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第二章 うつつの刺客ゆめの仇
第13話『婆娑羅舞(下)』
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昏き、夜であった。
見上げども、月は微か気配も残さず消えている。
時刻は丑三つ、まことの新月になった頃合いである。
岩盤を削り立てた慰霊の碑が、聳え立つ黒雲のように滲んで見える。
星の灯りも、細く頼りない。
虫の声もなく、ただただそよりともせぬ澱んだ空気があたりに満ち満ちている。
妙生寺の庵より、ここ、碑前までは、およそ雑木を縫う一本道。御前はじめ藤斬丸は「先に碑前にて」と、庵をあとにしていた。残った宗章はそれを見送り、縁側でしっかりと足下を――草鞋を締め直し、箇所の結び目を緩く湿らせ、引き締める。
ついで喘月を腰に、その柄糸を湿らせる。これも結び目を引き締め、手の内が滑らぬ用心である。
「そのう……旦那」
出立を整えている宗章の様子を、邪魔をせぬよう見守っているのが、かの猪頭、御嶽兵衛である。
御嶽は、さしもの武士とはいえ、どう看破してもただの人間である宗章なる仁を、ほんとうに不思議そうに見ている。
「旦那。――」
「どうした」
「いえネ、どうも不思議で不思議で。この俺ァ、人の姿になるまではずいぶんと命をすすって生きてきましたが、旦那、宗章の旦那、あンたはあの御前が力を恃むほどのおサムライなんでしょうか。とてもそうは見えねえ」
「ずいぶんと、やはり、昨夜はこっぴどくやられたようだ喃」
と、笑いながら立ち上がる宗章。
その姿は、きつく結い直した茶筅の髪、四角いがまろやかな仏像の如き微笑み、大木が根を張るが如き立ち居姿。腕も太く、肩も胸も広い。
袖なし羽織に、伊賀袴。まさに益荒男の姿である。
しかし、人ではないか。
ただの人間ではないか。
疑問に思う表情の彼に、「どうだ、試してみるか」と宗章は誘いをかける。もちろん冗談であるのだが、その表情はどちらとも取れる。
どうも試す気にはならなかった。
それで正解だとも思った。
「人が、魑魅魍魎に勝てるはずがない。と、思う手おるのだろうな。しかし、かつては鬼退治といえば、武士の勤め。なあに、俺が死んでも弟がなんとかするだろう。安心せい」
「しかし、しかし旦那」
なおも御嶽は食い下がる。
「俺の腕力は、旦那よりも強いです。たしょう斬られたって、俺ァ平気だ。走ったって、跳んだって、人間は鬼には敵わねえ」
「そうか、御嶽兵衛。お主、俺の命の心配をしてるのではなく、落葉御前が御嶽よりも劣るであろうこの宗章を恃みにしているのが、要するに、気に入らぬといっておるんだな。ははは、正直な男よ。嫌いではない。――」
御嶽はびくりと、「いや」と否定するが、さすがに落葉御前の目がない今は「そうですがネ……」と渋々認める。
当然だろう。
筋力も瞬発力も、強靱さもなにもかも、素体としての、生き物のちからとしては、鬼や妖怪のほうが上であろう。
当然なのだ。
「御嶽兵衛、俺には術がある」
「術。――」
「剣術だ。まあ、細工は流々、あとは結果をご覧じろとな」
「流々。――」
たしか、なんといってたか。
「しんかげりゅう」
ぼそりと呟いた御嶽に、「それよ」と笑う。
「旦那、あんた、いったい何処の誰なんだね。さる家の放蕩息子ってのは、嘘なんだろう」
「いや、それはほんとうだ」少し傷つく宗章。しかしほんとうのことだ。
「嫁も娶れず、旅に出されたと……」
「そこは違う。話が伝わってるのか。おのれ、奉行」
