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第二章
悪魔のように黒く(1)
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週が明けて月曜日。ルネは、ルレ・ロスコーに社員として初出社した。
日曜には、ローランに紹介された不動産屋を通じて、いいアバルトメンを見つけ、早々にホテルを引き払うこともできた。
バリでの新生活の始まりとして、まずは順調な滑り出しと見えた、この記念すべき日だったが、ビルに入ってすぐ、周囲の空気がおかしいことにルネは気付いた。
出社してきた社員達は、彼の姿を見るや、ぎょっとしたように立ち止まったり、信じられないものを見たかのごとく振り返ったりする。
乗り込んだエレベーターの中は、何事かと思うくらいに、ざわざわしていた。
目的の5階で降りてみれば、そこで出会った人達の周章狼狽ぶりに怖くなったルネは、彼らに捕まる前に副社長付きの秘書室に飛び込んだ。
「おはようございます」
ルネが元気よく挨拶をすると、先週末一度ここで会った秘書のミラが、眼鏡を指先でいらいながら振り返った。
ローランに選んでもらったスーツ姿も初々しく、初出社の高揚から頬を赤らめて、ドアの前に立っているルネを見つけたミラは、はっと息を飲んで、デスクから立ち上がった。
「ムッシュ・ロスコー?!」
めったなことで動じなさそうな女秘書が、自分を見て動転するのに、ルネの方はもっと面喰った。
「ミラさん…? どうしたんですか、そんなおかしな顔をして…僕ですよ、ルネ・トリュフォーです」
ルネが人懐っこく笑いながら近づいてくると、ミラの顔に当惑が広がっていき、ついでまた別の衝撃がうかんだ。
「…まさか、ルネ・トリュフォー…本当に、あなたなのね…?」
「ええ、そうですよ、この顔をよく見てください。髪形も着ているものも違うし、随分雰囲気は変わってしまったけれど、僕です」
ルネは恥ずかしそうに頭をかいた。
「土曜日に、ローラ…ムッシュ・ヴェルヌに付き合ってもらって、服とか一式買いそろえたんです。ついでに髪も…これはムッシュの懇意のスタイリストにやってもらったんですけれど、まさかここまで変えられるとは思ってなくて、僕もびっくりしました。でも、ムッシュは喜んでくれましたし、見慣れれば、結構似合ってるかなって思ったりして…」
ミラは瞳を泳がせながら、ルネの打ち明け話を聞いていたが、やがて眩暈でも覚えたかのように頭を押さえ、ふらふらと椅子に座りこんだ。
「だ、大丈夫ですか、ミラさん…?」
彼女が妊娠中だということを思い出したルネは、慌ててデスクに飛んでいって、心配そうに顔を覗き込んだ。
「信じられない…もとからいかれた男だとは思っていたけれど、まさか、ここまでやるなんて…!」
ミラの吐き捨てるような言葉を聞き咎めたルネは、背中をさする手を止めた。
「ミラさん、一体、どうしたんですか…? 僕の格好はそんなに変でしょうか? そう言えば、さっき秘書室に着く前に、たくさんの人にじろじろ見られたり、重役っぽい人から血相変えて呼び止められそうになったりしたんですけれど、この服装に、社内の規定に引っかかるような問題でもあるのでしょうか…?」
「社内規定上は問題なくても、世の常識には明らかに反するでしょうね」
「は?」
その時、秘書室のドアが躊躇いがちにノックされ、先程ルネに近づいて声をかけようとした幹部らしい男が顔をのぞかせた。
「…ミラ、悪いんだが、ちょっと話がある…」
ミラの傍にいるルネを恐る恐る窺う、その顔には、ここでルネを迎えた時のミラの顔に見出したのと同じ、明らかな戸惑いと不審の色があった。
ミラは何か言いたげな眼差しをちらっとルネに投げかけた後、大きな吐息をついて、立ちあがった。
「あなたのせいで、社内が蜂の巣をつついたような騒ぎになってしまったようね。こんな時に限って、ムッシュ・ヴェルヌはいないんだから、全く腹が立つわ。私が簡単に説明してくるから、ここで待っていなさい、ルネ」
そう言い残して、ひとまず部屋を出ていったミラは、数分後、少々疲れた顔をして、戻ってきた。
