それは喘月という名の妖刀

西紀貫之

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第二章 うつつの刺客ゆめの仇

第11話『阿新丸』

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 仇討ち。
 この概念が意趣返しとは違う意味合いで人口に膾炙するようになったのは、とりわけ武士のあいだに儒教が浸透してきてからであった。
 儒教は仏教よりもはやく日本に伝わり、下地を経た後に平安期には科学的見地とあわさり陰陽道を形作る一助になったという。

 仇討ち。
 やられたからにはやり返す。
 その大義名分、せねば武士の名折れとまで言われた概念。
 しかし、どの家も敵であったり味方であったりと、立場と状況が流転する世が続くようになると『怨みここまで』とする、憎怨怒のピリオドとして用いられたことの方が多い。

 しかし実際に果たせたものは少なく、宗章の生きる徳川の時代には碌に果たせぬトロフィーとなっている。

 故に、仇討ちを果たした事件は後年、武家のみか、特に庶民の間で凄まじき人気を得ることになる。『曾我兄弟の仇討ち(鎌倉期)』、未だ起きてはいないが『鍵屋の辻の決闘(寛永十一年西暦一六三四年末)』そして忠臣蔵と持て囃される『赤穂浪士事件(元禄十五年西暦一七〇三年)』のみっつが有名とされている。

 この仇討ちを美徳たらしめたのは、また困難至極にたらしめたのは、この『討ち手』が厳しく定められていたためと言ってもよい。
 特に江戸期は――。
 夫が殺されれば、妻と子がこの仇を討たねばならぬ。
 また、この仇を討つ追っ手とならねばならぬ倣わし。
 ――仇討ちは失敗することがほとんど。庶民も知るこのような涙を誘う話が下地にある。
 ……が。

 主家や親族を殺されたのならば幕府に届け出て仇を討つ。
 親兄弟のため、子や弟が目上の親族のため討つ。
 主君に届け出て、これを為す。
 討ち手と仇は、遺恨を残さず。これによる敵討ちの連鎖を禁止する。
 許可なき仇討ちは――厳罰とする。

 ――このような取り決めがある。
 もっとも、後年の武家諸法度改訂改正に伴い追加されていく項目であり、いまの宗章らには該当しないのは言うを待たない。

 特に、この武断の時代。すべては善意と悪意のもとに殺人が行われているのであろう。仇討ち、意趣返し、回向。どのような文言を使おうと、基本――死んだ者は生き返らないのだ。

「こういう場所はどこも変わらんな」

 小木の湊、通称『小湊』。
 外部とのやりとりは基本がこの湊を中心に行われる。人の補充と退去を含む、人の出入り。まだ小湊の業務内容だと、金山で働く者を相手にした商売というよりは、佐渡の経済を支え回す者らへの商売が強い。

 島故に、街道などというなものはないように思えるが、しかし、この二、三年で栄えている様子だ。
 港の周囲は道幅も荷馬車が何台もすれ違えるくらい広く、北に向かう島道の多くは整備されており実になだらかだ。場所によっては切り通しに似た近道も用意されているようで、こと、孤島でありながら宿場町のような雰囲気である。

 海辺には、湊、波止場、篝火に――倉庫を兼ねた大きい屋敷。
 少し離れれば、人足長屋。
 その間を繋ぐそこかしこには、併設されたように飯屋に酒屋に、茶屋、汗を流す風呂屋がある。そのどれもが従業員によるサービスを金員によって篤くする項目が設けられている。

 そのうちの風呂屋に、柳生宗章は向かった。
 旅の埃も落としたい。
 無論、湯は武家屋敷でも用意されるだろうが、それでは釣りが楽しめない。獲物は人間である。

 蒸し風呂を提供する風呂屋は、比較的周囲より離れた場所に広く設えられていた。場所柄、多くの火を扱うことが常な場所なので、火事による延焼を防ぐためだった。風に煽られども、火の粉はおいそれと岩場を越えぬだろうし、豊富な海と河の水による消火も容易ときている。

