花束と犬とヒエラルキー

葉月香

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第一章

ボーイ・ミーツ・ボーイ(3)

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 大学時代を過ごしたクレルモン・フェランで就職先を見つけるというルネの希望は、無残にも打ち砕かれた。

 一端正社員として就職してしまえば手厚い福利厚生が受けられるものの、そこにたどり着くまでが大変なのが、この国だ。おまけに何の職業経験もない学生の就職事情は、こと地方都市においては厳しい。

 卒業して約二カ月間、実家に頼りながら仕事先を探していたが、ついに万策尽きたルネは、大事に自分の部屋の机の引き出しにしまっておいた、あの男のビジネス・カードを引っ張り出した。

(田舎を飛び出して、別の世界に飛び込んでみれば、思いもよらないチャンスが掴めるかもしれないぞ?)

 あの時は戸惑い怪しみながら聞くしかなかったローランの声が、さすがにここまで追いつめられると、天啓めいて胸に蘇ってくる。

(都会暮らしは合わないなんて決めてかかっていた僕だけれど…もしかしたら本当に、チャンスが掴めるだろうか…? 未知の世界に出ていけば、仕事だけでなく、きっと新しい出会いだってあるだろうし)

 実は、だらだら付き合っていた彼氏とも卒業後すぐに破局を迎えていたルネは、心機一転、新しい恋を初めてみたい気分にもなっていた。

 しかし、こんな田舎で新しい同性の恋人を見つけるのはなかなか難しい。そういう発展場もどこかにあるのかもしれないが、同性愛者だということをあまりおおっぴらにはできない雰囲気も、どちらかと言えば閉鎖的なこの土地にあることも確かだ。ネットを通じて出会いを求めるのも、年の割に古風な所のあるルネには抵抗がある。

(要するに、このままここに暮らしていたら、例え就職先が見つかったって、新しい恋が見つかる可能性はもっと低いってことなんだ。それって、すごく不幸なことじゃないか。僕だって、誰かを好きになって、その人のために何かしてあげたい……その人に、大事にしてもらいたい……)

 独り身の寂しさのあまりにルネが短絡的に思いついたのが、こういう結論だ。

 パリでなら、新しい恋も見つかるかもしれない。

 時代の先端を行く大都会ならば、同性愛者だってたくさん生息していそうだ。人口密度からして田舎とは違うのだから、好みの男と出会う確立もきっと高いはず。

 ルネの理想の頂点に今のところいるのは、短い春の日々に出会って別れたローランだったが、ルネごとき垢抜けない若者を、彼が本気で相手にしてくれるとは思えない。だから、彼を恋のターゲットにしようなんて、高望みはしない。

(ローランはガイドとしての僕の仕事ぶりを気に入って、あんな親切な申し出をしてくれただけなんだ。大体、彼が今でも、あのたわいもない約束を覚えていてくれるかも、定かじゃないのに……)

 最悪、軽くあしらわれて追い返されるのがオチかもしれない。それでも―。

(何も行動を起こさないよりは、思い切って前に出て玉砕した方がまだましだ。昔、柔道教室の先輩がよく言ってたじゃないか、とにかく前に出て勝ちを取りに行けって……)

 まだ高校生だった頃、淡い恋心を抱いていた兄弟子のことを思い出しかけたルネは、慌てて、その思い出を頭から振り払った。

 初恋の人に振られた経験は、ルネにとって、かなりのトラウマになっている。おかげで自分に対して自信をなくし、恋にも消極的になってしまった。

 やっと恋人を見つけても、相手に嫌われたくなくて、自分の本当の気持ちは隠したり、嫌な面はなるべく見せないようにする癖が出来てしまった。

(ローランは、僕が本性見せたら、やっぱり引く方かな……? ああいう男としてのプライドの高そうな人は、僕みたいなのが自分の傍にいるときっと落ちつかなくなるだろう。だから、やっぱり内緒にして、履歴書にも書かないでおこう)

 ルネは、机の傍の棚や壁にずらりと並んだ、格闘家としての輝かしい戦歴を示す、トロフィーや表彰状を複雑な気分で眺めやった。

 十年に一度の逸材だとか騒がれて、オリンピックも夢じゃないなんて周りにおだてあげられその気になりかけたこともあったけれど、武道の才能は望むような幸せを自分にもたらしてはくれないのだと悟った。

(そうだ、今までの僕はみんなここに置いていこう。過去は忘れて、新しく生まれ変わった気持ちで、パリでの生活を始めるんだ…!)

