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第二章 うつつの刺客ゆめの仇
第10話『佐渡の御嶽兵衛(下)』
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夜闇に紛れ、佐渡の山林を北上する影があった。
糸を使わず八本の多脚のみで音もなく跳躍する姿は巨大な蜘蛛。ふた抱えはありそうなそれに生えている女の体。
落葉御前である。
宗章が港の人足に話を聞きに行った、その宵の口。彼女は夜闇と死角に身を隠すように本性を現し、金の瞳の残光を残し引きながら佐渡を駆ける。
佐渡島は、北東から南西にかけて楕円を描く島がふたつ南北に並ぶように重なりあう姿をしている。
金山になぞらえ、棒金2枚。北の棒金、南の棒金と通称されている。
南の棒金を、小木の湊から北上。ふたつが重なり合う港が、佐渡の大湊。そこを迂回するよう、やや金山よりまで駆け抜けようとしているのだ。
彼女の接近と通過の際、気が付くのは獣と虫の類い。鬼としての気配を隠そうとはしていなかった。多脚のバネを使い、実にしなやかに、まさに颯爽と夜闇を駆けていく。
月の孤が、細い。
新月が近いのだ。
小一時間も飛んだあたりだろうか。
生活の香りが潮に乗り薫ってくる。
差し渡しを見ても、一里四方の平野部の川沿いから海にかけ、無数の集落と工房がみえる。漏れてくる熱気は、金の精製と加工の働きだろう。危険を冒して採掘した金を、輸送できる形に加工するのが、この佐渡の大湊。
重量物である金を運ぶ船を着けられるのも、この奉行所が存在するここのみである。
(小木の湊は人の出入りにも、物の出入りにも寛容だが、この大湊の警備は蟻も通さぬ鉄壁)
御前は一里先の海辺までザっと見ながら、ふと風上、海側の気配に同種の匂いを感じ取り、杉の樹上から林道側の吹き抜けに着地する。
姿は、いまだ蜘蛛の鬼女である。
「ほう、誰かと思えば……」
接近してくる気配から声がする。
ねっとりとした、魂を絡め取ろうとするような声だ。か細くも聞こえるが、その実、発しているのは垢じみた顔の巨漢である。
どこに隠れていたのか、杉の木の隙間からひょいと姿を現したのは、御嶽兵衛そのひとであった。
「佐渡じゃ見ない貌だな」
「本日、佐渡に来たばかりゆえ。……もっとも、二百年ほど前にもいちど、来てはいるがな」
と、御前は返す。
ひょうげた顔で「そいつァ」と驚く御嶽だが、「たいした年季だな」と、その瞳を濁った緑へと変じさせる。
「――よもや尼さんのひとりかい」
「大和の落ち葉よりいでし鬼」
それは肯定ともとれる言葉であった。
「へえ、そうかい」
巨漢がふくれたような気がした。
「じゃあこっちも自己紹介といこうか」
さあ、びびるなよ。
そう前置きして、御嶽のからだがふたまわりも大きくなっていく。身の丈は、およそ八尺。羽織っただけの袖なし羽織と褌一丁の姿でなければ、衣類は悉く破れちぎれていたであろう。
同時に噴き出す妖気に、御前はしかし眉根も動かさない。ただ見上げる大きさになったので頤だけ軽く上げている。
「木更津の猪頭、御嶽兵衛よ」
夜闇の中から覗く緑の瞳、それが填まっているのは――人語を使う猪の頭であった。
「猪頭。――」
「女郎蜘蛛か。――」
言葉に出さぬ、思考。
沢庵宗彭の言葉。
それ――人を生むは気の化なり。この気、人を離れ独脱して人を生じることはない。
気は人に依らねば肉体を生ぜざるもの。山河の気は山河の中で静動し、草木の気は草木によって動く。水土は水土で。
