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鉄と火花と
第17話『兵法八重垣』
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月岡の地。
いつもは、お藤は生まれ育った山小屋で過ごしている。
刀を打つ半月ばかりは、城に近い丘に用意された特別な鍛冶小屋に籠もるが、専ら仕上げと生活は生家で過ごすのが彼女のあたりまえであった。
炭を焼き、正確無比に割り、丁寧に薦に乗せて包む。運ぶのはいつも佐助であったり、漆手衆の若者だった。
佐助とは、ここしばらく会ってはいない。
季節が秋を過ぎようとしてる今、納得のいく炭を作製するのが難しくなっているため、お藤も暇がなく、また佐助も戦っているのだろうと知っている。だから我慢ができた。
手と顔を真っ黒にしながら、流れる汗の白黒となった筋を拭う。
薦を被せ直し、荷台に載せる。
そこで彼女は続く道から上がってくる人影に気が付いた。
「おじさん」
「お藤」
真田信繁である。彼はお藤に「おじさん」と呼ばれ、煙草入れの顔をぱっかり開くよう笑う。
「日も暮れる、今日はそこまでにいたせ」
「しかし火を作らないと三本目が。――」
信繁の持つ風呂敷に目を落とし、それが食材であることを察した彼女は「わかった」と苦笑して煤を払った。
くみ水で手と顔を洗い、拭うと、やはり年相応の幼い顔が現れた。目も大きく、髪は――。
「炭より黒いな」
「またそういう」
会うたびに、信繁は彼女の髪をそう評価した。墨ではなく、炭と。
信繁も羽織を脱ぎ、太刀を上がりかまちに置き、囲炉裏際に上がると大きなため息をついて胡座で座り込む。
「白湯も沸かす。まってて」
「たのむ」
そのあとは、静かな炊事と温かい温もりが増す。
熾火から火を熾しなおした信繁が、鍋の用意を始めたのだ。この時間が何よりも不思議だった。
佐助は幼馴染みであり、兄弟のような存在。彼と飯を食うときはお藤が作る。あの男は外で勝手に済ませることが多いから、連絡がないと作らないこともあるが、たいていは彼女が用意しておく。空振りだった場合は翌日の彼女の朝飯となる。
幼い頃は、父の手料理をふたりで食べていた。料理はそのころ見て覚え舌を含む五感全てでで完成させた。彼女の料理は、うまかった記憶の集大成である。
そこで、信繁の料理だ。彼の料理は、粗野だが雑味なく単純にうまい。煮こむのが好きなのか、碗ものが多い割には菜の塩漬けをたんと喰うときもある。味もばらばらだが、どれも優しい味がした。気まぐれで酒を隠し味にすれば、珍しいからと唐辛子を多く沈めることもある。不思議と評するのは、そこにあった。ばらばらなのだ。
「やはり米がうまいな」
「なんでおじさんの食い物はいつも味がばらばらなんだ」
「毎度同じように作れるほどの腕前がない。――というのは当然ながら、喰う相手の顔を見ながら作れば、それは変わるものよ」
「私の顔か。私は私だ」
「諸行無常。ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。お藤はお藤だが、今のお藤はさっきのお藤とは違う。常に、新しいお主だ。ほれ、味噌の香りに腹が鳴りそうだぞ、喰うが良い。よくできておる」
碗を渡され、お藤も囲炉裏脇で肩を並べて飯を食い始める。
「変わるものに対して、そのとき佳いものを作る。そうして人の世は積み重なってきた」
「刀のこともいってるのか」
「左様」
ずず――と汁を啜り合う。うまい。鳥獣の肉は臭いと忌避されがちだが、山育ちなら血抜きの技は心得ている。
「鉄の造りも、この技術発展めざましい現在、千年前、五百年前の古代の技術を再現しようとするなら、かえって発達したものが邪魔になる。そうだな、お藤」
「鉄の作り方は、おじさんにも秘密にしろっていわれてたんだけど、やっぱり観たら分かるよね」
