1 / 15
1
しおりを挟む
アリスティドが彼の姿を始めてみたのは、大物の魔獣を倒した凱旋パレードの時だった。
彼は一際目立っていた。
というのも、パレードの中心で周りは皆白馬で統一されている中、彼だけが大きな黒馬に乗って一段抜きん出て見えた。更には普段の騎士団服ではなく、服も祭式用の騎士団服に身を包み、役職を表す右胸の星は、騎士団長の証であった。
キラキラと輝いて、幸せを全身に纏っているような人だった。
彼の戦果は留まるところを知らなかった。厄介な魔獣、大きい魔獣、集団の魔獣、彼の手にかかればどんな魔獣も討伐は間違いなく達成されていた。
騎士団長でありつつも、彼は侯爵家当主という家柄も申し分なかった。フェリオス家と聞けば知らぬものは居ない。現在この国は、臣籍降下した公爵家は存在せず、実質侯爵家が王家の次にお偉い貴族であった。
その侯爵家の中の序列でも、フェリオス家は上位に君臨していた。歴史ももちろんだが、領地の稼ぎも、陛下の覚えも良かった。
そんな騎士団長で家柄のいい彼は、神に愛されているとばかりに顔も良かった。
眉目秀麗、容姿端麗、体つきも騎士団長であるからして良いのは当たり前で、体のどこも無駄なとこなど有り得なかった。神は二物を与えないとは彼の辞書には存在しないのだ。
そして更にはプライベートも完璧であった。
同じ侯爵家の奥方とは恋愛結婚で、彼がプロポーズをしたらしい。かなりの愛妻家で、奥方とはいつ何時も離れ難いとばかりにラブラブだったようだ。そして二男一女を儲け、すくすくと育って末の娘が四年前に社交界デビューをした。
しかし、そんな幸せは脆くも崩れていった。
三年前に奥方が亡くなった。流行病だった。
彼は悲しみに暮れて、暫くの間は仕事にも手をつけられないほど憔悴していたらしい。
息子と娘の支えがあってなんとか持ち直したようだが、それでも影を落としたような表情は消えなかった。
あのキラキラと輝く、黒馬に乗って誇らしげに凱旋パレードを闊歩する彼は居なくなってしまった。
アリスティドは彼が好きだったのだと、この時ようやく知ることになった。
落ち込んでいる彼を何とかしてあげたい。烏滸がましいまでにそう思うようになった。
彼が沈んでいる姿を見て苦しくなる。あんなに幸せそうにしていた笑顔はどこにもない。
きっと今でも彼が幸せにしていたならば、この気持ちも気づくことは無かった。
そんな気持ちを抱え、モヤモヤとしたまま三年。 アリスティドは色んな婚約の話を蹴り続けていた。 こんなモヤモヤとしたまま婚約し婚姻関係を結んだとしても、アリスティドも幸せになれなければ、相手を幸せにすることなど出来ないと思ったからだ。
この国では同性婚が認められている。
子供を儲けることは出来ないが、諸々の事情でその方が都合がいい場合がある。長男以降の男に跡継ぎが産まれては困るパターンが一番多い。
アリスティドは男であるが見目麗しく、伯爵家五男であり身分も申し分ないことから男性からのアプローチは多かった。
女性を勧められたこともあったが、どちらにせよ、気は進まなかった。
そして今から半年ほど前に遡る。
「婚約話…ですか。いつも通りお断りを」
ふ、と顔を俯かせながらアリスティドが言うと、話を持ちかけてきた現当主であるアリスティドの兄は焦っているような様子で言葉を遮るように続けた。
「いや!今回ばかりは会うだけあってくれ!とてもじゃないが断れない!」
兄、セオドアの冷静ではない様子に首を傾げた。
アリスティドは今年二十歳になった。二十歳となれば婚約話の一つや二つ出ていてもおかしくはない。いつも条件が良かろうと全て蹴ってきた。
三年経っても、アリスティドは上手く気持ちの整理がついてなかったからだ。
婚約を蹴っている理由を兄はもちろん、誰にも話したことは無かった。同性婚は珍しくないとはいえ、さすがに子持ちが好きです、とは声を大にして言うことが出来なかった。
「どうしてですか? 何かあったんですか?」
「侯爵家からの申し出で。会わずに断るなどとても出来ない。とにかく一度会ってくれ」
有無を言わさぬ口調に、アリスティドは戸惑った。相手が誰かも分からぬまま行くとは言えない。とにかくどこからの申し出なのかと尋ねた。
「フェリオス家だ」
