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第四章
愛とスープの法則(3)
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明くる日からの数日間、ローランが予告したように、あまり行儀のよくないタブロイド紙や雑誌が、名門ロスコー家の身内同士の争いを面白おかしく書きたてた。
どこまでが真実なのかは、所詮三流誌の記事であり疑わしいが、それらを一通りチェックしてみることで、ルネは、この内紛とやらの経緯を大まかに理解できた。
一族を二分して対立しているのは、ロスコー家の長であるジル・ドゥ・ロスコーとジルの弟のソロモン・ドゥ・ロスコーということらしい。
そもそものきっかけは昨年、ジルがアカデミー・グルマンディーズ主宰の地位をガブリエルに譲ると発表したことだった。
天才の誉は高かったが、弱冠23歳の若者が主宰になることに強硬に反対したのがソロモン。アカデミーの副主宰の要職にあり、ジルの引退宣言の直前まで、次期主宰の呼び声が最も高かった。
ガブリエルが主宰になった当初、アカデミー内でも若い彼を危ぶむ声は多く、ソロモンを立てようとする動きがあったという。
しかし、ガブリエルが新主宰として初めてオーガナイズした定例会が、アカデミー史上まれに見る大成功を収めてからは一転、彼を支持する声がソロモン派を上回った。そして実権を握ることを断念せざるを得なくなったソロモンはアカデミーを去り、彼が所有する会社や不動産が多くあり、影響力を行使できるボルドーに引きこもった。
(ボルドーがお膝元ってあたりで、このソロモンって人は、怪しい。そうして、トラブルが発生してローランが直々に出向いて行ったホテルも、この人との関係が深かったことが分かったんだ)
ガブリエルと共にローランが大改革を行なったルレ・ロスコーにおいても、彼らが乗り込むまで幅をきかせていた役員達の多くが、ソロモン派の親族達だったということも、ルネはアシルから聞き出している。
(つまり、アカデミー・グルマンディーズだけではなく、この会社もロスコー家の権力闘争の渦中にあるってことか。その上ガブリエ本人が名目上とはいえ社長なら、そりゃ、取材の申し込みくらいあるよね)
社員達には、ローランより、社には何の関係もないことだから、動揺せず、通常通り業務を行うよう伝達があった。実際、記者に質問を受けても、何も知らない彼らには答えようがない。
それでも、最初の記事が報道された週は、仕事中にもお構いなしに雑誌や新聞の取材の申し込みの電話がかかってきて、ルネも含めた、社員達を閉口させた。
それではテレビはどうかというと、出版業界の異常な盛り上がりとは対照的にセンセーショナルな取り上げ方はほとんどされていない。テレビでの露出も多い、今をときめくカリスマ料理評論家ならば、もっと取り上げられてもよさそうなものだ。どうやら、あまり身内の恥を公にはしたくないロスコー家が、血縁の政治家を通じて圧力をかけたようだった。
(何だか、雲の上の話みたいだなぁ。ロスコー家って、一体どれだけ権力持っているんだろ。ローランも姓は違うけど、その親戚筋というなら、所詮庶民の僕とは住む世界の違う人なんだろうな)
たかが美食家の道楽でしかないアカデミー・グルマンディーズの主宰の地位を巡って、裕福で、社会的な地位も名誉もある人達が、何故かくも熾烈な争いを繰り広げるのか、一般市民のルネにはどうしても理解できない。
(…あるタブロイド紙が特ダネとして大きく取り上げた記事には、一部のアカデミー関係者が、ガブリエルを主宰の座から引きずり下ろすため、彼が初めて取り仕切った定例会の妨害工作まで行なったと書かれてあった。そのせいで当初予定されていたシェフが辞退して、定例会そのものも危うく中止になりかけた…代わりにと急遽ガブリエルが引っ張ってきたのが、気難しいことで有名な天才シェフで、結局定例会は大成功に終わり、新主宰は拍手喝さいを浴びた訳だけど…ローランがガブリエルをやたら心配して、何かあればすぐに彼のもとに飛んでいくのは、そんなことがかつてあったせいなのかな…?)
