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第二章
悪魔のように黒く(2)
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「ねえ、ルネ…あなた、まさかムッシュ・ヴェルヌと何かあった訳…?」
嘘のつけないルネは、びくっと肩を震わせ、今にも消え入りそうな風情で縮こまった。
ミラは、もう手がついたのかと呆れ顔をした後、一転、同情的になった。
「そうね、あなたの顔形をもっとよく見ていたら、こうなることも予想がついたかもしれないけれど、先週会ったばかりのあなたは純朴そうな目立たない子で、とてもあの人が食指を動かすとは思わなかったから…気づいていたら、一言注意してあげたでしょうに、ごめんなさいね」
「いいえ」と、ルネは力なく頭を振った。
「僕が隙を見せたからいけなかったんです…別に子供じゃないんだから、そのくらい分かっています。合意の上でのことだったし…ローランだけが悪い訳じゃない」
ぐるぐると視界が回り出したような錯覚に捕らわれながら、ルネは、ぽつりぽつりと漏らした。
「あんな男を庇うことないのよ、ルネ…馬鹿ね…」
「馬鹿か…そうかもしれません、きっとそうです…」
どうにも話がうますぎるとは疑っていたはずなのに、逃げなかった、拒めなかった。
(ローランが僕のことを理想に近いと言ったのは…何だ、彼の好きな人によく似ているってことだったんだ。ああ、確かに嘘はついてないよね…それを、ローランは僕自身に興味を持ってくれたんだと僕が勝手に思い込んだだけで…)
しかし、まさか、こんな種明かしが待ち受けていようとは夢にも思っていなかった。
(いや、いくらなんでも想定外…たまたま見つけた赤の他人が好きな人に似ていたからって、それを捕まえ、恋人そっくりにコスプレさせて悦に入るなんて、一体どういう変態プレイなんだか…僕にはついていかれない…!)
一瞬頭かっと血が上り、今度ローランに会ったらどうしてくれようと物騒なことを考えたものの、先週末彼との間に何があったか思い出せば、燃え上がりかけた怒りの炎もすぐにしぼんでしまう。
実感が湧かない、他人の口から聞いたくらいでは、素直にそうですかと受け入れがたい話だからだろうか。
「あなたね、それだけ人としての尊厳を踏みにじられて、まだあの男に未練があるの?」
ルネの葛藤にうんざりしてきたらしく、ミラは突き放すような口調で言った。
「確かに外見は完璧だし、あなたみたいな初心な子が熱を上げそうな魅力はあるんでしょうけれど、それで騙されてはまりこんだら、ろくな目にはあわないわよ。ルネ、一度だけ忠告しておいてあげるけれど…神様はね、人間を不完全な存在としてお造りになったのよ。あれだけ見てくれがよくて、仕事もできて、お金持ちのエリートで、その上に人間性にも優れているなんてできすぎた人がこの世にいるはずないの…むしろ、どこかに重大な欠落があると思わなきゃ…!」
拳を握り締めて力説するミラに、一体この人ローランの傍で何を見てきたのだろうと不安に駆られたが、追及してみるだけの精神力は残っていなかった。
(僕はローランに裏切られたんだろうか…? いや、裏切るも何もないかな、一回エッチしただけじゃないか。別にこれから真剣に付き合おうという約束をした訳でもない…むしろ、あれはその場限りの遊びの感覚に近かった。そうだ、あんなゴージャスな男と一夜を共にできたんだから、よかったじゃないか。そう言えば、強引に押しきられた割に、嫌なことは何もされなかったな…むしろすごく優しくて、びっくりした。いや、あれは僕に対して優しかった訳じゃない、僕がガブリエルに似ているからだったんだ)
どんよりと暗い顔をしているルネの前に、ミラは新しく淹れなおした熱いコーヒーを突きだした。
「あ、すみません」
ルネはうつろな目を上げ、機械的にコーヒーのカップを受け取り口に運んだが、味も香りも、感覚がマヒしてしまったかのように、よく分からなかった。
ただ苦いだけだ。
