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名を請うsideサシャ

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サシャ=ジルヴァールが辺境地区に来てから、3ヶ月は経っていた。
最初は一体なんの仕事をさせられるのかビクビクしていたが、文字を書けるものが少ないと、事務作業をさせられていた。
弾除けに死地に迎えとかいうものではなく、ホッと胸を撫で下ろした。

田舎のここは、王都と比べると色々不便だと思うことがあるが、魔獣も思っていたよりも出現しない。
サシャが来て3ヶ月経つが、魔獣が現れたと騒ぎになったのは2回ほどだった。

普段はのどかで、気候も穏やかな辺境は、魔獣が現れたとしても傭兵や騎士たちもしっかり常駐しているし、案外居心地が良くてサシャは気に入ってしまった。

職場の朝は早い。
それだけはサシャにとってしんどかった。
今日もサシャは事務作業のために事務室で書類と格闘していた。

「サシャー、これ明日まで」
「もう、またですか。コリンさん」

職場の上司は1人だった。
サシャに書類を渡してくる上司はサシャよりも一回り小柄なコリンだ。
たった1人で今まで膨大な事務作業をこなしていた。サシャは最初何人か居るのかと思っていたが、職場の机は全て書類で埋まり、一向に人が増える気配もなかった。

締切はだいたい明日までのものが多い。
それもそのはず、溜まりに溜まった書類のせいで、明日までのものを片付けるので精一杯だからだ。

サシャは必死に仕事を覚えた。
早く仕事に慣れたかったのもあるが、少しでも気を抜くとアーヴィンの事を思い出して胸が苦しくなる。

あの日のアーヴィンの眼が瞼に焼き付いて忘れられない。
もう一度あの目で見られたら生きていけない。
怖くて震えそうになるのを必死に抑えていた。
早く忘れられればいい。

幸いにもここ辺境地区ではサシャを蔑んだ目で見てくる人物は1人としていなかった。
あんなに珍しかった紫眼も目立たないくらい、色んな人が色んな目の色をしていた。それでも、紫眼は居ない。
最初の1ヶ月は、会う人会う人に珍しがられた。

アーヴィンが好きだと言ってくれた紫眼は、色んな人に受け入れられてとてもありがたかった。
せめて、この紫眼だけは嫌いになりたくはなかった。

「サシャ=ジルヴァールはいるか?」

扉から声をかけてきたのは、辺境地区の騎士団長のエドガーだった。
サシャは開きっぱなしになっていた扉の方を見て、不思議に思った。

辺境地区のエドガー団長は、気さくな人物だった。
色んな理由があって辺境に飛ばされた騎士や、統率の取れにくい傭兵からも信頼され尊敬されている人格の立派な人であった。

サシャが辺境へ来た理由も伝えていた。
家族や友人からも疎まれていた。恋人になった人を騙した罰が下ったからここに来たと。
エドガー団長は泣きながら言うサシャの頭を撫でながら、「よく来てくれた」と言ってくれた。

サシャは少しだけ歳上な騎士団長が、父親だったらどんなに良かったか。とありもしない想像をしてしまうくらいには、理想の父親像をエドガー団長に思い浮かべてしまっていた。

そんな訳で、サシャはエドガー団長を尊敬していた。
みんながこの人について行く理由がよく分かった。
だからできる限り書類に関しては、エドガー団長の手を煩わせないようにすることだけがサシャのできる事だった。

「エドガー団長、書類なら私が取りに行くのに」

騎士団長は事務方のサシャより忙しい。
わざわざ事務室まで来なくとも、決まった時間に書類を取りに向かうのがサシャの仕事であった。

しかし、エドガー団長は首を振って、違う、と言った。

「どうしてもお前に会いたいと言うやつが居てな」
「またですか」

サシャはここに配属されてからというものの、何人かの騎士や傭兵に呼び出され告白を受けていた。
銀の髪が綺麗だ、とか紫の瞳が頭から離れなくなっただの言われるようになり、蔑まれるよりマシか、と最初は思っていた。

しかし頻度が多いのだ。1週間に1人か2人から声がかかる。
若干ウンザリしてきていて、眼鏡をかけた方が良かったかもしれないと思うようになってきた。

告白を受けるつもりは無い。
今は仕事が大事だし、サシャはアーヴィンの事を忘れられていなかったからだ。

クラークの時は1週間も経たずにアーヴィンと恋人になったのにおかしいものだ、とたまによく分からない気持ちに溜息をつきたくなる。

今回も告白だと思った。
仕事の時間が減ってしまう。どうして騎士や傭兵たちはせっかちなのか。
就業時間後にして欲しい。サシャはなるべく顔に出さないように微笑んだ。

「誰です?」
「入れ」

エドガー団長は後ろにいる人物に声をかけているようだった。
そういえば、告白ならわざわざ団長が連れてくるのは有り得ないよな、なんて考えていた。

そんな風に考えていたら、見覚えのある艶のある黒髪にエメラルドの瞳を持った人物が入口の向こうから見えてきた。

「ア、っ!」

サシャは反射的に名前を呼ぼうとしてしまった。
慌てて口を手で押さえた。

彼は学園の首席で侯爵家だし、エリートコースの王宮勤務のはず。彼がどうしてこんな僻地にいるのか分からなかった。
既に辺境で支給されている騎士団服を着用しており、配属されてきているのが分かった。