アカデミー内部での裏切りだの、定例会の妨害工作だの、確かにマスコミが喜びそうなスキャンダルだ。最近になってローランが以前にも増してピリピリとして、忙しく立ちまわっていたのは、この特ダネに群がってくるだろうマスコミ対策も含めてのことだろう。
(でも、ローランがあんなに警戒しているのは、やっぱりガブリエル本人に何らかの危険が差し迫っているのを察知したからだろうな。これまでは水面下の争いでしかなかったものが本格的な潰し合いになりつつあるって、彼も言ってたし……)
この数日間、ローランは外でロスコー家の関係者と会っているか、パリ郊外にあるガブリエルの邸宅に詰めていることが多く、今日も社には姿を現していない。ガブリエルの片腕と世間的にも認識されている彼がここにいるとマスコミ関係者がうるさいので、不在なのはある意味ありがたいが、主のいないオフィスはとても空虚に感じられ、留守を預かるルネの気分は下降線を辿る一方だった。
「ああ、ローランがいないと仕事をする気にもならないや。書類の整理もとっくに終わったし、昼から何をしようかな…?」
ルネは、中身を確認していた本日発売の雑誌を、デスクの傍らに積み上げている新聞や雑誌の山の上に戻し、溜息をついた。
(ローラン、あなたが今大変な時期なのは理解しますけれど、たまには電話の一本くらい下さいよぉ。いつ帰るかもしれないあなたをここで待ち続けるのは、正直僕は辛いんです)
昼休み、ルネは気分転換も兼ねたランチに出かけることにした。
(ああ、キアラに連絡して、一緒にランチを取ってもらったらよかったな。ううん、こんな気分の時に会っても、つまらない愚痴ばかり聞かせることになりそうだから、やめた方がいいよね)
同じようにランチに出かける他の社員達に混じって、ルネはエレペーターに乗り込み、一階に下りて行った。
(あれ…?)
一階フロアーに降りた所で、すぐにルネは周囲がざわめいていることに気づいた。
入口の方に視線を向けると、顔なじみの警備員が渋い表情をしてドアの前に立っており、何人かのルレ・ロスコーの社員達と一緒にガラス越しに外の様子を窺っている。
「何かあったんですか?」
近くにアシルの姿が見えたので、ルネは素早く近づいて行き、声をかけてみた。
「ああ、ルネ君」
アシルはちょっと困ったような曖昧な笑顔で、ルネを振り返った。
「外に3人ほど、性質の悪いフリーの記者が待ち伏せしているんだ。所謂パパラッチって呼ばれる連中なんだろうねぇ。外に出てきたうちの社員を捕まえては、社内の様子を聞き出そうとしたり、挙句社長のガブリエルはここにいるんだろう、隠したって無駄だと言いがかりのようなことを言ったりするものだから、特に女の子達が恐がって、外に出られないんだよ」
「何ですか、それ…!」
理不尽なことの大嫌いなルネは、たちまち柳眉を逆立てた。
「社長はずっと社に姿も見せていない、僕なんか一度も会ったことすらないくらいなのに、全く言いがかりも甚だしい! それに例え社長がここにいらしたとしても、無礼なチンピラ記者に取材なんかさせる訳がないでしょう。アシルさん、あんなヤクザ紛いの連中をこのまま野放しにしていいんですか、あなただって一応幹部の1人なんでしょう? ムッシュ・ヴェルヌの指示を仰ぐまでもありません。社員を脅すような真似をして、これは立派な営業妨害ですよ。警察に通報して、即刻排除してもらいましょう」
興奮気味のルネがうっかり吐いた暴言には気づいているのかいないのか、『一応』幹部の若いアシルは温和な顔を曇らせながら、溜息混じりに答えた。