「……。――」
「生きて帰ったら、名を教えてやる」
では、そろりと向かうかと、宗章は御嶽を促す。
まあよい、この男の腕前、しかと見届けよう。
御嶽は、頭を切り替えた。
この仇討ちの立ち合いに、御嶽を誘ったのは、落葉御前自身。向かわぬ理由はない。
見届けよう、あの大妖が認めた男の力を。
「へぃ」
追する人足頭を従え、宗章は右手の喘月を腰に差す。
虫の声も、やはり聞こえぬ。
御嶽は完全に人の気配になっているにも拘わらず、立ち合い必殺の気配にか、はたまたここを通った御前と藤斬丸の鬼気ゆえか。それは分からない。
スン――と、鼻を鳴らす。
道の左右に、ぽつりぽつりと、灯りが。
拳大の火の玉であろう。道を照らすようにか、碑までの案内のためか、導くように列を作っている。
(これが鬼火というものか)
ひょいと右目をつむったまま、感心する。
灯りがあるにせよ、右目を闇に慣らしておけば、急に灯りが消えても右目を開いて対応できる。
かつてはこれで何度も命を拾ったことがある。
道を往き、呼吸と心胆を整え、微かな星明かりが覗く中、宗章は碑の前へと辿り着く。
碑の前には、藤斬丸。
碑の壇には、落葉御前。
「新月でございます。宗章どの、お覚悟は。――」御前の言葉。
「具備ととのうておる」宗章の応え。
具備。
具とは、能力のそなえ。
備とは、状況のそなえ。
身体と武器、出立に於いていかに能力を具えているか。
心胆と思考、精神に於いていかに能力を備えているか。
宗章は「ととのうておる」と即座に首肯した。
もはや、喘月解呪の儀を執り行うほかはなかった。
壇上の御前が、変生する。
胴箔紅入の鬘帯で髪をまとめ、垂髪を程よく背へと流している。純白の小袖に、これも白の打ち掛けは薄く羽衣が如し。小面をつけてはいないが、天冠を被り鬘扇を手にしている。
これが衣緋色ならば、能が姿、天人の装束である。
白き衣は、弔いの色である。
死に装束であり、送り装束である。
「鬼ガ『婆娑羅舞』、奉る」
香の香りが、ゆるりと漂い始める。宗章の後ろで「ひぃ」と息を呑む声。御嶽兵衛が後退り武士から離れ木立の影へと隠れた音。ついで、シャンと、天冠の鈴が斬り裂くよう鳴る、耳の奥へと抜けるような刺激。
香の香りが、いや、濃度を増した反魂香の煙が碑の周囲を覆い漂い始める。
「……。――」
ぞくりと、首の総毛が逆立った。
みしりと、喘月が軋みを上げる。
生きたまま地獄へと落ちたかのような気配。反魂香は、死者の世界と生者の世界、彼岸と此岸を繋ぎ溶かす魔性の香。
魑魅魍魎が秘術、最大の禁術である死者蘇生の香。
この煙晴れるまでの生を死者に与え、香が燃え尽きるまで夢と現は迎合する、世の理をねじ曲げる外法。
鬼の声が響き渡る。
隔絶された領域が、舞と扇で広がり往く。
白き天鬼が幽玄の中舞い踊る。あたかもすでに夢の中で舞うかのように、天と地とを分け隔てなく舞う。舞って、鬼の声なき声、鬼哭が如き旋律がすべての光りと音を消し去って行く。
柳生宗章はつま先を開き、やや浮き身に重心を下げ、頤を上げ、口も目も、半分の開き。鬼気が流れゆく中でも、泰然とした仏の微笑み。
「そのむかし、大和にとある公卿在りけり。――」
藤斬丸が、やも優しく耳に届く声音で語り出す。
声が、声ではなくなる。
声が、情景として煙る墓場に満ちてくる。
(過去の、太平記の昔。これは三百年前の佐渡か)
ふと、それがわかった。
墓場も、墓場ではなかった。
妙生寺がかつて無銘の古刹であったときの情景だ。
明るい。
篝火が焚かれている。
耳には――潮騒。波打の音。
