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第一章
ボーイ・ミーツ・ボーイ(4)
しおりを挟むそして、翌日――約束通り、ローランはルネを迎えに、車でホテルまでやってきた。
休日なので、ローランもカジュアルダウンした着こなしで、解放感からか、ルネに対する態度も昨日より親密で打ち解けたものになっていた。
(何だか、ローランと出会った、あの短い休日を思い出すな。雇ってもらえて上に、こんなふうに親しく付き合ってもらえるとは思っていなかった)
初めは無邪気に喜んでいたルネだったが、やがて自分の甘さを痛感することになる。
まだちゃんとしたスーツも持っていないルネを、ローランは、最初に紳士物のブランド店に連れて行った。
親切な店員にあれやこれやと勧められても、スーツなど買ったこともないルネが迷っていると、見ていて苛々したのだろう、ローランが代わりに選んだ一着を彼の手に押し付けた。
「スーツひとつ選ぶのに、そんなに時間がかかっていたら、あっという間に日が暮れるぞ」
シャツとネクタイも店員の手からひったくるようにして選び取り、ルネに渡して、さっさと試着してくるよう、彼は命じた。
(でも、ここの服ってどれも、結構高いよね。あの人の秘書として仕事をするなら、やっぱりここいういいものを持っていた方がいいんだろうけれど、大学を出たばかりの僕にはきついかな。スーツだけでなく、靴や小物も必要だし)
試着室に入ったものの、スーツについている値札が気になって下着姿のままルネがぐずぐずしていると、何の前触れもなく、シャッと音を立ててカーテンが開かれた。
「おい、ルネ」
「ムッシュ……な、何…?」
別に下着姿を見られたからといって、女の子のように恥ずかしがることはなかったのかもしれないが、とっさに怯んで、もじもじと体を引っ込めるルネに、ローランは無造作にもう一着スーツを突きつけた。
「これも着てみろ」
「は、はい」
これも高そうだなと頭の中で電卓を叩きながら受け取るルネを見て、呆れたようにローランは呟いた。
「値段のことばかり気になって選べないって様子だな、やれやれ……」
「すみません。しかし、正直言って、僕にはきついことは確かですよ。あまり貯金もありませんし、新生活を始めて最初のお給料をもらうまで、どうやって乗り切ろうかと考え出すと……」
「なら、ここは俺のカードで払っておくから心配するな。経費扱いという訳にはさすがにいかないが、最低限の支度をさせてやるのは、おまえを故郷から呼び寄せた俺の責任だからな」
「そ、そこまで、あなたにしてもらう訳にはいきませんよ」
当惑するルネの眼前に指を突き出して黙らせると、ローランは面倒くさいとばかり、強引に押し切った。
「その代わり、俺に全部決めさせろ。お前の好みがどうこうと言うのは抜きだぞ」
「はぁ……僕は、あまり着るものにこだわりはないし、フォーマルなものは特によく分からないので、それは構いません」
「よし」
その答えを聞いて、ローランはやけに嬉しそうに目を細めて笑い、ルネの手から先程よこしたスーツを取り戻した。
「なら、もう試着もせんでいいぞ、時間が惜しいからな」
「え、でも」
「大丈夫だ、おまえのサイズなら、もう分かった」
ローランはルネの下着姿にちらっと目を向け、ちょっと蔑むような表情をした。
「次は、アンダー・ウェアを買いに行くか。おまえな、服の下につけるものにも、少しくらい気を使え。いくら可愛くても、脱がしてみた時にそんな田舎のおっさんみたいな下着だったら、はっきり言って萎えるぞ」
田舎のおっさん?! ルネはショックのあまり返す言葉もなく、試着室のカーテンが素っ気なく閉じられた途端、床にへなへなと座り込んでしまった。
(下着に凝ったり勝負下着を選んだりというのは女子にのみ許された特権かと思っていたけれど、ち、違うのか? いや、別に男なんだからいいじゃないか、どうせする時は脱ぐんだから同じじゃないか……! 確かに近所のスーパーで買ったものだし、おまけにそろそろ古くなって捨て時かもしれない……そう言えば、実家の父さんも似たようなのをはいてた……確かに田舎のおっさんだ)