「警察を呼んだくらいでは懲りないと思うよ、ああいう連中は…それに、ガブリエルがここにいるという誤情報が、どこかから流れて、パパラッチ達の間に広まったようなんだ。ほら、例の記事が出て以来、ガブリエルはテレビからも姿を消して全く所在不明になっているから、取材規定もへったくれもない三流誌に記事になりそうなネタや写真を売り込もうとして、ああいう手合いの動きが活発になっているんだよ。ロスコー家の権力も、パパラッチにまでは及ばないからねぇ」
「全く…一体どこの誰が、そんな間違った情報を―」
「それがねぇ…誤解を受けても、まあ、仕方がないかなぁという気もしないでもないんだよね、その情報に関しては…」
「は?」
怪訝そうに瞬きするルネに、アシルは一瞬逡巡した後、こそっと打ち明けた。
「実はね、さっき僕は表に出て、カメラを持っているパパラッチの1人と話をしてみたんだ。そうしたら彼、今朝ここの玄関先で撮ったという画像を見せてくれてね。それが、ルネ君、君の姿だったんだよ」
「へっ、僕?」
「僕達ルレ・ロスコーの社員達はもうすっかり君の存在に馴染んでしまって、今では、君と社内で出会っても最初の頃のように動揺することはなくなった。僕も毎日君と顔を合わせているものだから、うっかり忘れそうになっていたんだけれど、君の姿形は、事情を知らない人間ならばまず騙されるくらいムッシュ・ロスコーに瓜二つなんだよ。つまり、あそこにいる連中は出社している君を偶然見かけて、ああ、今ガブリエルは社内にいるんだと確信してしまったわけだ」
ルネはぽかんと口を開けてしばし固まった後、情けない声で反論した。
「そんな…そりや、遠目では分かりづらいかもしれないですけれど、身なりからして、僕はそんなに高級なものを着ている訳じゃないですし、大体ガブリエルが独りで地下鉄を乗り継ぎ出社してくるなんて、変じゃないですか!」
「そう思うんだけれどねぇ…外の連中には、口で説明しても分からないみたいだよ?」
アシルは優しい顔立ちに人当たりのいい微笑をうかべて、どこか試すような口ぶりで言いながら、ルネをじいっと眺めた。
「ね、ルネ君、どうしようか?」
ルネはきゅっと唇を引き結んだ。ローランが自ら抜擢しただけあって、この人も、おっとりとして見えるがただの昼行燈ではなさそうだ。
「…分かりました。行ってきます」
ふうと肩で1つ息をついて、ルネは正面玄関の方に向き直った。
この時ばかりは、自分をこんな姿に変えてしまったローランを締め殺してやりたいくらいに恨めしく思った。
「あまり無茶しちゃだめだよ、ルネ君。君の社員証でも見せて納得してもらって、丁重にお帰りいただいたらいいからね」
にこやかに手をひらひらさせるアシルに見送られながら、ルネは大股で玄関に近づいた。そうして、心配そうな警備員や社員達の視線を浴びながら、ドアを大きく開いた。
「お、本当に出てきたぞ」
「大天使だ、間違いない」
許可も求めずにいきなりカメラを構える男に、すぐさまルネは切れた。もともと虫の居所は極めて悪かったのだ。
まっすぐ男達に歩み寄ったルネは、男の構えるカメラのレンズを片手で押し返し、凄みを含んだ声で言い放った。
「お生憎さま! 僕は、あなた達が探しているガブリエルとは全くの別人ですよ。ほら、その目をよく見開いて、ごらんなさい。鼻の形が微妙に違うでしょ、髪だって金髪に染めてるけど、もとは黒髪なのは根元を見れば分かるでしょう?」
青く光る両目を冷たく細めてじりじりと肉薄するルネに、男達は怯んだように後退りした。
「僕はルネ・トリュフォー、ローラン・ヴェルヌの秘書です。あなた方が探しているムッシュ・ロスコーはここにはおられません。この大騒ぎの中、大天使がわざわざルレ・ロスコーを訪問するはずがないでしょう。分かったなら、どうぞお引き取りいただけますか? 僕も今からランチに出かける所なので、いつまでもあなた方の相手なんかしたくないんです」