「ごめんなさいね、ルネ…あなたのことは、ムッシュ・ヴェルヌも人事を通じて知らせていたんだけれど、その容貌のことまでは伝わってなかったものだから…」
ここに至って、この事態を招いたのは他ならぬ自分の外見なのだということに、ルネは思い至った。
「ミラさん…一体、どういうことなんです? 僕のこの姿が、どうしてそこまでの混乱を社内に招いたというんですか…?」
ミラはどう説明すべきか悩むようにしばし眉を潜めて考え込んでいたが、おもむろにデスクを離れ、壁際の書類棚の奥を引っ掻きまわすと、何冊かの雑誌や新聞を手に再びルネのもとに戻ってきた。
「この写真をごらんなさい、ルネ、今年早々うちの社長に就任した、ガブリエル・ドゥ・ロスコーよ」
「ガブリエル…?」
「ええ、もう一つの顔の方が、世間では有名かしらね…アカデミー・グルマンディーズの若き主宰、通称『大天使』ガブリエル…本当に聞いたことはない?」
はて、美食に関わる団体らしき名称だが――。
「はい、残念ながら…グルメとか食べ歩きとか、食に凝る方ではないので…」
「なら、今日から、興味を持ちなさい。何と言っても、うちのトップは、料理業界のカリスマなんだから」
ルネは、ミラのつけつけした口調に少々おびえながら、デスクの上に彼女が次々に広げていくグルメ雑誌や新聞記事に視線を落とした。
「えっ…?」
それら記事の中の写真に写った美しい青年の顔に、ルネは瞠目した。
蜂蜜色の柔らかなウェーブを帯びた髪、澄んだ空色の瞳、ふっくらと官能的な唇。何もかもが、今のルネと驚くほどによく似ていた。強いて言えば、鼻の形だけが僅かに違うが、生き別れの双子の兄弟だと説明されても、ここまでそっくりなら信じてしまいそうだ。
「こ、この人が、ここの社長なんですか…? 僕にそっくりじゃないですか、一体どうして…?」
衝撃が強すぎて、事態を正しく呑みこむことも困難なルネを、ミラは冷静に正した。
「違うわ、ガブリエルがあなたにそっくりなのではなく、あなたが彼そっくりになるよう、作り変えられたのよ。ムッシュ・ヴェルヌが、そうさせたのでしょう…?」
ルネの脳裏に、ある夜ローランが自分向けてきた、不可思議で熱っぽい瞳が蘇った。魅力的になったと、変身したルネの姿を見て、彼は満足そうに微笑んでいた。
(ちょ、ちょっと待って…ローランは、僕を磨きたてて自分の理想に近づけようとしたんだよね…? この髪だって、彼が僕に似合うと思ったら変えさせたわけで…ち、違うのか…?)
一番大きな写真が載っている雑誌を食い入るように見ながら、混乱の極致にある頭で必死に考えているルネに、ミラは心底呆れ果てたというような口調で話し続けた。
「今現在、社長の地位にありながら、ガブリエルは滅多に社には現れないの。アカデミー・グルマンディーズ主宰としての活動で、忙しいからでしょうね。ここだけの話だけれど、奥にある立派な社長室なんか、半分物置と化しているわよ。そんな社長が何の予告もなしにいきなり1人で現れたものだから、皆、すわ抜き打ちの視察かと仰天してしまったという訳」
「ガブリエル・ドゥ・ロスコー…ムッシュ・ロスコー…その名前、そう言えば、おとついムッシュ・ヴェルヌと一緒にいる時に、何度か耳に入ってきました。他に考えることがたくさんあって、追求できなかったんですけれど…」
「2人は親戚関係にあるのよ。幼い頃に母親を亡くしたムッシュ・ヴェルヌをロスコー家が引き取って、しばらくガブリエルの兄弟同然に育てた。ともかく、ロスコー・グループの会長が一線を退くにあたって、最愛の孫のガブリエルに、彼が創設したアカデミー・グルマンディーズと共に、この会社を譲った。けれど、おそらくあまりビジネスには興味はないらしいガブリエルに代わって、実質的に経営の一切を取り仕切っているのが、ローラン・ヴェルヌという訳よ」
ミラは、深刻な面持ちで押し黙っているルネをちらっと見ると、肩で1つ息をつき、ルネと自分のために濃いめのコーヒーを淹れにかかった。
そうしながら彼女は、この会社のトップ2人についての説明を続けた。