碑前の領域に、過ぎ去りし過去の大湊が重なるよう映し出されていた。
鬼の舞と、口上が、溶けるように遠くへと下がる。すると、目の前の情景がにわかに色付き、音と匂いを明全と放ち始める。
いつしか、宗章の気配も溶けゆく。
婆娑羅舞、生死を溶かし揺蕩う幽玄の妙術。
鬼口上、過去の情景を再生し死者らの無念を暴く。
可能たらしめる反魂香。
白き世界に、過去の海辺が、ついに重なりきる。
林道から砂浜に出てすぐのところに、粗末な茣蓙が敷かれていた。何人もの血を吸ってどす黒く腐った、ぼろぼろの茣蓙である。そこに、ふたりの下人に押さえられた総髪の男が組み敷かれている。
日野資朝である。
憔悴しきった表情の資朝を万力の如く押さえ付ける下人らの表情はない。いちように幽鬼のような目をしている。
「阿新」
資朝が絞り出すように、我が子の名を呼んだように思えた。
音は聞こえない。聞こえぬはずであるが、心に響く。
その声と目の先、篝火が焚かれしところ。砂浜に資朝が纏っていた衣を敷いたところ。
そこに座っている。
入道頭の、僧形壮年の男である。資朝より年嵩で、いかにも腕でのし上がってきたかのような隆々たる体躯の男である。
守護代、本間入道。
そこに組み敷かれている。
年の頃元服前、前髪立ちの少年である。怒りと恥辱で頬を紅潮させ、父を呼ぼうとする口は、本間入道の指により嬲られ意味のある音を形作れずよだればかり垂らしている。
資朝が一子、阿新丸である。
喘月が、みしりと鳴る。
好色の貌だ。
宗章は入道の顔を見、そう思った。好色そうな顔ではない。色に狂ったものの気配を感じる顔だ。
声は聞こえない。
だが、佐渡守護代本間入道がこれから何をするのか。
宗章にはありありと分かる。分かってしまったのだ。
子を案じ泣き叫ぶ父親。
父の前で気丈に振る舞おうとするが、きつく手を縛られ、綱の先を――本間の甥、本間三郎であろう――入道を上回る巨漢に握られている。
死人のような下人の無表情が、さらなる重みで資朝を押さえ付ける。しかも、その顔を決して背けさせず、目を背けさせず、瞑ろうとすれば瞼を押し上げて反らさせぬ。
そこからの一部始終を、宗章は見た。
彼もまた、目を閉じようが何処を見ようが、脳にその情景が投影されるかのようにすべてを感じてしまうのだ。
すべて。
そう、すべてである。
本間入道が親の目の前でその子を陵辱するさまを聞かせ、幼き男の子ゆえ自身の女をこじ開け割かれる苦痛の悲鳴を聞かせ、助けを求める声に昂ぶった本間三郎がさらなる辱めを与える。
その傍らに、つねに置かれた太刀があった。
拵えこそ今とは違うが、理解る。
宗章の腰間から噴出する無念と歓喜とが綯い交ぜとなった絶叫――その禍々しい気配。
喘月である。
日野資朝の命で鍛造されし刀、その影打ちが本間入道の脇にある。幼き命が辱められる嘆き、父の慟哭を餌として、過去の喘月が歓喜してるのが分かる。
資朝と阿新丸を除き、入道も三郎も、死人顔の下人も、喘月の魔力に蝕まれているのだ。
宗章はじっと。じっと、見ている
己が帯びた太刀の過去の姿を見、その犠牲者たる面々を見、腹の底にたまる灼熱の激怒を浄め散らす。
剣を鈍らす、愛憎怨怒。
柳生の剣はそれらを感ずるなとは言わぬ。ゆえ、情念の類いはすべて臍下丹田に収める。収め、柳生の意地である仁義勇を為すための力とする。
そして、どれほどの時間が経ったであろうか。
気を失い海水を掛けられた阿新の姿に、茫然自失となる資朝。
その阿新が、かすかに父を呼ぶ声。生きている。
「くまわか」
かつて望月の夜、喘月が沸にみた日野資朝の顔が浮かび上がる。あのときに聞いた、悲しくも美しい、我が子を慮る声。
