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第三章 呪い目の不動明王
第20話『魔剣――疾風の太刀(中)』
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新陰流の祖、上泉伊勢守信綱。この上泉信綱の弟子が、宗章の父である柳生石舟斎である。
新当流の遣い手であった父とともに、上泉信綱に師事したのが、いまの江戸柳生新陰流道場の重鎮、長谷川左近翁である。
「……これは驚き。盆にはまだ遠いと思うたが。お主、死んだのではなかったか。それともこの老いぼれ、もう死んで彼岸で会ぅておるのか」
「お久しゅうござる。このこと、ご内密に。墓まで」
「もう片足どころか、首まで埋まってる」
道場は無人。今日は休みであろう。それを見計らって、旧知を訪ねた宗章である。
――長谷川左近。もう米寿も過ぎ、茶筅の曲げも結えぬのではと思う禿げ上がった頭でかなりの高齢であるが、背筋のびゆき、木剣執れば本国大和の柳門十哲にも劣るまい。
「爺さまが死ぬ前に、ちと陰流の技を見たいと思うて」
「ほ。陰流。――」
ぎらりと、射殺す視線。
宗章の心胆に冷たいものが奔る。
「新陰流ではなく、陰流を。――」
「親父どのの元流は新当流でござったが、ゆいいつ陰流から新陰流へと学びを移したのは、柳生の中では左近爺のみゆえ」
なるほど喃、と腕を組む左近。
「よろしい。もうかれこれ、記憶も定かではない昔の話だが、他でもない五郎坊《ごろぼう》の頼みとあれば、断れぬ。――このこと、又坊は知っておるのか」
「まあ、だいたいは。――」
「ならよい」
五郎坊――柳生五郎右衛門宗章のことである。
又坊――柳生又右衛門宗矩のことである。
この爺さまには、両名とも厳しく躾けられてきた。頭の上がらぬ御仁であった。
「では始めようか喃」と左近。
座した姿勢から、脇差しを引き抜きつつ一条の銀光が薙ぎ奔らせた。鯉口を切る音が鳴り止んだときには、抜き撃ちされた脇差しが宗章の右頸動脈までわずか数ミリの所まで鋒が差し込まれていた。
同時に、血潮を虚空に引きつつ肉薄した宗章が左近の左手に滑り迫り、右の肘を側頭部へと叩き込んでいた。鈍くも固い手応えに、岩がかち合うような重い音が響き渡る。
その残響が止まぬうちに、宗章の顔面に左近の頭突きが決まり、仰け反ったところへ脇差しが突き下ろされるも、宗章、爺に投げを打ってこれをあっさりと取り上げる。
「無刀捕り、お見事。――」と、体を起こす左近。
「危うく殺されるところだったわ」と宗章。
「死人なのだ、気にすることはあるまい」
「そうもいかんのだ」
痛たたたた、と呻きながら座り直すふたり。
「殺す気で肘を叩き込んだが、丈夫よ喃、左近爺」
「首も浅手、鼻も折れておらぬか。渾身だったのだが、さすがは五郎坊。――」
「宗矩ならいかがしたと思う」
「そもそも、見たいなどとはいわぬだろうよ。見せるのは死に往く者へのみ。それが他流の技術。又坊ならば、道場稽古の折、ひょいと木剣を放ってきて『いざ仕る』と、まあ、こうくるだろう。調べ上げた陰流の技を出させるようにナ」
「さもありなん」
ふたりは笑い合う。
「ふむ、祐定か。――」
「会津兼定じゃよ。知ってる名前を適当に口にせず、お主ももう少し刀を鑑る目を――。…………おい、返せ。こやつ、くすねる目をしておる」
「ときに、左近爺。――」
捕った脇差しを返しながら聞く。
「毛利剣勇八部衆なるものに聞き覚えがないか」
「なるほど、それで陰流か」
にんまりと笑う。
心当たりがあるらしい。
「すでにほとんどが、関ヶ原で討ち死にしたと聞く。いかな剣達者も、戦の最前線で戦い続けることは難しい。水月の境地で感受すれど、間合いに入れば斬らねばならぬ。殺さねばならぬ。連続する殺人は常の心胆では抱えきれぬものよ。体力は尽き、呼吸と水月は乱れ、縦横無尽から迫る刀槍弓銃弾にやがて命を散らす」
