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第五章
Blanc de Blancs(14)
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ロスコー家との関係が深い、パリ市内のさる病院の特別室に、ローランは入院していた。
昨夜は頭を打って意識朦朧の状態でここに運び込まれたため、自分が何をされたのかよく覚えていないのだが、知らせを聞いたジル会長の一声で、自宅でくつろいでいた院長まで呼び出され、医師達が数人がかりで検査や治療にあたったらしい。
大騒ぎをした結果が鎖骨を折ったのと右腕を傷めた程度というのは、しかし、少々当てが外れた。今までしてきた諸々の悪行の報いとして肋骨の何本かは粉砕されることも覚悟していたのだが―。
(あいつめ、あれだけの目にあわされてまだ仏心を出して手を抜いたか…)
鎮痛剤が効いたのか、無理に体を動かさそうとしなければ、それほど酷く痛みはしないが、熱を持って疼くような感覚は体中のあちこちに残っている。
今となってはルネがローランに唯一残していった形見のようなものだ。
2、3時間うとうとしたものの、夕べはまんじりとしてろくに眠れなかった。
この所充分な睡眠時間など取れていなかったのだから、この機会にまとめてぐっすり眠れればいいのだが、なかなか都合よくはいかないものだ。
アシルや他の部下達が周囲をうろついている間は気が紛れていたが、独りになるとたちまち昨夜の記憶がよみがえり、夜の闇に独り消えていったルネのことを考えてしまう。
ブラインドを上げた病室の窓の外は次第に朝の光に満たされ、庭の梢からは冬の寒さにも負けない小鳥達の囀りが聞こえてきた。
長く憂鬱な夜に倦まされた後、本来ならば好ましいはずの夜明けの訪れなのに、少しも心は和らがず、澄んだ朝の光を遮るよう、ローランは無事な方の手を上げて顔の前にかざした。
(そう言えば、ガブリエルはどこに行ったのだろう)
ソロモンとの神経をすり減らす交渉が成功裏に終わってほっとする間もなく、ローランが負傷したとの知らせを受け取ったガブリエルは、後のことは部下に任せてすぐにここに駆けつけてくれた。
正直嬉しかったのだが、アカデミーの定例会を数日後に控えたこの忙しい時期に、これ以上ガブリエルを些事のためにわずらわせたくなかったローランは、心とは裏腹にしかめ面をして、大丈夫だから帰れと言って追い返したのだ。
(その言葉にあいつがが素直に従ってくれたのなら、いいのだが…)
そんなことをつらつらと考えていた時、病室のドアが軽くノックされ、音もなく開いた。
「ローラン、もう起きていたんですか?」
甘い響きの声が自分を呼ばわるのに、半ば閉ざされていたローランの双の目がぱっちりと開いた。痛む上体を無理して起こし、首を捩じってそちらを眺めやると、視線の先には、紛れもないガブリエルの優美な姿があった。
「何だ、おまえ、シャトーに戻ったんじゃなかったのか?」
もしかしたら心の内の欲求を見透かされていたのだろうかと、動揺のあまり掠れた声で問いかけるローランに、ガブリエルは悪戯っぽく笑いながら片目を瞑ってみせた。
「怪我をしたあなたを放っておいて、さっさと家に帰るほど私は薄情ではありませんよ?」
ローランが唖然となりながら見守るうちに、ガブリエルは優雅な白い猫のように病室にするりと入ってきて、ベッド脇に椅子を引き寄せ腰を下ろした。
そのまま何も言わず、彼はしばらくじっとローランの顔を見下ろしていた。
子供の頃から傍で見てきた蒼穹のような碧い瞳には、いつもとは違う微かな翳りが差している。それが何なのか分からず、漠とした不安に駆られたローランは読み解こうと目を凝らしたが、その時ガブリエルがふっと苦笑しながら首を振った。
「怪我の具合はどうですか…? 痛みのせいでよく眠れなかったのなら、もう少し強い鎮痛剤を処方してもらいましょうか?」
まるで傷に響くことを恐れるかのようなひそやかな声で、ガブリエルはローランに囁きかけ、彼の負傷した腕や包帯の巻かれた胸に目を落とした。
「いや、薬を飲むほどのことじゃないさ。実際傷が痛んで眠れなかった訳じゃない」
ギプスで固定された右腕を擦りながら、ローランはガブリエルの方に顔を向けて、平気そうに笑って見せた。もっとも、その声にも表情にも普段のローランの覇気の半分でも伴っていないことは、ガブリエルが相手ならば隠しおおせるはずもなかった。
実際ガブリエルは、ローランが空元気で振り絞った言葉に素直に耳を傾けるふりをしながらも、その双眸は異様な程の鋭さで彼を観察している。
どうやらこれは、怪我人だからと言って、優しく労わって慰めてくれるだけでは終わらなそうだ。
ガブリエルに見つめられることには常日頃慣れっこのローランだが、この時はなぜか微かな緊張感に体が強張るのを覚えた。
「ガブリエル、俺に何か言いたいことがあるのなら、はっきり言えよ」
緊迫した空気にこれ以上耐えきれず、ローランが苛立ちも露わに訴えると、ガブリエルは素直に口を開いた。
「そんな情けない顔をしたあなたを見ることになるなんて、私は夢にも思いませんでしたよ、ローラン」
ローランははっと息を飲んだ。思わず、確かめるかのように自分の顔に左手で触れていた。
「それは、体に受けた傷が痛むからというより、むしろ心が痛むからでしょう…? 可愛そうな、私のローラン」
ガブリエルが美しい顔を曇らせながら呟いた言葉が、防御しようと構えていたにもかかわらず、ローランの胸を鋭い針となって突いた。