ガブリエルが継ぐ以前、実は、ルレ・ロスコーは親族経営の旧態依然とした体質が仇となって、グループで唯一の赤字事業になり果て存続の危機に立たされていた。改革を託された前社長も、温厚な人柄からか、老獪な重役連中相手に思い切った手は打てずじまい。
もともとロスコー家所有の物件をホテルなどに転用することから始まった会社であり、会長自身も若い頃に手がけたことから愛着があったのだが、さすがに事業を縮小するかいっそ畳むかというところまで行ったという。
「…グループが大きくなりすぎて、会長の目が届かなくなった後、任せた経営陣が好き勝手にやりすぎたのね。高級志向のホテルやレストラン経営で成り立っている会社なのに、肝心の質のチェックが疎かになったり、明らかに基準に達していない店なのに個人的なコネがあるということで傘下に入れてしまったり…そんないい加減なことやっているうちに、客がどんどん離れていった訳…このままだと本当につぶれるかもしれないと危機感持った社員が幹部に訴えても、とにかくプライドだけは高い財閥出身者達だから、聞く耳持たず、そのうち皆諦めてしまったのね」
そんな時に、突然降って湧いたのが前社長の辞任とガブリエルの新社長就任の話だった。経営陣は、ロスコー家の王子様を歓迎するムードだったという。世間知らずの若者ならば、取りこみやすく操りやすいと踏んだのだろう。それに、ガブリエルの持つアカデミー・グルマンディーズ主宰という肩書は魅力的だった。
「アカデミー・グルマンディーズはそれだけでも強力なブランドだから、うまく利用すれば、社のイメージ回復に役立つ。でも、失敗すれば、逆にアカデミーの名声に傷をつけてしまう。この起死回生の賭けみたいな策を提案したのはガブリエル本人らしいのだけれど、社長就任の条件につけたのが、ロスコー・グループの中からローラン・ヴェルヌを引っ張ってきて、副社長として自分に等しい権限を与えるということだったの。これも、経営陣は二つ返事で飲んだのよ。ローランだって、彼らにしてみたら自分の息子くらい年の青二才だからと、舐めてかかったのよね」
しかし、トップ2人が就任してすぐに、経営陣は自分達の考えが甘かったことを痛感する。懐柔され取りこまれるどころか、明確な目的意識を持って乗り込んできた2人は、及び腰の前任者がとてもできなかったような強引で思い切った改革を始めた。
「…傘下にあるホテルやレストランを見直して、基準に適合しなかった場合には改善命令を出し、従わなければ除名することから始まって…コネでもぐりこんだ二流の店は、これで全部ルレ・ロスコーから弾き出されたわ。これはガブリエルが指揮した改革ね。そして、所謂リストラ…それも高い給料をもらいながらろくな仕事をしない年寄やその取り巻き連中を狙いうち…これは、人事権を握ったローランが情け容赦なく切りまくったり、あの手この手で辞任に追い込んだりしていったわ。処刑人なんて渾名されたくらいだから、相当荒っぽい手も使ってね」
「…抵抗もかなりあったんじゃないですか? いくら会長の孫だからって、いきなり外部からやってきた人間が思い切った改革なんてやろうとしたら…」
「それはもちろん…でも、経営陣と言ったって、所詮は育ちのいいやんごとない人達ですもの。プライドは高くても、いざ本気で敵と戦って、汗や血を流してまで何かを守ろうという気概は持ってなかったのよ。ガブリエルはまだ人当たりはいいけれど、ローランなんてサドっ気たっぷりの猛犬に毎日責め立てられるのに参ってしまって、ほとんどが降参してここを去っていったわ。あの人も間違いなく血筋はいいし、ENA出身の超エリートのはずなんだけれど、中身は、権威に対する敬意もへったくれもない野蛮人だから…」
ここでミラは何を思い出したのか、実に楽しそうな笑みを漏らした。ローランとはあまり折り合いがよくなさそうな彼女だが、旧経営陣を一掃してくれた彼の仕事には大いに感謝しているようだ。
