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第三章
コギト・エルゴ・スム 五
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気がつくと陽向は、たくさんの本が収められた木製の書架に囲まれた、温かい雰囲気の部屋の中に、ぽつんと立っていた。高いところにある天井には四角くとられた天窓があり、午後の柔らかい日差しが陽向の立っている床にまで筋状に差し込んでくる。
懐かしいにおいのする、この場所のことは、よく覚えている。
実家にあった父の書斎だ。
ほとんど天井近くまである棚に埋まっている本は、父が専門とした人工知能関連だけではなく、哲学や言語学、文化人類学まで幅広いジャンルのものだった。
(人工知能の専門家は哲学を学ぶべきだなんて嘯いたのは巧望さんだけれど……そう言えば、父さんも似たようなことを言っていたんだわ。人工の心を作ろうと思うのなら、人は自らの心が何なのか、どこから来たのか、どうやって生まれたのかを知らなければならないって)
懐かしさに胸を震わせながら、思わず手を伸ばした先にあるルネ・デカルトの書籍には、背が足りなくて届かなかった。ふと見下ろしてみた手は頼りないほどに小さく、どうやら今の自分は幼い頃に戻っているのだと悟る。
「陽向」
懐かしい声に呼ばれて振り向けば、随分と若返って元気そうな父、孝之が書斎の奥に据えられた書きもの机から、陽向を手招きしていた。
(これは夢だと分かってる。でも、こんなに心地いい夢なら、しばらく覚めなくてもいい)
幼い陽向は、まっすぐに彼のもとに駆け寄り、その大きな手で頭を撫でられながら、机の上に置かれた本のページを覗き込んだ。
その一面には、随分古い時代のものらしい、洞窟の壁に描かれた壁画を撮影したとおぼしき写真が載せられている。躍動的で力強い線で描かれた獣や鳥、ダンスをする奇妙な装いの人々、ライオンの頭に人間の体を持つ不思議な生き物の絵は、子供が描いたように単純なようでいて、どこか馴染みのある神話の世界を覗き込んだような迫力があった。
「あまり上手じゃない…変な絵ね……一体、誰が描いたのかしら……?」
何と言えばいいのか分からなくて、そんなしようのない感想を漏らすと、父は優しい声で尋ねてきた。
「そうだね、絵画としては稚拙で、陽向の方がもっとうまく描けたかも知れないね。ところで、陽向はこの絵を描いたのは、どんな人達だと思う?」
「……洞窟で暮らしていたような人達だから……うんと昔の……何百年も前に生きていたんでしょうね」
父の目元に穏やかな笑い皺が寄るのを、半分子供で半分大人の心を持つ夢の中の陽向は、慕わしさに一杯の気持ちで見返す。
「陽向は、これを作ったのは僕達と同じ人間に違いないと思うんだね。確かに、この壁画には、現代に生きる僕達の心にも通じる何かがある。だが、実際には、これは四万年も昔、後期旧石器時代に描かれたものなんだ」
「四万年前……? そんな大昔に人間がいたの?」
途方もない話に、陽向は大きな目をぐるっと回した。
「そう、僕達のご先祖様だ」
戸惑いの表情を浮かべる陽向に向かって深々と頷き返しながら、父は続けた。
「その時代、我々と同じ現生人類であるホモ・サピエンス・サピエンスが登場した。ホモ・サピエンス――ラテン語で『賢い人間』という意味だよ。創意工夫に長けて適応性の高い彼らは、ネアンデルタール人など他の人属より生存競争において優位に立ったことだろう。彼らこそ、他の旧人類がやらなかったことを始めた種なんだ。洞窟の壁に絵が描かれ、彫像が大量に作られるようになった……ビーズやペンダントを身につけて体を美しく飾ろうとし、墓には副葬品が納められるようになった。おそらく彼らは、脳に突然変異的な変化が起こったことによって『新しい心』を獲得した種だったんだ」
「新しい心」
陽向はオウム返しに呟く。それが何を意味するものか分からないながらも、父の語る話に強く引きつけられるのを覚えた。
「ホモ・サピエンス・サピエンスは、その豊かな想像力によって、世界をひとつの物語として捉えるようになり、それらを再構築した作品を作り出すようになった。芸術や宗教、文学のもとになるものが生まれた。氷河期が終われば安定化した気候のもとで農業革命を起こした。その創造性にはすさまじいものがあった」