ガブリエルの言う通り、思いの外、ローランの心は痛んでいる。しかし、そんなことを彼は認めたくなかったし、認める訳にもいかなかった。
「ふん、この俺が一体何のために心を痛めているっていうんだ? 馬鹿を言うなよ、ガブリエル」
ローランはわざと気付かぬふりを装って、いつものように自信たっぷりで言い返した。
「昨夜の計画は、ほぼ俺の筋書き通りに進んで大成功だったじゃないか。まあ、多少過激で汚い手段は使ったかもしれないが、それくらいいつものことさ。俺はやるべきことをやっただけで、今更あの時ああしていればよかったなんて後悔などしない。俺の最優先事項はおまえの悩みの種を取り除いてやることだった…それさえ成功したなら、他のことはどうなろうが、大した問題じゃないんだ」
途中でふと自分の声に力がなくなってきたような気がしたので、それを打ち消すように、ローランは一層強い口調になった。
「俺がこんな怪我を負うようなへまをしたことを、おまえは信じられないでいるようだが…これも計算のうちだ。いや、少し計算は狂ったのかな…こんなかすり傷ですむとは思ってなかった」
嘯くように言いながら、ローランは怒り任せに自分を投げ飛ばしていった者のことを思った。
(ルネ、今頃おまえはどこでどうしている…?)
ふいに、今すぐにでもベッドから飛び降りてルネを探しに行きたいという馬鹿げた衝動に駆られたが、それを抑え込んで黙らせることができるくらいには、ローランは大人だった。
(辛いのは今だけで、おまえはそのうち忘れるさ…恋にはずっと不器用で弱気なおまえだったが、俺の傍にいるうちに随分変わったじゃないか? 今のおまえは、以前よりもずっと輝いていて、そんな自分に自信も持てたはずだ。俺がいなくなったからといって、おまえの魅力が失せる訳じゃない。だから、今度はきっと…俺のような性格破綻者じゃなく、お前だけを見てくれる優しい男と出会って、まっとうな恋が出来るさ)
そこまで考え、言いようのない胸苦しさを覚えたローランは、パジャマの襟をくつろげて深く息をした。たちまち折れた鎖骨の辺りが痛んで、顔をしかめた。
「ルネのことを考えているんですか?」
ローランが思わず顔を上げると、ガブリエルの透徹した瞳がすぐそこにあった。
自身の影であるかのようにローランの全てを知り尽くした唯一の主であれば、その唇から語られる言葉は、認めたくない事実をローランに受け入れさせるだけの威力を持つ。
「ガブリエル…やめろ…」
我知らず、制止するかのように手が上がり、上ずった声が唇から洩れた。頼むから何も言うなとローランは訴えたかったのかもしれないが、所詮ガブリエルに逆らうことなどできなかった。
「そんなに構えないで、ローラン」
所在なく上げられたままのローランの手をガブリエルのほっそりとした手が取り、柔らかく包み込んだ。指に指を絡め、そっと握り締めたと思うと、その強張りをほぐすようにしばらく弄び、そっとシーツの上に戻した。
ガブリエルは一瞬仮面のような無表情になって眼差しを伏せたかと思うと、その唇に不思議なたゆとうような笑みを浮かべた。
「あのおとなしい人を、あなたに対して攻撃に出るほど激昂させたのは、よほどの訳があったからでしょう?」
ガブリエルの手が再び上がり、ローランの広い肩にそっと乗せられた。
「あなたがその気になればルネをうまく言いくるめることもできたでしょうに、それをせず、あえて手放したのはどうしてでしょうね…?」
歌うように呟くガブリエルを、ローランは息をすることも忘れて見つめていた。
「彼に対してしてきた、これまでの所業への罪悪感? それとも、愛する者のためなら人はとてつもなく愚かな行為に出てしまうという、その同じ轍をあなたでさえも踏んでしまったわけですか?」
問いかけたきり、ガブリエルはローランの返事を待つかのように沈黙している。そのほっそりとした指先は、ローランの肩から腕にかけて、その張りつめた筋肉の感触を楽しむかのようにゆったりと撫でている。
ローランはふつふつと腹の奥のほうで沸き立ってくる感情を抑えるよう、拳をぐっと握り締めた。ガブリエルがどんな答えを自分から引き出そうとしているのか分かるような気がしたが、それを素直に認める気分にはまだなれなかった。
ローランは、自分の腕をくすぐっているガブリエルの悪戯な手を幾分荒っぽく掴んで引き離した。
「ガブリエル、いい加減含みのある態度はよせよ。一体おまえが何を言おうとしているのか、俺にはさっぱり分からない」
ガブリエルの目がさっと上げられ、一瞬鋭くローランを射た。思わず怯んだローランが力を緩めた隙に、ガブリエルは彼の手の内からするりと自らの手を抜き取った。
「あ…すまん…」
もしかしたら怒らせたかなと危ぶみながら、ローランがうつむいたガブリエルの顔を覗きこむと、彼は一変、蕩けるような甘い笑みで返してきた。
「ねえ、ローラン、ひとつ確認させてください…あなたは、一体誰のものですか?」
「え?」
不意打ちを食らったローランは、ぱちぱちと瞬きをした。
「まるで当たり前のように私の傍に常にいたあなただから、確かめることなど思いつかなかったけれど、急に聞いてみたくなったんです。あなたは、誰のものですか?」
ローランは相手の真意を測りかねながらも、迷いなくきっぱりと言い返した。
「おまえのものだろう、ガブリエル、今更確かめるまでもない」
するとガブリエルはちょっと呆れたような、それでもやはり嬉しさが勝るようなくすぐったそうな顔をした。
「全く、あなたの忠誠心には参ります」
ガブリエルはいきなりローランの首に腕を巻きつけたかと思うと、体ごとのしかかってきた。
(い、痛いぞ、こら!)