「ともかく、ガブリエルとローランのおかげで邪魔者や余計なお荷物を放り出して、現在我が社は危機的状況を乗り切り、立ち直りつつあるわ。荒療治であったことは確かだし、一部で不満や恨みの火がくすぶっていない訳でもないけれど、それはむしろ少数派で、大多数の若い社員達は、年齢よりも能力重視、努力次第ですぐに重要ポストに登用してくれる今がチャンスだと活気づいている。ガブリエルはいつの間にか名のみの経営者になってしまったけれど…クセはあっても強い牽引力と行動力を備えたローランに心酔してしまった幹部は多い。かくいう私も、あの人の秘書になったばかりの頃は、女に興味がない人と分かっていても、うっかり惚れそうになったくらいよ。もっとも、夢が破れるのも早かったけれど…」
ルネはまた少し考え込んだ後、ミラに向かって、おずおずと尋ねた。
「あの、ミラさん…この会社の今の状況や経営者が変わった経緯はよく分かりましたが、ローラン…とガブリエルの関係はまだよく分かりません。ガブリエルがローランをグループのどこかから引き抜いて、この会社の大掃除と立て直しを手伝わせた。そして、それがひと段落つくや、自分は他の関心事を求めてどこかに消え、経営は彼に任せっぱなしとなった。そのくらいなら、初めからローランを社長の座に着けた方が、しっくりくるような気がします。どうも僕には、ローランが名のみの社長の下の地位に甘んじたり、素直に命令に従ったりするタイプだと思えない…何か特別な理由があるのなら、ともかく…」
「それは、やはり愛でしょうね」
間髪いれずミラが答えるのに、ルネは口元に運びかけていたコーヒーを危うく落としそうになった。
「実際ローランは、つぶれかけた会社の再建よりも、もっと重要で面白みのある事業をグループの中核にいて任されていたはずなの。でも、祖父の愛着のある会社がこのままなくなるのは忍びないガブリエルのたっての頼みで、そちらの仕事は白紙に戻し、しんどい汚れ役になるのも承知でここに乗り込んできたのよ。誰にも従わない、自尊心の塊のように見えるローランだけれど、ガブリエルの存在は例外どころか、唯一の絶対よ。愛する『大天使』の命令ならば、どんな無茶や理不尽でも嬉々として従う…奉仕こそが、最高の愛の表現だとでもいうかのようにね」
「う、嘘…」
「大げさに聞こえるかもしれないけれど、ローランのガブリエルに対する態度や思い入れの深さが、そんな噂も真実らしく聞こえるくらいに、ただ事じゃないのよ。ああ、間違っても、彼の前でガブリエルに対する批判は口に出さないことね、ルネ」
そんな話信じられるものかと顔を強張らせているルネに、ミラは声を低めて、忠告した。
「いつだったか、ガブリエル宛に、悪質な悪戯めいた脅迫文が届いたことがあったんだけれど…封書に細工がしてあって、開封するとカッターの刃が飛び出すようになっていたの。被害にあったのは、ガブリエルじゃなくて実は私だったんだけれど、そのことに激怒したローランは、怪しげな男達を数人引き連れて、犯人を追いかけ回した末、袋叩きにしてセーヌ川に落としたとか…」
「まさか、そこまでやったら犯罪でしょう!」
「まあね…さすがに川に放り込むまではやっていないと思うけれど、相当きついお灸をすえたことは確かよ。結局、背景に何もない、ただのストーカーだったんだけれど、荒っぽい社内改革を推し進めるガブリエルやローランに対する嫌がらせや脅迫が激しかった時期だったから、過剰に反応したんでしょうね。自分はともかく、ガブリエルに敵意の矛先が向かうことには我慢ならなかったのよ」
絶句しているルネに、ミラは更に、ローランがいかにガブリエルを溺愛し、そのことを憚りもなく周囲に公言しているかを語って聞かせた。
「…ああまで堂々と愛を語られるとゴシップにもなりやしないわ。呆れ返りながらも、別にトップ2人ができていようがいまいが、ちゃんと仕事さえしてくれたらいいかと半ば既成事実のように受け入れられてしまったのが、私も含めて今の社内の現状…それでも、あなたの姿を見た時は、ああ、あの人の病気はここまで酷かったのかと愕然としたわよ。いくらガブリエルのことが好き過ぎるからって、他人のあなたまで自分の好み通りに作り変えようとする…?」
「そっ…つまり、その…ローランとガブリエルは恋人同士…なんですか…?」
「相思相愛の恋人同士なのかは、ガブリエルの気持ちが不明だから何とも言えないけれど、ローランが彼を愛していることは、客観的に見て疑いようがないわね。あら…」