これは陽向の夢には違いなかったけれども、遠い昔どこかで実際に聞いたことがある話のような気がしてきた。その時、孝之とは別の声が、彼の言葉に応えるように、この場に割って入ってきた。
「ホモ・サピエンス・サピエンスが、それまでにいた他の化石人類達と比較して飛び抜けて進化した存在だったとして――それでは、僕らの先祖に起ったこととは、一体何だったんでしょう。脳の突然変異は、彼らをどんなふうに変えたんです……?」
陽向にとっては忘れようもない、この流麗な声の響き。弾かれたように振り返った先には、朔也が――まだ学生のような柔らかな面差しをした若い日の彼がいた。
(そうよ、これは私の実家にホームステイしていた時の朔也さん……私はまだ高校生だった……)
いつの間にか、場面は、さっきまでいた父の書斎ではなく、よく陽向と朔也が、孝之を交えて人工知能の未来というようなテーマで議論をかわしていたリビングに移っていた。
L字型のソファセットの一つに腰を下ろして、父と朔也の会話を見守っている陽向はもう幼い子供ではなく、理屈屋で勝ち気な十代半ばの少女になっていた。
「実を言うと、彼らの脳のどの部分に突然変異が起ったかは分かっているんだ」
孝之が己の頭の左半分を指差しながら、とっておきの秘密を打ち明けようとしているかのような口調で言った。聡明な子供達と議論を戦わせることを、彼はいつも楽しんでいた。
「それは我々が言語野と呼ぶ部分なんだよ」
陽向はソファから身を乗り出すようにして、素直に問いかけた。
「私達の先祖は、言語野の変異のおかげでおしゃべり好きになったというの? そのことと、彼らの意識が複雑で高度なものに進化していったことには関わりがある……?」
孝之は目を細めるようにして最愛の愛娘を眺めながらも、優秀な教師のような理性的な口調で語った。
「その通りだよ、陽向。会話と言語の発達に決定的な意味を持つ遺伝子――言語遺伝子の起こした突然変異が、彼らの総合的知能の進化を加速させたんだ。つまり、我々の高度に発達した意識を生んだのは『言語』だということなんだね。ごく初期の人類の言葉は、現代人が用いるそれとは異なっていて、ソーシャルな情報の送受信のための言葉だった。ソーシャル言語は、十五万年前から五万前までに急速に進化し、ソーシャルなこと以外の情報も伝えられる、今あるような汎用言語になった。進化のダイナミクスにより、以前は人だけを対象にしていた言葉によって周囲の世界に対する意識が高まる方向に進んだ。全般的知能を生んだのは、汎用言語だと言えるだろう」
陽向は胸の上に手をあてて、そこに宿っている心、遠い先祖から受け継いだ意識について考えた。新しい心のビッグバンの過程で、様々な遺伝子の突然変異によって、人類は汎用言語を獲得し、発展させて、自分の意識を変えた。全てのものを指す言葉を得た人類は、急速に拡大し、より広い環境に包み込むようになった。
「初めに言葉ありき」
少しの間物思いにふけっていた朔也が、ふいにこんなことを呟いた。不思議そうな顔をする陽向に向かって、にこりと微笑んだ後、ゆったりとソファに身を沈めて待ち受ける構えの孝之をまっすぐ見た。
「聖書の言葉ですよ。人が意識を獲得する過程においても、初めに言語があり、そこから絵や音楽、踊り、彫刻が現れて、やがては宗教や科学が生まれたなんて、とても興味深い話です」
孝之はふともの思わし気な顔になった。
「陽向から聞いたんだが、朔也君……君は、人が自ら作り出した人工物に心を持たせることはいつか可能になると言ったそうだが、本当にそう思っているのかな」
試すような口ぶりに、朔也は端正な眉をひそめた。言葉に窮したように黙り込んだのも一瞬のこと、彼は挑みかけるような口調で言い返した。
「我々の心の成り立ちが分かれば、それに似たものを作ることはきっと可能でしょう。人工の心、あるいは、人間の友になれる人工物もいつか当たり前の存在になりますよ。……宇和先生は、発展し続けている技術がいつかシンギュラリティに到達するとは考えられないんですか?」
質問には質問で返して、朔也は陽向の方に何か言いたげな視線を向けてきた。知識の豊富な孝之に対して自分一人ではいささか分が悪いのを感じて、陽向に加勢してほしいのかもしれない。