傷めた腕がまともにガブリエルの体の下になって、一瞬悪態をつきそうになったローランだが、そこは相手が相手だったので、歯を食いしばって我慢した。
「おい…?」
何事かと瞠目するローランの顔を覗きこみながら、ガブリエルは、伸ばした指先で寝癖がつきかけている真っ黒な髪の一筋をつんつん引っ張った。
「でも…それなら主である私に対して隠しだてはなしですよ、ローラン…あなたと私の間に秘密は存在しない、そうでしょう?」
「ガ、ガブリエル…何を…?」
「いいですか、はっきり言いますが、昨夜の一件は、あなたらしくもない大失敗だったんです。たとえ私を守るという目的は果たせたとしても、あなたは今の結果に少しも満足していない。だから、そんな負け犬みたいな惨めな顔をしているんじゃないですか」
正面から叩きつけるように言われたローランは頬を引きつらせ、ガブリエルの容赦のない追及をかわそうと口を開きかけた。
「ガブリエル、それは――」
「この期に及んで言い訳なんて、男らしくないですよ、ローラン。客観的に、今の自分の姿を眺めてごらんなさい。大切な人をわざわざ酷い言葉で傷つけてまで遠くに追いやって、ついでに自分まで傷ついて、あなたの独りよがりでひねくれた策によって、一体誰が得をしましたか? それとも、自分がどんなに愚かなことをしたのかまだ認めたくないわけですか?」
とっさに顔を背けようとするローランの頬に手を添えて、ガブリエルは逃すまいとした。
「ルネはもう二度と帰ってこない…さすがに、あんな酷い形で裏切られては、あの純粋な人には耐えられなかったでしょうから」
胸の奥深い所がずきんと痛んで、ローランは震える瞼を閉ざした。
「本当に、馬鹿な男」
大きく上下するローランの胸の上にガブリエルは頭を乗せて、なだめるようとするかのようその腕をそっと叩いた。そのまま辛抱強く、彼の答えを待ち続けた。
「…あいつが、それで俺から解放されて幸せになれるなら、別に馬鹿な事をしたとは思わないさ」
ぼそりと感情を欠いた声が呟くのに、ガブリエルは顔を上げて面白そうに囁いた。
「そういうのをやせ我慢と言うんですよ、ローラン。独占欲の塊のあなたが、せっかくあそこまで手をかけて磨き上げた人が自分のもとから離れていって、他の誰かを愛するようになるなんて…本当は、想像するだけで頭から血が噴きそうなんでしょう?」
ううっと、食いしばった歯の間から、ローランは息を吐き出した。
「頼むから、もう許してくれよ、ガブリエル」
ついに観念したローランは、降参の印に片手を上げた。
「ああ、確かに、らしくもない真似をしたせいで、俺は今予期した以上のダメージを受けている。こんなどん底の気分を味わうくらいなら、俺は無理を承知であいつを縛りつけておくべきだったか…? だが、あいつの…人をだましたり裏切ったりなんて考えたこともなさそうな、おつむの中に花畑でもありそうな顔を見ているとできなかった」
ローランは自分の頭に手を置き、くしゃくしゃと髪をかき乱した。
「俺が好きだから傍にいたいってあいつの気持ちを疑うわけじゃないが、結局俺に振り回されて嫌な思いをするだけじゃないのか、今でもずいぶん我慢をさせているのだろう…いつも自己主張しない相手だけに、俺にはどう扱っていいか分からなかった。黙っているということは俺のやり方を受け入れているのと同じだと、いつもの俺なら放っておくところだが、なぜかあいつに対しては自分がひどく後ろめたい気分になった。主と決めた相手には馬鹿馬鹿しいくらいに一途だという点で、俺とルネは似ているのかもしれないが、あいつには俺のようなあくどさはない。俺の正体を知れば、潔癖なあいつにはついていかれないだろう。そして俺の方も、あいつをずっと騙し通して自分につき合わせるのは、どうやら無理らしい。ならば、あいつの幸せのためにはどうしたら一番いいのか考えた…その結果行き着いたのが、昨夜の愁嘆場だ。お互い傷ついても、あれがルネの今後のためには最善の選択だったのさ」
胸の内の秘密を一気に吐き出した後、ローランは疲れたように吐息をついて、握った手で封じるかのように唇を押さえた。
「俺の考えた筋書き通りにうまく終わらせたつもりが…その結果を俺自身がすんなり受け入れることができないなんて、無様だな」
ベッドの上にぱたりと腕を落として、ローランは長嘆した。