だがしかし、人の気が、人を生む気の化ではなくなることがある。すなわち化生であり、鬼である。
刀剣の気が、刀剣を生む気の化で収まらなくなること即ち化生、妖刀を生じるものである。
では、この御嶽兵衛なる猪頭は、はたして鬼なりや。
否。
人より生変せし鬼ではない。
この者、実に野生の歳経た獣が化生した妖怪である。
妖魅の発生にも、多種がある。
いま、鬼女落葉御前は妖魅として、同じ妖魅である猪頭御嶽兵衛の縄張りに踏み入ったことになる。
「いかんなあ、隠そうともしない妖気。それじゃあ喧嘩をしに来たととられても仕方がないよねえ」
ねっとりとした声だ。
とんでもない。
この御嶽、じつにゆっくりと、ゆっくりと近づいてきてるではないか。
「やまくじらって、しってるかい。猪の隠語で、ぼたんともいうよな。いいよなくじら。鯨を食いたくて、人に化けてしばらくは海に出てたよ。……山には、どのくらいいたかな。まあけっこうな歳はいたっけな。海では、人の姿だから、まあ三十年くらいか。場所と名前を変えて、転々ってわけさ」
人の世で過ごすなら、人の世の代謝に併せなければならない。
老いなければ、死ななければ、たちどころに妖魅と発覚し討ち手が差し向けられる。
「そうそう、鯨。やまくじら。山の鯨が、猪。よぉ言ったもんだ。赤い肉がそっくりだ。まっかな花の、ぼたんの異名も、よぉわかる。御嶽兵衛ってナマエさあ、御嶽をおんごくって読むんだ。御嶽、大きい山だ。おれに似合う名だろう。――」
そこで、ぴたりと声も歩みも止まる。いや、止める。
もうすでに、殺し合う距離だ。
「ぼたん肉を喰いにきたか、蜘蛛女よぅ」
「いや――」
否定しようとした瞬間、丸木のような腕が降ってきた。
後ろへ飛んで逃げようとした足の一本が掴まれた。
「もらうぜ」
そのまま御前のからだが御嶽の引く手に、関節を振り砕く勢いで杉の幹へと叩きつけられる。
――ふわり。
肉の砕ける音でもなく、足が捻折れる感触でもなく、真綿を掌で圧したような柔らかい余韻を残し、御前のからだは杉の幹にぴたりと貼り付いている。
「なにをした」
御前の多脚が衝突を緩和させたこと、取られた足のひとつが御嶽の手首の関節を押し下げ、望む方向へからだを向けさせたことに気が付いていない様子である。
「なにをした」
その言葉が終わる寸前、するりと掴まれていた足が引き抜かれる。ザっとばかりに反対側の幹に飛ぶ御前。
「逃がさねえよ」
猪頭の筋肉が数倍に膨れ上がったかのようだった。
大きく広げた両手が、まるで通せんぼをするように左右を封じ、緩く曲げた足は御前の上への逃亡を阻止せんと跳躍のため脱力している。
猪突猛進なる言葉がある。
猪の突進の速度は凄まじく、実に数倍の体躯を誇る獣をも弾き殺す重みも乗っている。
必殺の威力を秘めている。
「だめだよ、山で喧嘩をしちゃ。山で喧嘩を売ったら、こうなっちゃうよ。どうして人に化けて、ああ、尼なんかに化けて侵入ってきたのかしらないけどさ。――喰われちゃうからね」
「だとすれば。――」
御前が、小首を傾げるように聞き返す。
「だとすれば。つまり、御嶽兵衛。猪の化生。つまり、だとすれば、この妾を殺して喰らうということなのかしら」
「順番が違うねえ」
にんまりと笑う巨漢は、赤ん坊のようである。
「順番が違うねえ。喰って殺すのさ。喰い殺すのさ。しってるかい、躍り喰い。生きたまま喰って、死んでいくのを、のたうち回るのを感じながら味わうんだ。いいものだぞ。ああ、いいものだ。佐渡に来てからこっち、人の味を思い出すことは多けれども、鬼を喰ったことは応仁の戦ぶりじゃあのぅ」