しかし、陽向は、父に反論するだけの力のある主張を持たなかった。人の友達になってくれる人工知能を作りたいと思っているはずなのに、どうしたことか、もしかしたら、それは不可能なのかもしれないという疑心に捕われている。
「もう少し、私達の先祖の話をしよう」
ぎこちなく身じろぎする陽向を眺めながら、孝之が再び口を開いた。
「汎用言語が彼らの『新しい心』を生み出す原因となったわけだが、言語はコミュニケーションの手段であるだけでなく、我々の意識に世界がどう表現されるかも決める。汎用言語への進化によって、人間が見る世界は容赦なく二元論的になったんだ。実際に見た世界と心の中で想像した世界はしばしば混じり合った。旧石器時代の人々にとって、洞窟に描いた絵は、自分達と同じように生きているものだった。絵画や彫像だけではない、他の動物、樹木、自然現象にさえ人間と同じ属性を与え、それらは心を持っていると考えた。二元論的な思考の直接の結果は、生命のないものが心を獲得したということなんだよ」
陽向には父がどこに話の着地点を見いだそうとしているのは、さっぱり分からなかったが、朔也は早くも察したのだろう、何かしらはっとしたように息をのんだ。
「気がつかないか、陽向、初期の人類が洞窟に描いた絵には、ものが心を持つことができるという私達人間の根強い信念の認知的な起源が見られるんだよ。マシンがいずれ私達と同じ知能を持つという考えも、それと本質的に同じものだ」
陽向の膝の上には、いつの間にか、父の書斎で彼に見せられた本が広げられていた。ページには遠い先祖が洞窟に描いた壁画が大きく載せられている。赤い壁にくっきりと描かれた鳥や獣は、陽向が見ているうちに、まるで生命が宿ったかのように蠢きだした。空を飛び、野を駆け、うなり声をあげて、しまいにはページの外に飛び出そうとし始めた
恐くなった陽向は、慌てて本のページを閉じ、テーブルの上に置いたそれを孝之の方に押しやった。
「本当は生きていないものをさえ、想像の中でかくも生き生きと動かせるのは、人間くらいなものだ」
孝之は何でもないことのように本を取り上げ、ガタガタと騒がしい音を立てている、その表紙に耳をあてさえした。
「私達の脳に備わった認知システムには、この二元論的な思考方法がしっかりと結びつけられている。脳はハードウェアなら心はソフトウェアのようなものだと考え、コンピューターへの意識のダウンロードも実現可能なことのように思いがちだ」
父が言おうとしていることをこれ以上聞きたくなくて、陽向はとっさに上げた手で耳を塞いだ。緊張のあまり怒らせた肩に、誰かがそっと手を置くのを感じ振り向くと、いつの間にか傍らにいた朔也が陽向の体を支えていた。
必死に陽向の目を捉えようとしている彼の黒い瞳を見ていると、ざわつく心がほんの少しだけ静まった。
「……陽向、僕を信じて……人間が想像できる夢で実現不可能なものないんだ。人間の友となってくれるAIを作るという君の夢は――僕がきっと叶えてあげる」
でも、あなたは死んでしまったじゃない。口から出かかった残酷な言葉をとっさに飲み込んで、どこか哀しげに見える朔也から顔を背けると、陽向は改めて、父の方に向き直った。
「そして、我々はどうしても生命のないものを擬人化してしまうので、我々の想像の中で、ロボットやAIは人と同じように見たり、感じたり、行動したりする……」
孝之の語る話には、やはり、聞きおぼえがあった。朔也をまじえたディベートの際に話題になったのかも知れないし、陽向が読んだ本に似た記載があったのかもしれない。いずれにせよ、昔の陽向の心には響かなかったのか、深く考えることもなく、そのうちに忘れ去った。
そんな娘を目でたしなめて、孝之は手にしたままの本を持ち直し、膝の上で開いた。たちまち、本のページから飛び出してきた黒い鳥の一群が部屋の中で旋回を始め、鹿を追いかけてきた虎が倒した獲物に牙を突き立て、辺りは騒然となった。
「…どんな唯物論者でも、心の動きまでは制御できない。生命のないものに意識を持たせたがるのは、人間の脳に深く刻まれた習い性なんだよ」
陽向は堪えかねたように目を閉じた。脳に刻み込まれた本能が、自分に大それた望みを抱かせたというのだろうか。
(……だからといって、私達に心を持つマシンが作れない訳じゃない……ああ、でも、それは証明のしようのないことなんだっけ……)