そしてよみがえる――。
「ほんま」
呼ばれた入道は、腰紐を直さぬまま喘月を手に、砂を踏み捻りながら日野資朝の前に立つ。
すらりと、喘月が抜かれる。
そこにいたすべての者が、一瞬、その刀身に嘆息してしまう。
その忘我の一瞬、陶然とした本間入道の右手が閃き、日野資朝の腹をひと突きに貫いた。すぐさま捻り引き抜かれる喘月。
とたんに夥しい出血。心臓まで抉り上げられたのだ。
篝火の逆光で黒く塗りつぶされた入道の顔。
その瞳は、濁った黄をしていた。
くまわか。
声ではなく、念であった。
その想念が、じくじくと、傷口より膿の如く滲み出し、喘月が啜り上げている。陶然とした坊主が、喘月の刀身を月に――望月であった――透かし観る。
おお、おお、と、その身が躍る。
刃紋が、変化する。
日野資朝の命を吸い、実に妖しく優美に変生している。
そして、翻す刀で下人の首をふたつ、刎ね斬った。
凄まじき腕である。喘月の為せる技であろうか。骨ごと両断して尚、手応えは軽い。刀身に傷もない。血を吸うことで、その刀身が命を得たかのように代謝し、治癒していくようであった。
この後の顛末は、おそらく太平記の通りなのであろう。
阿新は体調が回復するまで守護大邸に留まり、あるいは留まらせられたあと、隙を突き本間三郎を刺し殺し、意趣返しをして逃げおおせる。
本当の仇を討てぬままに。
本当の悪を知らぬままに。
「贄は日野資朝、仇は――外道、本間入道」
海辺の惨状が、ふっつりと闇へと滲む。
耳には、落葉御前の鬼の歌、鬼の舞。
藤斬丸の下がる衣擦れの音。
周囲の反魂境は、もうもうと、何処までも広がっている。碑の前、しかし、足下は砂浜のようであった。
「幽玄、虚実冥合ナリ――」
ざん、と、空気が変わった。
どぉれえ……。
どぉれえ……。
眼前先の暗黒の中から声がする。
暗黒の中は、坂であった。石の坂。どす赤い世界より、ひとりの男が歩いてくる。どれ、どれと、この世に近づくたびに、その身に骨と肉が再生していく。
どぉれえ……。
裸形の禿頭から、僧形の体躯に変生する。
「どぉれ……」幽鬼の声である。
その目が、黄の色に光り輝く。
「ひぃ……」
宗章の背後遠くで、御嶽兵衛が悲鳴を上げる。
反魂香を使うのか。彼は確かにそういった。その理由がこれであろう。
反魂香は、死者をよみがえらせる。例えどんな場所にいようと、たとえ未だ死んでおらずとも、必ず呼び出す。
「鬼として、か。――」
宗章は脇差しをグイと縦に立てる。太刀を抜きやすくするためと、腰部の防御のためである。
相手方の手に、太刀を認めたからである。
「喘月っ……」
幽鬼が、眼前に立つ益荒男の腰に差された刀を観、声を上げる。昏い声だ。聞く者を蝕む声だ。
しかし、宗章は揺るがない。
「それも喘月」
宗章も、幽鬼の手にした太刀が、かつての喘月であると看破し声をかける。静かな声だ。だが、灼熱の氷が如き心胆が闘志と鳴って噴き出している。
幽鬼は知れず、後退った。あと二歩も下がれば、黄泉の国へと転がり落ちていたであろう。
「佐渡所司代、本間入道だな」
「下郎、名を名乗れ」
武士は一歩、踏み出す。踏みだし、名乗る。
「柳生五郎右衛門宗章。日野資朝の仇を討ちに参った」
その言に、幽鬼本間入道は小首を傾げ、ようやく思い出したように呵々大笑する。その口元には、犬歯じみた牙であろうか、ちらりと真っ赤な口中に光る。
「笑わせてくれる。――」
過去の喘月が抜き放たれる。
「お相手仕る。――」
現在の喘月に手が掛けられる。
凄まじき鬼気と瘴気がぶつかり渦巻く中に、清然たる闘志が吹き上がった。