まだ疑わしげな男達は、ルネが無造作に突き出した社員証をためつすがめつ眺め、それから、苛々と足を踏み鳴らして待っているルネの姿を無遠慮に見つめた。
「…おかしいな、ガブリエルがパリに向かったって情報は間違いなさそうだったのに…」
「でも、確かにこいつは、ガブリエルじゃないみたいだぞ。なんつーか、物凄く可愛いけど、貴族の気品みたいなのはないじゃん」
男達がひそひそと囁き交わす声を聞いて、ルネはかちんときた。
「き、気品がなくて、悪かったな! さあ、分かったならさっさと帰れ、そこにいられると邪魔なんだ!」
ルネは顔を真っ赤にし、手を振り回して怒ったが、抗議を受けるのは慣れているからか、男達はにやにやするばかりだ。
ふいに、その内の1人がルネに向かってカメラを構え、素早くシャッターを切った。
「な、何するんですか!」
「せっかくだから、ガブリエルの代わりに、せめてあんたの写真をもらっておくぜ」
「僕の写真なんか撮ったって、意味はないでしょう…一体、何に使うつもりなんですか?」
当てが外れたことに対する腹いせかと呆れるルネに、カメラの男は意味ありげな嫌な目つきをして、言った。
「なあ、あんた…大方、ローラン・ヴェルヌの愛人かなんかだろう? ガブリエルをターゲットに取材しようとするといつも出ばってきて邪魔しやがる、あの切れ者のおかげで、こっちは思うような取材ができず悔しい思いをしてるんだ。ふん、これもヴェルヌらしいと言うべきかな…秘書にするのも大天使にそっくりな男だなんて、主人に忠義なのを通り越して、ほとんど病気だぜ。ううん、これはこれで書きようによっては面白い記事になるかしれんなぁ」
それを聞いた途端、ルネは体を硬直させた。『愛人』と揶揄されたのも恥ずかしかったが、それより何より、こんな下劣な奴らがローランを嘲笑うことが許せなかったのだ。
(駄目だ、もう我慢できない…!)
どこまでが真実なのかは、所詮三流誌の記事であり疑わしいが、それらを一通りチェックしてみることで、ルネは、この内紛とやらの経緯を大まかに理解できた。
一族を二分して対立しているのは、ロスコー家の長であるジル・ドゥ・ロスコーとジルの弟のソロモン・ドゥ・ロスコーということらしい。
そもそものきっかけは昨年、ジルがアカデミー・グルマンディーズ主宰の地位をガブリエルに譲ると発表したことだった。
天才の誉は高かったが、弱冠23歳の若者が主宰になることに強硬に反対したのがソロモン。アカデミーの副主宰の要職にあり、ジルの引退宣言の直前まで、次期主宰の呼び声が最も高かった。
ガブリエルが主宰になった当初、アカデミー内でも若い彼を危ぶむ声は多く、ソロモンを立てようとする動きがあったという。
しかし、ガブリエルが新主宰として初めてオーガナイズした定例会が、アカデミー史上まれに見る大成功を収めてからは一転、彼を支持する声がソロモン派を上回った。そして実権を握ることを断念せざるを得なくなったソロモンはアカデミーを去り、彼が所有する会社や不動産が多くあり、影響力を行使できるボルドーに引きこもった。
(ボルドーがお膝元ってあたりで、このソロモンって人は、怪しい。そうして、トラブルが発生してローランが直々に出向いて行ったホテルも、この人との関係が深かったことが分かったんだ)
ガブリエルと共にローランが大改革を行なったルレ・ロスコーにおいても、彼らが乗り込むまで幅をきかせていた役員達の多くが、ソロモン派の親族達だったということも、ルネはアシルから聞き出している。
(つまり、アカデミー・グルマンディーズだけではなく、この会社もロスコー家の権力闘争の渦中にあるってことか。その上ガブリエ本人が名目上とはいえ社長なら、そりゃ、取材の申し込みくらいあるよね)
