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スタート

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「別れたの?」

朝、俺のマネージャーの秋元、通称アッキーが迎えに来てくれて車に乗り込んだ時になんとなく話した。
自分の色恋はそんなに話さない俺だけど、なんとなくアッキーには分かっていてもらいたかった。

「1年くらい付き合ってたよな?」
「そうだね。」
「別れた理由は?」
「気持ちがなくなったから。」
「・・安藤ひろこのがいいのか。」
「もちろん」

アッキーはため息をついた。当たり前だ。写真だけ見て勝手に一目惚れして彼女とまで別れているのだ。

「まだ会ったことない子だぞ。ただのファンじゃないのか?山ちゃんだって初めはそんなかんじだったぞ」
「違う。山ちゃんはただのファンだよ。マニアックだけど」

山ちゃんも山ちゃんなりにかなりの安藤ひろこファンだけど、ファンと片想いは同じかもしれないけど、そこは線引きをしてほしかった。
俺は本気の恋だった。

「安藤ひろこの写真集、重版かかったらしいよ。」
「え!?」

俺はスマホでAmazonからすぐに注文した。2部買おうとしたけど、俺が1冊頼んだところでもう欠品になってしまった。

「じゃああれか。彼女とも別れて安藤ひろこに会うため、売れるため、これがスタートか。」

「そうだね。」

窓の外には幼稚園が映り園庭にマリア像が立っていた。俺はそれを見つめていた。

六本木通りに出るとき、アッキーは必ず自宅マンション近くの細い道を入って住宅街を通る。その住宅街にこの幼稚園はあった。
カトリック系の幼稚園だろうと分かるマリア像。俺は通るたびにマリア像を見つめて密かにお願いしていたんだと思う。
何も宗教なんて入ってないけど、毎日通るから必然とそのマリア像にお願いをしていた。

『安藤ひろこが彼女になってくれますように』

毎日、聖司は歌を作ってくれた。
俺も毎日歌っていた。

『VENUS』という曲をリリースしたら、それがウィンタースポーツメーカーのCMソングに決まった。
初めてのタイアップだった。 
なんとこの歌は、聖司が俺を安藤ひろこと会える日を夢見て日々頑張っている歌だった。
やっぱり安藤ひろこと俺は何かある。
俺は勝手に縁があると思い込んだ。



「メジャーデビューしてからどうなの?モテまくりでしょ?かっこいいもんね」

ラジオで芸人2人から俺たち4人は言われ、しれっと笑った。

「そんな事ないですよ。楽曲制作ばかりで女の子と遊ぶとかあんまりないよね。」
聖司の言葉になんとなく3人で頷いた。

『モデルの誰誰ちゃんがHARUに会いたがってるらしいよ』
『女優の誰誰がHARUのファンらしいよ。会ってみない?』

たまにどこからかそんな声は聞こえてきてはいたけど、彼女もいたしそこまで気持ちが流れたり女遊びしたいとは思っていなかった。

『安藤ひろこがHARUのファンらしいよ』

なんてどこからか声がかかるといいのに。そう思ってはいるけどうまくいかないのが現実だ。

「HARUさん、ヤバイでしょ?モテまくりでしょ?」
「いや、そんな事ないですよ。」
「そんな事あるよねぇ?ねぇ?会ってみたい女優さんとかいる?」
「安藤ひろこちゃん。」

まさかの俺はストレートに答えていた。

「安藤ひろこ??」
「あ、分かる。ワンナイの。可愛いよね」
「あ!あのお団子頭の子か!色っぽいよね。HARUさん色っぽい子好きなんだ。」

言った後でまずかったかなーなんて思ったけど、これきっかけでどこからか安藤ひろこの耳に入ってくれれば、なんて思っていたけどラジオでしかもかなりのローカル局でそんなウワサなんて広まらないよな、と思っていた。
でも何が起こるか分からない。電波に乗せて広まった俺のたった一言で、どこからか安藤ひろこのマネージャーとかと知り合えて会わせてくれるかもしれない。何か、何か安藤ひろこときっかけができればと日々模索していた。