御前は笑う。
「応仁の世に生きておったなら、聞けることも多かろうの」
「なんだと」
女は、鬼女は、ゆっくりと手を尋げる。
男と、猪頭と、同じように手を尋げる。
そのあまりにもスケールの違う、同じような姿に、御嶽兵衛は鼻を鳴らして笑う。笑って、嘲い、飛びかかろうとした。
その肉体が、絞った雑巾のように絞り丸められた。
跳躍しようとした姿から、びちゃりと、縦に絞られた。
「ぬぅ。――」
痛みはない。
が、無数に。――いや、無数などと感じられぬような、まるで一枚の布に丸め包まれているような感触だった。感触。そんなものではない。握りしめられるような力である。
悲鳴も呼吸もままならない。
指の一本も動かせない。
からだを曲げることすら叶わなかった。
筋肉の悲鳴があがる。
「逃がしはいたしませぬ」
仰向けに転がされた御嶽の胸の上に、のそりと、落葉御前がのしかかる。重い。満貫の岩のようであった。
(糸か――)
猪の思考が奔り、猪頭の巨体から人の姿に変生する。
肉体の大きさの差異を利用し、拘束から抜け出ようとする起死回生であったが、戻った瞬間、大の字にきつく拘束されているではないか。
「お、俺を殺すのか。喰うのか。そのために来たのか」
「バケモノはバケモノを喰らい、自らの力とする。そういうものも、在る。が、喰わぬ」
「喰わぬのか」
「喰わぬ」
もうとっくに、御嶽は戦意を消失している。
人の姿のまま、またあの猪の巨体に変生しようとすれば、その膨れ上がる圧で己が絞り死ぬは明白であった。
「喰わぬが、殺さぬと言ってはおらぬ。のう、御嶽兵衛。――」
「ひ」
金の瞳と、満貫の重さ。
ふと、自分の右小指に御前の手が添えられる。
「人間の骨の数は、百と二十八本。おまえは同じか喃」
小指が握られる。
「関の狐狸は人の姿のまま五本まで数えさせてくれたが、何も話さぬ輩はたいてい骨の数を二百と五十六までふやして死んだ。の、お主の骨は何本じゃ。御嶽兵衛。――」
悲鳴を上げることすら出来なかった。
縒った糸の拘束で口と鼻が塞がれたのだ。しかし、息は通る。されど、音は通らぬ。静かな山中に、蠢くだけの二体である。
「聞きたいことは山ほど在る。ひとつずつ聞いていく。答えればその骨は許す。嘘を言えば、ふたつに増やす。ほんとうに知らねば、それも許す」
「……。――」
「だが」
御嶽は、格上という言葉の意味をそのとき理解した。
勝てぬ。
いや、負けることすらこの者の許しがなければ叶わぬ。
「だが。――」
御前の金の瞳。
その魔力に負けたわけではない。
御前の笑み。
その真っ赤な口中より伸びる、長い舌の妖気に中てられたわけでもない。
「だがな、御嶽兵衛。よくお聞き。二度はいわない。返事は粉微塵に砕ける骨の音で聞くこととなる。いいね、御嶽兵衛。かわいい子。だが。だがしかし。この妾《わたし》を謀ろうなどとしたら、欺こうとしたら、惑わそうとしたのならば、喃。――」
小指から離れた手が、顔に添えられる。
優しく包むように、添えられる。
御嶽兵衛は、褌を濡らしていた。
「決して、許さぬ。決して許さぬ。決して許すことはせぬ。決してゆるしてやることすらできぬ。その分別は、つく喃。――」
御嶽兵衛は、頷けぬまま必死に頷いていた。
なにが尼だ。
なにが護衛の侍だ。
なにが公儀隠密だ。
そのようなタマか。
「ではまず――」
そして御嶽兵衛はすべてを聞き、すべてを話し、すべてを諦めた。