社員達には、ローランより、社には何の関係もないことだから、動揺せず、通常通り業務を行うよう伝達があった。実際、記者に質問を受けても、何も知らない彼らには答えようがない。
それでも、最初の記事が報道された週は、仕事中にもお構いなしに雑誌や新聞の取材の申し込みの電話がかかってきて、ルネも含めた、社員達を閉口させた。
それではテレビはどうかというと、出版業界の異常な盛り上がりとは対照的にセンセーショナルな取り上げ方はほとんどされていない。テレビでの露出も多い、今をときめくカリスマ料理評論家ならば、もっと取り上げられてもよさそうなものだ。どうやら、あまり身内の恥を公にはしたくないロスコー家が、血縁の政治家を通じて圧力をかけたようだった。
(何だか、雲の上の話みたいだなぁ。ロスコー家って、一体どれだけ権力持っているんだろ。ローランも姓は違うけど、その親戚筋というなら、所詮庶民の僕とは住む世界の違う人なんだろうな)
たかが美食家の道楽でしかないアカデミー・グルマンディーズの主宰の地位を巡って、裕福で、社会的な地位も名誉もある人達が、何故かくも熾烈な争いを繰り広げるのか、一般市民のルネにはどうしても理解できない。
(…あるタブロイド紙が特ダネとして大きく取り上げた記事には、一部のアカデミー関係者が、ガブリエルを主宰の座から引きずり下ろすため、彼が初めて取り仕切った定例会の妨害工作まで行なったと書かれてあった。そのせいで当初予定されていたシェフが辞退して、定例会そのものも危うく中止になりかけた…代わりにと急遽ガブリエルが引っ張ってきたのが、気難しいことで有名な天才シェフで、結局定例会は大成功に終わり、新主宰は拍手喝さいを浴びた訳だけど…ローランがガブリエルをやたら心配して、何かあればすぐに彼のもとに飛んでいくのは、そんなことがかつてあったせいなのかな…?)
アカデミー内部での裏切りだの、定例会の妨害工作だの、確かにマスコミが喜びそうなスキャンダルだ。最近になってローランが以前にも増してピリピリとして、忙しく立ちまわっていたのは、この特ダネに群がってくるだろうマスコミ対策も含めてのことだろう。
(でも、ローランがあんなに警戒しているのは、やっぱりガブリエル本人に何らかの危険が差し迫っているのを察知したからだろうな。これまでは水面下の争いでしかなかったものが本格的な潰し合いになりつつあるって、彼も言ってたし……)
この数日間、ローランは外でロスコー家の関係者と会っているか、パリ郊外にあるガブリエルの邸宅に詰めていることが多く、今日も社には姿を現していない。ガブリエルの片腕と世間的にも認識されている彼がここにいるとマスコミ関係者がうるさいので、不在なのはある意味ありがたいが、主のいないオフィスはとても空虚に感じられ、留守を預かるルネの気分は下降線を辿る一方だった。
「ああ、ローランがいないと仕事をする気にもならないや。書類の整理もとっくに終わったし、昼から何をしようかな…?」
ルネは、中身を確認していた本日発売の雑誌を、デスクの傍らに積み上げている新聞や雑誌の山の上に戻し、溜息をついた。
(ローラン、あなたが今大変な時期なのは理解しますけれど、たまには電話の一本くらい下さいよぉ。いつ帰るかもしれないあなたをここで待ち続けるのは、正直僕は辛いんです)
昼休み、ルネは気分転換も兼ねたランチに出かけることにした。
(ああ、キアラに連絡して、一緒にランチを取ってもらったらよかったな。ううん、こんな気分の時に会っても、つまらない愚痴ばかり聞かせることになりそうだから、やめた方がいいよね)
同じようにランチに出かける他の社員達に混じって、ルネはエレペーターに乗り込み、一階に下りて行った。
(あれ…?)