 秋も深まりつつあった頃、無理矢理奮い起した希望と勇気で先行きの見えない不安感を一掃して、ルネはパリへと旅立った。







(えっと、カードに書かれた住所からするとこの辺りのはず……あ、見つけた…!)

 単身パリに出てきたルネは、その足でまっすぐビジネス・カードに書かれた住所を頼りに、ローランが副社長を務める会社『ルレ・ロスコー』に向かった。

 この日までに何度かメールを送っていたが、ローランからの返信はなかった。オフィスに電話をかけてアポを取りつけようともしたのだが、応対に出た女性は冷たく取り付く島もない態度で、副社長はお忙しいからと取り次いではくれなかった。しつこく食い下がって伝言を託してはみたけれど、あの雰囲気ではちゃんとローランの耳に入っているかどうかも怪しく、実際待てど暮らせど連絡が入ることはなかった。

(ひょっとしたら、僕からの伝言をローランはちゃんと聞いていて、あえて無視しているのかもしれないな。あの時の約束を本気で信じた馬鹿の相手なんか面倒臭いってことなのか。でも、それもただ待っているだけでは確かめようがない)

 だから、直接ローランを訪ねて、話をしてみようと決めたのだ。それで駄目なら、諦めもつくだろう。

「ルネ・トリュフォー…? その名前は、今日の面談の予定には入っていませんねぇ」

 ビルの受付で確認し、上がっていった最上階。応対に出てきたローランの秘書だという女は、あからさまに見下すような態度で、ルネを頭の先からてっぺんまで眺めまわした。おしゃれな眼鏡をかけた、なかなかの美人だったが、その嫌みな口調は、間違いなく電話対応をした相手だった。

「分かっています。それを承知で、何とかムッシュ・ヴェルヌにお会いしたいんです。ほんのわずかな時間でもかまいませんから」

「ムッシュは大変過密なスケジュールで動いてらっしゃいますから、どこの誰とも知れない人との面談を無理矢理入れる訳にはいきません。大体、どうしても面会したいというのならが、予めちゃんとアポを取ってから会社訪問するべきでしょう。いきなりここに押しかけるなんて、迷惑で非常識な行為ですよ?」

「だから……!」

 ルネは切れそうになるのをぐっと堪えて、辛抱強く頼み続けた。

「メールも電話もしました。伝言も残しました」

「それで何の音沙汰もないのであれば、あなたの面会希望は拒否されたと思うべきではないのかしら……? この頃多いんですよ、アカデミー・グルマンディーズの大天使がここの社長に就任してから、彼目当ての変な追っかけさんが、就職面談希望って口実で、強引に押し掛けてくるの……追っかけならまだしもストーカーみたいな人も中にはいて、まともに対応していては社の平常業務に差し支えると、私達は大変迷惑しているの」

「アカデミー……何……?」 

 何の話かさっぱり分からないルネは、目をぐるぐる回した。

「あの……僕の目当ては、社長さんじゃなくて、副社長のローラン・ヴェルヌ氏なんですが……?」

「同じことでしょう、あの二人は一心同体なんだからっ」

 うんざりしたように秘書の女が吐き捨てた時、部屋のドアが前触れもなく大きく開かれた。

「何の騒ぎだ、ミラ、おまえのキンキン声が廊下にまで届いていたぞ」

「あら、おかえりなさいませ、ムッシュ……随分とお早かったんですのね、ご予定ではまだ商談の最中か………」

「物別れに終わったんで、早くに体が空いたんだ」

 どこか不機嫌そうに、ぶっきらぼうな言葉を紡ぐ、張りのある低い声。

 コツコツと固いフローリングの床を叩く靴音が、硬直しているルネの後ろから近づいてくる。

 それと共に、ふわりと漂ってきたコロンが、ルネの心を捕えた。ピリッと引き締まったスパイスの香りの中に、うっとりするような優しい甘さが隠れている。嗅いだことのある、懐かしい匂いだ。

「ああ、丁度よかったですわ、ムッシュ……困っていましたの。この子がいきなり押しかけてきて、あなたに会いたいとしつこく食い下がるものですから……ルネ・トリュフォーと名乗っていますけれど、ご存知ですか?」

「誰だって…?」

 ルネは反射的に、声のする方を振り返った。

(ローラン…!)

