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ベルンハルトはパン屋の前にいつも通り立っていた。最初の頃は寂しそうな顔をしていたが、俺を見つけると少しだけ優しい笑みに変わった。
彼は立っているだけで目立つ。何人か、女性が話しかけていく姿を見かけたことがある。遠くて聞こえなかったが、恐らくナンパだと思われる。背が高く、鼻筋も通っていて服装もなんだか高そうな気配を感じる。立ち姿なんかはまるでモデルかのようだった。
そんな彼が、俺を見るだけで微笑み、声をかけられる。周りの女性たちに、ほんの少し優越感を感じてしまうのは仕方の無いことだと思う。
「ベルンハルトさん」
「シオン、昨日ぶりだね」
「昨日はありがとうございました。助かりました」
「いえいえ、あの後大丈夫だった?」
「あの後は先輩が一緒だったんで平気でした」
酔っ払いの介抱で、肩を貸して大変だったことは話すのをやめておく。そんなことよりもベルンハルトに渡すものがあったからだった。
「これ、ベルンハルトさんが前にくれたものよりは安いやつで悪いんだけど」
「…わぁ、お菓子だ。ありがとう」
「食べれないのとかないです?もし食べれなかったら言ってください」
「いやいや、無いよ。美味しく頂くね」
ベルンハルトは俺が渡した袋を受け取ってくれた。俺は今日の目標を達成出来たので満足だった。この後はまた同じようにベルンハルトに何が欲しいか尋ねて、パン屋に向かおうと思った時だった。
「シオン、今時間あるかい?」
「え?ありますけど」
パンの名前ではなく、暇かと聞かれて驚く。彼は良かった、と呟いてニコニコとする。
「ちょっと、お茶しよう」
「は、はあ。いいですけど」
そう言って、ベルンハルトの後ろをくっついて歩いた。ベルンハルトの足のリーチが、俺とは大分違っていて、俺は小走りをした。
パン屋から離れてすぐの所にあった喫茶店に入った。その喫茶店も、どちらかといえばパン屋同様ほんの少し寂れていたが味があるといえば味なのかもしれない。
ドアを開けると、カランとベルの音が聞こえる。中に入ると外の寂れた感じよりは綺麗でこじんまりとした印象だった。常連だけが通っていそうな喫茶店だ。2人でテーブル席に座ると、マスターが水を運んでくれた。
「好きなの選んでいいよ」
「はあ、じゃあコーヒーで…」
マスターにコーヒーを2つ頼んだ。
ペルンハルトはずっと微笑んでいる。均整のとれた顔立ちが微笑む様は絵になるな、と恥ずかしくなって少しだけ目線を逸らす。コーヒーのサイフォンの音がやけに聞こえてくる。こちらを見続けられるので落ち着かない。
しばらく待っていると、コーヒーが届いた。あまりコーヒーの香りや味に精通してはいないが、香りだけでこのコーヒーは何となくいい匂いだなと思った。
目の前のベルンハルトは届いたコーヒーに何も入れずに、カチャリとほんの小さな音を立ててソーサーごと持ち上げた。カップを掴む手は顔立ちに比べたら少しだけ厚く太いが骨ばった大きな手だった。ベルンハルトは少しだけコーヒーを含んだ。
「それで」
カチャ、とコーヒーをソーサーに戻しながら話し出した。
「話があるんだ」
「はい、なんでしょうか…」
昨日のことだろうか。なにか自分は気に障ることをしてしまったのだろうか。それとも、ベルンハルトが何か提案でもしてくるのだろうか。グルグルと頭の中で逡巡していると、ベルンハルトは口を開いた。
「君に、私の情人になってほしい」
目の前の金髪碧眼が何を言ったのか、一瞬理解できなかった。異世界に来た時よりも、理解できなかった。
「期間とかは特にないんだ。ただちょっと…恋人とかは煩わしくてね。君なら深く詮索してこないことはこの1ヶ月程でよく分かったから」
要するに、性欲処理させて欲しいと頼まれたのだ。俺はまだ固まったままだった。
20歳になるが、生まれてこの方彼女なんかいた事もないし、ましてやセフレなんかいた事がない。つまり童貞だ。
「……どうかな?」