「おまえほどじゃないがな」
お藤の仕事場のことである。
お藤は押し型を見て一期一振を作り上げ、その父である五太郎はその出来上がった姿を見て鉄を評価していた。その繰り返しは人知及ばぬ天才たちの試行錯誤の末、件の一振りを生み出したのだ。
その要の鉄、現代日本で神話となっている『玉鋼伝説』ともいわれる、その鋼。未熟な製鉄により生まれし、硬軟混ざり合った特筆すべき特性を持った鋼。
その精製が成される、お藤の仕事場。
作製したのは上杉の者らと、湯村の者らである。漆手衆はこれを補佐した。故に、なにをするか推察できるほどの設備と使い込みは、彼女らが何を成してきたかを知る手がかりとして残っている。
とうぜん知る者は見ている。推察はできるが正解にはたどり着けぬであろう。古代の刀匠が行っていた未知未熟な技術など、現代人には分かるものではない。否定の概念が総てを邪魔するだろう。
「風が出てきたな」
家の周囲が、ざわざわと鳴っている。
大きいものが倒れる音や、ぶつかり合う音、そんなものらに信繁はふとそう漏らす。お藤は興味なさげであったが、ふと思い至ったのか、碗から大きい肉を摘まみ上げると、信繁を見る。
「猪の肉だ」
「好きだろう、お藤」
「大好きだ。脂が甘くて、肉も臭みがあって美味しい」
「もっと喰え。そら。――」
信繁は鍋から碗に肉をたっぷりとよそってやる。熱い汁を掛け、手渡す。受け取るお藤は、ひとつ頷いて食べる。美味い。晴れの日にしか喰えぬような上物である。信繁が手配してくれたのだろう。
「お藤、変わりゆくもので変わっていった過去の一瞬を再現するお主の技術、瞠目に値する。日の本の宝だろう」
「たいへんだけど、鉄を作ったらみんなだって作れる。――上手くはないと思うけど」
「お藤、自分の刀を作りたくはないのか」
「おじさん。――」
箸が止まる。お互いに。
信繁は囲炉裏の火にじっと目を落としている。お藤はその横顔に寂しそうな色を感じ、そんな信繁が前にも何度か同じ表情をしたのを思い出す。
鍋の煮える音のみが――いや、また大きな音がする。うめき声のような音だ。三度と聞こえ、倒れる音が五度ほど重なる。
「わたしに自分なんてないよ。大それたことをしてるし、誰かに見つけてもらい、殺して欲しいくらい。佐助は生きる目的があるけど、私にはない」
「自分の刀だ、お藤」
信繁が、ゆっくりとお藤を見つめ返す。
「古の鉄の味と、この現代の技術の粋を凝らした、お前が美しいと感じるものを、強いと感じるものを、使う相手の姿を思い描き、ひとりの刀匠として世に出てみんか。日の本の宝を置いておくには、上杉も、豊臣も、狭きにすぎる。なにより。――」
箸を置き、お藤の頭をガシガシと撫でる。炭のような髪が、揺れる。
「お前はまだまだ世を知らぬ。おなごであるから仕方がないが、刀匠なら見聞を広めねばならぬ。温故知新、おまえはもっと世間を知らねばな」
「おじさん。――」
「今宵、ここにひとりの男が来る」
風の音が強くなった。
「お前を、越後から世に連れ出してくれるかもしれぬ男だ」
「やっぱり、お別れ鍋だったんだね、この猪」
「かもしれぬ、だ。お藤」
そして、引き戸が開かれる。
夜風に炎が揺れ、ふたりの影を陰影に揺らす。
現れたのは、信繁のいうとおり、ひとりの男であった。
草臥れた姿だった。薄汚れた姿であった。脇差しの柄はなく、巻いた布とハバキで刀身が収まっているうえに、太刀の柄糸もボロボロだった。
しかし、古代の鋼のように炎の灯りに照らされたその肉体は健全無比であった。
「真田が兵、さすがであったわ」
「生きておるとはな」
「筧屋の主に頼まれてな、途中から東へ西へと八方走り回って回り道よ。死ぬかと何度も思ったし、だいぶ遅くなったわ」
「お藤、この男だ。名を、柳生宗章という」
何かをいいたそうなお藤と、話を続けようとする信繁を手で制し、宗章は上がりかまちに腰を下ろす。
「斬ったのか」とは、信繁の問いだ。