 間違いない、ローラン・ヴェルヌが、そこにいた。

 しかし、ルネが出会った時のローランとは、少し雰囲気が変わっていた。

 着る人を選びそうなピアノブラックのスーツを見事に着こなし、艶やかな黒い髪は綺麗にセットしてあるし、滑らかな顎には無論無精ひげなど残ってない。端正な顔は厳しく引き締まり、覇気に溢れて輝く緑の瞳は見る人を射抜く――ちょっと緩んだオフ・モードのローランもよかったが、オンの時の彼は、当社比で二割増し、物凄く格好がいい!

(どうして、この人は、こんなに僕の好みのど真ん中を突いてくるんだ!)

 思わずふっと気の遠くなりかけたルネの手を、ローランがとっさに掴んで、その体を支えた。

「おい、ルネ、大丈夫か…?」

 ローランがちゃんと自分を覚えていてくれたことにも、ルネは感激のあまり、息切れしそうになった。

「すみません、血圧と心拍数が一気に上がって……立ちくらみが……」

「何か持病でもあるのか?」

 言葉にならずふるふると頭を横に振るルネを抱え込むようにしながら、ローランは自分の部屋のドアを開いた。

「ミラ、取りあえず、こいつにミネラル・ウォーターでも持ってきてやってくれ」

「まあ、ムッシュ、暇が出来たからって、そんな若くて可愛い子を昼間から自分の部屋に連れ込むものではありませんわよ」

 鼻息混じり、あからさまな嫌みを言うミラを、ローランは憎々しげに睨みつけた。

「馬鹿、誤解を招くような発言をするな。丁度俺の体が空いててよかった。こいつが落ち着いたら、面接をする」

「あら、本当に面接の約束がありましたの? でも、今から募集をかける予定の仕事というと……」

「そうだ、おまえの後任の秘書職だ! 分かったら、その毒舌は封印してくれ。産休に入るまでの短い期間に、おまえにはこいつを仕込んでもらわなきゃならんのだからなっ」

「まぁ」

 ミラは一瞬絶句して、どこか疑いのこもった眼差しをローランの腕の中でぐったりしているルネに注いだ。

「それが本当なら私も嬉しいですけれど、その可愛いらしい男の子に、あなたの秘書が務まるほどの但力が備わっているのかしら? 私以外の秘書は皆、最短一日でここから逃げ出して行ったのに……」

 ミラの嘲るような声を遮って、ローランは苛立たしげに副社長室のドアを叩きつけた。

「すまんな、ルネ、あいつは、仕事はできるんだが、人当たりがきつくてな」

 かなりの広さがある黒い革張りのソファに座らされたルネは、やっと人心地ついた気分で、前の席に腰を下ろすローランを振り返った。

「いきなり押しかけてきて、こんな騒ぎを起こしてしまって、申し訳ありませんでした、ムッシュ・ヴェルヌ。なかなかあなたと連絡がつかないことに焦って、思い切って、パリまで来てしまいました」

「いや……ミラの奴が、ちゃんと俺におまえのことを伝えなかったのが悪い。あいつめ、子供が出来て、やっと俺との縁が切れるとでも思ったのか、以前にも増して遠慮なくやりたい放題でな。妊婦を興奮させてはいかんから、俺もあまり厳しくは言えん。許してやってくれ」

 ローランはルネをじっと見つめ、懐かしげに笑った。

「あれから四ヶ月か。パリに出てくる決心がつくまでに随分時間がかかったものだな、ルネ。俺はてっきり、おまえは俺の言葉など忘れて、地元で仕事を始めたのだろうとばかり思っていたぞ」

「そのつもりだったんですけれど、思った以上に就職事情は厳しくて……ご迷惑かも知れないですけれど、あの時のあなたの言葉に頼ってみる気になったんです」

「そうか……間に合ってよかったな、これ以上決心がつくのが遅れていたら、ミラの後任の秘書は見つかっていて、おまえの入りこむ余地はなくなっていたぞ」

「秘書」

 ぼんやりと呟いた時、ミラがミネラル・ウォーターのグラスと一緒にコーヒーを運んできた。ルネに対してした仕打ちに対する後ろめたさなど微塵も見せず、彼女は緊張する彼の前に飲み物を置き、立ち去り際、そっと耳打ちをした。