「……。――」
「愛憎怨怒のみが不覚を取る要因ではないのだぞ、五郎坊。これ、つまらなさそうな顔をするでない。大事な話ぞ。いかに剣達者であろうと、人は弱い。脆い。血の管がたったの一本切れただけで死ぬ。助からぬ。一升の血を撒く頃には地獄へ落ちておる。よいか、そもそもだな――」
「すまぬ、年寄りの大好きな説教に付き合ってやりたいのはやまやまなのだが、毛利の件。――佐々木重三郎と立ち合わねばならんのだ」
と、ぽかんと左近は口を開け、「なんとも、死人が死人と立ち合うか」と顎を撫でこする。
「で、陰流か。俄には信じがたい。――」
「で、陰流なのだ。……知っておるのか、佐々木重三郎のこと」
「知っておる。正しくは、その名だけは知っておった」
翁は語る。
かつて、新陰流と陰流が、密かに立ち合った一件である。
瀧泉寺の境内で、ふたりの武士が立ち合ったのだ。真剣を用い、余人を介さず。
「では、小杉大五郎の名も。――」
「斬られたことは確実。だが、首級が見つかっておらぬ」
なるほど、喃。
と、左近は立ち上がる。壁に並んだ木剣のひとつを取り、宗章に放り投げる。自分もひとつ手に取り、ブンと……いや、ヒュッと風を切りピタリと止める。
軽く見えるが、頭蓋を小砂利の如く砕く重さが看て取れる。
「仕掛けてくるなら相手をするが。――やるかね」と、左近。
「是非もなし。――」
宗章は木剣を右肩に担ぎ左半身を前に曝すよう構える。誘いである。
(最後の稽古より、二十余年。よもやここまでの剣境にお立ちなさるとは)
首を掠められたのは、頭突きを喰らわせられたのは、この漢に手加減されたのではなかろうかと、頭をよぎる。
(相変わらずの怪物爺さまだ)
彼を凌駕するのは肉体の若さと体力のみではないかと思い知る。手など抜いてはいない。術の世界を生きる老爺、実に危険極まりない。
「これが最期の稽古となりましょうなァ」
「存分に」
正対。彼我の間合い、五間と一歩。
「――陰流、長谷川左近厳綱、お相手仕る」
「――新陰流、柳生五郎右衛門宗章、一手ご教授」
風きりの音が、幾たびか。
肉を打つ音が、ひとたび。
夕刻、道場で大の字に寝る左近を見つけたのは、本国大和より弟子修行で寄越された門下の小僧であった。
起こそうとする彼を制し、左近は感極まるように嘆息する。
「心地よい痛みじゃ。もう少しここで寝ておる。……いや、打たれたのではない。腰が少しな。ふふふ」
しかし小僧に促され、しぶしぶと左近は立ち上がる。
その表情はどこか寂しくも誇らしく見えたという。
「佐々木の技を見とうないと言っておきながら、陰流の遣い手と立ち合い稽古してこのザマとは、笑えぬな。くっくっく――」
「笑っておるではないか」
藤斬丸がかささぎ庵に帰ってきた宗章の額に、くっきりと赤い痣が出来ているのを見て、事の次第から笑っているところである。
「明日の朝には青黒くなっているな。まったく。――しかし、お主を打つとはどこの猛者だ」
「柳生の大妖怪だよ。――親父どの以上に、俺に剣を仕込んだバケモノだ」
手入れを任されていた喘月と兼定の脇差しを刀掛けに移しながら、藤斬丸は「見えたのか」と聞いてくる。その老爺の剣ではない。見るべき陰流の戦闘思念そのもののことを問うているのだ。
「見えたともいえるし、見えなかったともいえる」
「どういうことだ」
「考えても無駄だということが分かった」
「おでこを打たれただけ損だな」
「そうでもないさ」
餞別のようなものだ。
死出の旅路への。
「御前。――」
湿布を用意している落葉御前に声を掛け、「件の贄、小杉源太郎。首級が見つかっておらぬらしい」と言付ける。
「邪教の呪い、妖魅のお主に解けるか。――」
「見てみなくては、判断は。しかし、一命に代えても」
「死ぬな死ぬな。まだ、最初のひとりはもとより、五人残っておるのだからな」
練りあがった湿布をペシャリと貼られ、思いのほか沁みるわ生臭いわのそれに眉をしかめる。
