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第二章

愛のプラグラム 四

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 二階の東側にある書斎で、陽向は、ここに移り住んでから初めて立ち上げてみたパソコンで、メールのチェックをしていた。
 今まではAIに丸投げして、仕事や雑務に関しては彼が陽向の代理人として返信までしていた。ちょっと後ろめたさがないわけでもないが、秘書みたいなものかと自分を納得させてきた。
(東京の職場の休職の手続きまで、sakuyaがしてくれたのね。さすがに社会人としてどうかと思うから、これからはメールの返信くらい自分でやるようにしよう)
 そういう積極的な気分になってきたあたり、主治医の見立て通り、陽向の心は回復に向かっているのだろう。
 最近のものから遡って受信ボックスを確認していくうちに、知らない差出人からのメールが何件も入っていることに気づいた。
古賀こが巧望たくみ……?」
 不審に思ってメールを開いてみる。送り主の古賀巧望は、このスマートホームを創ったアメリカのAIベンチャー企業future life labsの日本支社のCEOだと名乗っていた。
 汎用型人工知能adamにより管理されたスマートホームの導入実験を六甲アイランド特区においておこなっていたが、本格的な日本市場進出を前に、この度本社から派遣されてきた。生前の朔也とはビジネスパートナーの関係にあった人物が、陽向に会って話したいことがあるという。
「……どういうこと……? 朔也さんのfuture life labsでの仕事に私は全く関わってないし、彼が死んでしまった今、その会社の責任者が私に一体何の用があるというの……?」
 そもそも、この案件こそ、sakuyaに処理できなかったのだろうか。AIに守られた安寧な生活をかき乱される予感がして、陽向は警戒しながら、古賀巧望のメールを順番に開封していった。
 そこには、スマートホームの住人となった感想を尋ねると共に、朔也を失った後、独りで暮らしている陽向を案じ、困ったことがあればいつでも援助を惜しまないというような申し出が、飾り気のない言葉で綴られていた。そこに込められた過剰なほどの親近感は、陽向をいささか戸惑わせた。
「……何なのこの人……いくらビジネスパートナーの妻宛てだからといって、やけにフランクすぎない……? 名前は日本人だけれどアメリカでの暮らしが長いせい……?」
 朔也と陽向の共通の友人からのメールなら分かるが、一度も会ったことのない、しかも夫の仕事関係の知り合いにしては、いやに馴れ馴れしいのだ。
 しかし、朔也の死の直後に送られてきていた最初のメールを読んだ時、陽向は衝撃と共に、古賀巧望の正体を知り、あの親しみのこもったメールにも納得せざるを得なくなるのだった。
「sakuya!」
 パソコンの前でしばし固まった後、陽向は椅子をくるりと回転させて、がらんとした部屋の中心に向かって呼ばわった。
「何かあったのかい、陽向?」
 瞬き一つする間に、部屋の天井に設置されたホログラム発生装置が作動し、淡く発光するsakuyaの姿が陽向の目の前に現れた。
「君がパソコンを触っているとは珍しいね。いい傾向だよ、まだ外出には抵抗があっても、ネットを通じて外とつながる気持ちになれたのは」
「メールのチェックをしていただけよ。そして、今まであなたに任せすぎていたのを後悔している」
 陽向が恐い顔でにらみつけても、sakuyaは動じる素振りも見せず、不思議そうに首を傾げるだけだ。
「古賀巧望のことを、どうして私に黙っていたの……? つい昨日にも新しいメールが入っていたのに、一度も返信していなかった。彼はあなたの……」
 陽向は、唇から出かかった言葉をとっさに飲み込み、別の言い方をした。
「朔也さんの実の弟なんでしょう?」
 名字が違うので、初めは二人が兄弟などと思いつきもしなかったが、弟の方は離婚した母親の姓を選んだということなら不思議はない。
