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菫色の蜜の味、バイオレットフィズ
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『A Taste of Honey(蜜の味)』という曲があります。サラ・ヴォーンやビートルズなど名だたる歌手に歌われてきた名曲です。ここでいう蜜の味は愛しい人との甘美なものですが、幼い頃の私にとってはつまみ食いを意味するものでした。
今思えば奇妙な偶然ですが、私が好んでつまみ食いしていたものは大抵が紫色をしていました。
母が漬ける梅干の紫蘇。アケビの実、そして祖母が隠し持っていた菫色の花がデコレーションされた角砂糖です。
梅干を作る際、土用干しという工程があります。梅干をくっつかないように並べてお日様の光に晒すんですね。その作業の合間、紫蘇をこっそりつまみ食いするのが大好きでした。一年で数日間しかない天日干しの、ちょっと乾いた紫蘇を盗み食いするのが好きだったのです。
アケビの実は薄紫の皮の中に乳白色の果肉が入っています。私が住んでいた山形県はアケビの生産量がトップなのです。それでときどき家にアケビがあったのですが、その乳白色の果肉が大好きでした。ねっとり淡い甘さで素朴なのです。我が家では買うというより、山の中でとってきたり、人から頂く希少なものでしたから、果肉を独り占めしたくてつまみ食いをしたものです。
そして祖母の角砂糖。おそらく贈答用だったのでしょうが、祖母のとっておきの白い角砂糖は、アイシングの小さな花がデコレーションされているものでした。花の色は何色かバリエーションがあったのですが、記憶はさだかではありません。ただ、そのうちの一つは菫色をしていたような気がするのです。
いつも着物を着て凛とした祖母はあまり愛想がなく、孫である私から見るととっつきにくい人でした。子どもを子ども扱いしないので、他愛もない話をすることもなく、その代わり滅多に叱りません。けれど、そんな祖母がこの角砂糖をつまみ食いしたときだけは「こらぁ!」と大声で追いかけてきたのを覚えています。
今になってみると、つまみ食いのスリルが余計に角砂糖を美味しくさせていたのでしょう。それに、いつも構ってくれない祖母が叱ってくれるのが嬉しかったように思います。一つ年下の弟と「おばあちゃん、怒ってたね!」と笑っていたのを覚えているからです。怒っているのに、嬉しかったのです。
やがて祖母は亡くなり、私が小学生になった頃です。
時代のせいもあるのでしょうが、お中元の季節になると、我が家にも多くの贈答品が送られてきました。弟とそれを開けるのが楽しみで、箱を開けては自分の好きなものがあると「これ、私の!」と奪いあいをするのです。
「あ、こっちはハムだ! 黒い胡椒がいっぱいついているやつ、欲しい!」
「これは海苔だね」
「こっちは缶ジュース!」
ある年、いつものように弟とお中元の箱を開けていると、初めて見る贈答品がありました。細長い瓶が何本か詰められています。そのうちの一本に、私の目は釘付けになりました。ラベルにはグラスに注がれた紫色の美しい飲み物の写真。よく見ると『バイオレットフィズ』とありました。
バイオレットフィズとはパルフェ・タムールというリキュールを使うカクテルのこと。美しい菫色で、パルフェ・タムールの特徴である菫の香りが楽しめます。
私と弟が見つけたのは、バイオレットフィズを自宅で簡単に作れるという製品だったのです。氷を入れたグラスにこれを注ぎ、ソーダで割って飲むものでした。
「これ、綺麗だね。なんだろうね」
「飲んじゃおうか」
無知より怖いものはありません。『赤毛のアン』ではいちご水と間違えてぶどう酒を飲んだシーンがありますが、我が家では某乳酸菌飲料と同じようなものだろうと考え、バイオレットフィズを飲んでしまったのです。
グラスに紫色の液体を注ぎ、ソーダがないので水道水で豪快に割りました。澄んだ美しい菫色に満たされ、なんてことはない平凡なグラスも輝いて見えたのをよく覚えています。
肝心の味ですが、なんとも奇妙でした。初めて飲む味で、たとえようがないのです。バイオレットが菫のことだなんて知らない子どもでした。田舎暮らしだったので菫ならそこかしこで咲いていましたが、屈みこんで匂いを嗅いだことはありませんでしたし、なにやら人工的な味という表現しか見つからない。それでも、美味しかったのです。なんだか大人の階段を昇った気がして、嬉しかったのですね。
それにバイオレットフィズを飲んでいることに気づいた母にひどく叱られ、取り上げられたことが隠し味になってしまいました。大人が隠すものは『良いもの』だと知っていましたからね。希少なもの、高級なもの、そして美味しいもの。あれはそういうものだったのだと、印象づいてしまいました。だからこそ、つまみ食いは蜜の味なのでしょう。