俺はずっとだんまりしてしまったことに気づいた。脳がショートしていて言葉がなかなか出てこないせいだ。ベルンハルトは眉尻を少しだけ下げて見つめてくる。
「引いたかな…?」
引いた、のかもしれない。まさかベルンハルトがこんな提案をしてくるとは思わなかった。
身なりのいい均整のとれた顔をして、しなやかな筋肉にスーツを身に纏う長身の男が、こんな昼間から爛れた提案をしてくるとは。
「あの…」
「なに?」
俺はやっと言葉を発することができた。喉に何かが張り付いているようで喋り出しにくい。ごくり、と口に溜まった唾を飲み込んで話し出す。
「情人って…体だけの関係ってこと、ですよね?」
「そうなるね」
爽やかな顔して、この男。
この目の前の男は、冗談を言うような人ではない。この1か月でそれは俺もよく分かっている。けれど、それがこのベルンハルトの口から出てきたというだけで信じられない。
「理由を聞いても良いですか?」
信じられない、もしかしたら冗談だったと言い出すかもしれない、理由を聞けばそう言ってくれるかもしれない。そんな淡い期待を持って尋ねる。
「理由はさっきも言った通り、恋人とか煩わしくて。お互いのことをあまり詮索しない仲になって欲しい」
「…それは、女性じゃダメなんですか」
俺は男だ。確かに鍛えたりとかそういうのはあまり得意ではないから筋肉質では無いけれど、女性のように柔らかくはないし膨らんでもいない。目の前の男と同じモノがついている。
この異世界も、異性婚が普通である。同性同士は表立っての差別がなくとも、一般的には忌避されている。
「私は、同性愛者なんだ」
驚いた。いや、失礼かもしれないが、女性に困らないスタイルと顔をしておいて、勿体ないとも思った。
パン屋の前で待ち続けていれば、女性ともすれ違う。何人かの女性に声をかけられているのを見てきた。全て首を横に振っていたから、ああ断ったんだな、なんて考えたりもしてたけど。断った理由は簡単だった。
「…なるほど……」
「うん。…それで、返事が欲しいんだ」
俺は、この男と同衾出来るのか。顔とスタイル、仕草だけ見れば…出来ると思う。俺にもそういう素質があれば、一もなく二もなく承諾しているだろう。
だが、理性が追いかけて俺を止めようとしてきた。
あの1ヶ月は一体なんだったんだ?この男に試されていたのか。この世界で初めてできた友人だった男は、俺が勝手に友人と思っていただけだったのか。
「…俺が断ったら、どうするんですか」
「別に、今まで通りだよ。私はまたあのパン屋の前に立っているだけだ」
友人だと思っていた男は、何も気にしていないと言うように冷静だった。
それは、友人に戻ってくれるという事なのか。いや、この男にとっては別に俺は友人ではなく、ただ単に親切にパンを買ってくれる男だったのか。
俺はマスターが持ってきた水のコップから結露が垂れるのを見た。
「でも、少し困るのも事実だ」
「困る?」
「……君と話しにくくなる」
自分から言い出しておいて、とは言えなかった。この微妙な関係は、俺に委ねられたのだ。
彼は微笑んでいる。けれど、テーブルの上で親指の腹を人差し指で擦っていた。彼のそんな所を初めて見た。
「……分かりました」
俺がそう言うと、彼は擦る指を止めた。
「良かった…」
彼はホッと胸を撫で下ろしていた。ベルンハルトでも緊張することがあったんだなと他人事のように感じた。
「条件、一つだけいいですか」
「ああ、いいよ。私もある」
そして、2人で条件を話し合った。
俺としては、『合わないと思ったらその場で終了する』これだけだった。男の経験もなければ、そもそも女性の経験もない。もしかしたら、ベルンハルトを受け入れられないかもしれない。だから止めてもらう保証が欲しかった。
ベルンハルトは、『場所の指定をするのは自分、日時はパン屋で会った日、お互いの事を詮索しない』ということだった。
条件に2人とも承諾したら、ベルンハルトはテーブルに握手を求める手を出した。俺はそれに答えて、握手を交わした。
「これからよろしく」