「お母様に引き取られていった弟さんとは、十五才で別れて以来ずっと疎遠になっていたものと思ってた。一体いつから一緒に仕事をしていたの?」
 sakuyaの涼しい顔を見ているうちにまた少し混乱してきた陽向は、しっかりしようと激しく頭を振りたてた。
「いいえ、このことで、あなたを責めても仕方ないのよ。でも、古賀巧望から連絡があったのなら、それはすぐに私に知らせるべきじゃない……?」
「朔也の肉親であっても、一度も会ったことのない陽向にとっては他人も同然じゃないか。ここに転がり込んだ当初の君の状態からして、よく知りもしない人間とコンタクトを取ることで余計なストレスは与えたくなかったんだ」
 陽向は眉をひそめた。朔也の葬儀の際に共に涙した義理の父母ならまだしも、兄の訃報にさえ駆けつけなかった弟との交流など、別に望むわけではなかった。
「それなら、それで……どうして私の目につく前に、彼からのメールも処理してくれなかったのよ! 」
 ああ、こんなふうにsakuyaをなじっているのは、いきなり現れた夫の弟にどう対応したらいいか自分で判断できないからだ。一方的に会いたいと請うてくるメールを前に、途方に暮れているからだ。
「……僕が君のふりをして適当なメールを送ったところで、巧望はごまかすことのできる人間じゃないんだよ。メールを読んだのなら分かるだろう、彼は君と会って話をしたがっているんだ。アメリカにいるならともかく、来日した今、巧望が君に会いに来るのを止めることは、僕にもできないよ」
 膝の上に置いた手を、陽向はぎゅっと握りしめた。
「やっぱり陽向は、巧望と会いたくないんだね……?」
 愛情に満ちた慈父のような顔でsakuyaに問いかけられて、陽向はおずおずと頷いた。
「ええ……正直言って、あまり気が進まない。少なくとも今はまだ、どんな人とも分からない相手に一人で会うのは不安……」
「……体調不良のため、しばらく会えないと返信しておこうか……?」
 情けない気持ちになって、唇を噛みしめる。またsakuyaに面倒なことを押しつけて、自分では何もせずに流されるだけの日々を送るのか。そう思うと、無性に腹が立ってきた。
「いいえ、私――古賀巧望には、私が自分でちゃんと連絡するわ。朔也さんの弟なんですもの……今まで放置していたのも失礼だし……一度電話をかけてみるわ」
 たちまちsakuyaが心配そうな表情をするのに、陽向はちょっとむきになった。
「巧望さんは、この度日本法人の代表として来日したついでに、不運な兄を看取ってくれた妻に挨拶をしておこうと思ったんでしょう。別に今更、私と親交を深めたいわけじゃない。電話で声を聞けば、それで十分だときっと思うわよ」
 半ば自分に言い聞かせるように言って、陽向はメールに記されていた古賀巧望の携帯の番号を確認した。
 いつでも電話をかけてくれてとメールには書かれていた。平日の正午過ぎに、忙しい会社の責任者が応対に出られるとは思わないが、それならそれで別にいい。
 傍らに影のように控えるsakuyaをちらりと横目で伺いながら、陽向はスマホを取り上げ、慎重に相手の電話番号を打ち込んだ。
 いきなり電話などしないで、当たり障りのないメールの返信から始めるべきだったか――そんな思いが脳裏をかすめた、次の瞬間。
「Hello,Takumi Koga speaking」
 数回のコール音を聞いた後、意外なことに、相手がすぐに応対に出てきたのには、心臓が止まるかと思った。おまけに、誰が相手と思ったのか、流暢な英語で答えられて、陽向は一瞬怯んだ。
「あ、あの……私、久藤陽向です。朔也さんの弟の古賀巧望さんですね?」
 英語で返すべきかとも一瞬思ったが、ここは日本で、向こうだって日本人のはずだからと、日本語で押し通すことに決めた。
「随分前からメールをいただいていたのに、長い間気づかずに放置してしまっていました。朔也さんが亡くなってから今まで、誰かに連絡を取る気持ちにもなれなくて、スマホはともかく、パソコンをわざわざ立ち上げてメールをチェックはしていなかったんです」