「それで――これから、あなた、どうするつもりなの?」
いきなりミラが、核心を突くような問いを投げかけてきた。
「ムッシュの酷い仕打ちにショックを受けて、立ち直れないなら、このままここであの人の顔を見ながら働くなんて無理でしょう? 今すぐここから出て行きなさい。ムッシュには、私から伝えておくわ。あなたにしてみれば、顔を見るのもむかつくでしょうからね」
ミラの言葉に、ルネははっと息を吸い込み、目を大きく見開いた。
「ミラさん、僕は…せっかくいただいた仕事の話を白紙にするとまでは、まだ思いきれてないです…」
「でもね、しばらく我慢して働いたものの、やっぱり無理だと中途半端な所で投げ出されるのが一番困るのよ。あなたに最後までやり通す強い決意があるのなら、私も喜んで仕事を教えるけれど、いつまでもあんな男のことを引きずって、仕事にも集中できないような甘ったれた人のお守りなんて、まっぴらごめん、時間の無駄よ」
ルネの顔に、血の色と共に激しい感情が閃いた。
「僕は、そんないい加減で無責任な人間ではありません! 一端引き受けた仕事なら、最後までやり遂げます…ええ、ローランとのことはあくまで僕の個人的な問題ですから、それを職場に持ち込むつもりは毛頭ありませんとも…だからあなたは、産休に入る前に、僕に業務の引き継ぎを滞りなく行ってくれればいいんです。僕は絶対泣いて逃げ出したりしませんからっ」
ルネの剣幕にミラはしばし黙り込んだ。彼女は、それでもしばらく怪しむように、決然と唇を引き結び爛々と目を輝かせたルネの顔を凝視していたが、やがて何かを感じ取ったようだ。
「分かったわ、ルネ。それじゃあ、あなたとムッシュ・ヴェルヌの間であったことは、私は聞かなかったことにしますから、あなたもあの人を見て取り乱すことなく、部下として自然にふるまうことを心がけて。その外見だと、社内でおかしな噂はたつだろうし、からかいの種にもされるでしょうけれど、それも我慢するのよ。いっそ、その髪はもとの色に戻したら、どうかしらね?」
一瞬迷ったルネは、柔らかな金髪の髪の一筋を引っ張り、複雑な気分で眺めた。
「いえ…当分の間、これはこのままにしておきます。ローランは僕の外見だけを恋人の似姿に変えたけれど、内面まで変えられた訳じゃない。ガブリエルのコピーになんてならない…僕は僕なんだってことを、あの人が思い知るまで、この姿のままでいます。そうすれば、あの人だって…」
ガブリエルの身代わりとしてじゃなく、ちゃんと僕自身を見てくれるようになるかも―うっかり唇から出かかった言葉を、ルネは危うい所で飲み込んだ。
(ああ、やっぱり、僕はまだ諦め切れてないんだ、ローランのこと…でも、ミラさんにも宣言したように、この際個人的な感情は封印しよう。もともと僕は、毎日職場で顔を合わせる上司との恋愛には抵抗があったんだし、一切何もなかったことにしてしまえばいい。そう、目の前の仕事を機械のように淡々とこなしていけば、そのうち、胸の傷だって癒えるだろうから…)
そうして、ルネはこの会社に留まることを決心した。
自分は何も悪いことをしていないのに、ミラに言わるがまま逃げ出すのも腹立たしいと半ば意地にもなっていたのかもしれない。
別にローランの愛人になりたくて、パリにまでのこのこやってきた訳ではないのだ。仕事だって、ちゃんとこなせることを証明してやる。
実際、その後のルネは、二度と再び取り乱したり、煩悶に沈み込んだりすることもなく、厳しい教育係のミラの指導を受けながら、黙々と業務をこなしていった。
頭の回転が速くて飲み込みもいいルネは、こんなおかしな状況でなければ、ミラにとっては教えがいのある生徒だったろう。
実際、続く数日間のルネの仕事に対する打ち込みよう、集中力は異常な程で、明らかに精神的に普通ではなかった。
新人とは思えないほど仕事は素早く正確にこなすので、その点文句のつけようはないのだが、必要なこと以外は話さず、泣きもしない代わりに笑いもしない、人間というより機械のようで、さすがのミラも一緒にいると肩が凝ると思ったくらいだった。