それから新月までの日々、宗章は只管に沈思黙考へと入った。
人が鬼となるならば、剣者が変生すればなんと成る。
わかりきっているではないか。
剣鬼である。
新当流の遣い手であった父とともに、上泉信綱に師事したのが、いまの江戸柳生新陰流道場の重鎮、長谷川左近翁である。
「……これは驚き。盆にはまだ遠いと思うたが。お主、死んだのではなかったか。それともこの老いぼれ、もう死んで彼岸で会ぅておるのか」
「お久しゅうござる。このこと、ご内密に。墓まで」
「もう片足どころか、首まで埋まってる」
道場は無人。今日は休みであろう。それを見計らって、旧知を訪ねた宗章である。
――長谷川左近。もう米寿も過ぎ、茶筅の曲げも結えぬのではと思う禿げ上がった頭でかなりの高齢であるが、背筋のびゆき、木剣執れば本国大和の柳門十哲にも劣るまい。
「爺さまが死ぬ前に、ちと陰流の技を見たいと思うて」
「ほ。陰流。――」
ぎらりと、射殺す視線。
宗章の心胆に冷たいものが奔る。
「新陰流ではなく、陰流を。――」
「親父どのの元流は新当流でござったが、ゆいいつ陰流から新陰流へと学びを移したのは、柳生の中では左近爺のみゆえ」
なるほど喃、と腕を組む左近。
「よろしい。もうかれこれ、記憶も定かではない昔の話だが、他でもない五郎坊《ごろぼう》の頼みとあれば、断れぬ。――このこと、又坊は知っておるのか」
「まあ、だいたいは。――」
「ならよい」
五郎坊――柳生五郎右衛門宗章のことである。
又坊――柳生又右衛門宗矩のことである。
この爺さまには、両名とも厳しく躾けられてきた。頭の上がらぬ御仁であった。
「では始めようか喃」と左近。
座した姿勢から、脇差しを引き抜きつつ一条の銀光が薙ぎ奔らせた。鯉口を切る音が鳴り止んだときには、抜き撃ちされた脇差しが宗章の右頸動脈までわずか数ミリの所まで鋒が差し込まれていた。
同時に、血潮を虚空に引きつつ肉薄した宗章が左近の左手に滑り迫り、右の肘を側頭部へと叩き込んでいた。鈍くも固い手応えに、岩がかち合うような重い音が響き渡る。
その残響が止まぬうちに、宗章の顔面に左近の頭突きが決まり、仰け反ったところへ脇差しが突き下ろされるも、宗章、爺に投げを打ってこれをあっさりと取り上げる。
「無刀捕り、お見事。――」と、体を起こす左近。
「危うく殺されるところだったわ」と宗章。
「死人なのだ、気にすることはあるまい」
「そうもいかんのだ」
痛たたたた、と呻きながら座り直すふたり。
「殺す気で肘を叩き込んだが、丈夫よ喃、左近爺」
「首も浅手、鼻も折れておらぬか。渾身だったのだが、さすがは五郎坊。――」
「宗矩ならいかがしたと思う」
「そもそも、見たいなどとはいわぬだろうよ。見せるのは死に往く者へのみ。それが他流の技術。又坊ならば、道場稽古の折、ひょいと木剣を放ってきて『いざ仕る』と、まあ、こうくるだろう。調べ上げた陰流の技を出させるようにナ」
「さもありなん」
ふたりは笑い合う。
「ふむ、祐定か。――」
「会津兼定じゃよ。知ってる名前を適当に口にせず、お主ももう少し刀を鑑る目を――。…………おい、返せ。こやつ、くすねる目をしておる」
「ときに、左近爺。――」
捕った脇差しを返しながら聞く。
「毛利剣勇八部衆なるものに聞き覚えがないか」
「なるほど、それで陰流か」
にんまりと笑う。
心当たりがあるらしい。
「すでにほとんどが、関ヶ原で討ち死にしたと聞く。いかな剣達者も、戦の最前線で戦い続けることは難しい。水月の境地で感受すれど、間合いに入れば斬らねばならぬ。殺さねばならぬ。連続する殺人は常の心胆では抱えきれぬものよ。体力は尽き、呼吸と水月は乱れ、縦横無尽から迫る刀槍弓銃弾にやがて命を散らす」
「……。――」
「愛憎怨怒のみが不覚を取る要因ではないのだぞ、五郎坊。これ、つまらなさそうな顔をするでない。大事な話ぞ。いかに剣達者であろうと、人は弱い。脆い。血の管がたったの一本切れただけで死ぬ。助からぬ。一升の血を撒く頃には地獄へ落ちておる。よいか、そもそもだな――」