「いや。――」と、宗章が首を振る。
十人ほどの武者が小屋の外に倒れている。組み討ちで総て倒されていたが、息はある。息があるというだけで、手足は折られているし、中には完全に気を失っているものも少なくはない。
そうした方がいいかなと、宗章は思ったのだ。
忍びではない赤備えを殺さぬよう、筧屋の主人に頼まれていたのをもしかしたら忘れていなかったのかもしれない。
「一対多数、多対一。同時に斬りかかれる人数には限界がある。狙う相手が動けば同時はまずあり得ぬ。誘い、誘いに乗り、八重の垣根をくぐるよう戦う。兵法――八重垣」
「いかにもな様相で言っておるが、柳生、お主ずっと鍋を見ておるではないか」
「喰ってもいいのか」
「――あつかましいやつめ」
だが、信繁は自分の碗に、たんまりとよそってやった。
お藤によそってやった肉より、もうひとつ小さいものを入れてやる。
「まあ、いまは喰え」
「かたじけない」
お藤は、その言葉に「いまは」と聞き返す。
その少女の言葉に、信繁と宗章は笑い会う。
「腹が減っては戦ができぬというではないか」
「美味いな、この肉。猪鍋か」
嚥下し、宗章も頭を掻いて言い直す。
「まあ、こうなってはな、真田どの」
「うむ。この信繁が斬らねば臣下に申し訳が立たぬ」
「おじさん。――」
お藤が箸を落とす。
かもしれぬ。
その真意に気が付いたのだ。自分が行くか行かぬかを決めるのではない。
真田信繁が柳生宗章を斬れば、越後に残る。
柳生宗章が真田信繁を斬れば、越後を出る。
このふたりは、死会うつもりなのだ。
「馳走になった」
「では、やるかね」
ふたりは連れ立って、戸から出て行く。お藤はそれを止められなかった。
だが我に返り戸口に迫ったとき、強烈な殺気で息を呑み、へたり込んでしまう。
初代兼定と、偽物村正が月光を跳ね返しギラリと輝いている。
互いの距離は、三間。
双方、数歩踏み込みあい刀刃を振るえば、一瞬でどちらかが死ぬ。あるいは、どちらも死ぬ。
風が、強くなった。
闘志の風である。
いつもは、お藤は生まれ育った山小屋で過ごしている。
刀を打つ半月ばかりは、城に近い丘に用意された特別な鍛冶小屋に籠もるが、専ら仕上げと生活は生家で過ごすのが彼女のあたりまえであった。
炭を焼き、正確無比に割り、丁寧に薦に乗せて包む。運ぶのはいつも佐助であったり、漆手衆の若者だった。
佐助とは、ここしばらく会ってはいない。
季節が秋を過ぎようとしてる今、納得のいく炭を作製するのが難しくなっているため、お藤も暇がなく、また佐助も戦っているのだろうと知っている。だから我慢ができた。
手と顔を真っ黒にしながら、流れる汗の白黒となった筋を拭う。
薦を被せ直し、荷台に載せる。
そこで彼女は続く道から上がってくる人影に気が付いた。
「おじさん」
「お藤」
真田信繁である。彼はお藤に「おじさん」と呼ばれ、煙草入れの顔をぱっかり開くよう笑う。
「日も暮れる、今日はそこまでにいたせ」
「しかし火を作らないと三本目が。――」
信繁の持つ風呂敷に目を落とし、それが食材であることを察した彼女は「わかった」と苦笑して煤を払った。
くみ水で手と顔を洗い、拭うと、やはり年相応の幼い顔が現れた。目も大きく、髪は――。
「炭より黒いな」
「またそういう」
会うたびに、信繁は彼女の髪をそう評価した。墨ではなく、炭と。
信繁も羽織を脱ぎ、太刀を上がりかまちに置き、囲炉裏際に上がると大きなため息をついて胡座で座り込む。
「白湯も沸かす。まってて」
「たのむ」
そのあとは、静かな炊事と温かい温もりが増す。
熾火から火を熾しなおした信繁が、鍋の用意を始めたのだ。この時間が何よりも不思議だった。
佐助は幼馴染みであり、兄弟のような存在。彼と飯を食うときはお藤が作る。あの男は外で勝手に済ませることが多いから、連絡がないと作らないこともあるが、たいていは彼女が用意しておく。空振りだった場合は翌日の彼女の朝飯となる。