戦うために、喘月を抜く。
新月と満月が重なる世界で、いまふた振りの妖刀が抜き放たれた。
見上げども、月は微か気配も残さず消えている。
時刻は丑三つ、まことの新月になった頃合いである。
岩盤を削り立てた慰霊の碑が、聳え立つ黒雲のように滲んで見える。
星の灯りも、細く頼りない。
虫の声もなく、ただただそよりともせぬ澱んだ空気があたりに満ち満ちている。
妙生寺の庵より、ここ、碑前までは、およそ雑木を縫う一本道。御前はじめ藤斬丸は「先に碑前にて」と、庵をあとにしていた。残った宗章はそれを見送り、縁側でしっかりと足下を――草鞋を締め直し、箇所の結び目を緩く湿らせ、引き締める。
ついで喘月を腰に、その柄糸を湿らせる。これも結び目を引き締め、手の内が滑らぬ用心である。
「そのう……旦那」
出立を整えている宗章の様子を、邪魔をせぬよう見守っているのが、かの猪頭、御嶽兵衛である。
御嶽は、さしもの武士とはいえ、どう看破してもただの人間である宗章なる仁を、ほんとうに不思議そうに見ている。
「旦那。――」
「どうした」
「いえネ、どうも不思議で不思議で。この俺ァ、人の姿になるまではずいぶんと命をすすって生きてきましたが、旦那、宗章の旦那、あンたはあの御前が力を恃むほどのおサムライなんでしょうか。とてもそうは見えねえ」
「ずいぶんと、やはり、昨夜はこっぴどくやられたようだ喃」
と、笑いながら立ち上がる宗章。
その姿は、きつく結い直した茶筅の髪、四角いがまろやかな仏像の如き微笑み、大木が根を張るが如き立ち居姿。腕も太く、肩も胸も広い。
袖なし羽織に、伊賀袴。まさに益荒男の姿である。
しかし、人ではないか。
ただの人間ではないか。
疑問に思う表情の彼に、「どうだ、試してみるか」と宗章は誘いをかける。もちろん冗談であるのだが、その表情はどちらとも取れる。
どうも試す気にはならなかった。
それで正解だとも思った。
「人が、魑魅魍魎に勝てるはずがない。と、思う手おるのだろうな。しかし、かつては鬼退治といえば、武士の勤め。なあに、俺が死んでも弟がなんとかするだろう。安心せい」
「しかし、しかし旦那」
なおも御嶽は食い下がる。
「俺の腕力は、旦那よりも強いです。たしょう斬られたって、俺ァ平気だ。走ったって、跳んだって、人間は鬼には敵わねえ」
「そうか、御嶽兵衛。お主、俺の命の心配をしてるのではなく、落葉御前が御嶽よりも劣るであろうこの宗章を恃みにしているのが、要するに、気に入らぬといっておるんだな。ははは、正直な男よ。嫌いではない。――」
御嶽はびくりと、「いや」と否定するが、さすがに落葉御前の目がない今は「そうですがネ……」と渋々認める。
当然だろう。
筋力も瞬発力も、強靱さもなにもかも、素体としての、生き物のちからとしては、鬼や妖怪のほうが上であろう。
当然なのだ。
「御嶽兵衛、俺には術がある」
「術。――」
「剣術だ。まあ、細工は流々、あとは結果をご覧じろとな」
「流々。――」
たしか、なんといってたか。
「しんかげりゅう」
ぼそりと呟いた御嶽に、「それよ」と笑う。
「旦那、あんた、いったい何処の誰なんだね。さる家の放蕩息子ってのは、嘘なんだろう」
「いや、それはほんとうだ」少し傷つく宗章。しかしほんとうのことだ。
「嫁も娶れず、旅に出されたと……」
「そこは違う。話が伝わってるのか。おのれ、奉行」
「……。――」
「生きて帰ったら、名を教えてやる」
では、そろりと向かうかと、宗章は御嶽を促す。
まあよい、この男の腕前、しかと見届けよう。
御嶽は、頭を切り替えた。