目覚めが近いのだろう。現実が夢に浸食し始めたのを感じながら、顔を上げると目の前に父の姿はなく、傍らにいたはずの朔也も忽然といなくなっていた。
懐かしいリビングはそのままだったが、どうやら陽向は夢の中でも、最後には一人取り残されてしまう定めのようだった。
懐かしいにおいのする、この場所のことは、よく覚えている。
実家にあった父の書斎だ。
ほとんど天井近くまである棚に埋まっている本は、父が専門とした人工知能関連だけではなく、哲学や言語学、文化人類学まで幅広いジャンルのものだった。
(人工知能の専門家は哲学を学ぶべきだなんて嘯いたのは巧望さんだけれど……そう言えば、父さんも似たようなことを言っていたんだわ。人工の心を作ろうと思うのなら、人は自らの心が何なのか、どこから来たのか、どうやって生まれたのかを知らなければならないって)
懐かしさに胸を震わせながら、思わず手を伸ばした先にあるルネ・デカルトの書籍には、背が足りなくて届かなかった。ふと見下ろしてみた手は頼りないほどに小さく、どうやら今の自分は幼い頃に戻っているのだと悟る。
「陽向」
懐かしい声に呼ばれて振り向けば、随分と若返って元気そうな父、孝之が書斎の奥に据えられた書きもの机から、陽向を手招きしていた。
(これは夢だと分かってる。でも、こんなに心地いい夢なら、しばらく覚めなくてもいい)
幼い陽向は、まっすぐに彼のもとに駆け寄り、その大きな手で頭を撫でられながら、机の上に置かれた本のページを覗き込んだ。
その一面には、随分古い時代のものらしい、洞窟の壁に描かれた壁画を撮影したとおぼしき写真が載せられている。躍動的で力強い線で描かれた獣や鳥、ダンスをする奇妙な装いの人々、ライオンの頭に人間の体を持つ不思議な生き物の絵は、子供が描いたように単純なようでいて、どこか馴染みのある神話の世界を覗き込んだような迫力があった。
「あまり上手じゃない…変な絵ね……一体、誰が描いたのかしら……?」
何と言えばいいのか分からなくて、そんなしようのない感想を漏らすと、父は優しい声で尋ねてきた。
「そうだね、絵画としては稚拙で、陽向の方がもっとうまく描けたかも知れないね。ところで、陽向はこの絵を描いたのは、どんな人達だと思う?」
「……洞窟で暮らしていたような人達だから……うんと昔の……何百年も前に生きていたんでしょうね」
父の目元に穏やかな笑い皺が寄るのを、半分子供で半分大人の心を持つ夢の中の陽向は、慕わしさに一杯の気持ちで見返す。
「陽向は、これを作ったのは僕達と同じ人間に違いないと思うんだね。確かに、この壁画には、現代に生きる僕達の心にも通じる何かがある。だが、実際には、これは四万年も昔、後期旧石器時代に描かれたものなんだ」
「四万年前……? そんな大昔に人間がいたの?」
途方もない話に、陽向は大きな目をぐるっと回した。
「そう、僕達のご先祖様だ」
戸惑いの表情を浮かべる陽向に向かって深々と頷き返しながら、父は続けた。
「その時代、我々と同じ現生人類であるホモ・サピエンス・サピエンスが登場した。ホモ・サピエンス――ラテン語で『賢い人間』という意味だよ。創意工夫に長けて適応性の高い彼らは、ネアンデルタール人など他の人属より生存競争において優位に立ったことだろう。彼らこそ、他の旧人類がやらなかったことを始めた種なんだ。洞窟の壁に絵が描かれ、彫像が大量に作られるようになった……ビーズやペンダントを身につけて体を美しく飾ろうとし、墓には副葬品が納められるようになった。おそらく彼らは、脳に突然変異的な変化が起こったことによって『新しい心』を獲得した種だったんだ」
「新しい心」
陽向はオウム返しに呟く。それが何を意味するものか分からないながらも、父の語る話に強く引きつけられるのを覚えた。
「ホモ・サピエンス・サピエンスは、その豊かな想像力によって、世界をひとつの物語として捉えるようになり、それらを再構築した作品を作り出すようになった。芸術や宗教、文学のもとになるものが生まれた。氷河期が終われば安定化した気候のもとで農業革命を起こした。その創造性にはすさまじいものがあった」
これは陽向の夢には違いなかったけれども、遠い昔どこかで実際に聞いたことがある話のような気がしてきた。その時、孝之とは別の声が、彼の言葉に応えるように、この場に割って入ってきた。
