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第三章 呪い目の不動明王

第24話『顔削ぎ御免』

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 月夜である。
 項垂れたような三日月の孤が、今の気持ちを表しているかのようだと、女侍姿の藤斬丸がため息をついたとき、前を歩く宗章の足が丁子路を折れて南へと向かう。江戸城を正面に、堀の方へと向かうのだろう。

 増上寺はかささぎ庵から「じゃあいくか」とブラブラ歩き回るのに付き合わされつつ、藤は男の背中をつまらなさそうに着いていく。

「静かよ喃。――」
「草木も眠るなんとやら。魑魅魍魎とて寝る時間だ」
「寝るのか、魑魅魍魎が」
「眠くなれば寝るさ」

 ふむ、けだ至極自然しごくじねんだな……と頷きながら、確かに眠いとあくびをかます。
 油断はしてないのだろうが、この柳生宗章という男、実に……何を考えているのかが分からない。いや、分かるのだが、真面目ではない。

「……ように思える」
「なにかいったか」
「真面目に探してないように思える、といったんだ」
「雲を掴むような話、こうして歩き回ってるだけでも褒められたいものだがなァ」

 宗矩からの目撃情報を総括すると、やはり武家屋敷周辺、堀の近く。そして下町が近い浅草西部。今は堀をぐるりと回りながら、そちらを目指そうとしてるのだろう。竹橋を過ぎ、大手門近くへときたあたりである。

「ただただ歩き回っているというわけではないのだが。……なあ、藤斬丸。俺は人間が発する闘争の気配を察することがなんだが、鬼の場合はどのようにして感受するのだ。今はそれに頼っての江戸行脚なわけだが、うむ、あの冥界に漂う空気というか、ねっとりとした腐敗の気というか、なんだ、鬼がもたらす鬼気にも似た――。そう、。アレを感ずるのは、やはりお主ら鬼の方に分があるのだろうか」
「なんだ、件の『のっぺり坊主』のとやらを私が感付くかに賭けて歩き回っているわけか」
「有り体にいえばな。――」

 確かに、この柳生新陰流の遣い手である柳生宗章。この武士は、空気の流れのみならず五感の働きがすこぶるよい。目から入る情報だけではない。音や匂い、温度の流れからも周囲の状況を推し量り、鋭い精度で演繹して対処してのける。
 その精度は、無論、超人的であれども、すべては人間の範疇である。が、故に備えているのだ。

 鬼の藤斬丸は、そしておそらく落葉御前もそうであろうが、鬼として変生した際に五感を特殊に鋭敏化されている。これは人の範疇に収まらず、まさに人外の鋭敏さを持ち合わせている。膂力、筋骨の頑丈さは言うに及ばず、生命体としての頑健しぶとさも、変生したての頃から具わっているのだ。

 具備、ととのうておる――か。

 鬼として、二十と有余年を過ごしてきた藤斬丸が、改めて落葉御前が婆娑羅舞の口上に返す柳生宗章の「具備、ととのうておる」というあの言葉を思い返す。
 すると、その意味合いに新しい推察が加味されていく。

 人類ひとは常に自分よりも強いものを相手取って生き残ってきたのだ。刀刃忍術の強さだけではない。夜の暗闇を火で、灯りで。冬の寒さも、川の乱れも、病も、作物の種のまき方も、何もかも。
 況んや、鬼をや――。

 人の力で、天然自然人外を制することを種の命題のひとつとして磨き上げてきたのだ。

 具備、ととのうておる――か。

 もういちど、心の中で呟く。

「なあ、宗章。のっぺり坊主とやらが魑魅魍魎の類いだとして、その気配を鋭敏に捉える可能性があるこの私を――鬼を連れてきてるんだよな。――」
「そうだが」
「生まれ若いとはいえ、わたしがうろついていたら、のっぺり坊主とやらも感付いて警戒するのではあるまいか」
「早くいえ。――」

 足を止めて振り向く武士。確かにそうだ。
 相手が好きで襲ってくる、ちょっかいを掛けてくるものとばかりに歩いていたが、確かにそうだ。

「妖魅は、妖魅を感じるものなのか、やはり」
「佐渡で御嶽兵衛が御前の妖気につられてマンマと釣られたのは知ってるだろう」
「知らん。――が、まあそんな感じではあったのだろうな」