ルネが真っ青な顔をして俯いていることに気づいたミラは眉を潜めて、黙り込んだ。
日曜には、ローランに紹介された不動産屋を通じて、いいアバルトメンを見つけ、早々にホテルを引き払うこともできた。
バリでの新生活の始まりとして、まずは順調な滑り出しと見えた、この記念すべき日だったが、ビルに入ってすぐ、周囲の空気がおかしいことにルネは気付いた。
出社してきた社員達は、彼の姿を見るや、ぎょっとしたように立ち止まったり、信じられないものを見たかのごとく振り返ったりする。
乗り込んだエレベーターの中は、何事かと思うくらいに、ざわざわしていた。
目的の5階で降りてみれば、そこで出会った人達の周章狼狽ぶりに怖くなったルネは、彼らに捕まる前に副社長付きの秘書室に飛び込んだ。
「おはようございます」
ルネが元気よく挨拶をすると、先週末一度ここで会った秘書のミラが、眼鏡を指先でいらいながら振り返った。
ローランに選んでもらったスーツ姿も初々しく、初出社の高揚から頬を赤らめて、ドアの前に立っているルネを見つけたミラは、はっと息を飲んで、デスクから立ち上がった。
「ムッシュ・ロスコー?!」
めったなことで動じなさそうな女秘書が、自分を見て動転するのに、ルネの方はもっと面喰った。
「ミラさん…? どうしたんですか、そんなおかしな顔をして…僕ですよ、ルネ・トリュフォーです」
ルネが人懐っこく笑いながら近づいてくると、ミラの顔に当惑が広がっていき、ついでまた別の衝撃がうかんだ。
「…まさか、ルネ・トリュフォー…本当に、あなたなのね…?」
「ええ、そうですよ、この顔をよく見てください。髪形も着ているものも違うし、随分雰囲気は変わってしまったけれど、僕です」
ルネは恥ずかしそうに頭をかいた。
「土曜日に、ローラ…ムッシュ・ヴェルヌに付き合ってもらって、服とか一式買いそろえたんです。ついでに髪も…これはムッシュの懇意のスタイリストにやってもらったんですけれど、まさかここまで変えられるとは思ってなくて、僕もびっくりしました。でも、ムッシュは喜んでくれましたし、見慣れれば、結構似合ってるかなって思ったりして…」
ミラは瞳を泳がせながら、ルネの打ち明け話を聞いていたが、やがて眩暈でも覚えたかのように頭を押さえ、ふらふらと椅子に座りこんだ。
「だ、大丈夫ですか、ミラさん…?」
彼女が妊娠中だということを思い出したルネは、慌ててデスクに飛んでいって、心配そうに顔を覗き込んだ。
「信じられない…もとからいかれた男だとは思っていたけれど、まさか、ここまでやるなんて…!」
ミラの吐き捨てるような言葉を聞き咎めたルネは、背中をさする手を止めた。
「ミラさん、一体、どうしたんですか…? 僕の格好はそんなに変でしょうか? そう言えば、さっき秘書室に着く前に、たくさんの人にじろじろ見られたり、重役っぽい人から血相変えて呼び止められそうになったりしたんですけれど、この服装に、社内の規定に引っかかるような問題でもあるのでしょうか…?」
「社内規定上は問題なくても、世の常識には明らかに反するでしょうね」
「は?」
その時、秘書室のドアが躊躇いがちにノックされ、先程ルネに近づいて声をかけようとした幹部らしい男が顔をのぞかせた。
「…ミラ、悪いんだが、ちょっと話がある…」
ミラの傍にいるルネを恐る恐る窺う、その顔には、ここでルネを迎えた時のミラの顔に見出したのと同じ、明らかな戸惑いと不審の色があった。
ミラは何か言いたげな眼差しをちらっとルネに投げかけた後、大きな吐息をついて、立ちあがった。
「あなたのせいで、社内が蜂の巣をつついたような騒ぎになってしまったようね。こんな時に限って、ムッシュ・ヴェルヌはいないんだから、全く腹が立つわ。私が簡単に説明してくるから、ここで待っていなさい、ルネ」
そう言い残して、ひとまず部屋を出ていったミラは、数分後、少々疲れた顔をして、戻ってきた。
「ごめんなさいね、ルネ…あなたのことは、ムッシュ・ヴェルヌも人事を通じて知らせていたんだけれど、その容貌のことまでは伝わってなかったものだから…」