ルネ本人だけが、自分の精神状態に気付いていなかった。
(よかった…一時は駄目だと思うくらいに落ち込んだけれど、意外と平気なものだな。仕事だってちゃんとできるし、会社帰りに予定通り専門学校にだって通い始めた。アバルトメンに帰ったら、疲れきって泥のように眠るだけだから、余計なことを考えずにすむ。この調子なら、僕は何とかここで働き続けることができそうだ…)
ルネは肝心のことを忘れていた。というより、考えまいと頭から締め出していた。
今週早々、ローランはボルドー地区で発生したトラブルの収集を兼ねての視察に出かけていたので、しばらくルネは彼と顔を合わせにすんでいた。平静を保てたのは、結局、そのためだったのだ。
そして、金曜日の朝―今日を乗り越えれば、やっと休みに入れると、よく眠ったはずなのに疲労感の残る体に鞭打って、郵便局でミラに頼まれていた所用をすませた後に出社したルネは、秘書室に入った途端、何かにぶつかったように立ち竦んだ。
(あ…)
微かな甘い香りが、部屋の中に漂っている。
たちまち心臓の鼓動が速くなり、どっと体中から汗が噴き出るのを覚えた。
のろのろと視線を動かし、ずっと主不在だった副社長室の閉ざされたドアを見る。
(そこに…いる…あの人が…)
顔を強張らせて立ちつくしているルネに、ミラが部屋の奥から近づいてきて、その肩を励ますようにぽんと叩いた。
「おはよう、ルネ」
「あ…は、はい…おはようございます」
我に返ったルネは、じっと自分の反応を窺っているミラの鋭い目を見返した。
「昨夜遅くにパリに戻ってきたのよ、彼…今、一緒に視察に行っていたボルドー地区のマネージャーと中で話しているわ。コーヒーを二つ、持って行ってくれる?」
ミラの口調は穏やかだが、どこかルネを試すような響きがある。それが、一瞬怯みかけたルネの負けん気を蘇らせた。
「は、はい…大丈夫です」
そんなルネを、目を細めるようにして眺めて、ミラはそっと付け加えた。
「あの人も向うではトラブルの収拾に大変だったみたい…ご機嫌斜めだから、気をつけてね」
ルネは無言でうなずいて、ミラから教えてもらっていた手順でコーヒーを煎れ、副社長室に向かった。
部屋の前で少しだけためらった後、ルネはドアを軽くノックした。低い応えが、中から返ってくるのに、胸が震える。
深呼吸すると、ルネは勇気を出してドアを開き、この世で一番愛しくて憎らしい男の名前を呼んだ。
「ムッシュ・ヴェルヌ、コーヒーをお持ちしました」
嘘のつけないルネは、びくっと肩を震わせ、今にも消え入りそうな風情で縮こまった。
ミラは、もう手がついたのかと呆れ顔をした後、一転、同情的になった。
「そうね、あなたの顔形をもっとよく見ていたら、こうなることも予想がついたかもしれないけれど、先週会ったばかりのあなたは純朴そうな目立たない子で、とてもあの人が食指を動かすとは思わなかったから…気づいていたら、一言注意してあげたでしょうに、ごめんなさいね」
「いいえ」と、ルネは力なく頭を振った。
「僕が隙を見せたからいけなかったんです…別に子供じゃないんだから、そのくらい分かっています。合意の上でのことだったし…ローランだけが悪い訳じゃない」
ぐるぐると視界が回り出したような錯覚に捕らわれながら、ルネは、ぽつりぽつりと漏らした。
「あんな男を庇うことないのよ、ルネ…馬鹿ね…」
「馬鹿か…そうかもしれません、きっとそうです…」
どうにも話がうますぎるとは疑っていたはずなのに、逃げなかった、拒めなかった。
(ローランが僕のことを理想に近いと言ったのは…何だ、彼の好きな人によく似ているってことだったんだ。ああ、確かに嘘はついてないよね…それを、ローランは僕自身に興味を持ってくれたんだと僕が勝手に思い込んだだけで…)
しかし、まさか、こんな種明かしが待ち受けていようとは夢にも思っていなかった。
(いや、いくらなんでも想定外…たまたま見つけた赤の他人が好きな人に似ていたからって、それを捕まえ、恋人そっくりにコスプレさせて悦に入るなんて、一体どういう変態プレイなんだか…僕にはついていかれない…!)