月が沈み始めた頃合い、ようやくそれは終わった。
解放された御嶽兵衛は泣いた。
そのくしゃりと泣く巨漢は、赤ん坊のようであった。
糸を使わず八本の多脚のみで音もなく跳躍する姿は巨大な蜘蛛。ふた抱えはありそうなそれに生えている女の体。
落葉御前である。
宗章が港の人足に話を聞きに行った、その宵の口。彼女は夜闇と死角に身を隠すように本性を現し、金の瞳の残光を残し引きながら佐渡を駆ける。
佐渡島は、北東から南西にかけて楕円を描く島がふたつ南北に並ぶように重なりあう姿をしている。
金山になぞらえ、棒金2枚。北の棒金、南の棒金と通称されている。
南の棒金を、小木の湊から北上。ふたつが重なり合う港が、佐渡の大湊。そこを迂回するよう、やや金山よりまで駆け抜けようとしているのだ。
彼女の接近と通過の際、気が付くのは獣と虫の類い。鬼としての気配を隠そうとはしていなかった。多脚のバネを使い、実にしなやかに、まさに颯爽と夜闇を駆けていく。
月の孤が、細い。
新月が近いのだ。
小一時間も飛んだあたりだろうか。
生活の香りが潮に乗り薫ってくる。
差し渡しを見ても、一里四方の平野部の川沿いから海にかけ、無数の集落と工房がみえる。漏れてくる熱気は、金の精製と加工の働きだろう。危険を冒して採掘した金を、輸送できる形に加工するのが、この佐渡の大湊。
重量物である金を運ぶ船を着けられるのも、この奉行所が存在するここのみである。
(小木の湊は人の出入りにも、物の出入りにも寛容だが、この大湊の警備は蟻も通さぬ鉄壁)
御前は一里先の海辺までザっと見ながら、ふと風上、海側の気配に同種の匂いを感じ取り、杉の樹上から林道側の吹き抜けに着地する。
姿は、いまだ蜘蛛の鬼女である。
「ほう、誰かと思えば……」
接近してくる気配から声がする。
ねっとりとした、魂を絡め取ろうとするような声だ。か細くも聞こえるが、その実、発しているのは垢じみた顔の巨漢である。
どこに隠れていたのか、杉の木の隙間からひょいと姿を現したのは、御嶽兵衛そのひとであった。
「佐渡じゃ見ない貌だな」
「本日、佐渡に来たばかりゆえ。……もっとも、二百年ほど前にもいちど、来てはいるがな」
と、御前は返す。
ひょうげた顔で「そいつァ」と驚く御嶽だが、「たいした年季だな」と、その瞳を濁った緑へと変じさせる。
「――よもや尼さんのひとりかい」
「大和の落ち葉よりいでし鬼」
それは肯定ともとれる言葉であった。
「へえ、そうかい」
巨漢がふくれたような気がした。
「じゃあこっちも自己紹介といこうか」
さあ、びびるなよ。
そう前置きして、御嶽のからだがふたまわりも大きくなっていく。身の丈は、およそ八尺。羽織っただけの袖なし羽織と褌一丁の姿でなければ、衣類は悉く破れちぎれていたであろう。
同時に噴き出す妖気に、御前はしかし眉根も動かさない。ただ見上げる大きさになったので頤だけ軽く上げている。
「木更津の猪頭、御嶽兵衛よ」
夜闇の中から覗く緑の瞳、それが填まっているのは――人語を使う猪の頭であった。
「猪頭。――」
「女郎蜘蛛か。――」
言葉に出さぬ、思考。
沢庵宗彭の言葉。
それ――人を生むは気の化なり。この気、人を離れ独脱して人を生じることはない。
気は人に依らねば肉体を生ぜざるもの。山河の気は山河の中で静動し、草木の気は草木によって動く。水土は水土で。
だがしかし、人の気が、人を生む気の化ではなくなることがある。すなわち化生であり、鬼である。
刀剣の気が、刀剣を生む気の化で収まらなくなること即ち化生、妖刀を生じるものである。