「すまぬ、年寄りの大好きな説教に付き合ってやりたいのはやまやまなのだが、毛利の件。――佐々木重三郎と立ち合わねばならんのだ」
と、ぽかんと左近は口を開け、「なんとも、死人が死人と立ち合うか」と顎を撫でこする。
「で、陰流か。俄には信じがたい。――」
「で、陰流なのだ。……知っておるのか、佐々木重三郎のこと」
「知っておる。正しくは、その名だけは知っておった」
翁は語る。
かつて、新陰流と陰流が、密かに立ち合った一件である。
瀧泉寺の境内で、ふたりの武士が立ち合ったのだ。真剣を用い、余人を介さず。
「では、小杉大五郎の名も。――」
「斬られたことは確実。だが、首級が見つかっておらぬ」
なるほど、喃。
と、左近は立ち上がる。壁に並んだ木剣のひとつを取り、宗章に放り投げる。自分もひとつ手に取り、ブンと……いや、ヒュッと風を切りピタリと止める。
軽く見えるが、頭蓋を小砂利の如く砕く重さが看て取れる。
「仕掛けてくるなら相手をするが。――やるかね」と、左近。
「是非もなし。――」
宗章は木剣を右肩に担ぎ左半身を前に曝すよう構える。誘いである。
(最後の稽古より、二十余年。よもやここまでの剣境にお立ちなさるとは)
首を掠められたのは、頭突きを喰らわせられたのは、この漢に手加減されたのではなかろうかと、頭をよぎる。
(相変わらずの怪物爺さまだ)
彼を凌駕するのは肉体の若さと体力のみではないかと思い知る。手など抜いてはいない。術の世界を生きる老爺、実に危険極まりない。
「これが最期の稽古となりましょうなァ」
「存分に」
正対。彼我の間合い、五間と一歩。
「――陰流、長谷川左近厳綱、お相手仕る」
「――新陰流、柳生五郎右衛門宗章、一手ご教授」
風きりの音が、幾たびか。
肉を打つ音が、ひとたび。
夕刻、道場で大の字に寝る左近を見つけたのは、本国大和より弟子修行で寄越された門下の小僧であった。
起こそうとする彼を制し、左近は感極まるように嘆息する。
「心地よい痛みじゃ。もう少しここで寝ておる。……いや、打たれたのではない。腰が少しな。ふふふ」
しかし小僧に促され、しぶしぶと左近は立ち上がる。
その表情はどこか寂しくも誇らしく見えたという。
「佐々木の技を見とうないと言っておきながら、陰流の遣い手と立ち合い稽古してこのザマとは、笑えぬな。くっくっく――」
「笑っておるではないか」
藤斬丸がかささぎ庵に帰ってきた宗章の額に、くっきりと赤い痣が出来ているのを見て、事の次第から笑っているところである。
「明日の朝には青黒くなっているな。まったく。――しかし、お主を打つとはどこの猛者だ」
「柳生の大妖怪だよ。――親父どの以上に、俺に剣を仕込んだバケモノだ」
手入れを任されていた喘月と兼定の脇差しを刀掛けに移しながら、藤斬丸は「見えたのか」と聞いてくる。その老爺の剣ではない。見るべき陰流の戦闘思念そのもののことを問うているのだ。
「見えたともいえるし、見えなかったともいえる」
「どういうことだ」
「考えても無駄だということが分かった」
「おでこを打たれただけ損だな」
「そうでもないさ」
餞別のようなものだ。
死出の旅路への。
「御前。――」
湿布を用意している落葉御前に声を掛け、「件の贄、小杉源太郎。首級が見つかっておらぬらしい」と言付ける。
「邪教の呪い、妖魅のお主に解けるか。――」
「見てみなくては、判断は。しかし、一命に代えても」
「死ぬな死ぬな。まだ、最初のひとりはもとより、五人残っておるのだからな」
練りあがった湿布をペシャリと貼られ、思いのほか沁みるわ生臭いわのそれに眉をしかめる。
それから新月までの日々、宗章は只管に沈思黙考へと入った。
人が鬼となるならば、剣者が変生すればなんと成る。
わかりきっているではないか。
剣鬼である。
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