タイプの男に馬鹿にされたルネは、その後はすっかりおとなしくなって、ローランの好きなように連れ回され、下着はむろん、靴や腕時計やバッグなど彼の見立てで次々と買い与えられていった。
それらが自分に似合うものかどうかも、よく分からなかったが、少なくとも、ローランが自分に着せたいと思うものであることは確かだ。彼は予め宣言していたように、ルネの意見を求めることなど一切なく、慣れた態度で店員を手際よく使いながら、次々に欲しいものを見つけ出していく。
(そう言えば、昔テレビで、『プリティ・ウーマン』って映画を見たなぁ。ジュリア・ロバーツ演じる、田舎出のどこかうぶなところのあるコール・ガールがリチャード・ギア演じる実業家に拾われて、すごく洗練されたレディに変身していく……こんなシーンが映画にもあったっけ。まさか男の身で、ジュリアの立場に立たされるとは思ってもみなかったけれど)
ちなみにルネは、ジュリアよりむしろリチャード・ギアがタイプだったから、映画のことも覚えているのだ。
ローランが即断即決してくれたおかげで、買い物は予定よりも早く終わったが、彼はまだルネを解放してくれなかった。
カフェで軽いランチを取った後、ローランはルネをこれまた高級そうなヘア・サロンに連れて行った。
何事が始まるのかと不安に思うルネを椅子の上で待たせて、馴染みらしいスタイリストとしばらく相談した後、ローランは戻ってきた。
「ムッシュ、僕、こんな所で髪を切ってもらったことはありません」
待ちかねたように心細さを訴えるルネの頭をローランは宥めるように撫でた。
「そんな情けなそうな顔をするな、ルネ。トニーは腕のいいスタイリストだから、安心して彼に全てを任せて綺麗にしてもらえ。この伸びっぱなしの髪を切って軽くパーマをあて、色も明るくしたら、人目を引く華やかな印象に変わるぞ」
当然のようにかけられたローランの言葉に、ルネは我が耳を疑った。
「えぇっ? カットだけでなく、パーマやカラーもですか? そ、そんなことまで必要ありませんっ」
動揺して椅子から立ち上がりかけるルネの肩に手を置いて、ローランは、今度は一転、微かな凄みのこもった低い声で囁いた。
「ルネ……ルネ、おまえのコーディネイトは俺が全部決めるという約束だったろう…? 俺はな、自分の好みに合うものしかもう傍に置きたくないんだ。ミラは仕事ができるからと割りきって使ってきたが、あれは例外だ。まあ、おまえがどうしても拒むというなら、無理強いはできんがな」
「う…」
言葉の裏に秘められた得体のしれない圧力に、ルネは怯んだ。何と言っても、ルネはローランの好意で仕事を世話してもらった弱い立場だ。
(だからって、これじゃあ、まるでパワハラじゃないか。リチャード・ギアは、嫌がるジュリアに髪の色まで変えさせてまで、自分の好みを押し付けようとはしなかったぞ)
しかし、ここまで来て、せっかく掴みかけた就職のチャンスを逃がしたくはない。
「分かりました。奇天烈な髪形にされるのでなければ、もう、何でもいい……好きにしてください!!」
「よし、いい子だ」
やけっぱちの気分で叫ぶルネを愉快そうに見下ろして、ローランはあっさり告げた。
「では、俺はひとまず帰るぞ」
「えっ、それじゃあ、僕はどうすれば…?」
ルネは、すがるような目でローランを振り仰いだ。その顎に指をかけ、ローランは穏やかなのに有無を言わせない口調で囁いた。
「おまえの荷物は、俺がホテルまで届けておいてやるから、後は夜までお前の好きにしろ。今夜はディナーに連れて行ってやるからな。今日買ったものから適当に選んで身につけ、七時にホテルのロビーに下りてこい。いいな?」
「は、はい、七時にロビーですね。ありがとうございます、ムッシュ」
昨夜は結局部屋でテレビを見ながら近くで買った中華をかっ込んだだなので、ローランと二人、ゆっくりと会話を楽しみながらの食事ができるのは、これだけ色々な目にあわされた後だというのに、やはり嬉しかった。
その後三時間ほどかけて、ルネはスタイリストのトニーの手によるフルコースを受けさせられた。