思わず飲んでいた紅茶を吹き出しそうになって、目をひん剥いた。あんぐりと口を開けてしまったのは貴族としてよろしくないと分かっていてもしてしまった。
「フェリオス家? む、息子の方ですか?娘の方ですか?」
フェリオス家とは、つい今まで自分の中の回想に出していた彼の家名だ。
騎士団長でありながら、侯爵家当主である彼だ。
何より、アリスティドの想い人だ。
「息子は十五歳、十三歳。娘は十歳。アリスティドと婚姻関係になるとすれば長男だろう」
アリスティドはどういう気持ちになればいいのか分からなかった。
いろいろとぐちゃぐちゃになっていく。
「ちょ、っと…待ってください。長男は跡継ぎでは」
「しかし当主と書かれている。次期当主は長男だろう」
彼の事はまだ忘れられない。別に何か劇的な出会いがあった訳ではない。アリスティドが勝手に想っているだけだ。しかしその小さく燻る想いは色褪せず、風化しない。
しかしその息子。
長男は今年十五歳になったと聞いている。婚約ならばなくはない年齢だ。
もっと近い年齢の方が良いとは思う。
年齢だけではない。跡継ぎは一体どうするのか。次男に託すのか。それならば当主も次男にした方が複雑にならずに済む。
アリスティドは一体全体どういう事なのか知りたかった。
「分かりました。とりあえず会ってみます。受けるかどうかは、その後に」
「ありがとう!ありがとう!」
涙を流されながら手を握られ、心から感謝された。少しばかり心苦しいと思ったのは、彼の息子を如何に傷つけることなくお断りをしようか悩んでいたからだ。
アリスティドはお見合いのような招待に承諾し、フェリオス家に行ったのは兄から話を聞いて僅か三日後の事だった。
兄はアリスティドに断られるのを恐れてギリギリまで言わなかったらしい。アリスティドは既に行くことが決定していたので返事は承諾済みだったようだ。
心苦しい気持ちは一気に霧散した。
フェリオス家の本家は王都から離れた地にある。騎士団長である彼は王都に構えた邸宅に一年のほとんど住んでいる。
次期当主である長男も、最近は父から直接の教育を受けている段階らしく、王都の邸宅に住んでいるとの事だった。
やはり王都一の侯爵家、邸宅も立派なもので、広大な庭には色とりどりの花と手入れの行き届いた広葉樹に生垣。邸宅の前の広場には噴水がある。
言わずもがな、邸宅の外見も内装もセンスの良い絵画や壺、汚れひとつもない絨毯に豪奢なシャンデリアが飾られていた。
アリスティドが邸宅に到着すると、家令とメイドたちが出迎えてくれた。
「初めまして。家令のエイベンと申します。アリスティド様でいらっしゃいますね。当家まで御足労いただき、誠にありがとうございます」
丁寧なお辞儀と共に挨拶を受ける。アリスティドは無礼にならない程度の無難な挨拶をした。出来れば使用人たちにアリスティドの記憶は残したくない。
これからお断りをするのだから、後腐れないようにそうした方が良いと思ったのだ。
家令のエイベンに案内され、到着したのはどうやら応接室のようだった。応接室の真ん中にある豪華な織物が使われたソファに腰掛けた。メイドに紅茶を注がれ、香り高い茶葉にスゥ、と鼻腔を擽らせて一口含む。アリスティドは思ったよりも緊張していたようで、ようやく喉を潤ませることが出来てホッとした。
待つことおよそ五分程だろうか。本当はもう少し短かったかもしれないが、思ったよりも長く待たされている気がした。
「アリスティド殿。ここまで御足労いただき感謝します」
アリスティドはようやく件の人物と対面した。
見たことないが、彼によく似た青年が姿を現すと、そう思っていた。髪色か、瞳の色か、輪郭か、どこかに彼の面影を見出してみたいと思った。
けれどそれを果たす事はなかった。
目の前に立つ人物は、彼そのものであった。
「ヴィクトール=フェリオスだ。フェリオス家現当主、アシュランデール王国騎士団団長だ」
言葉を失った。恐らく今アリスティドは情けない顔をしている。
口を開けて、瞬きも忘れ、身体は石のように動かなくなった。
「……はっ」
違う違う。
頭を振って気を取り直す。ただ彼は、長兄を紹介するために現れただけに過ぎない。ここから紹介される。だからきっと彼の後ろに息子が姿を見せるに違いない。