「……よろしくお願いします」
こうして俺は、異世界でセフレになった。
彼は立っているだけで目立つ。何人か、女性が話しかけていく姿を見かけたことがある。遠くて聞こえなかったが、恐らくナンパだと思われる。背が高く、鼻筋も通っていて服装もなんだか高そうな気配を感じる。立ち姿なんかはまるでモデルかのようだった。
そんな彼が、俺を見るだけで微笑み、声をかけられる。周りの女性たちに、ほんの少し優越感を感じてしまうのは仕方の無いことだと思う。
「ベルンハルトさん」
「シオン、昨日ぶりだね」
「昨日はありがとうございました。助かりました」
「いえいえ、あの後大丈夫だった?」
「あの後は先輩が一緒だったんで平気でした」
酔っ払いの介抱で、肩を貸して大変だったことは話すのをやめておく。そんなことよりもベルンハルトに渡すものがあったからだった。
「これ、ベルンハルトさんが前にくれたものよりは安いやつで悪いんだけど」
「…わぁ、お菓子だ。ありがとう」
「食べれないのとかないです?もし食べれなかったら言ってください」
「いやいや、無いよ。美味しく頂くね」
ベルンハルトは俺が渡した袋を受け取ってくれた。俺は今日の目標を達成出来たので満足だった。この後はまた同じようにベルンハルトに何が欲しいか尋ねて、パン屋に向かおうと思った時だった。
「シオン、今時間あるかい?」
「え?ありますけど」
パンの名前ではなく、暇かと聞かれて驚く。彼は良かった、と呟いてニコニコとする。
「ちょっと、お茶しよう」
「は、はあ。いいですけど」
そう言って、ベルンハルトの後ろをくっついて歩いた。ベルンハルトの足のリーチが、俺とは大分違っていて、俺は小走りをした。
パン屋から離れてすぐの所にあった喫茶店に入った。その喫茶店も、どちらかといえばパン屋同様ほんの少し寂れていたが味があるといえば味なのかもしれない。
ドアを開けると、カランとベルの音が聞こえる。中に入ると外の寂れた感じよりは綺麗でこじんまりとした印象だった。常連だけが通っていそうな喫茶店だ。2人でテーブル席に座ると、マスターが水を運んでくれた。
「好きなの選んでいいよ」
「はあ、じゃあコーヒーで…」
マスターにコーヒーを2つ頼んだ。
ペルンハルトはずっと微笑んでいる。均整のとれた顔立ちが微笑む様は絵になるな、と恥ずかしくなって少しだけ目線を逸らす。コーヒーのサイフォンの音がやけに聞こえてくる。こちらを見続けられるので落ち着かない。
しばらく待っていると、コーヒーが届いた。あまりコーヒーの香りや味に精通してはいないが、香りだけでこのコーヒーは何となくいい匂いだなと思った。
目の前のベルンハルトは届いたコーヒーに何も入れずに、カチャリとほんの小さな音を立ててソーサーごと持ち上げた。カップを掴む手は顔立ちに比べたら少しだけ厚く太いが骨ばった大きな手だった。ベルンハルトは少しだけコーヒーを含んだ。
「それで」
カチャ、とコーヒーをソーサーに戻しながら話し出した。
「話があるんだ」
「はい、なんでしょうか…」
昨日のことだろうか。なにか自分は気に障ることをしてしまったのだろうか。それとも、ベルンハルトが何か提案でもしてくるのだろうか。グルグルと頭の中で逡巡していると、ベルンハルトは口を開いた。
「君に、私の情人になってほしい」
目の前の金髪碧眼が何を言ったのか、一瞬理解できなかった。異世界に来た時よりも、理解できなかった。
「期間とかは特にないんだ。ただちょっと…恋人とかは煩わしくてね。君なら深く詮索してこないことはこの1ヶ月程でよく分かったから」
要するに、性欲処理させて欲しいと頼まれたのだ。俺はまだ固まったままだった。
20歳になるが、生まれてこの方彼女なんかいた事もないし、ましてやセフレなんかいた事がない。つまり童貞だ。
「……どうかな?」
俺はずっとだんまりしてしまったことに気づいた。脳がショートしていて言葉がなかなか出てこないせいだ。ベルンハルトは眉尻を少しだけ下げて見つめてくる。
「引いたかな…?」