一階フロアーに降りた所で、すぐにルネは周囲がざわめいていることに気づいた。
入口の方に視線を向けると、顔なじみの警備員が渋い表情をしてドアの前に立っており、何人かのルレ・ロスコーの社員達と一緒にガラス越しに外の様子を窺っている。
「何かあったんですか?」
近くにアシルの姿が見えたので、ルネは素早く近づいて行き、声をかけてみた。
「ああ、ルネ君」
アシルはちょっと困ったような曖昧な笑顔で、ルネを振り返った。
「外に3人ほど、性質の悪いフリーの記者が待ち伏せしているんだ。所謂パパラッチって呼ばれる連中なんだろうねぇ。外に出てきたうちの社員を捕まえては、社内の様子を聞き出そうとしたり、挙句社長のガブリエルはここにいるんだろう、隠したって無駄だと言いがかりのようなことを言ったりするものだから、特に女の子達が恐がって、外に出られないんだよ」
「何ですか、それ…!」
理不尽なことの大嫌いなルネは、たちまち柳眉を逆立てた。
「社長はずっと社に姿も見せていない、僕なんか一度も会ったことすらないくらいなのに、全く言いがかりも甚だしい! それに例え社長がここにいらしたとしても、無礼なチンピラ記者に取材なんかさせる訳がないでしょう。アシルさん、あんなヤクザ紛いの連中をこのまま野放しにしていいんですか、あなただって一応幹部の1人なんでしょう? ムッシュ・ヴェルヌの指示を仰ぐまでもありません。社員を脅すような真似をして、これは立派な営業妨害ですよ。警察に通報して、即刻排除してもらいましょう」
興奮気味のルネがうっかり吐いた暴言には気づいているのかいないのか、『一応』幹部の若いアシルは温和な顔を曇らせながら、溜息混じりに答えた。
「警察を呼んだくらいでは懲りないと思うよ、ああいう連中は…それに、ガブリエルがここにいるという誤情報が、どこかから流れて、パパラッチ達の間に広まったようなんだ。ほら、例の記事が出て以来、ガブリエルはテレビからも姿を消して全く所在不明になっているから、取材規定もへったくれもない三流誌に記事になりそうなネタや写真を売り込もうとして、ああいう手合いの動きが活発になっているんだよ。ロスコー家の権力も、パパラッチにまでは及ばないからねぇ」
「全く…一体どこの誰が、そんな間違った情報を―」
「それがねぇ…誤解を受けても、まあ、仕方がないかなぁという気もしないでもないんだよね、その情報に関しては…」
「は?」
怪訝そうに瞬きするルネに、アシルは一瞬逡巡した後、こそっと打ち明けた。
「実はね、さっき僕は表に出て、カメラを持っているパパラッチの1人と話をしてみたんだ。そうしたら彼、今朝ここの玄関先で撮ったという画像を見せてくれてね。それが、ルネ君、君の姿だったんだよ」
「へっ、僕?」
「僕達ルレ・ロスコーの社員達はもうすっかり君の存在に馴染んでしまって、今では、君と社内で出会っても最初の頃のように動揺することはなくなった。僕も毎日君と顔を合わせているものだから、うっかり忘れそうになっていたんだけれど、君の姿形は、事情を知らない人間ならばまず騙されるくらいムッシュ・ロスコーに瓜二つなんだよ。つまり、あそこにいる連中は出社している君を偶然見かけて、ああ、今ガブリエルは社内にいるんだと確信してしまったわけだ」
ルネはぽかんと口を開けてしばし固まった後、情けない声で反論した。
「そんな…そりや、遠目では分かりづらいかもしれないですけれど、身なりからして、僕はそんなに高級なものを着ている訳じゃないですし、大体ガブリエルが独りで地下鉄を乗り継ぎ出社してくるなんて、変じゃないですか!」
「そう思うんだけれどねぇ…外の連中には、口で説明しても分からないみたいだよ?」
アシルは優しい顔立ちに人当たりのいい微笑をうかべて、どこか試すような口ぶりで言いながら、ルネをじいっと眺めた。