「私のためだけに生きてきたあなたが、他人の幸せを考えて行動したのは、たぶん初めてじゃないですか…? でも、いきなり慣れないことをすると、あなたでも失敗するんですね」
どんよりと打ち沈んだ面持ちで黙り込むローランを、ガブリエルはしばし、天使というよう小悪魔めいた顔で上目使いに眺めていた。
「ルネの代わりに、私が慰めてあげましょうか?」
「うん?」
まだ少し放心状態のまま反射的に問い返すローランに、ガブリエルはもう一度言った。
「あなたのために、私がルネの代わりに恋人になってあげましょうか?」
「…何だって?」
ようやくガブリエルの提案を理解したローランは、怪しむような目で、彼の天使が身を乗り出してくるのを見つめていた。
「そんなに驚くことはないでしょう? あなただって、私が失恋して落ち込んでいる時はしばらく恋人代わりになってくれるじゃないですか? たまには、その逆があってもいい…幸い私には今特定の相手はいないし、あなたと愛しあったって何の問題もないでしょう?」
「おい…こんな時に悪い冗談はよせよ、ガブリエル」
ローランは瞳を揺らせながら、気まぐれにしてもたちの悪いガブリエルの申し出を笑い飛ばそうとした。
「こんな時に冗談なんか言いませんよ、ローラン…私は、あなたが心配なんです」
ガブリエルは疑いようもなく誠実な面持ちでローランの手を取り、ぎゅっと握りしめた。
「あなたがルネを手放すにいたった原因の一端は私にもありますし、悄然となったあなたを見るに忍びない。ですから、私をルネの身代わりとして好きになさい、ローラン…遠慮なんかしなくていいんですよ。あなたは、私を愛しているのでしょう…?」
驚愕のあまり声も出せずに固まっているローランに嫣然と微笑みかけながら、ガブリエルはゆっくりと身を屈めていった。
「私も、あなたを愛していますよ、だから…失くした恋の痛みを私が忘れさせてあげましょうね?」
その声は甘く、この世のものとは思えぬほど誘惑的に耳に響く。
「ローラン、あなたはやはり私だけのもの…」
ガブリエルの絹のような滑らかな指先がローランの頬にかかり、その唇が燦然と花開くように微笑みながら、彼の唇を求めて下りてくる。
この抗いがたい魅力に屈せずにいられるものなど存在しないと思われるほど、ガブリエルは全てにおいて完璧だった。ましてや、彼を溺愛しているローランならば、嬉々としてその口づけを受け入れたところで不思議はなかった。
しかし―。
「ガブリエル、悪いが、俺はその気になれない」
静かだが確固とした意思を感じさせる声で、ローランは言った。
「おや…それはまたどうして?」
別に意外でもなさそうに問いながら、ガブリエルは自分の接近を阻むように肩を押しているローランの手を指先でくすぐった。
「なぜなら、俺が今欲しいのはお前じゃないからさ、ガブリエル。俺はおまえのものだし、おまえをこの世で一番大切に思っているが…おまえではルネの代わりにはならないんだ。だから、それが俺を慰めるためだというなら、せっかくの誘いでも、俺はご免こうむる」
ローランは、ガブリエルの頬に手を添えて、その白い額に親愛の情のこもったキスをした。
「おまえが俺を必要としてくれる時は、いつでも応えるつもりだが…今は違うだろう? 大体、俺が拒否することくらい、おまえなら分かるはずだろうに…いきなり、あんなあからさまな迫り方をしてくるなんて、おかしいぞ…?」
「ふふっ、おかしいと気付いたのはさすがですね、ローラン…それでは、一体どうしてだと思います?」
ガブリエルの問いに、ローランは眉間に深いしわを寄せた。たちまち、さっきまで鈍っていた思考力が蘇ってきた。
「さっき、あなたは言いましたよね。昨夜、ルネに対してわざとひどいことを言って追いやったのは、彼のためだと…でも、あなたから解放されてルネが幸せになれるかどうかなんて、自分の心さえ測り切れなかったあなたに、どうして分るというんです?」
ガブリエルがいきなり話を元に戻したことを訝しみながらも、痛い所を突かれたローランはつい感情的になった。
「ガブリエル、その話をここで蒸し返したって、今さらどうなるものでもないだろう。あの時俺はどうすべきだったのかなんて、今更論じた所で意味はない。大体そんなこと、ルネ当人以外の誰にも分かるはずがないじゃないか」
「それじゃあ、直接ルネに聞いて確かめてみるんですね」
ローランは目を剥いた。
(あ…しまった、そういうことか…!)