「何か?」
キョロキョロと目だけ動かして居るはずの人物を探す。
その実、ただただ好きな人を直視できないという憐れな生き物に成り下がっていただけだ。
けれど一応姿を見つけようとするが、居ない。
「あ…す、すみません。アリスティド=エイブラムと申します。アリスでも、ティドでも、リスティでも何でもお呼びください」
緊張してつい早口に言ってしまった。しかも婚約相手でなければ、別に略称…というか愛称というか、そういうのは要らなかったのでは。
ダラダラと汗が落ちそうな感覚になる。果たしてアリスティドはきちんと立って、作法に沿った礼が出来ていて、不自然ではない言葉遣いができていたのだろうか、と不安になる。
憧れの君、ヴィクトールは少し大袈裟に頷くと座るように促された。彼が座ったのを確認して、アリスティドももう一度ソファに腰掛けた。
「なんと呼ばれることが多いのか教えてくれ」
笑顔もなく、詰問されているような低い声で尋ねられた。
「え、えと。親兄妹にはアリスと。友人からはティドと呼ばれることが多いです…」
怖々と答えると、彼は顎に手を当てて考え込んだのち、口を開く。
「リスティと呼ぶ者はいるのか」
「今は居ません。祖父母が呼んでくれましたが、だいぶ前に祖母が亡くなって、昨年祖父が亡くなりましたので」
「……それは、申し訳ないことを聞いた」
祖父母の事は寂しさがあるものの、天寿を全うとしたものだったのでさほど悲しみが深い訳では無い。
頭を振って否定を表し、彼を直視した。
確かヴィクトールは、アリスティドの記憶が正しければ今年三十五歳となる。ヴィクトールと息子程歳の違いがある。
けれどヴィクトールは容姿端麗であり、それは子供三人居るとしても変わらぬものだった。堀の深さは顔の造形を深め、眉間の皺が多少見受けられるが騎士団長と侯爵家当主のプレッシャーを背負っているという男の魅力を感じられた。
結論としては、やはりアリスティドは彼をまた忘れられず、これからも結婚は伸びるだろうなと自嘲してしまいそうだった。
きっとこの想いは、彼の息子といえど埋められるものでは無い。むしろ近ければ近いほど、忘れられず耐えきれなくなってしまいそうだ。
代わりなどない。この想いは大切に鍵をかけて箱に閉まっておくべきものだ。
「では、私はリスティと呼んでも良いだろうか」
「え、ええ。お好きに呼んでください」
「…私のことはヴィーでもトールでも、なんでも構わない」
アリスティドはまたしても驚いた。アリスティドは自身の名前が呼びにくいから紹介する時に愛称を添えることが多かったのでつい伝えてしまったが、まさかヴィクトールが愛称を教えてくれるとは思ってもみなかった。
「では…、ヴィー様と…」
遠慮がちにそう伝えると、納得したような、そうではないような微妙な顔をして彼はメイドが置いた紅茶を口にする。
その姿は絵になる。額に収めて毎日見たいと思うほどにはキラキラとした絵姿のような仕草だった。
「それで、婚約の話だが」
「あ、はい」
本題に入った。婚約の話は本人が姿を表さないまま始めるのだろうか。
用事で遅れているのだろうか。まだ十五歳で成人前だから大人だけで話し合うのだろうか。
とはいえ、息子本人も同席しなければ納得できないのではないだろうか。
様々な疑問の残るまま、話は始まった。
「いくつか条件がある」
「はぁ……」
情けない相槌を打ってしまった。彼は気にせず話を続けた。
「プライベートはお互い干渉しないこと、仕事にも口出さないこと。これもお互いだ」
つまり、全てに干渉するなと言っているようなものだ。
しかしアリスティドとて別に他人のことに口を出したい訳では無い。
「変な噂が立つようなことはしないで欲しい。不倫やギャンブルと言ったことは避けてくれ。ある程度は構わないが、過ぎた贅沢は止してくれ」
別にアリスティドもしたいものではない。基本的にアリスティドは一途であるし、ギャンブルも好まない。
「そして、一番大切だが」
「は、はい」
「子供たちの前だけで構わない。仲睦まじい雰囲気を装ってほしい」
アリスティドは何だか腑に落ちない言葉を聞いた。
「……あの」
「何だ?条件は譲れないが」
「それは、その……別に構いません。というか、えっと…、あの」