サシャの身体は雨に打たれて寒くなったかのように震えた。

思い出したくない。
せっかく仕事に集中して、少しでも彼を忘れようと努力していたのに。

「ティム」
「な、んで、ここに」

アーヴィンの顔は、まるでこの世の終わりかのように暗かった。
サシャを明るく慰め、少し強引なアーヴィンはどこにもいなかった。

「こんな感じでずっとコイツ暗ぇんだよ。理由聞いたらお前に会いに来たって言うし、こんな顔じゃすぐ死んじまうから会わせに来たんだよ」

エドガー団長が肩を竦めながら、呆れているように言う。

「謝りに、来たんだ」
「何言って」
「ティムを、傷つけて、申し訳なかったと」
「そんなことの為に…ここまで?」

辺境地区へ飛ばされれば、王都に戻ることは英雄にでもならない限り不可能に近い。
ここにいるもの達はみんな何かしらの理由で辿り着いている。

それなのに、サシャにただ謝りたくて来た、などと頭がおかしいとしか思えなかった。

「なになに? もしかして元彼?ティムって誰?」

コリンは空気も読まずに聞いてくるが、エドガー団長が黙れと視線をよこして静かになった。

「私に謝るためだけに、来たの? 」
「もう一度、ティムに会いたかった。君を1人にしてしまった。だから」

アーヴィンはそう言ってサシャから視線を外し、もう一度サシャの方を真っ直ぐに見る。
暗い顔に似合わず、エメラルドの瞳が煌めいていた。

「やり直しにきた。お願いだ」
「な、何」
「君の名前を、教えてくれ」

あの時、アーヴィンに名前を聞かれた時に。

サシャが勇気を出して、本当の名前を伝えていれば。

ふわり、とサシャの周りに陽の香りが優しく薫る。
痛くない程度の腕の力で抱きしめられながら、サシャは自分の涙が頬を伝っていることに気がついた。

「う、ううう」
「許してくれとは今は言えない。そんな資格がないのは分かっている。でも、もう一度君とやり直したい」

アーヴィンの優しい声が、サシャの耳に届く。

「だから、名前を教えてくれ」

アーヴィンはほんの少しだけ腕の力を強めて言った。

「サシャ、サシャ=ジルヴァールっ!」

ボロボロと涙を流しながら、アーヴィンを見ると穏やかに微笑んで嬉しそうにしていた。







「へぇ、ティムってサシャのついた嘘の名前なんだ」

コリンにお昼の時間中、色々聞かれてしまった。あんな公開仲直りをしておいて、理由を聞かれないわけが無い。
恥ずかしさで死にそうになりながらサシャは答えた。

「ってもねぇ、アーヴィンだっけ?あいつもやばい嘘つきだ」
「まぁ、でも…お互い様です」

アーヴィンからは、サシャが落ち着いた頃にもう一度謝罪された。

キスに練習がいると嘘をついて悪かった、と。

コリンもエドガー団長もいる前でそんなことを言うものだから、恥ずかしくてアーヴィンを近くにあった本で殴ってしまった。

「初めてキスに練習が必要か聞かれた時はびっくりしたけどねぇ」
「し、知らなかったんです」

僻地に飛ばされ、コリンが信用出来る人物だと思った時に、思い切って聞いたのだ。
キスに練習は必要なのかと。コリンに大爆笑され、ようやくアーヴィンに騙されていたんだと気づいた。

最初はアーヴィンが憎くて仕方なかった。
アーヴィンの嘘でクラークを傷つけたし、サシャも傷ついた。
だからアーヴィンにムカついていた。

けれどしばらく考えて、結局サシャもアーヴィンを騙していた事に変わりはない為、それ以上憎むことは出来なかった。

謝りもせずに落ち込んで逃げ出したサシャより、向かい合うために謝罪に来たアーヴィンの方がよっぽど出来た人間だな、とサシャは思う。

「で?どうするの? 寄り戻すの?」
「わ、分かりませんよ」
「えー。 あんなカッコイイ色男、こっちに居ないよ? ありゃすぐ女子共が群がるだろうね」

それは何となく想像出来てしまった。
アーヴィンは学園の頃から良くモテていた。サシャも何度か中庭での告白シーンを見かけたことがあったからだ。

更に、今の彼の憂いを帯びた表情は、男の色気を感じさせて母性を掻き立てること間違いないだろう。

彼ともう一度やり直すか、と聞かれれば考えてしまう。
アーヴィンに嘘をついたが、アーヴィンもサシャに嘘をついた。
これに関してはお互い様だと思う。
しかし、アーヴィンが最後にサシャに見せた鈍く暗い瞳も吐き捨てるような言葉も忘れられないのだ。
あの時の恐怖はサシャの心の大きな傷痕になっていた。

「彼が決めることですし」
「本気で言ってるー? 自分にしてきたキスやら愛の囁きやら微笑みやら、ぜーんぶそいつに盗られるって考えたら殺したくならない?」

サシャはコリンにそう言われて思い出す。

アーヴィンの抱きしめてくれる優しい腕も、激しいほど貪るようなキスも、可愛いだの口説いてるだの言ってくる言葉も、チクッと痛いアーヴィンの印も全部なのかと。

「あ、思い出してムカついてるね。こりゃ寄り戻るのも時間の問題だねぇ」

サシャはなぜだか納得がいかないまま、午後の仕事を再開した。
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