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鳶色の忘却、イナゴの佃煮
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人間とは忘れる生き物です。あんなに好きだったことも、毎年繰り返していたことも、どうしていつの間にか忘れてしまうことがあるのでしょうか。そんなことありますよね。ねっ?
私にとってそれは『イナゴの佃煮』です。毎年夏には口にしていたのですが、今ではすっかり作り方も味も記憶が曖昧になってしまいました。
どんな色をしていたかはっきりとは思い出せませんが、鳶色と呼ばれる赤暗い茶褐色が近いような気がします。ちなみに脚は腹部より赤みがかって透けるので綺麗だった、ということはよく覚えています。
私が生まれ育ったのは田園風景が広がる長閑なところでした。ちょっと歩けば地平線の彼方まで広がる田圃。青々とした稲が吹き渡る風の足跡を映し出し、夜になると無数のホタルによる天然の夜景が蒔絵のように煌めいて広がります。
そんな田圃を日中飛び跳ねるのがイナゴです。頭部や脚は鮮やかな黄緑色で、稲を食べる害虫です。同時に昔から多くの地域で食べられてきた虫でもあります。
母はイナゴとりのために手ぬぐいを縫い合わせ、入り口がうまくすぼまるような布袋を作っていました。それを持って私と弟を田圃へ連れて行くのです。水路沿いに歩き、イナゴをつかまえては布袋に入れていきます。布袋がもさもさ膨らむと、母は大鍋で佃煮にするのでした。
ネットで調べてみると、数日生け捕りにして糞を出すのに布袋がいいとか、羽と脚をとるといいとか、袋に閉じ込めたまま鍋に入れて煮てしまうといいなどという情報もありますが、うちの母はとってきたらすぐ袋から出してドバドバと煮えたぎる鍋に突っ込んでいました。
「あいつら、飛ぶからね、ささっとぶっこむの」と笑っていましたが、イナゴにしてみれば鬼ババの笑み。母は容赦なく煮込み、味をつけ、つやつやした佃煮に仕上げるのでした。
どんな味かときかれれば、佃煮の味としか言いようがないほど記憶が薄れていますが、それでも美味しかったと思います。田圃を飛ぶための強靭な脚がカリッと香ばしい食感でお気に入りでした。
けれど正直、今イナゴの佃煮が目の前にあったら食べるかときかれると、おそらく食べられないと思います。
不思議なものです。子どもの頃はイナゴをつかまえている瞬間は確かに『昆虫』を採集しているのに、煮た途端に『食料』に変わり、それをすんなり受け入れられました。ところが大人になって食料よりも『昆虫』という固定概念が強くなると、そこから『食料』に切り替えられない。もう食欲が萎えてしまう。
子どもの頃に持っていた柔軟さはどこに忘れてきてしまったのだろうとつくづく思います。私はもうイナゴを食べられず、カエルも触れず、曼珠沙華を手折りたいとも思いません。
あの頃、私は自然に対して素直でした。それなのに今ではずいぶん理屈っぽくなっているような気がします。
雨が降ると決まって空き地から道路にみみずやかたつむりが這い出てくる、たんぽぽを摘むと茎に白い液が滲む、そういうなぜはわからないけれど知っている理をそのまま受け入れるには、余計なことが気にかかるようになったのかもしれません。
素直に受け入れればいいのに、なんでもかんでも説明をつけて整理したがる。それは社会を生きるには賢いけれど、ときに無粋でもあり、大人が陥りがちな窮屈さかもしれません。
子どもの頃は雨に濡れても化粧が落ちることを気にする必要もなかったし、地べたに寝転んでも構わなかった。道端の花を摘む前に『はて、この土地は誰の所有物だろう』なんていちいち考えることもない。子どもには無用のことや事情がたくさんあるけれど、そのぶん万華鏡のように世界が見えていたなと懐かしく思います。
育児をしていると、鳶色をしたイナゴの佃煮のように忘れてしまっていたものが、息子を通して蘇るときがあります。
雨は憂鬱ではなく、わくわくするものだった。水たまりは足で弾く楽器で、ダンゴムシは親愛なる友で、かまきりの卵は黄金の塊で、イナゴは美味しかった。好奇心と冒険と残酷なまでの純真さを息子の輝く目に見つけるたび、彼はどこに何を置き忘れ、代わりに何を得て大人になっていくのか楽しみでもあり、ほんのり空恐ろしくもあるのでした。