何だか要領を得ない言葉だけが乱立してしまう。上手く言葉にできない。というか、聞いていいものなのか分からなかった。とにかく頭の中がごちゃごちゃだった。
いや、やはり聞けない。
「……な、なんでもないです」
「言いたいことは言えばいい。はっきりしてくれた方が助かる」
聞けるわけが無い。
今更、『アリスティドか婚約するのは、ヴィクトール様の息子ではなく、ご本人でしょうか?』などと。
「い、いえ! 本当になんでもありません!」
目の前で手を、顔をブンブンと振って見せる。彼は少しばかり訝しんだが、それ以上突っ込んだ言葉は口にしなかった。
「では、婚約成立で良いだろうか」
アリスティドはこれが現実かどうか確かめたかった。
憧れ続けた彼と、まさかこのようなことが待っていようとは思わなかった。好きで居続ければこんなに良い事が待っているとは思わなかった。
なんと今日はどんよりとした灰色の空であるのに、アリスティドにとって人生最良の日だったのだ。
一も二もなく、アリスティドは大きく何度も首を縦に振った。出来るだけ平静を装ったが、彼にどう映ったのかは分からない。
「よ、よろしくお願いします……!」
つい吃りながら答えてしまう。緊張で手が震えている。顔が緩みそうになる。頬が熱くなりそうで、既に頭は沸騰している。
アリスティドがまさか、まさかこんな。
「ああ、よろしく。リスティ」
これが、アリスティドの人生で最も幸福な半年前の出来事だった。
彼は一際目立っていた。
というのも、パレードの中心で周りは皆白馬で統一されている中、彼だけが大きな黒馬に乗って一段抜きん出て見えた。更には普段の騎士団服ではなく、服も祭式用の騎士団服に身を包み、役職を表す右胸の星は、騎士団長の証であった。
キラキラと輝いて、幸せを全身に纏っているような人だった。
彼の戦果は留まるところを知らなかった。厄介な魔獣、大きい魔獣、集団の魔獣、彼の手にかかればどんな魔獣も討伐は間違いなく達成されていた。
騎士団長でありつつも、彼は侯爵家当主という家柄も申し分なかった。フェリオス家と聞けば知らぬものは居ない。現在この国は、臣籍降下した公爵家は存在せず、実質侯爵家が王家の次にお偉い貴族であった。
その侯爵家の中の序列でも、フェリオス家は上位に君臨していた。歴史ももちろんだが、領地の稼ぎも、陛下の覚えも良かった。
そんな騎士団長で家柄のいい彼は、神に愛されているとばかりに顔も良かった。
眉目秀麗、容姿端麗、体つきも騎士団長であるからして良いのは当たり前で、体のどこも無駄なとこなど有り得なかった。神は二物を与えないとは彼の辞書には存在しないのだ。
そして更にはプライベートも完璧であった。
同じ侯爵家の奥方とは恋愛結婚で、彼がプロポーズをしたらしい。かなりの愛妻家で、奥方とはいつ何時も離れ難いとばかりにラブラブだったようだ。そして二男一女を儲け、すくすくと育って末の娘が四年前に社交界デビューをした。
しかし、そんな幸せは脆くも崩れていった。
三年前に奥方が亡くなった。流行病だった。
彼は悲しみに暮れて、暫くの間は仕事にも手をつけられないほど憔悴していたらしい。
息子と娘の支えがあってなんとか持ち直したようだが、それでも影を落としたような表情は消えなかった。
あのキラキラと輝く、黒馬に乗って誇らしげに凱旋パレードを闊歩する彼は居なくなってしまった。
アリスティドは彼が好きだったのだと、この時ようやく知ることになった。
落ち込んでいる彼を何とかしてあげたい。烏滸がましいまでにそう思うようになった。
彼が沈んでいる姿を見て苦しくなる。あんなに幸せそうにしていた笑顔はどこにもない。
きっと今でも彼が幸せにしていたならば、この気持ちも気づくことは無かった。
そんな気持ちを抱え、モヤモヤとしたまま三年。 アリスティドは色んな婚約の話を蹴り続けていた。 こんなモヤモヤとしたまま婚約し婚姻関係を結んだとしても、アリスティドも幸せになれなければ、相手を幸せにすることなど出来ないと思ったからだ。
この国では同性婚が認められている。
子供を儲けることは出来ないが、諸々の事情でその方が都合がいい場合がある。長男以降の男に跡継ぎが産まれては困るパターンが一番多い。