この仇討ちの立ち合いに、御嶽を誘ったのは、落葉御前自身。向かわぬ理由はない。
見届けよう、あの大妖が認めた男の力を。
「へぃ」
追する人足頭を従え、宗章は右手の喘月を腰に差す。
虫の声も、やはり聞こえぬ。
御嶽は完全に人の気配になっているにも拘わらず、立ち合い必殺の気配にか、はたまたここを通った御前と藤斬丸の鬼気ゆえか。それは分からない。
スン――と、鼻を鳴らす。
道の左右に、ぽつりぽつりと、灯りが。
拳大の火の玉であろう。道を照らすようにか、碑までの案内のためか、導くように列を作っている。
(これが鬼火というものか)
ひょいと右目をつむったまま、感心する。
灯りがあるにせよ、右目を闇に慣らしておけば、急に灯りが消えても右目を開いて対応できる。
かつてはこれで何度も命を拾ったことがある。
道を往き、呼吸と心胆を整え、微かな星明かりが覗く中、宗章は碑の前へと辿り着く。
碑の前には、藤斬丸。
碑の壇には、落葉御前。
「新月でございます。宗章どの、お覚悟は。――」御前の言葉。
「具備ととのうておる」宗章の応え。
具備。
具とは、能力のそなえ。
備とは、状況のそなえ。
身体と武器、出立に於いていかに能力を具えているか。
心胆と思考、精神に於いていかに能力を備えているか。
宗章は「ととのうておる」と即座に首肯した。
もはや、喘月解呪の儀を執り行うほかはなかった。
壇上の御前が、変生する。
胴箔紅入の鬘帯で髪をまとめ、垂髪を程よく背へと流している。純白の小袖に、これも白の打ち掛けは薄く羽衣が如し。小面をつけてはいないが、天冠を被り鬘扇を手にしている。
これが衣緋色ならば、能が姿、天人の装束である。
白き衣は、弔いの色である。
死に装束であり、送り装束である。
「鬼ガ『婆娑羅舞』、奉る」
香の香りが、ゆるりと漂い始める。宗章の後ろで「ひぃ」と息を呑む声。御嶽兵衛が後退り武士から離れ木立の影へと隠れた音。ついで、シャンと、天冠の鈴が斬り裂くよう鳴る、耳の奥へと抜けるような刺激。
香の香りが、いや、濃度を増した反魂香の煙が碑の周囲を覆い漂い始める。
「……。――」
ぞくりと、首の総毛が逆立った。
みしりと、喘月が軋みを上げる。
生きたまま地獄へと落ちたかのような気配。反魂香は、死者の世界と生者の世界、彼岸と此岸を繋ぎ溶かす魔性の香。
魑魅魍魎が秘術、最大の禁術である死者蘇生の香。
この煙晴れるまでの生を死者に与え、香が燃え尽きるまで夢と現は迎合する、世の理をねじ曲げる外法。
鬼の声が響き渡る。
隔絶された領域が、舞と扇で広がり往く。
白き天鬼が幽玄の中舞い踊る。あたかもすでに夢の中で舞うかのように、天と地とを分け隔てなく舞う。舞って、鬼の声なき声、鬼哭が如き旋律がすべての光りと音を消し去って行く。
柳生宗章はつま先を開き、やや浮き身に重心を下げ、頤を上げ、口も目も、半分の開き。鬼気が流れゆく中でも、泰然とした仏の微笑み。
「そのむかし、大和にとある公卿在りけり。――」
藤斬丸が、やも優しく耳に届く声音で語り出す。
声が、声ではなくなる。
声が、情景として煙る墓場に満ちてくる。
(過去の、太平記の昔。これは三百年前の佐渡か)
ふと、それがわかった。
墓場も、墓場ではなかった。
妙生寺がかつて無銘の古刹であったときの情景だ。
明るい。
篝火が焚かれている。
耳には――潮騒。波打の音。
碑前の領域に、過ぎ去りし過去の大湊が重なるよう映し出されていた。
鬼の舞と、口上が、溶けるように遠くへと下がる。すると、目の前の情景がにわかに色付き、音と匂いを明全と放ち始める。
いつしか、宗章の気配も溶けゆく。