幼い頃は、父の手料理をふたりで食べていた。料理はそのころ見て覚え舌を含む五感全てでで完成させた。彼女の料理は、うまかった記憶の集大成である。
そこで、信繁の料理だ。彼の料理は、粗野だが雑味なく単純にうまい。煮こむのが好きなのか、碗ものが多い割には菜の塩漬けをたんと喰うときもある。味もばらばらだが、どれも優しい味がした。気まぐれで酒を隠し味にすれば、珍しいからと唐辛子を多く沈めることもある。不思議と評するのは、そこにあった。ばらばらなのだ。
「やはり米がうまいな」
「なんでおじさんの食い物はいつも味がばらばらなんだ」
「毎度同じように作れるほどの腕前がない。――というのは当然ながら、喰う相手の顔を見ながら作れば、それは変わるものよ」
「私の顔か。私は私だ」
「諸行無常。ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。お藤はお藤だが、今のお藤はさっきのお藤とは違う。常に、新しいお主だ。ほれ、味噌の香りに腹が鳴りそうだぞ、喰うが良い。よくできておる」
碗を渡され、お藤も囲炉裏脇で肩を並べて飯を食い始める。
「変わるものに対して、そのとき佳いものを作る。そうして人の世は積み重なってきた」
「刀のこともいってるのか」
「左様」
ずず――と汁を啜り合う。うまい。鳥獣の肉は臭いと忌避されがちだが、山育ちなら血抜きの技は心得ている。
「鉄の造りも、この技術発展めざましい現在、千年前、五百年前の古代の技術を再現しようとするなら、かえって発達したものが邪魔になる。そうだな、お藤」
「鉄の作り方は、おじさんにも秘密にしろっていわれてたんだけど、やっぱり観たら分かるよね」
「おまえほどじゃないがな」
お藤の仕事場のことである。
お藤は押し型を見て一期一振を作り上げ、その父である五太郎はその出来上がった姿を見て鉄を評価していた。その繰り返しは人知及ばぬ天才たちの試行錯誤の末、件の一振りを生み出したのだ。
その要の鉄、現代日本で神話となっている『玉鋼伝説』ともいわれる、その鋼。未熟な製鉄により生まれし、硬軟混ざり合った特筆すべき特性を持った鋼。
その精製が成される、お藤の仕事場。
作製したのは上杉の者らと、湯村の者らである。漆手衆はこれを補佐した。故に、なにをするか推察できるほどの設備と使い込みは、彼女らが何を成してきたかを知る手がかりとして残っている。
とうぜん知る者は見ている。推察はできるが正解にはたどり着けぬであろう。古代の刀匠が行っていた未知未熟な技術など、現代人には分かるものではない。否定の概念が総てを邪魔するだろう。
「風が出てきたな」
家の周囲が、ざわざわと鳴っている。
大きいものが倒れる音や、ぶつかり合う音、そんなものらに信繁はふとそう漏らす。お藤は興味なさげであったが、ふと思い至ったのか、碗から大きい肉を摘まみ上げると、信繁を見る。
「猪の肉だ」
「好きだろう、お藤」
「大好きだ。脂が甘くて、肉も臭みがあって美味しい」
「もっと喰え。そら。――」
信繁は鍋から碗に肉をたっぷりとよそってやる。熱い汁を掛け、手渡す。受け取るお藤は、ひとつ頷いて食べる。美味い。晴れの日にしか喰えぬような上物である。信繁が手配してくれたのだろう。
「お藤、変わりゆくもので変わっていった過去の一瞬を再現するお主の技術、瞠目に値する。日の本の宝だろう」
「たいへんだけど、鉄を作ったらみんなだって作れる。――上手くはないと思うけど」
「お藤、自分の刀を作りたくはないのか」
「おじさん。――」
箸が止まる。お互いに。
信繁は囲炉裏の火にじっと目を落としている。お藤はその横顔に寂しそうな色を感じ、そんな信繁が前にも何度か同じ表情をしたのを思い出す。
鍋の煮える音のみが――いや、また大きな音がする。うめき声のような音だ。三度と聞こえ、倒れる音が五度ほど重なる。