私にとってそれは『イナゴの佃煮』です。毎年夏には口にしていたのですが、今ではすっかり作り方も味も記憶が曖昧になってしまいました。
どんな色をしていたかはっきりとは思い出せませんが、鳶色と呼ばれる赤暗い茶褐色が近いような気がします。ちなみに脚は腹部より赤みがかって透けるので綺麗だった、ということはよく覚えています。
私が生まれ育ったのは田園風景が広がる長閑なところでした。ちょっと歩けば地平線の彼方まで広がる田圃。青々とした稲が吹き渡る風の足跡を映し出し、夜になると無数のホタルによる天然の夜景が蒔絵のように煌めいて広がります。
そんな田圃を日中飛び跳ねるのがイナゴです。頭部や脚は鮮やかな黄緑色で、稲を食べる害虫です。同時に昔から多くの地域で食べられてきた虫でもあります。
母はイナゴとりのために手ぬぐいを縫い合わせ、入り口がうまくすぼまるような布袋を作っていました。それを持って私と弟を田圃へ連れて行くのです。水路沿いに歩き、イナゴをつかまえては布袋に入れていきます。布袋がもさもさ膨らむと、母は大鍋で佃煮にするのでした。
ネットで調べてみると、数日生け捕りにして糞を出すのに布袋がいいとか、羽と脚をとるといいとか、袋に閉じ込めたまま鍋に入れて煮てしまうといいなどという情報もありますが、うちの母はとってきたらすぐ袋から出してドバドバと煮えたぎる鍋に突っ込んでいました。
「あいつら、飛ぶからね、ささっとぶっこむの」と笑っていましたが、イナゴにしてみれば鬼ババの笑み。母は容赦なく煮込み、味をつけ、つやつやした佃煮に仕上げるのでした。
どんな味かときかれれば、佃煮の味としか言いようがないほど記憶が薄れていますが、それでも美味しかったと思います。田圃を飛ぶための強靭な脚がカリッと香ばしい食感でお気に入りでした。
けれど正直、今イナゴの佃煮が目の前にあったら食べるかときかれると、おそらく食べられないと思います。
不思議なものです。子どもの頃はイナゴをつかまえている瞬間は確かに『昆虫』を採集しているのに、煮た途端に『食料』に変わり、それをすんなり受け入れられました。ところが大人になって食料よりも『昆虫』という固定概念が強くなると、そこから『食料』に切り替えられない。もう食欲が萎えてしまう。
子どもの頃に持っていた柔軟さはどこに忘れてきてしまったのだろうとつくづく思います。私はもうイナゴを食べられず、カエルも触れず、曼珠沙華を手折りたいとも思いません。
あの頃、私は自然に対して素直でした。それなのに今ではずいぶん理屈っぽくなっているような気がします。
雨が降ると決まって空き地から道路にみみずやかたつむりが這い出てくる、たんぽぽを摘むと茎に白い液が滲む、そういうなぜはわからないけれど知っている理をそのまま受け入れるには、余計なことが気にかかるようになったのかもしれません。
素直に受け入れればいいのに、なんでもかんでも説明をつけて整理したがる。それは社会を生きるには賢いけれど、ときに無粋でもあり、大人が陥りがちな窮屈さかもしれません。
子どもの頃は雨に濡れても化粧が落ちることを気にする必要もなかったし、地べたに寝転んでも構わなかった。道端の花を摘む前に『はて、この土地は誰の所有物だろう』なんていちいち考えることもない。子どもには無用のことや事情がたくさんあるけれど、そのぶん万華鏡のように世界が見えていたなと懐かしく思います。
育児をしていると、鳶色をしたイナゴの佃煮のように忘れてしまっていたものが、息子を通して蘇るときがあります。
雨は憂鬱ではなく、わくわくするものだった。水たまりは足で弾く楽器で、ダンゴムシは親愛なる友で、かまきりの卵は黄金の塊で、イナゴは美味しかった。好奇心と冒険と残酷なまでの純真さを息子の輝く目に見つけるたび、彼はどこに何を置き忘れ、代わりに何を得て大人になっていくのか楽しみでもあり、ほんのり空恐ろしくもあるのでした。
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