 電話の向こうにいる男が口を開くよりも先に、陽向は勢い込んで言葉を続けた。
「ごめんなさい、本当に失礼なことをしていました」
 少しはとりつくろうべきだったかもしれないが、朔也の弟に嘘や言い訳はしたくなくて、陽向は自分の今の状態をほとんど洗いざらいぶちまけた。
 朔也が亡くなり、もともと煩っていた鬱が悪化して、ほとんど自宅に引きこもっていた。スマートホームに搭載されていたAIのサポートのおかげで人間らしい快適な暮らしができ、精神状態も安定してきているが、少し前までは自分一人では食事ひとつ満足に準備できなかった等々。
 いくら相手が黙り込んだままだからといって、一方的に言葉を連ねすぎたかと後悔し始めた時、古賀巧望が話しかけてきた。
「……陽向」
 その声を聞いた途端、見えない手で背筋を優しく撫でられるような心地よさを覚え、陽向は息を飲んだ。
「兄さんが闘病中もずっと、君が一人で献身的に世話をしてくれていたってことは、母から聞いている。何もできなかった俺が言うのも白々しいかもしれないけれど、とても感謝しているんだよ」
この控えめで、それでいてよく通る声。はっきりと発音される一字一句に威厳の宿る、美しい声は、朔也の――。
(いいえ、朔也さんと兄弟だから、声が似ていても当然じゃない……私、どうして、こんなにうろたえて……)
 動揺するというより、むしろ陽向はうっとりしてしまっていた。口を挟むことなく自分を見守っているsakuyaの方を窺い見る。訳もない後ろめたさを覚えた。
「今度の日曜は空いているよね、陽向……姉さん…? 君は家にずっといるのだから、予定はないと思っていいはずだ」
 ついぼんやりしていた陽向は、古賀巧望の言葉にうっかり頷きそうになった。
「よし、次の日曜、つまりあさっての午後三時頃、そちらにちょっとお邪魔することに決めたよ」
 我ながら名案を思いついたような明るい笑い声は、朔也のそれとは違って響いた。突然の展開に焦りながら、陽向は自分の都合もお構いなしに物事を進めていく相手を止めようとした。
「待ってよ、私、あまり体調がよくないの……せっかく訪ねてきてくれても、おもてなしも満足にできない……」
「亡くなった兄を偲んで話をするのに、電話だけではあんまり味気ないと思わないかい?」
 こう言われては、陽向は何も言い返せなくなった。
「君の負担になりたくはないから、長居はしないよ。そうだ、陽向姉さんは、甘いものは好きかな?」
 陽向は目を白黒させた。
「ケーキとか、好きだけれど、この頃は食べてない……」
「ニューヨークの有名ケーキショップが、神戸にも出店しているのを見つけたんだ。よし、それをお土産に買っていこう」
 電話の向こうで、誰かが巧望に向かって呼びかける声が聞こえた。それに対し、今行くと巧望が素早く答えている。
「…陽向、すまないが、もうすぐ午後の会議が始まるから、通話を切るよ。今日は電話をくれてありがとう、君と話ができて嬉しかった」
「ちょっと待ってよ、巧望さん、私――」
 うちに来ていいなんて、一言も言ってないわよ。しかし、陽向がそう訴える前に、通話は唐突にぷつんと途切れてしまった。
 しばらく呆然となって、陽向はホーム画面に戻ったスマホを睨みつけていた。何と言うことだろう、こちらの話など少しも聞いてもらえず、彼はこってり甘いアメリカ流のケーキを手土産に、あさって、この家に押しかけてくるつもりだ。
「……巧望さんが私に会って話をすると言い出したら、あなたにだって止められないと言ったわね」
 腹立ち紛れにsakuyaに突っかかろうとすると、彼はどうにもならないというかのごとく肩をすくめた。
「弟は昔からああなんだ。積極的で強引で、自分の話に夢中になるあまり、人の話を全く聞こうとしないところがある」
 あの声に一瞬とはいえ気持ちがぐらついたのが、何だか馬鹿馬鹿しくなってきた。