ここに至って、この事態を招いたのは他ならぬ自分の外見なのだということに、ルネは思い至った。
「ミラさん…一体、どういうことなんです? 僕のこの姿が、どうしてそこまでの混乱を社内に招いたというんですか…?」
ミラはどう説明すべきか悩むようにしばし眉を潜めて考え込んでいたが、おもむろにデスクを離れ、壁際の書類棚の奥を引っ掻きまわすと、何冊かの雑誌や新聞を手に再びルネのもとに戻ってきた。
「この写真をごらんなさい、ルネ、今年早々うちの社長に就任した、ガブリエル・ドゥ・ロスコーよ」
「ガブリエル…?」
「ええ、もう一つの顔の方が、世間では有名かしらね…アカデミー・グルマンディーズの若き主宰、通称『大天使』ガブリエル…本当に聞いたことはない?」
はて、美食に関わる団体らしき名称だが――。
「はい、残念ながら…グルメとか食べ歩きとか、食に凝る方ではないので…」
「なら、今日から、興味を持ちなさい。何と言っても、うちのトップは、料理業界のカリスマなんだから」
ルネは、ミラのつけつけした口調に少々おびえながら、デスクの上に彼女が次々に広げていくグルメ雑誌や新聞記事に視線を落とした。
「えっ…?」
それら記事の中の写真に写った美しい青年の顔に、ルネは瞠目した。
蜂蜜色の柔らかなウェーブを帯びた髪、澄んだ空色の瞳、ふっくらと官能的な唇。何もかもが、今のルネと驚くほどによく似ていた。強いて言えば、鼻の形だけが僅かに違うが、生き別れの双子の兄弟だと説明されても、ここまでそっくりなら信じてしまいそうだ。
「こ、この人が、ここの社長なんですか…? 僕にそっくりじゃないですか、一体どうして…?」
衝撃が強すぎて、事態を正しく呑みこむことも困難なルネを、ミラは冷静に正した。
「違うわ、ガブリエルがあなたにそっくりなのではなく、あなたが彼そっくりになるよう、作り変えられたのよ。ムッシュ・ヴェルヌが、そうさせたのでしょう…?」
ルネの脳裏に、ある夜ローランが自分向けてきた、不可思議で熱っぽい瞳が蘇った。魅力的になったと、変身したルネの姿を見て、彼は満足そうに微笑んでいた。
(ちょ、ちょっと待って…ローランは、僕を磨きたてて自分の理想に近づけようとしたんだよね…? この髪だって、彼が僕に似合うと思ったら変えさせたわけで…ち、違うのか…?)
一番大きな写真が載っている雑誌を食い入るように見ながら、混乱の極致にある頭で必死に考えているルネに、ミラは心底呆れ果てたというような口調で話し続けた。
「今現在、社長の地位にありながら、ガブリエルは滅多に社には現れないの。アカデミー・グルマンディーズ主宰としての活動で、忙しいからでしょうね。ここだけの話だけれど、奥にある立派な社長室なんか、半分物置と化しているわよ。そんな社長が何の予告もなしにいきなり1人で現れたものだから、皆、すわ抜き打ちの視察かと仰天してしまったという訳」
「ガブリエル・ドゥ・ロスコー…ムッシュ・ロスコー…その名前、そう言えば、おとついムッシュ・ヴェルヌと一緒にいる時に、何度か耳に入ってきました。他に考えることがたくさんあって、追求できなかったんですけれど…」
「2人は親戚関係にあるのよ。幼い頃に母親を亡くしたムッシュ・ヴェルヌをロスコー家が引き取って、しばらくガブリエルの兄弟同然に育てた。ともかく、ロスコー・グループの会長が一線を退くにあたって、最愛の孫のガブリエルに、彼が創設したアカデミー・グルマンディーズと共に、この会社を譲った。けれど、おそらくあまりビジネスには興味はないらしいガブリエルに代わって、実質的に経営の一切を取り仕切っているのが、ローラン・ヴェルヌという訳よ」
ミラは、深刻な面持ちで押し黙っているルネをちらっと見ると、肩で1つ息をつき、ルネと自分のために濃いめのコーヒーを淹れにかかった。
そうしながら彼女は、この会社のトップ2人についての説明を続けた。
ガブリエルが継ぐ以前、実は、ルレ・ロスコーは親族経営の旧態依然とした体質が仇となって、グループで唯一の赤字事業になり果て存続の危機に立たされていた。改革を託された前社長も、温厚な人柄からか、老獪な重役連中相手に思い切った手は打てずじまい。