婆娑羅舞、生死を溶かし揺蕩う幽玄の妙術。
鬼口上、過去の情景を再生し死者らの無念を暴く。
可能たらしめる反魂香。
白き世界に、過去の海辺が、ついに重なりきる。
林道から砂浜に出てすぐのところに、粗末な茣蓙が敷かれていた。何人もの血を吸ってどす黒く腐った、ぼろぼろの茣蓙である。そこに、ふたりの下人に押さえられた総髪の男が組み敷かれている。
日野資朝である。
憔悴しきった表情の資朝を万力の如く押さえ付ける下人らの表情はない。いちように幽鬼のような目をしている。
「阿新」
資朝が絞り出すように、我が子の名を呼んだように思えた。
音は聞こえない。聞こえぬはずであるが、心に響く。
その声と目の先、篝火が焚かれしところ。砂浜に資朝が纏っていた衣を敷いたところ。
そこに座っている。
入道頭の、僧形壮年の男である。資朝より年嵩で、いかにも腕でのし上がってきたかのような隆々たる体躯の男である。
守護代、本間入道。
そこに組み敷かれている。
年の頃元服前、前髪立ちの少年である。怒りと恥辱で頬を紅潮させ、父を呼ぼうとする口は、本間入道の指により嬲られ意味のある音を形作れずよだればかり垂らしている。
資朝が一子、阿新丸である。
喘月が、みしりと鳴る。
好色の貌だ。
宗章は入道の顔を見、そう思った。好色そうな顔ではない。色に狂ったものの気配を感じる顔だ。
声は聞こえない。
だが、佐渡守護代本間入道がこれから何をするのか。
宗章にはありありと分かる。分かってしまったのだ。
子を案じ泣き叫ぶ父親。
父の前で気丈に振る舞おうとするが、きつく手を縛られ、綱の先を――本間の甥、本間三郎であろう――入道を上回る巨漢に握られている。
死人のような下人の無表情が、さらなる重みで資朝を押さえ付ける。しかも、その顔を決して背けさせず、目を背けさせず、瞑ろうとすれば瞼を押し上げて反らさせぬ。
そこからの一部始終を、宗章は見た。
彼もまた、目を閉じようが何処を見ようが、脳にその情景が投影されるかのようにすべてを感じてしまうのだ。
すべて。
そう、すべてである。
本間入道が親の目の前でその子を陵辱するさまを聞かせ、幼き男の子ゆえ自身の女をこじ開け割かれる苦痛の悲鳴を聞かせ、助けを求める声に昂ぶった本間三郎がさらなる辱めを与える。
その傍らに、つねに置かれた太刀があった。
拵えこそ今とは違うが、理解る。
宗章の腰間から噴出する無念と歓喜とが綯い交ぜとなった絶叫――その禍々しい気配。
喘月である。
日野資朝の命で鍛造されし刀、その影打ちが本間入道の脇にある。幼き命が辱められる嘆き、父の慟哭を餌として、過去の喘月が歓喜してるのが分かる。
資朝と阿新丸を除き、入道も三郎も、死人顔の下人も、喘月の魔力に蝕まれているのだ。
宗章はじっと。じっと、見ている
己が帯びた太刀の過去の姿を見、その犠牲者たる面々を見、腹の底にたまる灼熱の激怒を浄め散らす。
剣を鈍らす、愛憎怨怒。
柳生の剣はそれらを感ずるなとは言わぬ。ゆえ、情念の類いはすべて臍下丹田に収める。収め、柳生の意地である仁義勇を為すための力とする。
そして、どれほどの時間が経ったであろうか。
気を失い海水を掛けられた阿新の姿に、茫然自失となる資朝。
その阿新が、かすかに父を呼ぶ声。生きている。
「くまわか」
かつて望月の夜、喘月が沸にみた日野資朝の顔が浮かび上がる。あのときに聞いた、悲しくも美しい、我が子を慮る声。
そしてよみがえる――。
「ほんま」
呼ばれた入道は、腰紐を直さぬまま喘月を手に、砂を踏み捻りながら日野資朝の前に立つ。
すらりと、喘月が抜かれる。
そこにいたすべての者が、一瞬、その刀身に嘆息してしまう。