「ね、ルネ君、どうしようか?」
ルネはきゅっと唇を引き結んだ。ローランが自ら抜擢しただけあって、この人も、おっとりとして見えるがただの昼行燈ではなさそうだ。
「…分かりました。行ってきます」
ふうと肩で1つ息をついて、ルネは正面玄関の方に向き直った。
この時ばかりは、自分をこんな姿に変えてしまったローランを締め殺してやりたいくらいに恨めしく思った。
「あまり無茶しちゃだめだよ、ルネ君。君の社員証でも見せて納得してもらって、丁重にお帰りいただいたらいいからね」
にこやかに手をひらひらさせるアシルに見送られながら、ルネは大股で玄関に近づいた。そうして、心配そうな警備員や社員達の視線を浴びながら、ドアを大きく開いた。
「お、本当に出てきたぞ」
「大天使だ、間違いない」
許可も求めずにいきなりカメラを構える男に、すぐさまルネは切れた。もともと虫の居所は極めて悪かったのだ。
まっすぐ男達に歩み寄ったルネは、男の構えるカメラのレンズを片手で押し返し、凄みを含んだ声で言い放った。
「お生憎さま! 僕は、あなた達が探しているガブリエルとは全くの別人ですよ。ほら、その目をよく見開いて、ごらんなさい。鼻の形が微妙に違うでしょ、髪だって金髪に染めてるけど、もとは黒髪なのは根元を見れば分かるでしょう?」
青く光る両目を冷たく細めてじりじりと肉薄するルネに、男達は怯んだように後退りした。
「僕はルネ・トリュフォー、ローラン・ヴェルヌの秘書です。あなた方が探しているムッシュ・ロスコーはここにはおられません。この大騒ぎの中、大天使がわざわざルレ・ロスコーを訪問するはずがないでしょう。分かったなら、どうぞお引き取りいただけますか? 僕も今からランチに出かける所なので、いつまでもあなた方の相手なんかしたくないんです」
まだ疑わしげな男達は、ルネが無造作に突き出した社員証をためつすがめつ眺め、それから、苛々と足を踏み鳴らして待っているルネの姿を無遠慮に見つめた。
「…おかしいな、ガブリエルがパリに向かったって情報は間違いなさそうだったのに…」
「でも、確かにこいつは、ガブリエルじゃないみたいだぞ。なんつーか、物凄く可愛いけど、貴族の気品みたいなのはないじゃん」
男達がひそひそと囁き交わす声を聞いて、ルネはかちんときた。
「き、気品がなくて、悪かったな! さあ、分かったならさっさと帰れ、そこにいられると邪魔なんだ!」
ルネは顔を真っ赤にし、手を振り回して怒ったが、抗議を受けるのは慣れているからか、男達はにやにやするばかりだ。
ふいに、その内の1人がルネに向かってカメラを構え、素早くシャッターを切った。
「な、何するんですか!」
「せっかくだから、ガブリエルの代わりに、せめてあんたの写真をもらっておくぜ」
「僕の写真なんか撮ったって、意味はないでしょう…一体、何に使うつもりなんですか?」
当てが外れたことに対する腹いせかと呆れるルネに、カメラの男は意味ありげな嫌な目つきをして、言った。
「なあ、あんた…大方、ローラン・ヴェルヌの愛人かなんかだろう? ガブリエルをターゲットに取材しようとするといつも出ばってきて邪魔しやがる、あの切れ者のおかげで、こっちは思うような取材ができず悔しい思いをしてるんだ。ふん、これもヴェルヌらしいと言うべきかな…秘書にするのも大天使にそっくりな男だなんて、主人に忠義なのを通り越して、ほとんど病気だぜ。ううん、これはこれで書きようによっては面白い記事になるかしれんなぁ」
それを聞いた途端、ルネは体を硬直させた。『愛人』と揶揄されたのも恥ずかしかったが、それより何より、こんな下劣な奴らがローランを嘲笑うことが許せなかったのだ。
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