もともとロスコー家所有の物件をホテルなどに転用することから始まった会社であり、会長自身も若い頃に手がけたことから愛着があったのだが、さすがに事業を縮小するかいっそ畳むかというところまで行ったという。
「…グループが大きくなりすぎて、会長の目が届かなくなった後、任せた経営陣が好き勝手にやりすぎたのね。高級志向のホテルやレストラン経営で成り立っている会社なのに、肝心の質のチェックが疎かになったり、明らかに基準に達していない店なのに個人的なコネがあるということで傘下に入れてしまったり…そんないい加減なことやっているうちに、客がどんどん離れていった訳…このままだと本当につぶれるかもしれないと危機感持った社員が幹部に訴えても、とにかくプライドだけは高い財閥出身者達だから、聞く耳持たず、そのうち皆諦めてしまったのね」
そんな時に、突然降って湧いたのが前社長の辞任とガブリエルの新社長就任の話だった。経営陣は、ロスコー家の王子様を歓迎するムードだったという。世間知らずの若者ならば、取りこみやすく操りやすいと踏んだのだろう。それに、ガブリエルの持つアカデミー・グルマンディーズ主宰という肩書は魅力的だった。
「アカデミー・グルマンディーズはそれだけでも強力なブランドだから、うまく利用すれば、社のイメージ回復に役立つ。でも、失敗すれば、逆にアカデミーの名声に傷をつけてしまう。この起死回生の賭けみたいな策を提案したのはガブリエル本人らしいのだけれど、社長就任の条件につけたのが、ロスコー・グループの中からローラン・ヴェルヌを引っ張ってきて、副社長として自分に等しい権限を与えるということだったの。これも、経営陣は二つ返事で飲んだのよ。ローランだって、彼らにしてみたら自分の息子くらい年の青二才だからと、舐めてかかったのよね」
しかし、トップ2人が就任してすぐに、経営陣は自分達の考えが甘かったことを痛感する。懐柔され取りこまれるどころか、明確な目的意識を持って乗り込んできた2人は、及び腰の前任者がとてもできなかったような強引で思い切った改革を始めた。
「…傘下にあるホテルやレストランを見直して、基準に適合しなかった場合には改善命令を出し、従わなければ除名することから始まって…コネでもぐりこんだ二流の店は、これで全部ルレ・ロスコーから弾き出されたわ。これはガブリエルが指揮した改革ね。そして、所謂リストラ…それも高い給料をもらいながらろくな仕事をしない年寄やその取り巻き連中を狙いうち…これは、人事権を握ったローランが情け容赦なく切りまくったり、あの手この手で辞任に追い込んだりしていったわ。処刑人なんて渾名されたくらいだから、相当荒っぽい手も使ってね」
「…抵抗もかなりあったんじゃないですか? いくら会長の孫だからって、いきなり外部からやってきた人間が思い切った改革なんてやろうとしたら…」
「それはもちろん…でも、経営陣と言ったって、所詮は育ちのいいやんごとない人達ですもの。プライドは高くても、いざ本気で敵と戦って、汗や血を流してまで何かを守ろうという気概は持ってなかったのよ。ガブリエルはまだ人当たりはいいけれど、ローランなんてサドっ気たっぷりの猛犬に毎日責め立てられるのに参ってしまって、ほとんどが降参してここを去っていったわ。あの人も間違いなく血筋はいいし、ENA出身の超エリートのはずなんだけれど、中身は、権威に対する敬意もへったくれもない野蛮人だから…」
ここでミラは何を思い出したのか、実に楽しそうな笑みを漏らした。ローランとはあまり折り合いがよくなさそうな彼女だが、旧経営陣を一掃してくれた彼の仕事には大いに感謝しているようだ。
「ともかく、ガブリエルとローランのおかげで邪魔者や余計なお荷物を放り出して、現在我が社は危機的状況を乗り切り、立ち直りつつあるわ。荒療治であったことは確かだし、一部で不満や恨みの火がくすぶっていない訳でもないけれど、それはむしろ少数派で、大多数の若い社員達は、年齢よりも能力重視、努力次第ですぐに重要ポストに登用してくれる今がチャンスだと活気づいている。ガブリエルはいつの間にか名のみの経営者になってしまったけれど…クセはあっても強い牽引力と行動力を備えたローランに心酔してしまった幹部は多い。かくいう私も、あの人の秘書になったばかりの頃は、女に興味がない人と分かっていても、うっかり惚れそうになったくらいよ。もっとも、夢が破れるのも早かったけれど…」