では、この御嶽兵衛なる猪頭は、はたして鬼なりや。
否。
人より生変せし鬼ではない。
この者、実に野生の歳経た獣が化生した妖怪である。
妖魅の発生にも、多種がある。
いま、鬼女落葉御前は妖魅として、同じ妖魅である猪頭御嶽兵衛の縄張りに踏み入ったことになる。
「いかんなあ、隠そうともしない妖気。それじゃあ喧嘩をしに来たととられても仕方がないよねえ」
ねっとりとした声だ。
とんでもない。
この御嶽、じつにゆっくりと、ゆっくりと近づいてきてるではないか。
「やまくじらって、しってるかい。猪の隠語で、ぼたんともいうよな。いいよなくじら。鯨を食いたくて、人に化けてしばらくは海に出てたよ。……山には、どのくらいいたかな。まあけっこうな歳はいたっけな。海では、人の姿だから、まあ三十年くらいか。場所と名前を変えて、転々ってわけさ」
人の世で過ごすなら、人の世の代謝に併せなければならない。
老いなければ、死ななければ、たちどころに妖魅と発覚し討ち手が差し向けられる。
「そうそう、鯨。やまくじら。山の鯨が、猪。よぉ言ったもんだ。赤い肉がそっくりだ。まっかな花の、ぼたんの異名も、よぉわかる。御嶽兵衛ってナマエさあ、御嶽をおんごくって読むんだ。御嶽、大きい山だ。おれに似合う名だろう。――」
そこで、ぴたりと声も歩みも止まる。いや、止める。
もうすでに、殺し合う距離だ。
「ぼたん肉を喰いにきたか、蜘蛛女よぅ」
「いや――」
否定しようとした瞬間、丸木のような腕が降ってきた。
後ろへ飛んで逃げようとした足の一本が掴まれた。
「もらうぜ」
そのまま御前のからだが御嶽の引く手に、関節を振り砕く勢いで杉の幹へと叩きつけられる。
――ふわり。
肉の砕ける音でもなく、足が捻折れる感触でもなく、真綿を掌で圧したような柔らかい余韻を残し、御前のからだは杉の幹にぴたりと貼り付いている。
「なにをした」
御前の多脚が衝突を緩和させたこと、取られた足のひとつが御嶽の手首の関節を押し下げ、望む方向へからだを向けさせたことに気が付いていない様子である。
「なにをした」
その言葉が終わる寸前、するりと掴まれていた足が引き抜かれる。ザっとばかりに反対側の幹に飛ぶ御前。
「逃がさねえよ」
猪頭の筋肉が数倍に膨れ上がったかのようだった。
大きく広げた両手が、まるで通せんぼをするように左右を封じ、緩く曲げた足は御前の上への逃亡を阻止せんと跳躍のため脱力している。
猪突猛進なる言葉がある。
猪の突進の速度は凄まじく、実に数倍の体躯を誇る獣をも弾き殺す重みも乗っている。
必殺の威力を秘めている。
「だめだよ、山で喧嘩をしちゃ。山で喧嘩を売ったら、こうなっちゃうよ。どうして人に化けて、ああ、尼なんかに化けて侵入ってきたのかしらないけどさ。――喰われちゃうからね」
「だとすれば。――」
御前が、小首を傾げるように聞き返す。
「だとすれば。つまり、御嶽兵衛。猪の化生。つまり、だとすれば、この妾を殺して喰らうということなのかしら」
「順番が違うねえ」
にんまりと笑う巨漢は、赤ん坊のようである。
「順番が違うねえ。喰って殺すのさ。喰い殺すのさ。しってるかい、躍り喰い。生きたまま喰って、死んでいくのを、のたうち回るのを感じながら味わうんだ。いいものだぞ。ああ、いいものだ。佐渡に来てからこっち、人の味を思い出すことは多けれども、鬼を喰ったことは応仁の戦ぶりじゃあのぅ」
御前は笑う。
「応仁の世に生きておったなら、聞けることも多かろうの」
「なんだと」
女は、鬼女は、ゆっくりと手を尋げる。