「個人名を出すな!個人名を!!ファンが嫌な思いするだろ!!」

ラジオ収録後にアッキーに怖くないけどめちゃくちゃ怒られた。



ラジオの生収録の後に民放局の音楽番組に出るのに広い待合室でTVを見ていたら山ちゃんが俺に声をかけた。

「あそこにいる人、見てよ」

室内に併設された隅にある喫煙所では40代くらいの男が2人いた。
1人は帽子を被っている。もう1人はどこからどう見てもチンピラだった。

「あの帽子被ってない方。安藤ひろこちゃんのマネージャー。」

「えぇ!?」

俺は驚愕した。
なんでチンピラが安藤ひろこのマネージャーなんだ?

痩せ型で無精髭。色眼鏡をして手には大きな鞄を持っている。
地味なスーツを着ているがどこからどう見てもチンピラにしか見えなかった。
声なんてかけて、『安藤ひろこちゃんに会いたいので連絡先教えてください』なんて怖くて怖くて言える訳がない。

「あの鞄の中、絶対チャカ入ってるよな」
俺が言うとメンバーは爆笑していた。

「でもあの人、業界の中ではけっこうな有名人だよ。知り合いも多いしね。だいたいマネージャー仲間と話してるとあの人の名前が出てくるよ。ユウイさんって名前。」

「ユウイさん?」

もう山ちゃんしか安藤ひろこの情報を持ち合わせてなくて、頼るしかなかった。
しかし目の前で安藤ひろこのマネージャーに会えるとは本当にこの世界は狭い。
俺は必ず彼女に会えるはずだと確信した。


雨がポツポツと降り出した帰り道、アッキーに「ユウイさん」を知っているのか聞いてみた。

「まぁ聞いた事はあるよ。スミのユウイさんね。話した事はないけど仕事は敏腕らしいぞ。橘佳苗ってかわいい女優いたじゃん。引退したけど、あの子もユウイさんがずっとついてたらしいからな。」

「へーじゃあけっこうすごいんだな。」

俺はアッキーの言葉を聞きながら外の雨が強くなってきた事に気がついた。

「スミエンターテイメントなんて、業界最大手だけあって内部はドロドロだぞ。」

「ドロドロってあれ?ヤクザ絡んでドロドロ?」

安藤ひろこの事務所は業界最大手芸能事務所『SPLASH』の子会社にあたる。
会長がもう業界ではNo. 1の権力者でありヤバイ人だというのは有名な話しだった。

所属の若い女性タレントは全員会長や幹部と寝てるとウワサはあるし、スミエンターテイメントなんて若い女の子しか所属していない事から、会長の愛人事務所なんて言われ方もしていた。

「スミの社長もけっこうヤバイ人だからね。」
「それって暗に安藤ひろこがヤバイ人の愛人だとか言いたいの?」
「それもある。」

運転するアッキーの横顔がいつもよりシリアスだった。
外の雨音が強くなってきて窓ガラスに雨がパリパリと音をたてだした。

「安藤ひろこがヤバイ人の愛人だったらどうするんだ?」

アッキーは心配していた。
それは分かっていたけどもう自分の感情を抑える事なんてできなかった。
まだ本物に会ったこともないけど、心臓がえぐられるくらいの強い想いがあったんだ。

「愛人だったとしても、その関係を壊してヤバイ人から俺が奪うよ。奪えるくらい、誰にも文句を言われないくらい、俺達が売れっ子にならなきゃいけないって今は思ってる」

そうなんだ。
売れっ子になって稼いで誰も文句を言えないくらいのバンドになれば、ヤバイ人からだって奪える。

俺は本気だった。

幼稚園の前を通るとマリア像は雨に打たれていた。
雨に濡れるマリア像を俺はただ見つめていた。

マンションに戻ると宅配ボックスに茶封筒があった。Amazonで注文した安藤ひろこの写真集だった。

「やっと、きたー」

今さっき届いたのか、雨で封筒は濡れていた。
俺はそれを大事に胸に抱えた。






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