その忘我の一瞬、陶然とした本間入道の右手が閃き、日野資朝の腹をひと突きに貫いた。すぐさま捻り引き抜かれる喘月。
とたんに夥しい出血。心臓まで抉り上げられたのだ。
篝火の逆光で黒く塗りつぶされた入道の顔。
その瞳は、濁った黄をしていた。
くまわか。
声ではなく、念であった。
その想念が、じくじくと、傷口より膿の如く滲み出し、喘月が啜り上げている。陶然とした坊主が、喘月の刀身を月に――望月であった――透かし観る。
おお、おお、と、その身が躍る。
刃紋が、変化する。
日野資朝の命を吸い、実に妖しく優美に変生している。
そして、翻す刀で下人の首をふたつ、刎ね斬った。
凄まじき腕である。喘月の為せる技であろうか。骨ごと両断して尚、手応えは軽い。刀身に傷もない。血を吸うことで、その刀身が命を得たかのように代謝し、治癒していくようであった。
この後の顛末は、おそらく太平記の通りなのであろう。
阿新は体調が回復するまで守護大邸に留まり、あるいは留まらせられたあと、隙を突き本間三郎を刺し殺し、意趣返しをして逃げおおせる。
本当の仇を討てぬままに。
本当の悪を知らぬままに。
「贄は日野資朝、仇は――外道、本間入道」
海辺の惨状が、ふっつりと闇へと滲む。
耳には、落葉御前の鬼の歌、鬼の舞。
藤斬丸の下がる衣擦れの音。
周囲の反魂境は、もうもうと、何処までも広がっている。碑の前、しかし、足下は砂浜のようであった。
「幽玄、虚実冥合ナリ――」
ざん、と、空気が変わった。
どぉれえ……。
どぉれえ……。
眼前先の暗黒の中から声がする。
暗黒の中は、坂であった。石の坂。どす赤い世界より、ひとりの男が歩いてくる。どれ、どれと、この世に近づくたびに、その身に骨と肉が再生していく。
どぉれえ……。
裸形の禿頭から、僧形の体躯に変生する。
「どぉれ……」幽鬼の声である。
その目が、黄の色に光り輝く。
「ひぃ……」
宗章の背後遠くで、御嶽兵衛が悲鳴を上げる。
反魂香を使うのか。彼は確かにそういった。その理由がこれであろう。
反魂香は、死者をよみがえらせる。例えどんな場所にいようと、たとえ未だ死んでおらずとも、必ず呼び出す。
「鬼として、か。――」
宗章は脇差しをグイと縦に立てる。太刀を抜きやすくするためと、腰部の防御のためである。
相手方の手に、太刀を認めたからである。
「喘月っ……」
幽鬼が、眼前に立つ益荒男の腰に差された刀を観、声を上げる。昏い声だ。聞く者を蝕む声だ。
しかし、宗章は揺るがない。
「それも喘月」
宗章も、幽鬼の手にした太刀が、かつての喘月であると看破し声をかける。静かな声だ。だが、灼熱の氷が如き心胆が闘志と鳴って噴き出している。
幽鬼は知れず、後退った。あと二歩も下がれば、黄泉の国へと転がり落ちていたであろう。
「佐渡所司代、本間入道だな」
「下郎、名を名乗れ」
武士は一歩、踏み出す。踏みだし、名乗る。
「柳生五郎右衛門宗章。日野資朝の仇を討ちに参った」
その言に、幽鬼本間入道は小首を傾げ、ようやく思い出したように呵々大笑する。その口元には、犬歯じみた牙であろうか、ちらりと真っ赤な口中に光る。
「笑わせてくれる。――」
過去の喘月が抜き放たれる。
「お相手仕る。――」
現在の喘月に手が掛けられる。
凄まじき鬼気と瘴気がぶつかり渦巻く中に、清然たる闘志が吹き上がった。
戦うために、喘月を抜く。
新月と満月が重なる世界で、いまふた振りの妖刀が抜き放たれた。
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