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第一章
胡蝶の見る夢 四
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「……久藤さん……!」
いきなり名前を呼ばれ、自分のデスクのパソコン前でうとうとしていた陽向は、はっと息を飲みこみ、慌てて頭を上げた。ここがどこなのかを確認するように、辺りを見渡す。
「ま、牧田さん……」
パーテーションに手を置き、どことなく冷たい目で陽向を見降ろしている同僚、牧田薫が訝し気に眉をひそめた。
「泣いていたの、久藤さん?」
とっさに手を上げた手で目元を触ると、しっとりと濡れた涙の跡がある。
「嫌だ、本当に……すみません、私、居眠りなんかして……」
ごく短い時間のはずだが、夢まで見ていたようだ。内容はもう思い出せないけれど――。
「お疲れみたいね、久藤さん、昨日遅くまで論文でも書いてた……?」
牧田は陽向よりも五歳年上の先輩だが、同じ女性にも関わらず、いやむしろ女同士だからなのか、陽向に対する彼女の態度や言葉にはいちいち棘がある。
「いえ、仕事に差し支えるほどの夜更かしはしないよう、気を付けています」
「だといいけれど。今のテーマに行き詰っているなら、佐々木リーダーに相談して早く問題点を明らかにして、解決なさい。それとも、頼りになるご主人に助けてもらう?」
朔也は関係ないじゃない。陽向がむっとして黙り込むと、やれやれというように牧田は肩をすくめた。
「お嬢様育ちの人は、これだから困るのよ。都合が悪くなったらすぐにむくれて……宇和所長がいらっしゃる時ならともかく、あなたのことを特別視する人なんてもう誰もいないんですからね。皆と同じように仕事をしてもらわないと困るわ」
部屋の奥から誰かが咳払いをしたのに、牧田はまだ言い足りないような顔をしながらも、陽向のデスクから離れていった。
椅子から立ち上がってみると、男性の同僚が自分のワークスペースから顔を覗かせ、気にするなというように頷き返してきた。
それに向かって軽く会釈をして座りなおす。思わず、口から大きな溜息が出た。
ここの就職が決まったのは所長だった父親のおかげではないかという陰口が一部で囁かれていることに、特に孝之が亡くなって責任者が変わってから、気づくようになった。
堅物の孝之が娘のためとはいえ採用試験に特別な配慮を求めるということはあり得ない。しかし、彼が何も言わなくても、周囲が忖度を働かせた可能性までは完全に否定できない。
その噂のせいではないが、研究室のチームリーダーも最近余所余所しい気がしていた。
狭い業界なのに、就職先を探していた時に希望に合った募集が見つかって、それがたまたま身内のいる機関だったというのは通らないのだろうか。
今の所長の方針もあるのだろう、悔しいが、就職した当初のようにのびのびと好きな研究をできる場所ではなくなってきていた。
面白くないことを無限ループのように考え込んでいた、その時、メールの受信を知らせる表示がパソコンの画面に現れた。
父の友人でもある、東京の人工知能統合センターの東条博士からのメールだ。
(そろそろ若手登用枠の書類選考の結果が届くはずだが、どうかな?)
さっと目を通したメールの内容に、陽向は日々の忙しさの中で忘れかけていたことを思い出した。
先日都内であった研修会に参加した時に、東条と話す機会があったのだが、その折に今の職場の不満をつい漏らしてしまった。すると彼は、汎用型人工知能研究所の上位機関である人工知能統合センターには若手研究者向けの登用制度があるから、そこに応募してみたらどうかと勧めてくれたのだ。
ネットで確認してみた募集要項に惹かれるものを覚えて、つい申し込んでみたのだが、まだ書類選考の結果は出ない。もし受かったとしたら、果たして自分はどうするつもりなのか。朔也にはまだ何も話していなかった。
(妻が東京に単身赴任なんて、さすがにないわよね)
どんなに否定しても、つい、その考えは陽向の頭の中に蛇のようにするりと入り込んでくる。
朔也との生活になんら不満があるわけではなかった。むしろ、幸せすぎるくらいに幸せだと思う。
(でも、朔也さんの優しさにくるまったままでいると、私は結局研究者としては何も成果を出さないままで終わってしまいそうな気がする。ママは専業主婦だった。パパをサポートすることに徹していたように思うけれど、彼女自身は何かを成し遂げたいと思ったことはなかったのかしら……ママはあれで幸せだったとは思うけれど、私はあんなふうには生きられない)
思い悩みながら家に帰るとHikariが玄関先までゆっくりと迎えにきてくれた。二代目のボディも大分ガタがきていて、その寿命がつきかけているのを感じざるをえない。形あるものの儚さを思いながらも、小さな体を持ち上げ昔のように頬刷りをすると気持ちが慰められた。
この機械仕掛けの体に魂などないことは分かっているのに、どうしてあたかも人間と同じ心が宿っているかのような錯覚してしまうのだろうか。
(私は、たぶん、その謎を解き明かしたいの……だから、研究を辞められない)
寝室で荷物を下ろしたところで、バッグの中でスマホが新着メールの受信を知らせた。何気なく取り出してみて、陽向は息を飲んだ。
人工知能統合センターからだ。若手研究者登用枠の書類審査に通ったのだ。
「朔也さん――」
魂を飛ばしながら、まだ帰ってこない夫の名前をうわごとのように呟いた。父親が亡くなってから一層愛情深くなった朔也の深沈とした黒い瞳を、穏やかに響く声を、優しく包み込むように抱きしめてくれる腕を思い出した。