それから二十年ほどして、オーセンティックバーでバイオレットフィズを飲んだ私は首を傾げました。はて、こんな味だっただろうか。私の記憶の中にあるバイオレットフィズのほうがはるかに美味しい気がする。そう思いましたけれど、それは記憶の隠し味のせいかもしれません。
実はそのバイオレットフィズの瓶は、現在でも発売されています。ちょっと飲んでみたいような、思い出の中にある蜜の味のままにしておきたいような、複雑な心境です。
ちなみにバイオレットフィズのカクテル言葉は『私を覚えていて』というそうです。
今思えば奇妙な偶然ですが、私が好んでつまみ食いしていたものは大抵が紫色をしていました。
母が漬ける梅干の紫蘇。アケビの実、そして祖母が隠し持っていた菫色の花がデコレーションされた角砂糖です。
梅干を作る際、土用干しという工程があります。梅干をくっつかないように並べてお日様の光に晒すんですね。その作業の合間、紫蘇をこっそりつまみ食いするのが大好きでした。一年で数日間しかない天日干しの、ちょっと乾いた紫蘇を盗み食いするのが好きだったのです。
アケビの実は薄紫の皮の中に乳白色の果肉が入っています。私が住んでいた山形県はアケビの生産量がトップなのです。それでときどき家にアケビがあったのですが、その乳白色の果肉が大好きでした。ねっとり淡い甘さで素朴なのです。我が家では買うというより、山の中でとってきたり、人から頂く希少なものでしたから、果肉を独り占めしたくてつまみ食いをしたものです。
そして祖母の角砂糖。おそらく贈答用だったのでしょうが、祖母のとっておきの白い角砂糖は、アイシングの小さな花がデコレーションされているものでした。花の色は何色かバリエーションがあったのですが、記憶はさだかではありません。ただ、そのうちの一つは菫色をしていたような気がするのです。
いつも着物を着て凛とした祖母はあまり愛想がなく、孫である私から見るととっつきにくい人でした。子どもを子ども扱いしないので、他愛もない話をすることもなく、その代わり滅多に叱りません。けれど、そんな祖母がこの角砂糖をつまみ食いしたときだけは「こらぁ!」と大声で追いかけてきたのを覚えています。
今になってみると、つまみ食いのスリルが余計に角砂糖を美味しくさせていたのでしょう。それに、いつも構ってくれない祖母が叱ってくれるのが嬉しかったように思います。一つ年下の弟と「おばあちゃん、怒ってたね!」と笑っていたのを覚えているからです。怒っているのに、嬉しかったのです。
やがて祖母は亡くなり、私が小学生になった頃です。
時代のせいもあるのでしょうが、お中元の季節になると、我が家にも多くの贈答品が送られてきました。弟とそれを開けるのが楽しみで、箱を開けては自分の好きなものがあると「これ、私の!」と奪いあいをするのです。
「あ、こっちはハムだ! 黒い胡椒がいっぱいついているやつ、欲しい!」
「これは海苔だね」
「こっちは缶ジュース!」
ある年、いつものように弟とお中元の箱を開けていると、初めて見る贈答品がありました。細長い瓶が何本か詰められています。そのうちの一本に、私の目は釘付けになりました。ラベルにはグラスに注がれた紫色の美しい飲み物の写真。よく見ると『バイオレットフィズ』とありました。
バイオレットフィズとはパルフェ・タムールというリキュールを使うカクテルのこと。美しい菫色で、パルフェ・タムールの特徴である菫の香りが楽しめます。
私と弟が見つけたのは、バイオレットフィズを自宅で簡単に作れるという製品だったのです。氷を入れたグラスにこれを注ぎ、ソーダで割って飲むものでした。
「これ、綺麗だね。なんだろうね」
「飲んじゃおうか」
無知より怖いものはありません。『赤毛のアン』ではいちご水と間違えてぶどう酒を飲んだシーンがありますが、我が家では某乳酸菌飲料と同じようなものだろうと考え、バイオレットフィズを飲んでしまったのです。
グラスに紫色の液体を注ぎ、ソーダがないので水道水で豪快に割りました。澄んだ美しい菫色に満たされ、なんてことはない平凡なグラスも輝いて見えたのをよく覚えています。
肝心の味ですが、なんとも奇妙でした。初めて飲む味で、たとえようがないのです。バイオレットが菫のことだなんて知らない子どもでした。田舎暮らしだったので菫ならそこかしこで咲いていましたが、屈みこんで匂いを嗅いだことはありませんでしたし、なにやら人工的な味という表現しか見つからない。それでも、美味しかったのです。なんだか大人の階段を昇った気がして、嬉しかったのですね。
それにバイオレットフィズを飲んでいることに気づいた母にひどく叱られ、取り上げられたことが隠し味になってしまいました。大人が隠すものは『良いもの』だと知っていましたからね。希少なもの、高級なもの、そして美味しいもの。あれはそういうものだったのだと、印象づいてしまいました。だからこそ、つまみ食いは蜜の味なのでしょう。
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