「ホモ・サピエンス・サピエンスが、それまでにいた他の化石人類達と比較して飛び抜けて進化した存在だったとして――それでは、僕らの先祖に起ったこととは、一体何だったんでしょう。脳の突然変異は、彼らをどんなふうに変えたんです……?」
陽向にとっては忘れようもない、この流麗な声の響き。弾かれたように振り返った先には、朔也が――まだ学生のような柔らかな面差しをした若い日の彼がいた。
(そうよ、これは私の実家にホームステイしていた時の朔也さん……私はまだ高校生だった……)
いつの間にか、場面は、さっきまでいた父の書斎ではなく、よく陽向と朔也が、孝之を交えて人工知能の未来というようなテーマで議論をかわしていたリビングに移っていた。
L字型のソファセットの一つに腰を下ろして、父と朔也の会話を見守っている陽向はもう幼い子供ではなく、理屈屋で勝ち気な十代半ばの少女になっていた。
「実を言うと、彼らの脳のどの部分に突然変異が起ったかは分かっているんだ」
孝之が己の頭の左半分を指差しながら、とっておきの秘密を打ち明けようとしているかのような口調で言った。聡明な子供達と議論を戦わせることを、彼はいつも楽しんでいた。
「それは我々が言語野と呼ぶ部分なんだよ」
陽向はソファから身を乗り出すようにして、素直に問いかけた。
「私達の先祖は、言語野の変異のおかげでおしゃべり好きになったというの? そのことと、彼らの意識が複雑で高度なものに進化していったことには関わりがある……?」
孝之は目を細めるようにして最愛の愛娘を眺めながらも、優秀な教師のような理性的な口調で語った。
「その通りだよ、陽向。会話と言語の発達に決定的な意味を持つ遺伝子――言語遺伝子の起こした突然変異が、彼らの総合的知能の進化を加速させたんだ。つまり、我々の高度に発達した意識を生んだのは『言語』だということなんだね。ごく初期の人類の言葉は、現代人が用いるそれとは異なっていて、ソーシャルな情報の送受信のための言葉だった。ソーシャル言語は、十五万年前から五万前までに急速に進化し、ソーシャルなこと以外の情報も伝えられる、今あるような汎用言語になった。進化のダイナミクスにより、以前は人だけを対象にしていた言葉によって周囲の世界に対する意識が高まる方向に進んだ。全般的知能を生んだのは、汎用言語だと言えるだろう」
陽向は胸の上に手をあてて、そこに宿っている心、遠い先祖から受け継いだ意識について考えた。新しい心のビッグバンの過程で、様々な遺伝子の突然変異によって、人類は汎用言語を獲得し、発展させて、自分の意識を変えた。全てのものを指す言葉を得た人類は、急速に拡大し、より広い環境に包み込むようになった。
「初めに言葉ありき」
少しの間物思いにふけっていた朔也が、ふいにこんなことを呟いた。不思議そうな顔をする陽向に向かって、にこりと微笑んだ後、ゆったりとソファに身を沈めて待ち受ける構えの孝之をまっすぐ見た。
「聖書の言葉ですよ。人が意識を獲得する過程においても、初めに言語があり、そこから絵や音楽、踊り、彫刻が現れて、やがては宗教や科学が生まれたなんて、とても興味深い話です」
孝之はふともの思わし気な顔になった。
「陽向から聞いたんだが、朔也君……君は、人が自ら作り出した人工物に心を持たせることはいつか可能になると言ったそうだが、本当にそう思っているのかな」
試すような口ぶりに、朔也は端正な眉をひそめた。言葉に窮したように黙り込んだのも一瞬のこと、彼は挑みかけるような口調で言い返した。
「我々の心の成り立ちが分かれば、それに似たものを作ることはきっと可能でしょう。人工の心、あるいは、人間の友になれる人工物もいつか当たり前の存在になりますよ。……宇和先生は、発展し続けている技術がいつかシンギュラリティに到達するとは考えられないんですか?」
質問には質問で返して、朔也は陽向の方に何か言いたげな視線を向けてきた。知識の豊富な孝之に対して自分一人ではいささか分が悪いのを感じて、陽向に加勢してほしいのかもしれない。
しかし、陽向は、父に反論するだけの力のある主張を持たなかった。人の友達になってくれる人工知能を作りたいと思っているはずなのに、どうしたことか、もしかしたら、それは不可能なのかもしれないという疑心に捕われている。
「もう少し、私達の先祖の話をしよう」