 なるほど、と腕を組む。
 藤も「歩き回るのは構わないが」と懐をぽんと叩く。小遣いの音が少し響く。

「むさ苦しい男と、可憐な女侍が共だってぶらぶらしていれば、夜盗の類いであっても警戒するだろう。むしろこっちが怪しさの塊だ。そうは思わんかな、おさむらいさんや」
「そうか、強き者には近寄らん。ししとてそうだ。鬼のお主の実力が、のっぺり坊主とやらよりも弱いことに期待しよう。むしろ餌となって釣れれば大した物よ」
「むかつく」

 ふたりは歩き出す。
 心当たりはあった。浅草である。もとより目撃情報が多い地区だが、とりわけ気になったのが「浅草寺は、江戸城の鬼門《北東》に当たるか。――」と懸念した宗矩の呟きであった。

 かくして、てくてくと徒にて詣でけり、浅草寺。
 昏く、静かな寺町が広がっている。
 昨今の話のせいか、夜回り相手の蕎麦屋も屋台を引っ込めているとか、いないとか。さて、と宗章は周囲をぐるりと見回す。大仰に、わざとらしく。

 誘いには乗らず、か。
 と、藤斬丸に促す。藤は瞳を黄に輝かせ、ぶわりと鬼気を放つ。釣られて来るならよし、相手が気配を消して逃げるなら、実体があれば宗章が察知しよう。

 ――誘いには乗らず、またはいないのか。
 角を生やしより強い妖気を放とうとする藤を止め、宗章は「ちと確かめたいことがある」と腰の喘月に手を掛けた。

「……。――」

 、と、目で藤斬丸に告げると、宗章は喘月の鯉口を押し開ける。くん――とハバキが鳴り、妖刀の刀身が一寸露わになった瞬間、破邪不動の三枚札の封印から爆発的に呪詛が噴き出した。
 宗章の心胆がぶるりと震える。
 柳生水月の心胆の境地であっても、押し込められた妖刀の呪詛は御しきれるものではなかった。
 解呪を経たとはいえ、いささかの衰えも見られない。むしろ、鋭くなったとの見解は沢庵宗彭とも一致している。

 あふれ出るそれが鯉口より漏れ出すほどに落ち着くと、静かに抜き放つ。二尺四寸五分、妖刀の沸が三日月を跳ね返すように瞬く。

 右片手で水平薙ぎ。――ぴたりと一文字腰できっさきが止まる。
 刀をコトリと倒し垂直に振り上げ、双手で唐竹割り。――刀身は虚空に浮く舟のように水平でぴたりと止まる。

 血振りし、納刀。
 そのとき、藤斬丸の襟足がぞわりと逆立つ。――妖気である。

「釣れたか。――」

 左片手に喘月を垂らし、ゆっくりと振り返る。
 宗章と、そして藤斬丸。あと、俯く三日月が見た。

 十間幅の通りに立つふたりの、十間ほど後ろに、黒き影がひとつ。

 頭巾を被っている。
 顔はない。
 いや、丸い乳白色の瓶底のようなめんが貌に貼り付いている。いや、あれが貌か。はたまた。そして首から下は、漆黒の忍び装束である。
 中肉中背、見える肌といえば指先だけである。

 忍者か。
 そう思うも、その気迫は――妖魅のそれである。

「喘月、だな。――」

 貌のない忍者が問うてきた。
 問うて、目のない貌で、喘月を見ている。
 魔封の鞘の内で眠る喘月に、其奴は手を伸ばしかけ――。

「どちらさまかね。――」

 と、笑いかける宗章が一歩踏み込むや、「貴様、誰だ。――」と、問い返して身構える。

「弥八郎ではないな」と、無貌の忍者。
「弥八郎ではないよ」と、宗章。

 鼻肌に感じる鬼気が、ヒリと強まった。
 柳生宗章の指先が、顎を撫で掻く。思い出すようにしていると、藤斬丸が「興徳弥八郎、喘月の遣い手だった男。――」と小さく教えて上げている。