朔也の愛情を自ら裏切る日が来るなんて、陽向は少し前まで夢にも思ったことはなかった。
いきなり名前を呼ばれ、自分のデスクのパソコン前でうとうとしていた陽向は、はっと息を飲みこみ、慌てて頭を上げた。ここがどこなのかを確認するように、辺りを見渡す。
「ま、牧田さん……」
パーテーションに手を置き、どことなく冷たい目で陽向を見降ろしている同僚、牧田薫が訝し気に眉をひそめた。
「泣いていたの、久藤さん?」
とっさに手を上げた手で目元を触ると、しっとりと濡れた涙の跡がある。
「嫌だ、本当に……すみません、私、居眠りなんかして……」
ごく短い時間のはずだが、夢まで見ていたようだ。内容はもう思い出せないけれど――。
「お疲れみたいね、久藤さん、昨日遅くまで論文でも書いてた……?」
牧田は陽向よりも五歳年上の先輩だが、同じ女性にも関わらず、いやむしろ女同士だからなのか、陽向に対する彼女の態度や言葉にはいちいち棘がある。
「いえ、仕事に差し支えるほどの夜更かしはしないよう、気を付けています」
「だといいけれど。今のテーマに行き詰っているなら、佐々木リーダーに相談して早く問題点を明らかにして、解決なさい。それとも、頼りになるご主人に助けてもらう?」
朔也は関係ないじゃない。陽向がむっとして黙り込むと、やれやれというように牧田は肩をすくめた。
「お嬢様育ちの人は、これだから困るのよ。都合が悪くなったらすぐにむくれて……宇和所長がいらっしゃる時ならともかく、あなたのことを特別視する人なんてもう誰もいないんですからね。皆と同じように仕事をしてもらわないと困るわ」
部屋の奥から誰かが咳払いをしたのに、牧田はまだ言い足りないような顔をしながらも、陽向のデスクから離れていった。
椅子から立ち上がってみると、男性の同僚が自分のワークスペースから顔を覗かせ、気にするなというように頷き返してきた。
それに向かって軽く会釈をして座りなおす。思わず、口から大きな溜息が出た。
ここの就職が決まったのは所長だった父親のおかげではないかという陰口が一部で囁かれていることに、特に孝之が亡くなって責任者が変わってから、気づくようになった。
堅物の孝之が娘のためとはいえ採用試験に特別な配慮を求めるということはあり得ない。しかし、彼が何も言わなくても、周囲が忖度を働かせた可能性までは完全に否定できない。
その噂のせいではないが、研究室のチームリーダーも最近余所余所しい気がしていた。
狭い業界なのに、就職先を探していた時に希望に合った募集が見つかって、それがたまたま身内のいる機関だったというのは通らないのだろうか。
今の所長の方針もあるのだろう、悔しいが、就職した当初のようにのびのびと好きな研究をできる場所ではなくなってきていた。
面白くないことを無限ループのように考え込んでいた、その時、メールの受信を知らせる表示がパソコンの画面に現れた。
父の友人でもある、東京の人工知能統合センターの東条博士からのメールだ。
(そろそろ若手登用枠の書類選考の結果が届くはずだが、どうかな?)
さっと目を通したメールの内容に、陽向は日々の忙しさの中で忘れかけていたことを思い出した。
先日都内であった研修会に参加した時に、東条と話す機会があったのだが、その折に今の職場の不満をつい漏らしてしまった。すると彼は、汎用型人工知能研究所の上位機関である人工知能統合センターには若手研究者向けの登用制度があるから、そこに応募してみたらどうかと勧めてくれたのだ。
ネットで確認してみた募集要項に惹かれるものを覚えて、つい申し込んでみたのだが、まだ書類選考の結果は出ない。もし受かったとしたら、果たして自分はどうするつもりなのか。朔也にはまだ何も話していなかった。
(妻が東京に単身赴任なんて、さすがにないわよね)
どんなに否定しても、つい、その考えは陽向の頭の中に蛇のようにするりと入り込んでくる。
朔也との生活になんら不満があるわけではなかった。むしろ、幸せすぎるくらいに幸せだと思う。
(でも、朔也さんの優しさにくるまったままでいると、私は結局研究者としては何も成果を出さないままで終わってしまいそうな気がする。ママは専業主婦だった。パパをサポートすることに徹していたように思うけれど、彼女自身は何かを成し遂げたいと思ったことはなかったのかしら……ママはあれで幸せだったとは思うけれど、私はあんなふうには生きられない)
思い悩みながら家に帰るとHikariが玄関先までゆっくりと迎えにきてくれた。二代目のボディも大分ガタがきていて、その寿命がつきかけているのを感じざるをえない。形あるものの儚さを思いながらも、小さな体を持ち上げ昔のように頬刷りをすると気持ちが慰められた。
この機械仕掛けの体に魂などないことは分かっているのに、どうしてあたかも人間と同じ心が宿っているかのような錯覚してしまうのだろうか。
(私は、たぶん、その謎を解き明かしたいの……だから、研究を辞められない)
寝室で荷物を下ろしたところで、バッグの中でスマホが新着メールの受信を知らせた。何気なく取り出してみて、陽向は息を飲んだ。
人工知能統合センターからだ。若手研究者登用枠の書類審査に通ったのだ。
「朔也さん――」
魂を飛ばしながら、まだ帰ってこない夫の名前をうわごとのように呟いた。父親が亡くなってから一層愛情深くなった朔也の深沈とした黒い瞳を、穏やかに響く声を、優しく包み込むように抱きしめてくれる腕を思い出した。
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