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猿と犬

第9話『剣者の忍法』

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 鉤縄を使う佐助は、単純な振り子運動での身のこなしではなかった。ときに引き、ときに緩め、手足を使い、枝を巻きこみ、幹を蹴り、滑り降り、前後左右の円形だけでなく、上下も加わった球形の死地に宗章を追い込んでいる。
 足下には青竹が散らばり、縦横無尽な身のこなしを阻害されているうえに、佐助の手裏剣は無尽蔵である。木々に隠してあるのだ。

(手練れだ。言うだけはある、まるで猿のようだ)

 二刀を使う宗章は、佐助のあらゆる攻撃を凌いでいた。ときに弾き、ときに躱し、ときに佇立で誘い、全身と耳と目と観、そして感と勘を駆使してこれに対抗していた。一点で球状の防衛陣を敷き、総て最小の動きで凌ぎきっている。

(あたらぬ。あ奴、背中に目でもついておるのか)

 どちらが追い詰められているのかといえば、どちらも追い詰められている。宗章は佐助の動きが加速していることに気が付いた。宗章自身が佐助の力を引き出しつつあったのだ。佐助は宗章が自分の動きを感じ取っているのを意識した。まるで自分の背後から覗き込まれてるかのような錯覚を覚えるのだ。
 長引けば、やられる。

「治部の、いや太閤の犬めがよぉ凌ぐ」

 わんわんと木々を震わせ、出所すら怪しい響きの声。佐助の話法である。耳の翻弄に宗章はたじろぐ。

「猿飛佐助、いやはや犬猿の仲とはうまくいうものよ」
「ほざけ」
「ちぇあ」

 脇差しが振られた。
 とうてい樹上に届かぬ間合いである。しかし。

「うヌ。――」

 佐助の鉤縄、その爪が木に食い込む寸前に棒手裏剣がこれを弾く。

(あやつ、俺の手裏剣を指だけでつまみ投げたのか)

 がくんとその身が落下する。
 しまった。そう感じたときには宗章の接近を許していた。二刀を広げた梟雄が猛然と――跳躍していた。

「えいやあ」

 裂帛の気合い。
 佐助のこめかみと胴を二刀が左右から襲う。必殺の挟み撃ちであった。

「きぇい」

 しかし斬撃は空を切った。佐助がみっつめの鉤縄を素早く駆使して体を引き下げたのだ。しかし、空を切れども切っ先は流れていない。双手各一刀の突きが佐助を追う。猿の崩れた円弧の動きは単純な振り子のように、ピタリと止まり揺り返す一瞬がある。
 そこを狙われた。

「猿飛破れたり」

 その瞬間である。
 突きが逸れた。
 次いで「む。――」と宗章が呻き、引きつるような表情のまま木庇となった根に乗り上げ、そのまま崖を滑落するように川へと身を潜らせていた。

「練り上げた附子ふしとふぐの毒よ。助かるまい」

 すっと現れたのは、ヨモギバライである。弓でもなく、無音で発射できる吹き矢である。極小極細の筒から発射された針が、宗章のふくらはぎに刺さったのだ。神経毒である。

「三つ数える間に四肢が痺れ、水死だ。とどめを刺しに行くか」

 まんじりとしない表情の佐助が降り立つと、ヨモギバライが佐助に問う。川下にうつ伏せで流れていく宗章の体を見ながら、彼らは動かぬ相手の肉体に何を思うか。
 顔面を沈めたまま、たっぷりと百は数えた。
 川向こうにまで流されたまま、水の淀みに体を引っかけ、揺蕩うように動かない。

「いや、いい」

 佐助は首を振る。
 炭焼きの老爺が死体を見つけ、なにやら向こうで話してるのが見えてきた。潮時であろう。

「正々堂々の騙し討ち。本望だろうて」

 ヨモギは毒消しである。ヨモギバライとは、すなわち毒のことである。
 彼の精製した毒物は、ひじょうに効能が強い。練り上げを行うからだ。血流の促進と毒の浸透を促す秘術である。故に忍法であった。