 湯の文字が書かれた看板。

「さてさて、どんなものかね」

 と、入り口をくぐり番台の小者――ということは、武家の経営らしい――に銭を支払う。安い。安いのは、おんなを宛がうことによる利益が多く、懐を潤しているのだろうと推測される。
 国元では考えられぬ商売である。

「お腰のものを。――」
「うむ」

 小者に脇差しを預ける。太刀もないのかと伺うような眼をしてるが、隠し持って入れる類いのものではない。
 今はまだ、公儀の使者。なにもされぬだろうと、素直に預ける。もとより、湿気の多い風呂場にまで持っていけば刀の手入れに時間が取られてしまううえ、下手をしたら柄糸が腐ってしまう。そうなっては藤斬丸からの嫌味が恐ろしい。

 すでに、むわりとした湯気の香りと熱気が頬を撫でている。脱衣所を見れば、衣類をまとめ置く籠は半分ほどうまっている。二十人ほどは客としているのであろう。
 窺い見れば、茶を挽いている裸身の女がこちらに目を向けるが、相手が武士と見るや目礼して煙管に手を伸ばしている。襦袢や湯帷子姿ではないのは、ひと仕事終えて汗を引かせているからであろうか。
 ともあれ、武士はではないことをよく知っているようである。

 褌ひとつとなり、蒸気が漏れぬよう低くなった潜り戸を抜ける。蒸気風呂だ。湯殿には腰あたりまでの湯が張られており、いましがた始まったのか、熱い湯に入れ替える湯帷子姿の女が働いている。
 蒸し風呂の蒸気を浴びると、心地よい汗が噴き出してくる。肩を回し、首を鳴らし、肺腑の奥まで鼻喉通し潤す。
 薄らとした汗が全身を覆うと、湯涌で掛かり湯を浴び、湯船へと向かう。――と、ここまで実にほぼ全ての客が宗章の一挙手一投足に注目している。
 なぜか。
 茶筅曲げの武士だから、だけではない。
 その肉体に刻まれた無数の刀槍による――闘争による傷痕が実に生々しかったからである。客の中には刺青を背負うやくざ者も多い。犯罪者上がりの者も多い。それらのまとう雰囲気とは異質な、戦国の気質とはまた別個の気迫を放つ男に目を奪われたのである。
 女は、この匂いが分からない。
 ただ益荒男現れたりと見るのみである。つまり、客ではないといった態だ。

(こやつら金山送り待ちの人足だろうか)

 などと考えつつ、腰湯に向かう。
 ざざっと、ゆうに五人分の席が空く。足を開いて堂々と汗を流していた輩が、場所を空けたのだ。

「かたじけない」

 かたがたに目礼し、宗章は腰まで静かに入浴。板に背を預けながら蒸気を浴びて「ああぁ~……」と嘆息する。
 やはり湯は良い。
 毛穴から莫甚な疲れが抜け、蒸気と湯に溶き消えてていく感覚。やはり喘月に蝕まれていると感じる。
 首肩までどっぷり熱い湯に浸かりたいものだが、たっぷりとした湯船を用意する『湯屋』はまだメジャーではない。今は腰湯を兼ねた蒸し風呂の『風呂屋』がポピュラーな銭湯であった。

 遠巻きに見る男ら、湯女にあかすりをさせている男らも、じっと、じっくりと、値踏みをするかのように宗章を見る。
 ざわついていた室内が、いつのまにかピタリと静まりかえる。

 値段交渉中の男に「ねえ、どうしたのさ」と女が急かすが、その男も生返事である。
 だが、宗章が暢気のほほんと無防備に浸かっているのを見ると、徐々に、徐々にだがざわつきが戻ってくる。
 方々から籠もった声で「きょう乗ってきた尼の」や「江戸からの」など、噂話が始まれば、あとはもう居酒屋飯屋と変わらない。
 籠もった湯気と反響で言葉が聞き取り易くも難くもなる風呂屋は、実に情報交換の場所として機能する。