引いた、のかもしれない。まさかベルンハルトがこんな提案をしてくるとは思わなかった。
身なりのいい均整のとれた顔をして、しなやかな筋肉にスーツを身に纏う長身の男が、こんな昼間から爛れた提案をしてくるとは。
「あの…」
「なに?」
俺はやっと言葉を発することができた。喉に何かが張り付いているようで喋り出しにくい。ごくり、と口に溜まった唾を飲み込んで話し出す。
「情人って…体だけの関係ってこと、ですよね?」
「そうなるね」
爽やかな顔して、この男。
この目の前の男は、冗談を言うような人ではない。この1か月でそれは俺もよく分かっている。けれど、それがこのベルンハルトの口から出てきたというだけで信じられない。
「理由を聞いても良いですか?」
信じられない、もしかしたら冗談だったと言い出すかもしれない、理由を聞けばそう言ってくれるかもしれない。そんな淡い期待を持って尋ねる。
「理由はさっきも言った通り、恋人とか煩わしくて。お互いのことをあまり詮索しない仲になって欲しい」
「…それは、女性じゃダメなんですか」
俺は男だ。確かに鍛えたりとかそういうのはあまり得意ではないから筋肉質では無いけれど、女性のように柔らかくはないし膨らんでもいない。目の前の男と同じモノがついている。
この異世界も、異性婚が普通である。同性同士は表立っての差別がなくとも、一般的には忌避されている。
「私は、同性愛者なんだ」
驚いた。いや、失礼かもしれないが、女性に困らないスタイルと顔をしておいて、勿体ないとも思った。
パン屋の前で待ち続けていれば、女性ともすれ違う。何人かの女性に声をかけられているのを見てきた。全て首を横に振っていたから、ああ断ったんだな、なんて考えたりもしてたけど。断った理由は簡単だった。
「…なるほど……」
「うん。…それで、返事が欲しいんだ」
俺は、この男と同衾出来るのか。顔とスタイル、仕草だけ見れば…出来ると思う。俺にもそういう素質があれば、一もなく二もなく承諾しているだろう。
だが、理性が追いかけて俺を止めようとしてきた。
あの1ヶ月は一体なんだったんだ?この男に試されていたのか。この世界で初めてできた友人だった男は、俺が勝手に友人と思っていただけだったのか。
「…俺が断ったら、どうするんですか」
「別に、今まで通りだよ。私はまたあのパン屋の前に立っているだけだ」
友人だと思っていた男は、何も気にしていないと言うように冷静だった。
それは、友人に戻ってくれるという事なのか。いや、この男にとっては別に俺は友人ではなく、ただ単に親切にパンを買ってくれる男だったのか。
俺はマスターが持ってきた水のコップから結露が垂れるのを見た。
「でも、少し困るのも事実だ」
「困る?」
「……君と話しにくくなる」
自分から言い出しておいて、とは言えなかった。この微妙な関係は、俺に委ねられたのだ。
彼は微笑んでいる。けれど、テーブルの上で親指の腹を人差し指で擦っていた。彼のそんな所を初めて見た。
「……分かりました」
俺がそう言うと、彼は擦る指を止めた。
「良かった…」
彼はホッと胸を撫で下ろしていた。ベルンハルトでも緊張することがあったんだなと他人事のように感じた。
「条件、一つだけいいですか」
「ああ、いいよ。私もある」
そして、2人で条件を話し合った。
俺としては、『合わないと思ったらその場で終了する』これだけだった。男の経験もなければ、そもそも女性の経験もない。もしかしたら、ベルンハルトを受け入れられないかもしれない。だから止めてもらう保証が欲しかった。
ベルンハルトは、『場所の指定をするのは自分、日時はパン屋で会った日、お互いの事を詮索しない』ということだった。
条件に2人とも承諾したら、ベルンハルトはテーブルに握手を求める手を出した。俺はそれに答えて、握手を交わした。
「これからよろしく」
「……よろしくお願いします」
こうして俺は、異世界でセフレになった。
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