「あなた、この人の口車に乗せられないで、自分がする仕事について聞くべきことはちゃんと聞いておきなさいよ。秘書なんて聞こえはいいけれど、大変な仕事なんだから……」

 ちっと舌打ちしたのは、ローランだ。

「あの…さっきから当たり前のように話が進められていますけれど、これが面接ならば、初めにはっきりさせてください」

 ルネはしばらく考え込んだ後、気持ちを引き締め、身を乗り出すようにしてローランに尋ねた。

「あなたが僕に親切にも申し出てくださっている仕事というのは、ミラさんの後を任される、あなたの秘書職なんですか……?」

「ああ、その通りだ。何だ、そんな妙ちくりんな顔をして…」

「あ、いえ……にわかには、信じられなくて……確かにあなたは僕を悪いようにはしないと言ってくださったけれど、僕みたいな大学を出たばかりの未経験者に、まさかあなたの秘書なれなんて言われるとは夢にも思ってなかったんです」

「確かに、おまえは何の経験もなければ、職業訓練も受けてない。だから、当分の間は見習い……研修生扱いになるな。実務はミラが教え込んでくれるが、その他のことは、おまえが自分の時間を割いてでも学び、身につけてもらわなくてはならない。そうだな、取りあえず、夜間の秘書コースがある専門学校に入ってもらおうか、その学費は社が負担しよう」

「は、はい…」

 ルネはあまりに早い話の展開にめまいがしそうになりながらも、必死についていこうとしていた。

「その他に、僕が自分で準備できることは何でしょうか、ムッシュ…?」

「そうだなぁ……いずれは、俺に付き合って、社長、重役クラスの人間と接する機会も多くなる。立ち居振る舞いや言葉遣い……お里が知れるような方言は論外だぞ。その場にふさわしいマナーも身につけろ、それから――」

 ローランは腕を組んで、ルネの姿をじっと観察しながら、渋い顔で何事か考えを巡らせている。

「確かに、おまえには手を加えなければならない個所がたくさんあるな。そのまま人前に出せば、俺が恥をかきそうだ」

 田舎者と言外に決めつけられたようで、ルネはしょんぼりとうなだれた。

 それから、ローランは、より実際的な条件について、あれこれと書類を持ってきて説明した。本当は、こういうことは人事の担当なのだそうだが、ルネの場合は、彼が自分で引っ張ってきたのだから、特別扱いなのだろう。

 小一時間ばかりの面接の後、資料や書類をどっさりもらったルネは、取りあえず、オフィスを去ることになった。忙しいローランには、次の予定が控えている。

 最悪このままパリからとんぼ返りするつもりだったため、ホテルも取っていなかったルネのために、ローランは近くに宿を取ってくれた。ありがたいことに、宿泊費も会社持ちにしてくれるそうだ。

「本来なら、仕事が終わったら、食事に連れて行ってやりたいところなんだが、今夜はどうしても外せない約束があってな。一人で1人で大丈夫か、ルネ?」

「はい、どうかお気遣いなく、ムッシュ。パリには不慣れな僕ですが、子供じゃないんだし、一人で人で食事くらいできますよ。食べることにあまりこだわりはないですから、その辺りのファースト・フードで適当に済ませるか、デリで何か買ってきてもいいですし…」

 ルネの何気ない言葉に、なぜかローランはちょっと不快そうに眉をしかめたが、その理由は語らなかった。

「それならいい。今夜は、ゆっくり休んでおけ。明日からは、まず住む場所を探して、他にも色々必要なものを揃えなければならないだろう…? それとも、取りあえず、一度実家に帰って必要なものを持ってきがてら、家族に就職が決まったことを伝えたいか?」

「いえ、家族には電話で伝えます。荷物も急いで持ってこなければならないものはありませんから、後日送ってもらいます。仕事に必要なスーツなどはこちらで買い揃えた方がいいと思いますし」。

 ローランの手にかかると話が進むのがとにかく速くて、悶々と就職浪人生活を送っていたのが嘘のようだったが、一方で、ルネが深く考えられる余地もなかった。

「よし、では、明日の土曜日は、おまえの新生活の準備に俺も付き合おう。アバルトメンは知り合いの不動産屋を紹介してやる」

「えっ、いいんですか? あなたのプライベートな時間を僕のために削っていただいたりして、何だか申し訳ないです」

「俺の言葉を信じて、おまえは勇気を奮い起して故郷を飛び出しここまで来た。その心意気に、報いてやりたいと思うからさ、ルネ。それに、おまえは俺の秘書になるのだろう?『俺のもの』に俺が自分で手をかけて、何がおかしい?」

 何がそんなに楽しいのかほくそ笑んでいるローランを、素直なルネは、何ていい人なんだろうと感謝の気持ちをこめてうっとりと見つめるばかりだった。

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