「ぬしら、明日は山に行くのか」

 気軽にとなりの――とはいえ、ふたり分は離れている若い男に尋ねる。男の左上腕には、入れかけの弁財天を遇った墨が入っており、完成半ばで佐渡に来た事情が窺える。

「………………」

 無言である。
 しかも、武士が言葉を発したことで、またピタリと声が止む。
 残響が収まると、「いや、べつに答えんでもいいが」と、大きく嘆息する宗章。

「こちらにられましたか」

 と、声が掛けられる。
 潜り戸を抜けた、元井もとい兵庫助である。

(ほんとに釣れたわ)

 と、内心驚きながら宗章は平然と「俺ひとりゆえ、物見遊山でござる」と、まったりとした顔で板に背を預けている。

「ご一緒、失礼する」

 ザザザと、人が引く。
 どころか、湯船より人が上がってしまう。
 のみならず、浴室からすべての人間が我先にと潜り戸から出て行ってしまったではないか。あかすり女もだ。

「賑わう時間にお奉行さまが風呂屋に来れば、こうなりましょうや」
「いや、確かに。――」

 さもあらんといった態だ。
 しかし気にした様子もなく、単純な人払いを兼ねてわざと入ったのが窺える。

「湯ならば屋敷にて用意いたしましたのに」
「うるさい尼さんらに側にいられては、こうして息も抜けませぬ。それに……」
「それに、とは。――」
「太平記の足跡を辿る道楽もありますれば、女人には退屈だろうと」と宗章。

 聞いて、元井は「太平記。――」と、記憶を手繰る。
 武家の倣い、いや、習い。要職に就く武士といえば四書五経の読書は当然の教養である。
 大学、論語、孟子、中庸の四書。
 そして儒教の文献である易経、書経、詩経、礼記、春秋の五経である。とくに五経は儒学儒教に根ざしたもののため、先だっての仇討ちのエピソードとからめ、この佐渡の地という場所も相まって、元井には思い至るものがあった。

阿新丸くまわかまるの――」と元井は漏らす。
「左様。阿新丸。日野資朝の処刑、その仇討ち……とまではいかぬが、意趣返しをした阿新くまわか。当時の守護代、本間入道の配下である本間三郎を討ったという若者」
「日野資朝の、息子しそく。のちの日野邦光くにみつですか」

 父の佐渡配流を知り、今生の別れ、ひと目だけでも会いたいと佐渡まで飛び出してきた阿新が、面会も叶わず、しかも本間入道の命で首を切られ父・資朝が処刑される。
 その謀で父を殺された阿新が、意趣返しとして、仇討ちとして本間入道の甥である本間三郎を刺し殺し、この佐渡を脱出した逸話を確認し合う。

「拙者、放蕩ゆえ嫁もれず、今生の垢落としとして回向の共を仰せつかったよし。せめてもの無聊を慰めるべく、こうしてゆかりの地を訪ねているのです」
「なるほどそうでありましたか」

 まあ、その程度であろうな。と、元井も警戒を解きつつある。
 何を探るかと思えば、この程度であったのだ。
 もっとも、公儀であるには変わらない。
 金山に近づかねば、怪しむことはない。
 そう結論づけた。

「して、阿新の伝説ゆかりの――本間入道の屋敷とは、まだ健在でしょうや」
「なにぶん配流のあった昔のこと、しかも隠岐とは違い佐渡の開発でいろいろと広げておりますれば。……ただ、在ったであろう場所は、この小湊ではなく、大湊の山沿いでしょう」
「大湊。――」

 そこで、元井は左右の掌を斜に並べながら、佐渡島の形状と湊の位置を大まかに説明する。

「日野資朝を斬った浜辺は、やはりその大湊に。――」
「墓があり申す。魂たる首級くびは鎌倉に送られましたが、怨念たる肉体は館の裏鬼門たる妙生寺に葬られ申した」

 流罪人の墓の近くでございますが――と重ね言われる。

「妙生寺。――」
「如何様」

 元井は続ける。

「尼さまがたが回向する寺にございます」




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