ローランは恐る恐るドアのほうを振り返った。たちまち、全身から力が抜けていくのを覚えた。
「おまえ、一体いつからそこにいたんだ?」
喘ぐように問いかける自分の声は、我ながら間の抜けたものだった。
「ルネ」
半分開いたドアに縋りつくようにしながら、大きく見開いた目で、こちらの様子を窺っていたルネは、その瞬間大きく身を震わせた。
昨夜は頭を打って意識朦朧の状態でここに運び込まれたため、自分が何をされたのかよく覚えていないのだが、知らせを聞いたジル会長の一声で、自宅でくつろいでいた院長まで呼び出され、医師達が数人がかりで検査や治療にあたったらしい。
大騒ぎをした結果が鎖骨を折ったのと右腕を傷めた程度というのは、しかし、少々当てが外れた。今までしてきた諸々の悪行の報いとして肋骨の何本かは粉砕されることも覚悟していたのだが―。
(あいつめ、あれだけの目にあわされてまだ仏心を出して手を抜いたか…)
鎮痛剤が効いたのか、無理に体を動かさそうとしなければ、それほど酷く痛みはしないが、熱を持って疼くような感覚は体中のあちこちに残っている。
今となってはルネがローランに唯一残していった形見のようなものだ。
2、3時間うとうとしたものの、夕べはまんじりとしてろくに眠れなかった。
この所充分な睡眠時間など取れていなかったのだから、この機会にまとめてぐっすり眠れればいいのだが、なかなか都合よくはいかないものだ。
アシルや他の部下達が周囲をうろついている間は気が紛れていたが、独りになるとたちまち昨夜の記憶がよみがえり、夜の闇に独り消えていったルネのことを考えてしまう。
ブラインドを上げた病室の窓の外は次第に朝の光に満たされ、庭の梢からは冬の寒さにも負けない小鳥達の囀りが聞こえてきた。
長く憂鬱な夜に倦まされた後、本来ならば好ましいはずの夜明けの訪れなのに、少しも心は和らがず、澄んだ朝の光を遮るよう、ローランは無事な方の手を上げて顔の前にかざした。
(そう言えば、ガブリエルはどこに行ったのだろう)
ソロモンとの神経をすり減らす交渉が成功裏に終わってほっとする間もなく、ローランが負傷したとの知らせを受け取ったガブリエルは、後のことは部下に任せてすぐにここに駆けつけてくれた。
正直嬉しかったのだが、アカデミーの定例会を数日後に控えたこの忙しい時期に、これ以上ガブリエルを些事のためにわずらわせたくなかったローランは、心とは裏腹にしかめ面をして、大丈夫だから帰れと言って追い返したのだ。
(その言葉にあいつがが素直に従ってくれたのなら、いいのだが…)
そんなことをつらつらと考えていた時、病室のドアが軽くノックされ、音もなく開いた。
「ローラン、もう起きていたんですか?」
甘い響きの声が自分を呼ばわるのに、半ば閉ざされていたローランの双の目がぱっちりと開いた。痛む上体を無理して起こし、首を捩じってそちらを眺めやると、視線の先には、紛れもないガブリエルの優美な姿があった。
「何だ、おまえ、シャトーに戻ったんじゃなかったのか?」
もしかしたら心の内の欲求を見透かされていたのだろうかと、動揺のあまり掠れた声で問いかけるローランに、ガブリエルは悪戯っぽく笑いながら片目を瞑ってみせた。
「怪我をしたあなたを放っておいて、さっさと家に帰るほど私は薄情ではありませんよ?」
ローランが唖然となりながら見守るうちに、ガブリエルは優雅な白い猫のように病室にするりと入ってきて、ベッド脇に椅子を引き寄せ腰を下ろした。
そのまま何も言わず、彼はしばらくじっとローランの顔を見下ろしていた。
子供の頃から傍で見てきた蒼穹のような碧い瞳には、いつもとは違う微かな翳りが差している。それが何なのか分からず、漠とした不安に駆られたローランは読み解こうと目を凝らしたが、その時ガブリエルがふっと苦笑しながら首を振った。
「怪我の具合はどうですか…? 痛みのせいでよく眠れなかったのなら、もう少し強い鎮痛剤を処方してもらいましょうか?」
まるで傷に響くことを恐れるかのようなひそやかな声で、ガブリエルはローランに囁きかけ、彼の負傷した腕や包帯の巻かれた胸に目を落とした。
「いや、薬を飲むほどのことじゃないさ。実際傷が痛んで眠れなかった訳じゃない」
ギプスで固定された右腕を擦りながら、ローランはガブリエルの方に顔を向けて、平気そうに笑って見せた。もっとも、その声にも表情にも普段のローランの覇気の半分でも伴っていないことは、ガブリエルが相手ならば隠しおおせるはずもなかった。
実際ガブリエルは、ローランが空元気で振り絞った言葉に素直に耳を傾けるふりをしながらも、その双眸は異様な程の鋭さで彼を観察している。
どうやらこれは、怪我人だからと言って、優しく労わって慰めてくれるだけでは終わらなそうだ。
ガブリエルに見つめられることには常日頃慣れっこのローランだが、この時はなぜか微かな緊張感に体が強張るのを覚えた。
「ガブリエル、俺に何か言いたいことがあるのなら、はっきり言えよ」
緊迫した空気にこれ以上耐えきれず、ローランが苛立ちも露わに訴えると、ガブリエルは素直に口を開いた。
「そんな情けない顔をしたあなたを見ることになるなんて、私は夢にも思いませんでしたよ、ローラン」
ローランははっと息を飲んだ。思わず、確かめるかのように自分の顔に左手で触れていた。
「それは、体に受けた傷が痛むからというより、むしろ心が痛むからでしょう…? 可愛そうな、私のローラン」
ガブリエルが美しい顔を曇らせながら呟いた言葉が、防御しようと構えていたにもかかわらず、ローランの胸を鋭い針となって突いた。