「わたしに自分なんてないよ。大それたことをしてるし、誰かに見つけてもらい、殺して欲しいくらい。佐助は生きる目的があるけど、私にはない」
「自分の刀だ、お藤」
信繁が、ゆっくりとお藤を見つめ返す。
「古の鉄の味と、この現代の技術の粋を凝らした、お前が美しいと感じるものを、強いと感じるものを、使う相手の姿を思い描き、ひとりの刀匠として世に出てみんか。日の本の宝を置いておくには、上杉も、豊臣も、狭きにすぎる。なにより。――」
箸を置き、お藤の頭をガシガシと撫でる。炭のような髪が、揺れる。
「お前はまだまだ世を知らぬ。おなごであるから仕方がないが、刀匠なら見聞を広めねばならぬ。温故知新、おまえはもっと世間を知らねばな」
「おじさん。――」
「今宵、ここにひとりの男が来る」
風の音が強くなった。
「お前を、越後から世に連れ出してくれるかもしれぬ男だ」
「やっぱり、お別れ鍋だったんだね、この猪」
「かもしれぬ、だ。お藤」
そして、引き戸が開かれる。
夜風に炎が揺れ、ふたりの影を陰影に揺らす。
現れたのは、信繁のいうとおり、ひとりの男であった。
草臥れた姿だった。薄汚れた姿であった。脇差しの柄はなく、巻いた布とハバキで刀身が収まっているうえに、太刀の柄糸もボロボロだった。
しかし、古代の鋼のように炎の灯りに照らされたその肉体は健全無比であった。
「真田が兵、さすがであったわ」
「生きておるとはな」
「筧屋の主に頼まれてな、途中から東へ西へと八方走り回って回り道よ。死ぬかと何度も思ったし、だいぶ遅くなったわ」
「お藤、この男だ。名を、柳生宗章という」
何かをいいたそうなお藤と、話を続けようとする信繁を手で制し、宗章は上がりかまちに腰を下ろす。
「斬ったのか」とは、信繁の問いだ。
「いや。――」と、宗章が首を振る。
十人ほどの武者が小屋の外に倒れている。組み討ちで総て倒されていたが、息はある。息があるというだけで、手足は折られているし、中には完全に気を失っているものも少なくはない。
そうした方がいいかなと、宗章は思ったのだ。
忍びではない赤備えを殺さぬよう、筧屋の主人に頼まれていたのをもしかしたら忘れていなかったのかもしれない。
「一対多数、多対一。同時に斬りかかれる人数には限界がある。狙う相手が動けば同時はまずあり得ぬ。誘い、誘いに乗り、八重の垣根をくぐるよう戦う。兵法――八重垣」
「いかにもな様相で言っておるが、柳生、お主ずっと鍋を見ておるではないか」
「喰ってもいいのか」
「――あつかましいやつめ」
だが、信繁は自分の碗に、たんまりとよそってやった。
お藤によそってやった肉より、もうひとつ小さいものを入れてやる。
「まあ、いまは喰え」
「かたじけない」
お藤は、その言葉に「いまは」と聞き返す。
その少女の言葉に、信繁と宗章は笑い会う。
「腹が減っては戦ができぬというではないか」
「美味いな、この肉。猪鍋か」
嚥下し、宗章も頭を掻いて言い直す。
「まあ、こうなってはな、真田どの」
「うむ。この信繁が斬らねば臣下に申し訳が立たぬ」
「おじさん。――」
お藤が箸を落とす。
かもしれぬ。
その真意に気が付いたのだ。自分が行くか行かぬかを決めるのではない。
真田信繁が柳生宗章を斬れば、越後に残る。
柳生宗章が真田信繁を斬れば、越後を出る。
このふたりは、死会うつもりなのだ。
「馳走になった」
「では、やるかね」
ふたりは連れ立って、戸から出て行く。お藤はそれを止められなかった。
だが我に返り戸口に迫ったとき、強烈な殺気で息を呑み、へたり込んでしまう。
初代兼定と、偽物村正が月光を跳ね返しギラリと輝いている。
互いの距離は、三間。
双方、数歩踏み込みあい刀刃を振るえば、一瞬でどちらかが死ぬ。あるいは、どちらも死ぬ。
風が、強くなった。
闘志の風である。
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