ルネはまた少し考え込んだ後、ミラに向かって、おずおずと尋ねた。
「あの、ミラさん…この会社の今の状況や経営者が変わった経緯はよく分かりましたが、ローラン…とガブリエルの関係はまだよく分かりません。ガブリエルがローランをグループのどこかから引き抜いて、この会社の大掃除と立て直しを手伝わせた。そして、それがひと段落つくや、自分は他の関心事を求めてどこかに消え、経営は彼に任せっぱなしとなった。そのくらいなら、初めからローランを社長の座に着けた方が、しっくりくるような気がします。どうも僕には、ローランが名のみの社長の下の地位に甘んじたり、素直に命令に従ったりするタイプだと思えない…何か特別な理由があるのなら、ともかく…」
「それは、やはり愛でしょうね」
間髪いれずミラが答えるのに、ルネは口元に運びかけていたコーヒーを危うく落としそうになった。
「実際ローランは、つぶれかけた会社の再建よりも、もっと重要で面白みのある事業をグループの中核にいて任されていたはずなの。でも、祖父の愛着のある会社がこのままなくなるのは忍びないガブリエルのたっての頼みで、そちらの仕事は白紙に戻し、しんどい汚れ役になるのも承知でここに乗り込んできたのよ。誰にも従わない、自尊心の塊のように見えるローランだけれど、ガブリエルの存在は例外どころか、唯一の絶対よ。愛する『大天使』の命令ならば、どんな無茶や理不尽でも嬉々として従う…奉仕こそが、最高の愛の表現だとでもいうかのようにね」
「う、嘘…」
「大げさに聞こえるかもしれないけれど、ローランのガブリエルに対する態度や思い入れの深さが、そんな噂も真実らしく聞こえるくらいに、ただ事じゃないのよ。ああ、間違っても、彼の前でガブリエルに対する批判は口に出さないことね、ルネ」
そんな話信じられるものかと顔を強張らせているルネに、ミラは声を低めて、忠告した。
「いつだったか、ガブリエル宛に、悪質な悪戯めいた脅迫文が届いたことがあったんだけれど…封書に細工がしてあって、開封するとカッターの刃が飛び出すようになっていたの。被害にあったのは、ガブリエルじゃなくて実は私だったんだけれど、そのことに激怒したローランは、怪しげな男達を数人引き連れて、犯人を追いかけ回した末、袋叩きにしてセーヌ川に落としたとか…」
「まさか、そこまでやったら犯罪でしょう!」
「まあね…さすがに川に放り込むまではやっていないと思うけれど、相当きついお灸をすえたことは確かよ。結局、背景に何もない、ただのストーカーだったんだけれど、荒っぽい社内改革を推し進めるガブリエルやローランに対する嫌がらせや脅迫が激しかった時期だったから、過剰に反応したんでしょうね。自分はともかく、ガブリエルに敵意の矛先が向かうことには我慢ならなかったのよ」
絶句しているルネに、ミラは更に、ローランがいかにガブリエルを溺愛し、そのことを憚りもなく周囲に公言しているかを語って聞かせた。
「…ああまで堂々と愛を語られるとゴシップにもなりやしないわ。呆れ返りながらも、別にトップ2人ができていようがいまいが、ちゃんと仕事さえしてくれたらいいかと半ば既成事実のように受け入れられてしまったのが、私も含めて今の社内の現状…それでも、あなたの姿を見た時は、ああ、あの人の病気はここまで酷かったのかと愕然としたわよ。いくらガブリエルのことが好き過ぎるからって、他人のあなたまで自分の好み通りに作り変えようとする…?」
「そっ…つまり、その…ローランとガブリエルは恋人同士…なんですか…?」
「相思相愛の恋人同士なのかは、ガブリエルの気持ちが不明だから何とも言えないけれど、ローランが彼を愛していることは、客観的に見て疑いようがないわね。あら…」
ルネが真っ青な顔をして俯いていることに気づいたミラは眉を潜めて、黙り込んだ。
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