ガブリエルの言う通り、思いの外、ローランの心は痛んでいる。しかし、そんなことを彼は認めたくなかったし、認める訳にもいかなかった。
「ふん、この俺が一体何のために心を痛めているっていうんだ? 馬鹿を言うなよ、ガブリエル」
ローランはわざと気付かぬふりを装って、いつものように自信たっぷりで言い返した。
「昨夜の計画は、ほぼ俺の筋書き通りに進んで大成功だったじゃないか。まあ、多少過激で汚い手段は使ったかもしれないが、それくらいいつものことさ。俺はやるべきことをやっただけで、今更あの時ああしていればよかったなんて後悔などしない。俺の最優先事項はおまえの悩みの種を取り除いてやることだった…それさえ成功したなら、他のことはどうなろうが、大した問題じゃないんだ」
途中でふと自分の声に力がなくなってきたような気がしたので、それを打ち消すように、ローランは一層強い口調になった。
「俺がこんな怪我を負うようなへまをしたことを、おまえは信じられないでいるようだが…これも計算のうちだ。いや、少し計算は狂ったのかな…こんなかすり傷ですむとは思ってなかった」
嘯くように言いながら、ローランは怒り任せに自分を投げ飛ばしていった者のことを思った。
(ルネ、今頃おまえはどこでどうしている…?)
ふいに、今すぐにでもベッドから飛び降りてルネを探しに行きたいという馬鹿げた衝動に駆られたが、それを抑え込んで黙らせることができるくらいには、ローランは大人だった。
(辛いのは今だけで、おまえはそのうち忘れるさ…恋にはずっと不器用で弱気なおまえだったが、俺の傍にいるうちに随分変わったじゃないか? 今のおまえは、以前よりもずっと輝いていて、そんな自分に自信も持てたはずだ。俺がいなくなったからといって、おまえの魅力が失せる訳じゃない。だから、今度はきっと…俺のような性格破綻者じゃなく、お前だけを見てくれる優しい男と出会って、まっとうな恋が出来るさ)
そこまで考え、言いようのない胸苦しさを覚えたローランは、パジャマの襟をくつろげて深く息をした。たちまち折れた鎖骨の辺りが痛んで、顔をしかめた。
「ルネのことを考えているんですか?」
ローランが思わず顔を上げると、ガブリエルの透徹した瞳がすぐそこにあった。
自身の影であるかのようにローランの全てを知り尽くした唯一の主であれば、その唇から語られる言葉は、認めたくない事実をローランに受け入れさせるだけの威力を持つ。
「ガブリエル…やめろ…」
我知らず、制止するかのように手が上がり、上ずった声が唇から洩れた。頼むから何も言うなとローランは訴えたかったのかもしれないが、所詮ガブリエルに逆らうことなどできなかった。
「そんなに構えないで、ローラン」
所在なく上げられたままのローランの手をガブリエルのほっそりとした手が取り、柔らかく包み込んだ。指に指を絡め、そっと握り締めたと思うと、その強張りをほぐすようにしばらく弄び、そっとシーツの上に戻した。
ガブリエルは一瞬仮面のような無表情になって眼差しを伏せたかと思うと、その唇に不思議なたゆとうような笑みを浮かべた。
「あのおとなしい人を、あなたに対して攻撃に出るほど激昂させたのは、よほどの訳があったからでしょう?」
ガブリエルの手が再び上がり、ローランの広い肩にそっと乗せられた。
「あなたがその気になればルネをうまく言いくるめることもできたでしょうに、それをせず、あえて手放したのはどうしてでしょうね…?」
歌うように呟くガブリエルを、ローランは息をすることも忘れて見つめていた。
「彼に対してしてきた、これまでの所業への罪悪感? それとも、愛する者のためなら人はとてつもなく愚かな行為に出てしまうという、その同じ轍をあなたでさえも踏んでしまったわけですか?」
問いかけたきり、ガブリエルはローランの返事を待つかのように沈黙している。そのほっそりとした指先は、ローランの肩から腕にかけて、その張りつめた筋肉の感触を楽しむかのようにゆったりと撫でている。
ローランはふつふつと腹の奥のほうで沸き立ってくる感情を抑えるよう、拳をぐっと握り締めた。ガブリエルがどんな答えを自分から引き出そうとしているのか分かるような気がしたが、それを素直に認める気分にはまだなれなかった。
ローランは、自分の腕をくすぐっているガブリエルの悪戯な手を幾分荒っぽく掴んで引き離した。
「ガブリエル、いい加減含みのある態度はよせよ。一体おまえが何を言おうとしているのか、俺にはさっぱり分からない」
ガブリエルの目がさっと上げられ、一瞬鋭くローランを射た。思わず怯んだローランが力を緩めた隙に、ガブリエルは彼の手の内からするりと自らの手を抜き取った。
「あ…すまん…」
もしかしたら怒らせたかなと危ぶみながら、ローランがうつむいたガブリエルの顔を覗きこむと、彼は一変、蕩けるような甘い笑みで返してきた。
「ねえ、ローラン、ひとつ確認させてください…あなたは、一体誰のものですか?」
「え?」
不意打ちを食らったローランは、ぱちぱちと瞬きをした。
「まるで当たり前のように私の傍に常にいたあなただから、確かめることなど思いつかなかったけれど、急に聞いてみたくなったんです。あなたは、誰のものですか?」
ローランは相手の真意を測りかねながらも、迷いなくきっぱりと言い返した。
「おまえのものだろう、ガブリエル、今更確かめるまでもない」
するとガブリエルはちょっと呆れたような、それでもやはり嬉しさが勝るようなくすぐったそうな顔をした。
「全く、あなたの忠誠心には参ります」
ガブリエルはいきなりローランの首に腕を巻きつけたかと思うと、体ごとのしかかってきた。
(い、痛いぞ、こら!)