ぎこちなく身じろぎする陽向を眺めながら、孝之が再び口を開いた。
「汎用言語が彼らの『新しい心』を生み出す原因となったわけだが、言語はコミュニケーションの手段であるだけでなく、我々の意識に世界がどう表現されるかも決める。汎用言語への進化によって、人間が見る世界は容赦なく二元論的になったんだ。実際に見た世界と心の中で想像した世界はしばしば混じり合った。旧石器時代の人々にとって、洞窟に描いた絵は、自分達と同じように生きているものだった。絵画や彫像だけではない、他の動物、樹木、自然現象にさえ人間と同じ属性を与え、それらは心を持っていると考えた。二元論的な思考の直接の結果は、生命のないものが心を獲得したということなんだよ」
陽向には父がどこに話の着地点を見いだそうとしているのは、さっぱり分からなかったが、朔也は早くも察したのだろう、何かしらはっとしたように息をのんだ。
「気がつかないか、陽向、初期の人類が洞窟に描いた絵には、ものが心を持つことができるという私達人間の根強い信念の認知的な起源が見られるんだよ。マシンがいずれ私達と同じ知能を持つという考えも、それと本質的に同じものだ」
陽向の膝の上には、いつの間にか、父の書斎で彼に見せられた本が広げられていた。ページには遠い先祖が洞窟に描いた壁画が大きく載せられている。赤い壁にくっきりと描かれた鳥や獣は、陽向が見ているうちに、まるで生命が宿ったかのように蠢きだした。空を飛び、野を駆け、うなり声をあげて、しまいにはページの外に飛び出そうとし始めた
恐くなった陽向は、慌てて本のページを閉じ、テーブルの上に置いたそれを孝之の方に押しやった。
「本当は生きていないものをさえ、想像の中でかくも生き生きと動かせるのは、人間くらいなものだ」
孝之は何でもないことのように本を取り上げ、ガタガタと騒がしい音を立てている、その表紙に耳をあてさえした。
「私達の脳に備わった認知システムには、この二元論的な思考方法がしっかりと結びつけられている。脳はハードウェアなら心はソフトウェアのようなものだと考え、コンピューターへの意識のダウンロードも実現可能なことのように思いがちだ」
父が言おうとしていることをこれ以上聞きたくなくて、陽向はとっさに上げた手で耳を塞いだ。緊張のあまり怒らせた肩に、誰かがそっと手を置くのを感じ振り向くと、いつの間にか傍らにいた朔也が陽向の体を支えていた。
必死に陽向の目を捉えようとしている彼の黒い瞳を見ていると、ざわつく心がほんの少しだけ静まった。
「……陽向、僕を信じて……人間が想像できる夢で実現不可能なものないんだ。人間の友となってくれるAIを作るという君の夢は――僕がきっと叶えてあげる」
でも、あなたは死んでしまったじゃない。口から出かかった残酷な言葉をとっさに飲み込んで、どこか哀しげに見える朔也から顔を背けると、陽向は改めて、父の方に向き直った。
「そして、我々はどうしても生命のないものを擬人化してしまうので、我々の想像の中で、ロボットやAIは人と同じように見たり、感じたり、行動したりする……」
孝之の語る話には、やはり、聞きおぼえがあった。朔也をまじえたディベートの際に話題になったのかも知れないし、陽向が読んだ本に似た記載があったのかもしれない。いずれにせよ、昔の陽向の心には響かなかったのか、深く考えることもなく、そのうちに忘れ去った。
そんな娘を目でたしなめて、孝之は手にしたままの本を持ち直し、膝の上で開いた。たちまち、本のページから飛び出してきた黒い鳥の一群が部屋の中で旋回を始め、鹿を追いかけてきた虎が倒した獲物に牙を突き立て、辺りは騒然となった。
「…どんな唯物論者でも、心の動きまでは制御できない。生命のないものに意識を持たせたがるのは、人間の脳に深く刻まれた習い性なんだよ」
陽向は堪えかねたように目を閉じた。脳に刻み込まれた本能が、自分に大それた望みを抱かせたというのだろうか。
(……だからといって、私達に心を持つマシンが作れない訳じゃない……ああ、でも、それは証明のしようのないことなんだっけ……)
目覚めが近いのだろう。現実が夢に浸食し始めたのを感じながら、顔を上げると目の前に父の姿はなく、傍らにいたはずの朔也も忽然といなくなっていた。
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