男と、猪頭と、同じように手を尋げる。
そのあまりにもスケールの違う、同じような姿に、御嶽兵衛は鼻を鳴らして笑う。笑って、嘲い、飛びかかろうとした。
その肉体が、絞った雑巾のように絞り丸められた。
跳躍しようとした姿から、びちゃりと、縦に絞られた。
「ぬぅ。――」
痛みはない。
が、無数に。――いや、無数などと感じられぬような、まるで一枚の布に丸め包まれているような感触だった。感触。そんなものではない。握りしめられるような力である。
悲鳴も呼吸もままならない。
指の一本も動かせない。
からだを曲げることすら叶わなかった。
筋肉の悲鳴があがる。
「逃がしはいたしませぬ」
仰向けに転がされた御嶽の胸の上に、のそりと、落葉御前がのしかかる。重い。満貫の岩のようであった。
(糸か――)
猪の思考が奔り、猪頭の巨体から人の姿に変生する。
肉体の大きさの差異を利用し、拘束から抜け出ようとする起死回生であったが、戻った瞬間、大の字にきつく拘束されているではないか。
「お、俺を殺すのか。喰うのか。そのために来たのか」
「バケモノはバケモノを喰らい、自らの力とする。そういうものも、在る。が、喰わぬ」
「喰わぬのか」
「喰わぬ」
もうとっくに、御嶽は戦意を消失している。
人の姿のまま、またあの猪の巨体に変生しようとすれば、その膨れ上がる圧で己が絞り死ぬは明白であった。
「喰わぬが、殺さぬと言ってはおらぬ。のう、御嶽兵衛。――」
「ひ」
金の瞳と、満貫の重さ。
ふと、自分の右小指に御前の手が添えられる。
「人間の骨の数は、百と二十八本。おまえは同じか喃」
小指が握られる。
「関の狐狸は人の姿のまま五本まで数えさせてくれたが、何も話さぬ輩はたいてい骨の数を二百と五十六までふやして死んだ。の、お主の骨は何本じゃ。御嶽兵衛。――」
悲鳴を上げることすら出来なかった。
縒った糸の拘束で口と鼻が塞がれたのだ。しかし、息は通る。されど、音は通らぬ。静かな山中に、蠢くだけの二体である。
「聞きたいことは山ほど在る。ひとつずつ聞いていく。答えればその骨は許す。嘘を言えば、ふたつに増やす。ほんとうに知らねば、それも許す」
「……。――」
「だが」
御嶽は、格上という言葉の意味をそのとき理解した。
勝てぬ。
いや、負けることすらこの者の許しがなければ叶わぬ。
「だが。――」
御前の金の瞳。
その魔力に負けたわけではない。
御前の笑み。
その真っ赤な口中より伸びる、長い舌の妖気に中てられたわけでもない。
「だがな、御嶽兵衛。よくお聞き。二度はいわない。返事は粉微塵に砕ける骨の音で聞くこととなる。いいね、御嶽兵衛。かわいい子。だが。だがしかし。この妾《わたし》を謀ろうなどとしたら、欺こうとしたら、惑わそうとしたのならば、喃。――」
小指から離れた手が、顔に添えられる。
優しく包むように、添えられる。
御嶽兵衛は、褌を濡らしていた。
「決して、許さぬ。決して許さぬ。決して許すことはせぬ。決してゆるしてやることすらできぬ。その分別は、つく喃。――」
御嶽兵衛は、頷けぬまま必死に頷いていた。
なにが尼だ。
なにが護衛の侍だ。
なにが公儀隠密だ。
そのようなタマか。
「ではまず――」
そして御嶽兵衛はすべてを聞き、すべてを話し、すべてを諦めた。
月が沈み始めた頃合い、ようやくそれは終わった。
解放された御嶽兵衛は泣いた。
そのくしゃりと泣く巨漢は、赤ん坊のようであった。
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