傷めた腕がまともにガブリエルの体の下になって、一瞬悪態をつきそうになったローランだが、そこは相手が相手だったので、歯を食いしばって我慢した。
「おい…?」
何事かと瞠目するローランの顔を覗きこみながら、ガブリエルは、伸ばした指先で寝癖がつきかけている真っ黒な髪の一筋をつんつん引っ張った。
「でも…それなら主である私に対して隠しだてはなしですよ、ローラン…あなたと私の間に秘密は存在しない、そうでしょう?」
「ガ、ガブリエル…何を…?」
「いいですか、はっきり言いますが、昨夜の一件は、あなたらしくもない大失敗だったんです。たとえ私を守るという目的は果たせたとしても、あなたは今の結果に少しも満足していない。だから、そんな負け犬みたいな惨めな顔をしているんじゃないですか」
正面から叩きつけるように言われたローランは頬を引きつらせ、ガブリエルの容赦のない追及をかわそうと口を開きかけた。
「ガブリエル、それは――」
「この期に及んで言い訳なんて、男らしくないですよ、ローラン。客観的に、今の自分の姿を眺めてごらんなさい。大切な人をわざわざ酷い言葉で傷つけてまで遠くに追いやって、ついでに自分まで傷ついて、あなたの独りよがりでひねくれた策によって、一体誰が得をしましたか? それとも、自分がどんなに愚かなことをしたのかまだ認めたくないわけですか?」
とっさに顔を背けようとするローランの頬に手を添えて、ガブリエルは逃すまいとした。
「ルネはもう二度と帰ってこない…さすがに、あんな酷い形で裏切られては、あの純粋な人には耐えられなかったでしょうから」
胸の奥深い所がずきんと痛んで、ローランは震える瞼を閉ざした。
「本当に、馬鹿な男」
大きく上下するローランの胸の上にガブリエルは頭を乗せて、なだめるようとするかのようその腕をそっと叩いた。そのまま辛抱強く、彼の答えを待ち続けた。
「…あいつが、それで俺から解放されて幸せになれるなら、別に馬鹿な事をしたとは思わないさ」
ぼそりと感情を欠いた声が呟くのに、ガブリエルは顔を上げて面白そうに囁いた。
「そういうのをやせ我慢と言うんですよ、ローラン。独占欲の塊のあなたが、せっかくあそこまで手をかけて磨き上げた人が自分のもとから離れていって、他の誰かを愛するようになるなんて…本当は、想像するだけで頭から血が噴きそうなんでしょう?」
ううっと、食いしばった歯の間から、ローランは息を吐き出した。
「頼むから、もう許してくれよ、ガブリエル」
ついに観念したローランは、降参の印に片手を上げた。
「ああ、確かに、らしくもない真似をしたせいで、俺は今予期した以上のダメージを受けている。こんなどん底の気分を味わうくらいなら、俺は無理を承知であいつを縛りつけておくべきだったか…? だが、あいつの…人をだましたり裏切ったりなんて考えたこともなさそうな、おつむの中に花畑でもありそうな顔を見ているとできなかった」
ローランは自分の頭に手を置き、くしゃくしゃと髪をかき乱した。
「俺が好きだから傍にいたいってあいつの気持ちを疑うわけじゃないが、結局俺に振り回されて嫌な思いをするだけじゃないのか、今でもずいぶん我慢をさせているのだろう…いつも自己主張しない相手だけに、俺にはどう扱っていいか分からなかった。黙っているということは俺のやり方を受け入れているのと同じだと、いつもの俺なら放っておくところだが、なぜかあいつに対しては自分がひどく後ろめたい気分になった。主と決めた相手には馬鹿馬鹿しいくらいに一途だという点で、俺とルネは似ているのかもしれないが、あいつには俺のようなあくどさはない。俺の正体を知れば、潔癖なあいつにはついていかれないだろう。そして俺の方も、あいつをずっと騙し通して自分につき合わせるのは、どうやら無理らしい。ならば、あいつの幸せのためにはどうしたら一番いいのか考えた…その結果行き着いたのが、昨夜の愁嘆場だ。お互い傷ついても、あれがルネの今後のためには最善の選択だったのさ」
胸の内の秘密を一気に吐き出した後、ローランは疲れたように吐息をついて、握った手で封じるかのように唇を押さえた。
「俺の考えた筋書き通りにうまく終わらせたつもりが…その結果を俺自身がすんなり受け入れることができないなんて、無様だな」
ベッドの上にぱたりと腕を落として、ローランは長嘆した。
「私のためだけに生きてきたあなたが、他人の幸せを考えて行動したのは、たぶん初めてじゃないですか…? でも、いきなり慣れないことをすると、あなたでも失敗するんですね」
どんよりと打ち沈んだ面持ちで黙り込むローランを、ガブリエルはしばし、天使というよう小悪魔めいた顔で上目使いに眺めていた。
