるうちに細くなっていきます。骨が浮き彫りになった足や、いつもは化粧で隠しているシミが浮き出たすっぴんの頬に切なさがこみあげます。
けれど母は「髪の毛、早く全部抜けないかしら。かえって頭洗うの楽でいいわ。顔を洗うついでにつるんと洗えちゃうのよ」と笑っているばかり。
治療のため抵抗力が全くなくなっているので、無菌室生活が何週間も続きました。
その間、生ものが食べられないのです。病院食も特別メニューで、すべて火を通したものでした。
差し入れに許されたものはインスタントラーメンのみ。なんと、意外なことにインスタントラーメンが無菌で一番安全なんだそうです。
母は普段はインスタントラーメンなんて食べることがないのですが、このときは「私、すっかりラーメンに詳しくなっちゃったわ。あのメーカーの味噌味が今のところ一番ね」などと笑っていました。
病院からの毎日の帰り道、私は母を失うかもしれないと涙をこらえるのに必死でした。バスの中で顔を歪ませて、きつく拳を握りしめていたのを思い出します。
カルテを整理する仕事をしていたので、母のカルテを整理することもありましたが、どんどん分厚くなるばかり。このカルテに退院の処理が出来るのはいつになるのかと哀しくなりました。
一方、母はどんと構えて常におおらかでした。弱音を吐くどころか一度も涙を見せず「治るためにはなんでもするわ」とガッツポーズ。積極的に提案された治療法はどんなに苦しくても、どんなに高額でも、すべて受けました。そのかいあって、今も元気です。
退院して数年は、出かける体力がなくなりました。ちょっと歩いては息切れがし、動けなくなるのです。でも、彼女は家にこもることなく、少しずつ体力を戻していきました。
数年後に一緒にガンを特集したテレビ番組を観ていた妹からふと、「お母さん、死ななくてよかったね」と言われ、「私、死ぬところだったの?」と驚いたそうです。ガンだとは説明されていたけれど、そんなに悪い状況だと思っていなかったらしいんですね。無菌室にあれだけ閉じ込められていて、それだけ楽観視できるのもすごいと思うのですが。そのおおらかさが、功を奏したこともあったのかなぁと思います。
ちなみに彼女の抗体が出来た症例はとても珍しかったらしく、医学雑誌に論文として掲載されました。主治医が「あの……気を悪くしたらごめんなさい。今回の症例を論文にしていいですか?」とおずおずと訊ねてくるので、母と娘で「どうぞどうぞ」と快諾。「なぁんだ、名前は出ないの? ネタを提供したお礼とかもらえないのかしら?」などと笑っていたのは、退院してほっとしていたせいもあるでしょうが。
つい最近、母に「あのときは、よく生きてたよね」と言うと、「そうなの、私ってラッキーだったわぁ。ねぇ?」とのほほんとした声。
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