「貴様が、いまの喘月の遣い手か。いや、いや、そうではあるまい。少輔太郎しょうのたろうが大納言にくれてやったと聞く。それをなぜ貴様が持っている。いや、腰に差している。それは人の手には余る物。妖魅鬼人の類いでさえ呑まれる妖刀よ。なぜ貴様が差している。なぜ貴様は正気なのだ」
「よぉ喋る忍者だ。お主、さては弥八郎に殺され掛けた者ではあるまいか。いや、その鬼気、文字通り鬼気迫る殺気、闘志、人の身で在りながら鬼と成ったか。――」

 忍者の口にした少輔太郎は、毛利輝元の別名である。
 そして宗章の推察の通り、おそらくこの忍者は喘月を以て弥八郎に斬られた生き残りなのではあるまいか。

「妖魅、喘月。遣い手もろとも滅ぶべし」
「仕掛けてくるなら相手をするが。――」

 様々な詮索は、もはや脳裏から遠ざかる。
 この無貌の忍者、鬼の他はあるまい。宗章は(角こそないが。――)との妄念を最後に、水月の心胆へと移行する。
 頤をやや上げた、半眼の仏の面持ち。
 その右手は、脇差しの兼定の柄へと置かれている。

 ――喘月ではない。
 忍者は訝しんだ。
 しかし、心胆覆滅。腰を大きく落とし、蹲るような構え。その漆黒の塊が、怒濤の殺気を打ち放つ。

 ――や。
 その気迫に清然なるものを感じ、宗章は一歩右足を踏み出す。
 辛うじて、いまだ十間の間合い。やや忍者が退いたのか、果たして。

 気配が弾ける。
 しまった、と思ったときには、無貌が引く生白き孤影が藤斬丸へと奔っていた。

顔削ぎ御免カオソギゴメン。――」

 地面すれすれ、膝下より迫り来る忍者が跳ね上げる刀身が、藤斬丸の顔面を剥ぐかのような軌跡で首元に閃いた。
 直刀に近い刀身がズワンと空間を切り裂き、あわや藤の真白き肌に斬り込まれたかと思った矢先である。

 ――ビシッ。

 金属の面が金属の一閃を打ち反らす音が響き、寸毫の火花を飛ばして忍者の体がトンボを切って後方へと撥ね下がった。

「舐められたもの。――」

 藤斬丸は、その体内よりひと振りの刀身を生やしていた。
 二尺に満たぬほどの刀身が胸元より突き立ち出で、無貌の忍者が刀刃を打ち反らせていたのだ。肌には、傷ひとつない。

 呵々と「ほう、この喧嘩、藤に売ったか。――」と存外面白そうに笑う宗章だが、藤斬丸のほうが「手出し無用」と乗り気なのが笑いを誘ったのだろう。

「よかろ。存分に仕れ。鬼の喧嘩だ。――」

 宗章は腕を組んですたすたと後退る。

(こやつ、初見であれを凌いだか。――)

 無貌の忍者が、逃げるか闘うか逡巡する。
 が、すぐにまたあの低い構え。――遠い。しかし、藤はヒリとした痛みを肌に感じる。殺気である。

「我が身に宿りししち振りの備前刀。その身で存分に味わえ。なあに、口を割るくらいには活かしておこう。――」

 ぴ、ぴ。
 服のそこかしこから、鋒が伸び生える。ふた振り。
 左右の前腕より、ひと振りずつ。
 胸元に出したものをあわせ、御振りの刀身が、肌を泳ぐ鮫のひれのように肉体を泳ぎ、沈み、そして風を切って現れる。

 額に生えた角は、藤の銘を持つ茎のものか。
 刃の鬼と化した藤斬丸、その名の神秘が今ここに露わとなった。柄を持ち術を行使する姿ではない。まさにその身より刀刃を生じ操る剣鬼術の化身である。

 これには宗章も「……。――」と唸る。

 忍者は「怪し」と、ひとこと。
 双方、言外に「委細かまわず」とほくそ笑む。

 お手並み拝見といこう。
 宗章はふたりの対決を前に、考える。
 果たしてこの忍者、殺せばよいものか。活かせばよいものか。

(悩む喃)

 刹那、ふたつの鬼が銀光引いて衝突し五条の火花を引いて江戸の闇を舞い散った。


 
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