床屋の椅子にこんなに長時間座った経験などなかったルネは、途中から爆睡していたため、自分の変身の過程はほとんど見ていない。
勝手のよく分からない場所にばかり連れ回されて、緊張もしていたため、自分で思っていた以上に疲れていたのだろう。
ローランという人間自体、のんびりと育ったルネとは動くスピードが違うのか、一緒にいると何もかもが目まぐるしくて、エネルギーを吸い取られるような気がする。
(ローランの秘書になったなら、ずっと、あの人のハイ・ペースに合わせて僕も動かなければならないということか。今日みたいにぐずぐずと仕事をしていたら、遅いとどやしつけられそうだな。早く僕も慣れないと……この街にも、あの人にも……)
いきなり肩を軽く揺さぶられて、ルネはやっと目を覚ました。
「そろそろ起きてくださいよ、ルネさん、最後の仕上げをするんだから、顔をちゃんと上げて見てくださいね」
「ふ……はぁ……」
あくびを噛み殺しながら、やっとルネはまともに目を上げて、正面に据えられた鏡を直視した。
「あれ……?」
見知らぬ美しい人が、こちらを不思議そうに見返している。
柔らかそうな蜂蜜色の髪に取り巻かれたあまやかな顔立ち、ふっくらと官能的な唇、蒼穹を思わせるどこまでも澄んだ青い瞳。
「誰だぁ、こりゃ……?」
思い切り怪しそうに目を眇めて呟くルネの傍らで、腕っこきのスタイリスト、トニーが長嘆した。
「お願い、その顔でオーヴェルニュ訛りはやめて、夢が崩れるわ」
今度こそ完全に覚醒したルネは、大きく息を吸い込んだ。
「これなら、ローランも満足すること請け合いね。本当に、なんて綺麗になったこと……まるで天使ね。ええ、彼の愛する『大天使』そのものよ」
うっとりと、自分の作品に酔いしれながら、トニーは胸に手を置いて溜息をついた。
「嘘」
ルネは震える手を上げて、自分の髪に触れてみた。すると、鏡の中の人も、それと同じ動きを追う。
指先に当たるのは、馴染みのあるまっすぐな髪の感触ではなかった。柔らかいウェーブの中にすっと溶けるように吸い込まれるのが分かって、ルネは愕然となった。
(おまえが地味で目立たないのは、髪の色のせいかな…? 金髪に染めてみろ、きっと華やかな印象になるぞ)
初めて会った時から、ローランは、ルネに髪の色を変えるよう勧めていた。
彼は正しかったのだろう、確かにものすごく綺麗にはなった。これなら、すれ違った十人が十人とも振り返りそうだ。
しかし―。
「駄目だ。こんな無駄に目立つ姿で街を歩くなんて、恥ずかしくて僕には無理、耐えられない」
地味で控え目なルネにとって、天使と見紛うまばゆい美貌は、疲れるばかりの単なるプレッシャーでしかなかった。
7:00PM。
ようやっと腹を括ったルネは、ホテルの部屋を出て、ロビーに下りて行った。
ヘア・サロンを出た後、本当はぶらぶらとパリの街を散歩するつもりだったのだが、新しい自分の姿に馴染めず人の視線が気になったため、寄り道もせずにタクシーでまっすぐに帰ってきてしまった。
本当はどこにも行きたくなかったのだが、ローランの命令とあれば仕方がない。言いつけどおり今日買ったものからローランが求めているだろうイメージを想定して服や小物を選び、身につけた。もちろん縁起の悪い『田舎のおっさん下着』も処分して、何から何までローラン仕様だ。
(ローランは、今の僕の姿を見て、何て言うだろう。顔を見た途端に噴き出して駄目だしされたら、僕はもう、泣きながら実家に逃げ帰るしかないな)
階下に向かうエレベーターの中でも顔を俯けたまま思いつめていたルネは、ロビーに着いても一瞬分からず、他の客に押されるようにして外に出た。
落ちつかなげにきょろきょろと辺りを見回しながら、ロビーを歩き出したが、目当ての相手はすぐに見つかった。
幅広のソファにどっかと座って、煙草をくゆらせながら、難しい顔をして腕時計を確かめているローランの姿が、行き交うホテル客達の向こうに見えたからだ。
「ムッシュ・ヴェルヌ」
ルネが小走りで近づいていくとローランも気がついたようだ、ゆっくりとソファから立ち上がった。
(わぁ……渋いっ……!)