アリスティドは男であるが見目麗しく、伯爵家五男であり身分も申し分ないことから男性からのアプローチは多かった。
女性を勧められたこともあったが、どちらにせよ、気は進まなかった。
そして今から半年ほど前に遡る。
「婚約話…ですか。いつも通りお断りを」
ふ、と顔を俯かせながらアリスティドが言うと、話を持ちかけてきた現当主であるアリスティドの兄は焦っているような様子で言葉を遮るように続けた。
「いや!今回ばかりは会うだけあってくれ!とてもじゃないが断れない!」
兄、セオドアの冷静ではない様子に首を傾げた。
アリスティドは今年二十歳になった。二十歳となれば婚約話の一つや二つ出ていてもおかしくはない。いつも条件が良かろうと全て蹴ってきた。
三年経っても、アリスティドは上手く気持ちの整理がついてなかったからだ。
婚約を蹴っている理由を兄はもちろん、誰にも話したことは無かった。同性婚は珍しくないとはいえ、さすがに子持ちが好きです、とは声を大にして言うことが出来なかった。
「どうしてですか? 何かあったんですか?」
「侯爵家からの申し出で。会わずに断るなどとても出来ない。とにかく一度会ってくれ」
有無を言わさぬ口調に、アリスティドは戸惑った。相手が誰かも分からぬまま行くとは言えない。とにかくどこからの申し出なのかと尋ねた。
「フェリオス家だ」
思わず飲んでいた紅茶を吹き出しそうになって、目をひん剥いた。あんぐりと口を開けてしまったのは貴族としてよろしくないと分かっていてもしてしまった。
「フェリオス家? む、息子の方ですか?娘の方ですか?」
フェリオス家とは、つい今まで自分の中の回想に出していた彼の家名だ。
騎士団長でありながら、侯爵家当主である彼だ。
何より、アリスティドの想い人だ。
「息子は十五歳、十三歳。娘は十歳。アリスティドと婚姻関係になるとすれば長男だろう」
アリスティドはどういう気持ちになればいいのか分からなかった。
いろいろとぐちゃぐちゃになっていく。
「ちょ、っと…待ってください。長男は跡継ぎでは」
「しかし当主と書かれている。次期当主は長男だろう」
彼の事はまだ忘れられない。別に何か劇的な出会いがあった訳ではない。アリスティドが勝手に想っているだけだ。しかしその小さく燻る想いは色褪せず、風化しない。
しかしその息子。
長男は今年十五歳になったと聞いている。婚約ならばなくはない年齢だ。
もっと近い年齢の方が良いとは思う。
年齢だけではない。跡継ぎは一体どうするのか。次男に託すのか。それならば当主も次男にした方が複雑にならずに済む。
アリスティドは一体全体どういう事なのか知りたかった。
「分かりました。とりあえず会ってみます。受けるかどうかは、その後に」
「ありがとう!ありがとう!」
涙を流されながら手を握られ、心から感謝された。少しばかり心苦しいと思ったのは、彼の息子を如何に傷つけることなくお断りをしようか悩んでいたからだ。
アリスティドはお見合いのような招待に承諾し、フェリオス家に行ったのは兄から話を聞いて僅か三日後の事だった。
兄はアリスティドに断られるのを恐れてギリギリまで言わなかったらしい。アリスティドは既に行くことが決定していたので返事は承諾済みだったようだ。
心苦しい気持ちは一気に霧散した。
フェリオス家の本家は王都から離れた地にある。騎士団長である彼は王都に構えた邸宅に一年のほとんど住んでいる。
次期当主である長男も、最近は父から直接の教育を受けている段階らしく、王都の邸宅に住んでいるとの事だった。
やはり王都一の侯爵家、邸宅も立派なもので、広大な庭には色とりどりの花と手入れの行き届いた広葉樹に生垣。邸宅の前の広場には噴水がある。
言わずもがな、邸宅の外見も内装もセンスの良い絵画や壺、汚れひとつもない絨毯に豪奢なシャンデリアが飾られていた。
アリスティドが邸宅に到着すると、家令とメイドたちが出迎えてくれた。
「初めまして。家令のエイベンと申します。アリスティド様でいらっしゃいますね。当家まで御足労いただき、誠にありがとうございます」
丁寧なお辞儀と共に挨拶を受ける。アリスティドは無礼にならない程度の無難な挨拶をした。出来れば使用人たちにアリスティドの記憶は残したくない。