「ルネの代わりに、私が慰めてあげましょうか?」
「うん?」
まだ少し放心状態のまま反射的に問い返すローランに、ガブリエルはもう一度言った。
「あなたのために、私がルネの代わりに恋人になってあげましょうか?」
「…何だって?」
ようやくガブリエルの提案を理解したローランは、怪しむような目で、彼の天使が身を乗り出してくるのを見つめていた。
「そんなに驚くことはないでしょう? あなただって、私が失恋して落ち込んでいる時はしばらく恋人代わりになってくれるじゃないですか? たまには、その逆があってもいい…幸い私には今特定の相手はいないし、あなたと愛しあったって何の問題もないでしょう?」
「おい…こんな時に悪い冗談はよせよ、ガブリエル」
ローランは瞳を揺らせながら、気まぐれにしてもたちの悪いガブリエルの申し出を笑い飛ばそうとした。
「こんな時に冗談なんか言いませんよ、ローラン…私は、あなたが心配なんです」
ガブリエルは疑いようもなく誠実な面持ちでローランの手を取り、ぎゅっと握りしめた。
「あなたがルネを手放すにいたった原因の一端は私にもありますし、悄然となったあなたを見るに忍びない。ですから、私をルネの身代わりとして好きになさい、ローラン…遠慮なんかしなくていいんですよ。あなたは、私を愛しているのでしょう…?」
驚愕のあまり声も出せずに固まっているローランに嫣然と微笑みかけながら、ガブリエルはゆっくりと身を屈めていった。
「私も、あなたを愛していますよ、だから…失くした恋の痛みを私が忘れさせてあげましょうね?」
その声は甘く、この世のものとは思えぬほど誘惑的に耳に響く。
「ローラン、あなたはやはり私だけのもの…」
ガブリエルの絹のような滑らかな指先がローランの頬にかかり、その唇が燦然と花開くように微笑みながら、彼の唇を求めて下りてくる。
この抗いがたい魅力に屈せずにいられるものなど存在しないと思われるほど、ガブリエルは全てにおいて完璧だった。ましてや、彼を溺愛しているローランならば、嬉々としてその口づけを受け入れたところで不思議はなかった。
しかし―。
「ガブリエル、悪いが、俺はその気になれない」
静かだが確固とした意思を感じさせる声で、ローランは言った。
「おや…それはまたどうして?」
別に意外でもなさそうに問いながら、ガブリエルは自分の接近を阻むように肩を押しているローランの手を指先でくすぐった。
「なぜなら、俺が今欲しいのはお前じゃないからさ、ガブリエル。俺はおまえのものだし、おまえをこの世で一番大切に思っているが…おまえではルネの代わりにはならないんだ。だから、それが俺を慰めるためだというなら、せっかくの誘いでも、俺はご免こうむる」
ローランは、ガブリエルの頬に手を添えて、その白い額に親愛の情のこもったキスをした。
「おまえが俺を必要としてくれる時は、いつでも応えるつもりだが…今は違うだろう? 大体、俺が拒否することくらい、おまえなら分かるはずだろうに…いきなり、あんなあからさまな迫り方をしてくるなんて、おかしいぞ…?」
「ふふっ、おかしいと気付いたのはさすがですね、ローラン…それでは、一体どうしてだと思います?」
ガブリエルの問いに、ローランは眉間に深いしわを寄せた。たちまち、さっきまで鈍っていた思考力が蘇ってきた。
「さっき、あなたは言いましたよね。昨夜、ルネに対してわざとひどいことを言って追いやったのは、彼のためだと…でも、あなたから解放されてルネが幸せになれるかどうかなんて、自分の心さえ測り切れなかったあなたに、どうして分るというんです?」
ガブリエルがいきなり話を元に戻したことを訝しみながらも、痛い所を突かれたローランはつい感情的になった。
「ガブリエル、その話をここで蒸し返したって、今さらどうなるものでもないだろう。あの時俺はどうすべきだったのかなんて、今更論じた所で意味はない。大体そんなこと、ルネ当人以外の誰にも分かるはずがないじゃないか」
「それじゃあ、直接ルネに聞いて確かめてみるんですね」
ローランは目を剥いた。
(あ…しまった、そういうことか…!)
ローランは恐る恐るドアのほうを振り返った。たちまち、全身から力が抜けていくのを覚えた。
「おまえ、一体いつからそこにいたんだ?」
喘ぐように問いかける自分の声は、我ながら間の抜けたものだった。
「ルネ」
半分開いたドアに縋りつくようにしながら、大きく見開いた目で、こちらの様子を窺っていたルネは、その瞬間大きく身を震わせた。
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