ディナーのためにビシッと正装してきたローランのいい男ぶりに、またしても目を奪われてしまったルネは、その寸前まで捕らわれていた煩悶などきれいさっぱり忘れ去った。
「すみません、服を選ぶのに悩んだせいで、時間ぎりぎりになってしまいました」
恐縮しながら声をかけようとしたルネは、ローランの様子が、何やらおかしいことに気がついた。
てっきり遅いと叱りつけられると思ったのに、ローランは両手を体の脇にだらりと垂らしたまま、声もなく呆然と立ちつくしている。自分の前に現れた者が一体誰なのか分からないというような、混乱と衝撃を端正な顔に浮かべて――。
「ムッシュ…?」
ルネが不思議そうに顔を覗き込むと、ローランは夢から覚めたように目をしばたたき、自嘲するかのごとくふっと笑った。
「どうかなさったんですか?」
ローランは何も言わず、ルネの顔をじっと見下ろしている。あんまり熱心に彼が自分を見つめるので、ルネは次第に息苦しくなってきた。
「あの……」
堪りかねて、ルネが言いかけた時、
「動くな」
低い声で、ローランが命じた。その手がおもむろに上がり、硬直しているルネの顔に近づいてくる。
火照った頬をローランの手が包み込むかと思われた、次の瞬間、その指先は微かに肌を掠めて、喉元に下り、ルネのネクタイにかかった。
シュッとシルクのタイが擦れる音がする。
「ネクタイを結ぶのも、もう少しうまくならないとな」
「は……はい……」
世話が焼けるとでも言いたげに、ローランはルネのネクタイを結びなおして、整えた。その作業中、ローランの顔が息のかかりそうなほど近くにあることに、ルネは自分の心臓の鼓動が相手に聞かれてしまうのではないかとびくびくしていた。
「それにしても、ルネ、見違えたぞ。トニーの腕もいいんだろうが、まさか、おまえがここまで見事に変身するとはな」
「僕は、なんだかおかしなコスプレでもしているような心地で落ちつかないんですが……お世辞抜きにして、変じゃあないですか……?」
「この俺が、お前に世辞など言ってどうする。ほら、ちゃんと顔を上げて、背筋をまっすぐ伸ばさんか、せっかくの美人が台無しだぞ」
呆れたように唇をすぼめて、ローランは小さく身を縮めるルネの背中を軽く叩いた。
(美人かぁ……男の僕にとって適切な表現であるかは微妙だけど、ローランに褒められたなら、何でもいいや、嬉しい)
ちらっと周囲に目をやるとロビーにいた他の客達の視線が、なぜかこちらに集まっているような気がした。たぶん男前で目立つローランを見ているのだろう。
「……行こうか?」
今まで聞いたこともないような、この上もなく優しく甘く響く声で、ローランはルネの耳元で囁き、促すようにそっと肩を抱く。
日中ローランの強引マイ・ペースに引きずり回されたルネは、彼の豹変ぶりに動揺しながら、尋ねてみた。
「ムッシュ・ヴェルヌ、昼間のあなたと何だか態度が違いますよ……?」
その言葉に、ローランは、ちょっと困ったようなあいまいな顔をした。どんな態度をルネに対して取ったらいいのか、急に分からなくなったというような――。
「おまえが、それだけ魅力的になったということだろうな」
「は……魅力…的…僕が…?」
ルネの当惑顔を深い緑の瞳の中心に捕えこんだまま、ローランは微笑み、静かな熱情を込めて言った。
「今夜は、ローランと呼んでくれ」
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