「破れた」

 佐助がぼそりと呟く。

「猿飛が、破れた」
「佐助。――」

 それは天才の挫折であった。
 人生の挫折は、何度かあった。柴田家の壊滅、義父の死、そしてお藤のこと。
 しかし術の挫折は今回が初めてであった。神聖不可侵の自負が、己が放った手裏剣を投げ返されることで破られたのだ。縦横無尽の身のこなしが、ただの一手で単純な円弧と振り子に支配されてしまったのだ。
 鉤縄を余分に持っていなければ死んでいたであろう。
 猿飛破れたり。
 宗章の言葉がいつまでも耳に残る。
 剣者の死体は、耳だけを水面から出すまで沈んでいる。そのまま半刻ほど警戒してみていたが、人が集まってきているのは頂けなかった。

「佐助」
「ああ、戻ろう。柳生か。剣者、恐るべし。二度と侮るまい」

 ふたりの忍者は、その場から去った。
 ただ馬だけが、ひょっこりと蹄をならして鼻息を立てる。その目は、いままさに担ぎ上げられている川向こうの主に向けられている。人足たちに引っ張り上げられ、川辺に仰向けに寝かされる。
 その瞬間、三、四人の人足がびっくりしたように腰を抜かせる。

「なるほど、死ぬ思いでやれば、人間、耳からでも呼吸ができる。本阿弥光徳どのに足を向けては寝られんなァ」

 宗章は生きていた。
 刺さりが半端であったが、毒は充分に自由を奪っていた。とどめを刺しに来られたら死んでいたであろう。そこで死んだフリ、死ぬふりをしたが、息ができなければ本当にフリでは済まない。
 故に、本阿弥光徳が見せた一家伝承の呼吸法を試してみたのだ。

「死んではおらん。もう体も動く。済まんが暖を取らせてくれ、なにただでとはいわん。銭ならある。身ぐるみ剥がそうとしたら、支払いはこいつになるがな」

 二刀を揺らしてむくりと起き上がった宗章に、人足たちはガクガクと頷く。そのひとりに銭を渡し、川向こうの馬を指す。

「あの馬、連れてきてくれ」

 聞こえたのか、馬は嫌そうな顔をした。

(しかし、あれが佐助。猿飛佐助。術に磨きを掛ける前に斬らねば次はなかろう)

 宗章は納刀し、腕を組みながら大きくクシャミをする。
 冬なら死んでたなと、改めて思うのであった。




 魚野川の東で衣服と体を乾かし休んだ宗章は、馬――嫌そうな顔をしている――に跨がりながら人足小屋をあとにした。
 さて、どうするかな。
 思案しながら、切り出し場まで遡上してから向こう岸へと渡ろうと馬首を巡らせる。増水していないので渡れるとのことだった。
 死んだものと思われている内に北上しておきたい。
 あわよくばこのまま隠密行動で月岡まで行けたら御の字だろうが、そうもいくまい。

(負けたな、しかし)

 完敗だった。
 生き残ったが、武術家としては負けの負け、大負けである。
 だが生き残った。
 生き残ったのだ。

「血の道に近ければあの世行き。毒か。川に毒を流すとかいってたのを正直に捉えておればよかったな。しかし、無音、無気配、無拍子。ヨモギバライとかいったか、不意打ちの極意を極めている。ふふ、手練れだ」

 こちらも対策を立てねばなるまい。
 考えの居付きに頭を振る。

「日が暮れるまでに山を越えねば。どれ、急ぐとするか。ん、急ぐのだが。おい、こら。――」

 鐙を三度鳴らし、やっと馬がだく足になる。

「敵地とはいえ味方なしか」

 宗章はため息をつく。耳からだ。残っていた水が、フっと抜ける。
 これは便利だと思った。

「猿と犬、まずは痛み分けだな。いや、俺のほうが分が悪い」

 渋面でため息をつく。
 こんどは口からだった。





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