一瞬頭かっと血が上り、今度ローランに会ったらどうしてくれようと物騒なことを考えたものの、先週末彼との間に何があったか思い出せば、燃え上がりかけた怒りの炎もすぐにしぼんでしまう。
実感が湧かない、他人の口から聞いたくらいでは、素直にそうですかと受け入れがたい話だからだろうか。
「あなたね、それだけ人としての尊厳を踏みにじられて、まだあの男に未練があるの?」
ルネの葛藤にうんざりしてきたらしく、ミラは突き放すような口調で言った。
「確かに外見は完璧だし、あなたみたいな初心な子が熱を上げそうな魅力はあるんでしょうけれど、それで騙されてはまりこんだら、ろくな目にはあわないわよ。ルネ、一度だけ忠告しておいてあげるけれど…神様はね、人間を不完全な存在としてお造りになったのよ。あれだけ見てくれがよくて、仕事もできて、お金持ちのエリートで、その上に人間性にも優れているなんてできすぎた人がこの世にいるはずないの…むしろ、どこかに重大な欠落があると思わなきゃ…!」
拳を握り締めて力説するミラに、一体この人ローランの傍で何を見てきたのだろうと不安に駆られたが、追及してみるだけの精神力は残っていなかった。
(僕はローランに裏切られたんだろうか…? いや、裏切るも何もないかな、一回エッチしただけじゃないか。別にこれから真剣に付き合おうという約束をした訳でもない…むしろ、あれはその場限りの遊びの感覚に近かった。そうだ、あんなゴージャスな男と一夜を共にできたんだから、よかったじゃないか。そう言えば、強引に押しきられた割に、嫌なことは何もされなかったな…むしろすごく優しくて、びっくりした。いや、あれは僕に対して優しかった訳じゃない、僕がガブリエルに似ているからだったんだ)
どんよりと暗い顔をしているルネの前に、ミラは新しく淹れなおした熱いコーヒーを突きだした。
「あ、すみません」
ルネはうつろな目を上げ、機械的にコーヒーのカップを受け取り口に運んだが、味も香りも、感覚がマヒしてしまったかのように、よく分からなかった。
ただ苦いだけだ。
「それで――これから、あなた、どうするつもりなの?」
いきなりミラが、核心を突くような問いを投げかけてきた。
「ムッシュの酷い仕打ちにショックを受けて、立ち直れないなら、このままここであの人の顔を見ながら働くなんて無理でしょう? 今すぐここから出て行きなさい。ムッシュには、私から伝えておくわ。あなたにしてみれば、顔を見るのもむかつくでしょうからね」
ミラの言葉に、ルネははっと息を吸い込み、目を大きく見開いた。
「ミラさん、僕は…せっかくいただいた仕事の話を白紙にするとまでは、まだ思いきれてないです…」
「でもね、しばらく我慢して働いたものの、やっぱり無理だと中途半端な所で投げ出されるのが一番困るのよ。あなたに最後までやり通す強い決意があるのなら、私も喜んで仕事を教えるけれど、いつまでもあんな男のことを引きずって、仕事にも集中できないような甘ったれた人のお守りなんて、まっぴらごめん、時間の無駄よ」
ルネの顔に、血の色と共に激しい感情が閃いた。
「僕は、そんないい加減で無責任な人間ではありません! 一端引き受けた仕事なら、最後までやり遂げます…ええ、ローランとのことはあくまで僕の個人的な問題ですから、それを職場に持ち込むつもりは毛頭ありませんとも…だからあなたは、産休に入る前に、僕に業務の引き継ぎを滞りなく行ってくれればいいんです。僕は絶対泣いて逃げ出したりしませんからっ」
ルネの剣幕にミラはしばし黙り込んだ。彼女は、それでもしばらく怪しむように、決然と唇を引き結び爛々と目を輝かせたルネの顔を凝視していたが、やがて何かを感じ取ったようだ。
「分かったわ、ルネ。それじゃあ、あなたとムッシュ・ヴェルヌの間であったことは、私は聞かなかったことにしますから、あなたもあの人を見て取り乱すことなく、部下として自然にふるまうことを心がけて。その外見だと、社内でおかしな噂はたつだろうし、からかいの種にもされるでしょうけれど、それも我慢するのよ。いっそ、その髪はもとの色に戻したら、どうかしらね?」
一瞬迷ったルネは、柔らかな金髪の髪の一筋を引っ張り、複雑な気分で眺めた。
「いえ…当分の間、これはこのままにしておきます。ローランは僕の外見だけを恋人の似姿に変えたけれど、内面まで変えられた訳じゃない。ガブリエルのコピーになんてならない…僕は僕なんだってことを、あの人が思い知るまで、この姿のままでいます。そうすれば、あの人だって…」