「兄弟なのに、朔也さんとは大違いなのね。彼は時間をかけてちゃんと人の話を聞いてくれた。どんなに偉くなっても、押しつけがましいところのない、穏やで優しい人だった」
 巧望に会ったら、どんなに朔也が素晴らしい人間だったか、語って聞かせてやろう。陽向の知らないところで、仕事を通じての付き合いはあったとしても、朔也が話題にしなかったくらいなら、あくまでビジネスライクな付き合いでしなかったのだ。
(十五才の時の両親の離婚の際に離ればなれになった兄弟……それがどういう経緯で、再び連絡を取り合うようになり、この素晴らしい機能を持ったスマートホームの開発を共に成し遂げるパートナーになったのか。私だって興味が無いわけじゃない)
 古賀巧望に会おうと陽向は心を決めた。
 巧望は、陽向の知らない朔也の過去を共有していた人物だ。この人工知能搭載型スマートホームの開発に、朔也と共に取り組んだ彼は、死んだ兄がアバターの形で自らの似姿を遺したことを、一体どう思うだろうか。


 そして、巧望が訪ねてくると言った日曜日。
 二月の初旬にしては暖かく、日差しも明るい、早くも春の気配を感じさせる陽気だった。
 家の中を久しぶりに大掃除した後は、特にすることもなくなってしまい、客が現れるのを待つ間に次第に落ち着かなくなってきた陽向は庭に出ていた。
 花壇やアプローチなど、一応形はできているが、シンボルツリーはなく、芝生もまだはっていない、土がむき出しの庭は殺風景で味気ない。
(暖かくなったら、ここもなんとかしないといけないわね。私の気が向いたらだけれど……)
 ふと足下を見ると、花壇の隅っこに、小さなスロードロップ可憐な姿を現していた
(そう言えば、ホームセンターに行った時に買った球根を植えたんだった。春咲の球根なら、今から植えてもギリギリ間に合うからと、sakuyaに勧められて……)
 しゃがみこんで、雫のような白い小さな花を指先でつつき、陽向は微笑む。
(仕事ばかりしていた時は、花を植えて育てるなんて、考えたこともなかったな)
 ひゅーんという電子音がするのに、陽向は顔を上げた。庭を取り巻くウッドフェンスの向こうに、一台の車が停車するのが見えた。
 一瞬、陽向は奇妙な胸騒ぎを覚えた。思わず、カーポートに止めてある朔也の車を振り返り、改めて、家の前に現れた車両を眺める。
 日本では珍しい最新型のスマートカー。車種も、車体の色も、朔也のものと全く同じだ。
 陽向は視線を車の運転席にあてたまま、のろのろと立ち上がった。
 ドアが開いて、すらりと背の高い一人の男が外に降り立った。おさまりの悪いくせ毛を手で直しながら、スマートホームの外観に注意深い視線を巡らせ、花壇の前に立ち尽くしている陽向を見つけた。親しみを込めて、手を振ってみせる。
「陽向!」
 男の端正な顔に笑顔が弾けるのを見た瞬間、陽向は腰が抜けたようにへなへなとその場にへたり込んでしまった。
 古賀巧望は、手土産の紙袋をぶら下げて、颯爽とした足取りで階段をのぼり、アプローチを辿って陽向の前まで歩いてきた。
「そんな場所に座り込んで、どうしたんだい、陽向……まさか眩暈でも起こしたのかい?」
 美しい豊かな声には、陽向の動揺ぶりをどことなく面白がるような響きがある。
「朔也さんに、弟がいることは知っていたけれど」
 額を押さえようとした手を取られて、陽向は慄いたように目を上げた。
 古賀巧望の顔が、陽向のすぐ目の前にある。ほとんど虹彩が分からないくらいに真っ黒な瞳、長い睫毛、すっと通った鼻梁、綺麗に整った口元――何もかもが、今は亡き愛した人にそっくりで、陽向の胸は慕わしさいっぱいになり、両目には見る見るうちに涙がたまった。
「あなた達が双子だなんて、一度も聞いていなかった」
 巧望に手を引かれて、陽向は立ち上がった。その間も、陽向の視線は、彼の顔に釘付けだった。光の中で霞んで揺れる、あの儚いホログラムで描き出される幻ではない、実在する肉体の発する力に、どうしても魅了されずにはいられなかった。
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