これからお断りをするのだから、後腐れないようにそうした方が良いと思ったのだ。
家令のエイベンに案内され、到着したのはどうやら応接室のようだった。応接室の真ん中にある豪華な織物が使われたソファに腰掛けた。メイドに紅茶を注がれ、香り高い茶葉にスゥ、と鼻腔を擽らせて一口含む。アリスティドは思ったよりも緊張していたようで、ようやく喉を潤ませることが出来てホッとした。
待つことおよそ五分程だろうか。本当はもう少し短かったかもしれないが、思ったよりも長く待たされている気がした。
「アリスティド殿。ここまで御足労いただき感謝します」
アリスティドはようやく件の人物と対面した。
見たことないが、彼によく似た青年が姿を現すと、そう思っていた。髪色か、瞳の色か、輪郭か、どこかに彼の面影を見出してみたいと思った。
けれどそれを果たす事はなかった。
目の前に立つ人物は、彼そのものであった。
「ヴィクトール=フェリオスだ。フェリオス家現当主、アシュランデール王国騎士団団長だ」
言葉を失った。恐らく今アリスティドは情けない顔をしている。
口を開けて、瞬きも忘れ、身体は石のように動かなくなった。
「……はっ」
違う違う。
頭を振って気を取り直す。ただ彼は、長兄を紹介するために現れただけに過ぎない。ここから紹介される。だからきっと彼の後ろに息子が姿を見せるに違いない。
「何か?」
キョロキョロと目だけ動かして居るはずの人物を探す。
その実、ただただ好きな人を直視できないという憐れな生き物に成り下がっていただけだ。
けれど一応姿を見つけようとするが、居ない。
「あ…す、すみません。アリスティド=エイブラムと申します。アリスでも、ティドでも、リスティでも何でもお呼びください」
緊張してつい早口に言ってしまった。しかも婚約相手でなければ、別に略称…というか愛称というか、そういうのは要らなかったのでは。
ダラダラと汗が落ちそうな感覚になる。果たしてアリスティドはきちんと立って、作法に沿った礼が出来ていて、不自然ではない言葉遣いができていたのだろうか、と不安になる。
憧れの君、ヴィクトールは少し大袈裟に頷くと座るように促された。彼が座ったのを確認して、アリスティドももう一度ソファに腰掛けた。
「なんと呼ばれることが多いのか教えてくれ」
笑顔もなく、詰問されているような低い声で尋ねられた。
「え、えと。親兄妹にはアリスと。友人からはティドと呼ばれることが多いです…」
怖々と答えると、彼は顎に手を当てて考え込んだのち、口を開く。
「リスティと呼ぶ者はいるのか」
「今は居ません。祖父母が呼んでくれましたが、だいぶ前に祖母が亡くなって、昨年祖父が亡くなりましたので」
「……それは、申し訳ないことを聞いた」
祖父母の事は寂しさがあるものの、天寿を全うとしたものだったのでさほど悲しみが深い訳では無い。
頭を振って否定を表し、彼を直視した。
確かヴィクトールは、アリスティドの記憶が正しければ今年三十五歳となる。ヴィクトールと息子程歳の違いがある。
けれどヴィクトールは容姿端麗であり、それは子供三人居るとしても変わらぬものだった。堀の深さは顔の造形を深め、眉間の皺が多少見受けられるが騎士団長と侯爵家当主のプレッシャーを背負っているという男の魅力を感じられた。
結論としては、やはりアリスティドは彼をまた忘れられず、これからも結婚は伸びるだろうなと自嘲してしまいそうだった。
きっとこの想いは、彼の息子といえど埋められるものでは無い。むしろ近ければ近いほど、忘れられず耐えきれなくなってしまいそうだ。
代わりなどない。この想いは大切に鍵をかけて箱に閉まっておくべきものだ。
「では、私はリスティと呼んでも良いだろうか」
「え、ええ。お好きに呼んでください」
「…私のことはヴィーでもトールでも、なんでも構わない」
アリスティドはまたしても驚いた。アリスティドは自身の名前が呼びにくいから紹介する時に愛称を添えることが多かったのでつい伝えてしまったが、まさかヴィクトールが愛称を教えてくれるとは思ってもみなかった。
「では…、ヴィー様と…」
遠慮がちにそう伝えると、納得したような、そうではないような微妙な顔をして彼はメイドが置いた紅茶を口にする。
その姿は絵になる。額に収めて毎日見たいと思うほどにはキラキラとした絵姿のような仕草だった。