ガブリエルの身代わりとしてじゃなく、ちゃんと僕自身を見てくれるようになるかも―うっかり唇から出かかった言葉を、ルネは危うい所で飲み込んだ。
(ああ、やっぱり、僕はまだ諦め切れてないんだ、ローランのこと…でも、ミラさんにも宣言したように、この際個人的な感情は封印しよう。もともと僕は、毎日職場で顔を合わせる上司との恋愛には抵抗があったんだし、一切何もなかったことにしてしまえばいい。そう、目の前の仕事を機械のように淡々とこなしていけば、そのうち、胸の傷だって癒えるだろうから…)
そうして、ルネはこの会社に留まることを決心した。
自分は何も悪いことをしていないのに、ミラに言わるがまま逃げ出すのも腹立たしいと半ば意地にもなっていたのかもしれない。
別にローランの愛人になりたくて、パリにまでのこのこやってきた訳ではないのだ。仕事だって、ちゃんとこなせることを証明してやる。
実際、その後のルネは、二度と再び取り乱したり、煩悶に沈み込んだりすることもなく、厳しい教育係のミラの指導を受けながら、黙々と業務をこなしていった。
頭の回転が速くて飲み込みもいいルネは、こんなおかしな状況でなければ、ミラにとっては教えがいのある生徒だったろう。
実際、続く数日間のルネの仕事に対する打ち込みよう、集中力は異常な程で、明らかに精神的に普通ではなかった。
新人とは思えないほど仕事は素早く正確にこなすので、その点文句のつけようはないのだが、必要なこと以外は話さず、泣きもしない代わりに笑いもしない、人間というより機械のようで、さすがのミラも一緒にいると肩が凝ると思ったくらいだった。
ルネ本人だけが、自分の精神状態に気付いていなかった。
(よかった…一時は駄目だと思うくらいに落ち込んだけれど、意外と平気なものだな。仕事だってちゃんとできるし、会社帰りに予定通り専門学校にだって通い始めた。アバルトメンに帰ったら、疲れきって泥のように眠るだけだから、余計なことを考えずにすむ。この調子なら、僕は何とかここで働き続けることができそうだ…)
ルネは肝心のことを忘れていた。というより、考えまいと頭から締め出していた。
今週早々、ローランはボルドー地区で発生したトラブルの収集を兼ねての視察に出かけていたので、しばらくルネは彼と顔を合わせにすんでいた。平静を保てたのは、結局、そのためだったのだ。
そして、金曜日の朝―今日を乗り越えれば、やっと休みに入れると、よく眠ったはずなのに疲労感の残る体に鞭打って、郵便局でミラに頼まれていた所用をすませた後に出社したルネは、秘書室に入った途端、何かにぶつかったように立ち竦んだ。
(あ…)
微かな甘い香りが、部屋の中に漂っている。
たちまち心臓の鼓動が速くなり、どっと体中から汗が噴き出るのを覚えた。
のろのろと視線を動かし、ずっと主不在だった副社長室の閉ざされたドアを見る。
(そこに…いる…あの人が…)
顔を強張らせて立ちつくしているルネに、ミラが部屋の奥から近づいてきて、その肩を励ますようにぽんと叩いた。
「おはよう、ルネ」
「あ…は、はい…おはようございます」
我に返ったルネは、じっと自分の反応を窺っているミラの鋭い目を見返した。
「昨夜遅くにパリに戻ってきたのよ、彼…今、一緒に視察に行っていたボルドー地区のマネージャーと中で話しているわ。コーヒーを二つ、持って行ってくれる?」
ミラの口調は穏やかだが、どこかルネを試すような響きがある。それが、一瞬怯みかけたルネの負けん気を蘇らせた。
「は、はい…大丈夫です」
そんなルネを、目を細めるようにして眺めて、ミラはそっと付け加えた。
「あの人も向うではトラブルの収拾に大変だったみたい…ご機嫌斜めだから、気をつけてね」
ルネは無言でうなずいて、ミラから教えてもらっていた手順でコーヒーを煎れ、副社長室に向かった。
部屋の前で少しだけためらった後、ルネはドアを軽くノックした。低い応えが、中から返ってくるのに、胸が震える。
深呼吸すると、ルネは勇気を出してドアを開き、この世で一番愛しくて憎らしい男の名前を呼んだ。
「ムッシュ・ヴェルヌ、コーヒーをお持ちしました」
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