花束と犬とヒエラルキー

葉月香

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第三章

錆びたワイン(3)

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 金曜日、ローランは何食わぬ顔で普通に会社に出てきていた。
 昨日ガブリエルのもとで何がどうなったのか、説明は一言もなく、ルネもあえて尋ねなかった。
(今更、一体どんな用件だったんですか、仕事を放り出して駆けつけるほどの緊急性があったんですかと追及するのも、僕が妬いてるみたいじゃないか。大体ローランがどこで何をしようが、僕にはもう関係ないことなんだから…別に気にしてませんって顔をして、無視だ、無視)
 ルネは努めて冷静に仕事に徹し、ローランに接する時も不機嫌な顔をしまいと気をつけていた。
 しかし、彼が昨日の一件でかなり気分を害していることは、その身にまとう雰囲気で伝わるのだろう。
 いつも傍若無人マイペースのローランもさすがに気になったらしく、仏頂面で黙々と仕事をしているルネをちらちらと目で追ったり、コーヒーを頼んだ際に声をかけようとしたりした。しかし、いずれの場合も、ルネの方からさりげなく避けるようにして、ローランの言い訳など一切聞くまいと拒否し続けた。
(もっとも、ローランのことだから、下手な言い訳なんかしないかな。ガブリエルが最優先なのはもとからなんだから、僕の方こそ、それは我慢しろみたいな話になりそうだ)
 2人の間にどことなくピリピリとした空気が漂っていることは、傍から見てもよく分かったらしい。間に挟まれて一日しんどい思いをしたミラだけでなく、ローランに呼び出されて副社長室にやってきたアシルも心配して、『あの2人、何かあったの?』と隙を見て彼女にこっそり尋ねていた。
 そんな状態でも仕事だけはミスもなくきちんとやり遂げたのは、真面目なルネの意地のようなものだった。しかし、やはり緊張はしていたので、やっと終業の6時が来ると、心底ほっととして肩の力を抜いた。
(さて、バーで飲みながらそれっぽい人を探すには、まだ早い時間だよね。先に秘書の学校のクラスを受けてからなら、丁度いい頃合いになるかな)
 ルネはデスクの引き出しから、キアラにもらったカードを取り出し、店の営業時間と場所を確認した。
 その時、測っていたようなタイミングで副社長室からローランが出てきて、まっすぐルネのデスクにやってきた。
「ルネ、もう帰るのか?」
「あ、はい…」
 ルネは一瞬救いを求めるように、帰り支度をしていたミラを眺めやったが、彼女はこれ以上面倒に巻き込まれるのはごめんだとばかり、冷たい一瞥をルネに投げかけると、『お先に』と素っ気ない一言を残して出ていった。
 観念したルネはデスクに座ったまま、すぐ傍らにポケットに手を突っ込んで立っているローランを見返した
「そろそろ僕も失礼します。これから秘書の学校がありますので」
 ローランは首を僅かに傾げながら、軽く揶揄するように言った。
「そうか…そうだったな、せっかくの週末も休まず勉強か。全く、ドイツ人並みに真面目な奴だな、おまえは」
「当然です。そういう条件で、僕はここに雇ってもらった訳ですから」
 ルネの答えはにべもない。
「また、随分棘のある言い方だな。今日は一日中ずっとその調子だったが…ルネ、俺に言いたいことがあるなら、はっきり言ったらどうだ?」
「職場であなたと修羅場を演じるような非常識も悪趣味も、僕は持ち合わせていません」
 全身堅い殻に覆われたようなルネを攻めあぐねたのだろう、ローランは、肩を落としてはあっと溜息をついた。しかし、一瞬で気持ちを切り変えたらしく、その強い瞳でまっすぐルネを見据えた。
「成程。職場を離れた方が本音で話しやすいのなら、そうしよう。ルネ、学校が終わるのは何時だ? 適当に時間を潰した後で迎えに行くから、どこかゆっくりと話せるバーにでも行こう。それとも、おまえのアバルトメンの方が、周りに遠慮せず俺に怒鳴り散らせるから都合がいいか?」
「か、勝手に話を進めないでくださいっ」
 黙っているとローランのペースにはまって、有無を言わせず、彼の前に座らされたまま、胸にたまった鬱憤を洗いざらい白状させられそうで、ルネは焦った。
「おまえが黙っているからだ。それとも、おまえに何か、こうしたいという具体的な考えがあるのか?」
「考え…って…」
 ローランの容赦ない追及に思わず動揺したルネは、デスクの上に置きっぱなしにしていた例のワイン・バーのカードをちらりと見下ろした。
「何だ、そのカード…?」
 ルネがとめるより早く、ローランの指先がそのカードを取り上げた。
「ああ、この店なら、知っているぞ。以前、何度かガブリエルと一緒に飲みに行ったことがあったな。オーナーが変わってからは、足が遠のいてしまったが、昔はいい店だった…どうして、おまえがこんなカードを持っている?」
 ルネは顔を真っ赤にして、ローランの手からそのカードをひったくった。
「あ、あなたには関係ないでしょう!」
「ルネ…?」
 鳩が豆鉄砲を食らったような顔で瞬きするローランを、ルネは思い切り睨みつけた。ばくばくいっている心臓の鼓動を意識しながら、彼は慌ててデスクから立ち上がり、テキストが入ってずっしり重いバッグを持ち上げた。
「学校に遅れそうなので、僕はもう行きます。お疲れ様でした!」
 ローランに呼び止められるのが怖くて、ルネは返事も待たずに、ドアに向かって突進した。
「おい、ルネ…タ」
 呆気に取られるローランが見る前で、ルネは風のように秘書室から飛び出していき、乱暴に閉じられたドアがばたんと大きな音をたてた。
「…イムカード……切り忘れるほど、一体何をそんなに慌てているんだか」
 ローランはルネの消えて行ったドアに苦笑の含んだ眼差しをしばし向け、それから、彼の代わりに、忘れ去られたタイム・カードを切ってやった。
「全く、つくづく考えていることの分かりやすい奴だな。まあ、そこが可愛いんだが…」
 そんなローランの独り言を聞いたら、今のルネなら人を馬鹿にしてと怒っただろうか。
 もっとも既に彼はここにはいなかったし、よって、ローランが自分を語る口調にこもる存外に愛しげな響きに気付くこともなかったのだ。




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