「それで、婚約の話だが」
「あ、はい」
本題に入った。婚約の話は本人が姿を表さないまま始めるのだろうか。
用事で遅れているのだろうか。まだ十五歳で成人前だから大人だけで話し合うのだろうか。
とはいえ、息子本人も同席しなければ納得できないのではないだろうか。
様々な疑問の残るまま、話は始まった。
「いくつか条件がある」
「はぁ……」
情けない相槌を打ってしまった。彼は気にせず話を続けた。
「プライベートはお互い干渉しないこと、仕事にも口出さないこと。これもお互いだ」
つまり、全てに干渉するなと言っているようなものだ。
しかしアリスティドとて別に他人のことに口を出したい訳では無い。
「変な噂が立つようなことはしないで欲しい。不倫やギャンブルと言ったことは避けてくれ。ある程度は構わないが、過ぎた贅沢は止してくれ」
別にアリスティドもしたいものではない。基本的にアリスティドは一途であるし、ギャンブルも好まない。
「そして、一番大切だが」
「は、はい」
「子供たちの前だけで構わない。仲睦まじい雰囲気を装ってほしい」
アリスティドは何だか腑に落ちない言葉を聞いた。
「……あの」
「何だ?条件は譲れないが」
「それは、その……別に構いません。というか、えっと…、あの」
何だか要領を得ない言葉だけが乱立してしまう。上手く言葉にできない。というか、聞いていいものなのか分からなかった。とにかく頭の中がごちゃごちゃだった。
いや、やはり聞けない。
「……な、なんでもないです」
「言いたいことは言えばいい。はっきりしてくれた方が助かる」
聞けるわけが無い。
今更、『アリスティドか婚約するのは、ヴィクトール様の息子ではなく、ご本人でしょうか?』などと。
「い、いえ! 本当になんでもありません!」
目の前で手を、顔をブンブンと振って見せる。彼は少しばかり訝しんだが、それ以上突っ込んだ言葉は口にしなかった。
「では、婚約成立で良いだろうか」
アリスティドはこれが現実かどうか確かめたかった。
憧れ続けた彼と、まさかこのようなことが待っていようとは思わなかった。好きで居続ければこんなに良い事が待っているとは思わなかった。
なんと今日はどんよりとした灰色の空であるのに、アリスティドにとって人生最良の日だったのだ。
一も二もなく、アリスティドは大きく何度も首を縦に振った。出来るだけ平静を装ったが、彼にどう映ったのかは分からない。
「よ、よろしくお願いします……!」
つい吃りながら答えてしまう。緊張で手が震えている。顔が緩みそうになる。頬が熱くなりそうで、既に頭は沸騰している。
アリスティドがまさか、まさかこんな。
「ああ、よろしく。リスティ」
これが、アリスティドの人生で最も幸福な半年前の出来事だった。
17
お気に入りに追加
812
あなたにおすすめの小説
溺愛
papiko
BL
長い間、地下に名目上の幽閉、実際は監禁されていたルートベルト。今年で20年目になる檻の中での生活。――――――――ついに動き出す。
※やってないです。
※オメガバースではないです。
【リクエストがあれば執筆します。】
薬師は語る、その・・・
香野ジャスミン
BL
微かに香る薬草の匂い、息が乱れ、体の奥が熱くなる。人は死が近づくとこのようになるのだと、頭のどこかで理解しそのまま、身体の力は抜け、もう、なにもできなくなっていました。
目を閉じ、かすかに聞こえる兄の声、母の声、
そして多くの民の怒号。
最後に映るものが美しいものであったなら、最後に聞こえるものが、心を動かす音ならば・・・
私の人生は幸せだったのかもしれません。※「ムーンライトノベルズ」で公開中
どうせ全部、知ってるくせに。
楽川楽
BL
【腹黒美形×単純平凡】
親友と、飲み会の悪ふざけでキスをした。単なる罰ゲームだったのに、どうしてもあのキスが忘れられない…。
飲み会のノリでしたキスで、親友を意識し始めてしまった単純な受けが、まんまと腹黒攻めに捕まるお話。
※fujossyさんの属性コンテスト『ノンケ受け』部門にて優秀賞をいただいた作品です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる