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第一章
ボーイ・ミーツ・ボーイ(1)
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愛は最高の奉仕だ、微塵も自分の満足を思ってはいけない―日本の有名な作家の言葉らしいが、また随分とマゾっぽくはないだろうか。
最初に聞いた時、まさに自分の置かれた状況を物語っているようで身につまされると、ルネ・トリュフォーは思ったものだ。
フランス各地にあるシャトー・ホテルとレストランを経営する会社、ルレ・ロスコーのオフィスは、パリ一区にある、もとは古い瀟洒なホテルを改築した五階建ての建物の中にある。
マスコミへの露出度の高い社長のおかげで知名度もぐんと上がった、この会社の実質的な経営者が、副社長のローラン・ヴェルヌであるということは、社の内外で既に周知の事実だ。
そのローランの秘書であるルネは、上司仕込みの洗練された身のこなしで今朝もオフィス・ビルの玄関をくぐった。よく見知った警備員と目が合えば、にこやかに挨拶をし、ホテル時代の面影を残すアンティークなエレベーターに乗り込む。
「すみません、乗ります!」
慌てた様子でエレベーターに駆け込んでくる女の子が2人。
同じ建物に最近入ったファッション誌の社員のようだ。ルネが素早くドアを押さえてやると、彼女達はルネの顔を間近で見て一瞬驚き、ぱっと頬を染めた。
ルネがここ働くようになって2年近く、いつもと変わらない、朝の日常。
もっともその2年の間に、ルネ自身は以前とは別人のように変わってしまったのだが―。
(ねえ、彼って、一体どっちだと思う……まさか本物の大天使じゃないわよね?)
(ガブリエル本人はほとんどオフィスには顔を出さないと言うから、やっぱり、そっくりさんの秘書の方でしょうよ。雰囲気が何となく親しみやすいし…)
(ああ、例の『小天使』ね)
ひそひそと小声で囁き交わしている女の子達の声は、ほとんど筒抜けだったが、ルネは顔を壁の方に向けたまま、聞こえていないふりをした。
この容姿のせいでいまだに頻繁に発生する勘違いや誤解、たわいない冗談やからかいの種にされることにいちいち目くじらを立てるほど、ルネはもうナイーブではない。
(それでも、小天使なんてあだ名は、ちょっといただけないと思うけれどね)
鏡張りになっているエレベーターの壁面には、蜂蜜色の柔らかそうな髪と空色の瞳をした、ほっそりと優雅な姿が映っている。
ころっと愛嬌のある鼻の形だけは違うが、本物のガブリエルと会ったことのない女の子達が見誤るのも無理はないほど、それは、ルネの直接の上司が愛し敬う、ルレ・ロスコーの社長に酷似していた。
パリに来る前は、こうではなかった。かつてのルネは、癖のないブルネットの髪をした純朴なオーヴェルニュの少年にすぎず、適当に買ったノーブランドのティーシャツとジーンズが普段着だった。あるいは、子供の頃から習っていた空手や柔道の道着姿か。
鏡の中の青年を見る度、いつもながら、これは一体誰なのだろうと不思議な気分になる。
「おはようございます、ルネさん」
「おはよう、オリビエ、今日も早いね」
ルネが五階の副社長室に隣接する秘書室に入ると、一か月前にここに入ったばかりの研修生のオリビエが、人懐っこそうなそばかす顔を向けて、挨拶してきた。
「副社長室の掃除は済ませておきました。ムッシュ・ヴェルヌのデスクに用意しておく新聞と雑誌は、これでよかったですか…?」
「ああ、大丈夫、間違いないよ」
「では、置いてきます」
「ああ、待って、そのままじゃ駄目だよ。新聞の折り方だとか、雑誌の並び方だとか、ムッシュの好みがあるから……やっぱり僕がやるよ」
ルネは、ちらっと壁の時計を見やりながら、素早く副社長室に入った。オリビエの掃除と整理整頓の微妙なあらをチェックし修正すると、重厚な木目のデスクの上に、雑誌のタイトルが一目で分かって選びやすいよう綺麗に並べた。
「これで、よしと」
黒い革張りの椅子の背もたれにそっと手を滑らせ、ルネは一瞬ぼんやりした。
「ローラン…」
秘書室のドアがやや乱暴に開けられる音がし、緊張したオリビエの声が聞こえるのに、ルネは副社長室のドアの方に顔を傾けた。
「ルネ、そこにいるのか?」
低い声が呼ばわるや否や、ルネの視線の先にあるドアが大きく開かれた。
ルネは一瞬のうちに気持ちを切り替えて、いつも通り慎み深く丁寧な物腰で愛する上司を迎えた。
「おはようございます、ムッシュ・ヴェルヌ」
ローラン・ヴェルヌは鋭く光る翠眼でルネを見据え、その服装や態度が自分の基準に照らして完璧なのを見て取り満足したのだろう、鷹揚に頷き返した。
ローランはまだ30前の若さだが、やり手と名が通っている経営者らしく、いつも自信と覇気に満ち溢れている。ダーク・グレーのスーツを隙なく着こなした、背筋のすっと伸びた長身の姿は、モデルか俳優だと言っても通りそうなほど決まっていて、我が上司ながらほれぼれするほど格好がいい。
しかし、ローランのことなら熟知しているルネの目は、その端正な顔にうっすらと疲労の色が滲んでいることを見て取っていた。
無理もない。ほとんどオフィスに顔を出しもしないで自分の好きな料理研究に血道をあげている社長に代わり、朝から晩まで分刻みのスケジュールで働いているのだ。週末金曜日となれば、さすがに疲れも出てくるのだろう。世の経営者の平均年齢よりはるかに若いとは言っても、やっぱり30前である。
ルネはドアの向こうから恐る恐る顔を出しているオリビエに目配せをし、既にスタンバイしているコーヒー・メーカーのスイッチを入れるよう指示を出した。
15分後には、四階の会議室でミィーティングが始まる。その前に、今日一日のスケジュールの確認などを素早くすませなくてはならない。
「会議が終わった後の今日の予定ですが、10時にホテル・サン・ジョルジュのムッシュ・アルダンがご訪問、その後、人事部のレオンスと採用の件で面談、11時15分に雑誌の取材が一件」
ローランは渋い顔をして、ルネが読み上げるスケジュールを聞きながら、オリビエが運んできたコーヒーを飲んでいる。
「ルネ」
「はい?」
話を遮られて怪訝そうな眼差しを向けるルネの前に、ローランはデスクから取り出した一枚のカードを投げてよこした。
「後で、ここの花屋に電話をして、正午までに薔薇の花束をオフィスに届けるよう頼んでおいてくれ。大輪の赤いバラを30本。品種はアマダかローテ・ローゼがいいな」
ルネが物言いたげな眼差しを向けると、ローランは黒い革張りの椅子の背もたれに体をもたせかけながら、悪びれもせずに言った。
「それから、ムッシュ・サトウとのビジネス・ランチの約束はキャンセルしておいてくれ。代わりに、別の予定をねじ込むからな」
「……分かりました」
ルネは一瞬躊躇った後、さりげなく尋ねてみた。
「念のためにお聞きしますが、代わりの予定というのは…?」
「ガブリルエルとの会食だ。昨夜夕食を共にする約束だったのを、仕事が長引いて遅れたものだから、あいつの機嫌を損ねてな。まあ、薔薇の花共々、その埋め合わせだ」
立派に働いている男を捕まえて、少しくらい夕食の時間に遅れたからといって不機嫌になるとは、一体どういう了見だ。のんびりものを食っているだけが能の道楽者のくせに。
大体会社経営など、本来はガブリエルがするべき仕事だろう。そんなに嫌ならさっさとやめてしまって、ローランを社長の座に据えればいいのだ。その方が対外的にも、ルネの心情的にも、よほどすっきりする。
一瞬イラッとしたルネだったが、ローランの絶対的君主に対する批判を口にするわけにはいかず、上品に眉をひそめて見せるだけにした。
「何だ、不満顔だな、ルネ?」
ローランは、ルネの考えていることなどお見通しとばかりに、揶揄するよう聞いてきた。
「僕が不満を覚えているか否かは問題ではないんです、ムッシュ・ヴェルヌ」
ルネは、パリに出てきてから苦労して覚えたポーカー・フェイスを何とか保つと、ローランの深い緑色の瞳をまっすぐに見返した。
「あなたが、あなたの天使の我が儘や無体を容認し、そのなさりように別に何の不満も感じないのであれば、僕もあえて口を差し挟もうとは思いません」
「では、その口は閉じておくべきだろうな、ルネ」
ローランはルネの挑戦的な視線をこともなげに受け流して、にやりと悪そうに笑った。
「ついでに言うなら、もう少しにこやかな顔をしてくれないか、ルネ。朝っぱらから、愛するガブリエルそっくりな顔にむっつりと機嫌悪そうにされると、何やら胸が痛んで仕方がない」
恥ずかしげもなくよく言う――さすがにちょっと呆れてしまったルネの前で、ローランはおもむろに革張りの椅子から立ち上がった
「それから、もう1つ」
「あ」
いきなり、ローランはルネの腕を掴んで、自分の方に引き寄せた。手にしていたタブレットを取り落としそうになってルネは、慌ててそれを掴みしめる。
「な、何ですか、ムッシュ…?」
ローランに息がかかりそうなほど間近で顔を覗きこまれたルネは、動揺のあまりほとんど素に戻って問い返した。
「俺に出すコーヒーは、おまえが淹れろ。研修生に任せて手を抜くなんて、許さんぞ」
低く甘い響きの声に耳朶をなぶられて、はからずも体が震えだしそうになる。
「で、でも、豆を用意したのは僕ですし、いつもの店で買ったあなたの好みのブレンドです。そもそもコーヒー・メーカーを使うなら、誰が淹れても同じだと思いますが?」
「俺は鼻が利くんだ。おまえが淹れたコーヒーの方が断然香りがいいし、口に合う。俺の好みを熟知し、完璧に満足させてくれるのは、おまえしかいない、他の誰もおまえの代わりになどなれるものか」
ああ、そうでしょうね、何しろあなた、『犬』だから。心の中で密かに突っ込んだルネだったが、ローランに甘やかすように囁かれ、髪に指をさしこまれて優しく愛撫されると、自然と唇が綻んでしまう。
(駄目だ。我ながら馬鹿だとは思うけど、僕は、本当にこの人には甘い。この人が、ガブリルエルに対して盲目的に甘いのと同じほど、僕はこの人を盲目的に愛している)
ローランはルネの表情がとろんと蜂蜜のように溶けていくのを満足そうに眺めると、そのふっくらと柔らかな唇に、ちゅっと軽い音を立ててキスを落とした。
「ルネ、おまえは俺の理想に限りなく近い」
ルネはおずおずと手を伸ばして、ローランの頬に触れ、綺麗にとかしつけられた艶やかな黒髪に指先を滑らせた。
「ローラン…」
ローランの逞しい腕の中、ふわりと漂う、彼の愛用のコロン『エゴイスト』の香りが鼻腔に広がって、ルネは、朝っぱらから官能的な気分に溺れそうになった。
(いやいや、始業時間を過ぎてこれはまずいって……ああ、でも……)
現実的な思いがルネの頭をかすめるが、たちまちかき消されてしまう。
体を密着させてキスを交わしている、この一時、いつもは他の人を見ているローランが自分だけのものになってくれたかのようで、嬉しい。
「朝からこんなことをされてしまったら、今日一日仕事に集中できなくなりそうで困ります」
ローランの強引な抱擁からやっとの思いで抜け出したルネは、ほうっと甘い息を吐いた。オフィスにいる間は秘書としての節度を保とうとの努力を簡単に打ち壊してくれたローランに恨み事を言いたくなるも、それはぐっと飲み下す。
「おまえは、とても優秀な秘書だから、俺と2人きりでいる時とそうでない時の気持ちの切り替えくらい、何なくできるさ」
ローランは、ルネの頬から唇にかけて指でなぞりながら、そんな無責任な言葉を吐くと、ちらっと壁の時計を確認した。
「そろそろ会議の時間です、ムッシュ」
うっかり本気で忘れるところだったルネは、内心焦りながら、ローランを促す。
「…さて、では俺も、気持ちを切り替えることにしよう」
ガブリエルの機嫌取りを最優先させても、ルネとのいちゃいちゃにかまけて職務を疎かにすることはないらしい。ローランは瞬く間に、仕事モードの厳しい表情に戻って、ルネに事務的な命令を幾つか残した後、足早に部屋を出て行った。
(ほんとに嵐みたい人なんだから…)
いつも自分を振り回す身勝手な愛しい人の背中を、ルネはうっとりと見送った。数分前まで苛々していたのが、あんな口先だけの優しい言葉とキスだけでたちまち上機嫌になるなんて、我ながら単純なことこの上ない。
(何だか、またあの人にいいように丸めこまれてしまったような気もするけれど――まあ、いいか。細かいことには目を瞑って、ローランのしたいようにさせてあげればいいんだ。ガブリエルに対するローランの忠犬っぷりは今に始まったことじゃないんだし…愛する主人の満足した顔を見て、あの人が幸せになれるなら、それでいいじゃないか。僕は僕で、ローランの喜ぶ顔を見たいから、つくす訳で…)
ルネは、髪や服の乱れを手早く直し、何事もなかったかのように秘書室に戻っていった。その足取りは、心なしかうきうきと軽い。
「ルネさん、どうしたんですか、顔が赤いです…? 」
部屋に戻ると、整理中の書類の束から訳知り顔を覗かせたオリビエが、すかさず声をかけてくる。
ルネがローランの『愛人』だという噂はずっと前から社内に流れていて、もうほとんど公認に等しい。
どうぞ勝手によろしくやってくれとか、あんな難しい人の相手は大変でしょうというような生温かい励ましの目で見られることが日常化した社内では、まだ新人のオリビエの興味津々の態度はむしろ新鮮なくらいだ。
しかし、お互い独身で何も問題ないとはいえ、経営者とその秘書の恋愛を自らおおっぴらに話題にするほどには、ルネも図々しくはなれない。だから、一応とぼけてみる。
「空調のせいだよ、きっと…」
ルネはこほんと咳払いをすると、オリビエの意味深な視線避けるようにしてデスクに座った。
念のため、引き出しから鏡を取り出して、自分の顔におかしな点はないかチェックしてみる。
別ににやけた顔にはなっていないが、金髪に染めた髪の生え際に黒い地毛が目立ってきたことに気がついた。
(ああ、明日にでもまた染め直さなきゃ。ローランは僕の外見にもうるさく注文をつけるから――)
ローランの望みどおり髪の色まで変えて、彼の愛する者にそっくりな姿となって――そうまでして、一体、自分は何がしたいのか。
『ルネ、おまえは俺の理想に限りなく近い』
まるで自ら手がけた作品に評価を下すような、この上もなく満足そうなローランの囁きが脳裏によみがえる。
(僕はガブリエルじゃない。いくら姿かたちを似せてみたって、本当の本物にはなれない。そんなこと、『本物』を見慣れているローランが一番よく知っている。それでも、ローランは僕を選んで傍に置き、自分の好みにあうよう、少しずつ手を加えて磨き上げていった……その結果として、今の僕がある)
ルネはちょっと複雑な気分になったが、悶々としたものを無理矢理振り払って、彼から預かった店のカードを手元から拾い上げた。
(さて、大輪の赤いバラを30本、正午までに持ってこさせなきゃ)
ガブリエル・ドゥ・ロスコーのために花束を電話で注文したり、あらかじめローランがオーダーしておいた気のきいたプレゼントを店まで受け取りに行ったりしたことが、これまで何度あっただろう。
間近で見る機会が増えたためにルネの目も肥えたが、自ら買って身につけようとは思わない贅沢な逸品、1人暮らしのアパルトマンの部屋ではうきそうな芸術品にも久しい見事な花々、それらはまさに天上人のガブリエルにこそふさわしい。
(ローランに一番愛されて、宝物のように大切されているガブリエルが羨ましくないとは言わないよ。もしも自分がガブリエルのようにローランに尽くされたら、そりゃ天にも昇る心地になるかもしれないな。でも、やっぱり、僕には無理だ。そんなことになったら、きっと背中がこそばゆくて落ちつかなくなるに違いない、向いてないもの……豪奢な赤い薔薇が僕向けじゃないように、自分にふさわしくないものを望んだりはしないよ。僕が望むのはただ、大好きなローランが――)
ルネは心の中に浮かんだある思いにふっと微笑むと、愛する主人の命を忠実に果たすべく、電話の受話器を取り上げた。
最初に聞いた時、まさに自分の置かれた状況を物語っているようで身につまされると、ルネ・トリュフォーは思ったものだ。
フランス各地にあるシャトー・ホテルとレストランを経営する会社、ルレ・ロスコーのオフィスは、パリ一区にある、もとは古い瀟洒なホテルを改築した五階建ての建物の中にある。
マスコミへの露出度の高い社長のおかげで知名度もぐんと上がった、この会社の実質的な経営者が、副社長のローラン・ヴェルヌであるということは、社の内外で既に周知の事実だ。
そのローランの秘書であるルネは、上司仕込みの洗練された身のこなしで今朝もオフィス・ビルの玄関をくぐった。よく見知った警備員と目が合えば、にこやかに挨拶をし、ホテル時代の面影を残すアンティークなエレベーターに乗り込む。
「すみません、乗ります!」
慌てた様子でエレベーターに駆け込んでくる女の子が2人。
同じ建物に最近入ったファッション誌の社員のようだ。ルネが素早くドアを押さえてやると、彼女達はルネの顔を間近で見て一瞬驚き、ぱっと頬を染めた。
ルネがここ働くようになって2年近く、いつもと変わらない、朝の日常。
もっともその2年の間に、ルネ自身は以前とは別人のように変わってしまったのだが―。
(ねえ、彼って、一体どっちだと思う……まさか本物の大天使じゃないわよね?)
(ガブリエル本人はほとんどオフィスには顔を出さないと言うから、やっぱり、そっくりさんの秘書の方でしょうよ。雰囲気が何となく親しみやすいし…)
(ああ、例の『小天使』ね)
ひそひそと小声で囁き交わしている女の子達の声は、ほとんど筒抜けだったが、ルネは顔を壁の方に向けたまま、聞こえていないふりをした。
この容姿のせいでいまだに頻繁に発生する勘違いや誤解、たわいない冗談やからかいの種にされることにいちいち目くじらを立てるほど、ルネはもうナイーブではない。
(それでも、小天使なんてあだ名は、ちょっといただけないと思うけれどね)
鏡張りになっているエレベーターの壁面には、蜂蜜色の柔らかそうな髪と空色の瞳をした、ほっそりと優雅な姿が映っている。
ころっと愛嬌のある鼻の形だけは違うが、本物のガブリエルと会ったことのない女の子達が見誤るのも無理はないほど、それは、ルネの直接の上司が愛し敬う、ルレ・ロスコーの社長に酷似していた。
パリに来る前は、こうではなかった。かつてのルネは、癖のないブルネットの髪をした純朴なオーヴェルニュの少年にすぎず、適当に買ったノーブランドのティーシャツとジーンズが普段着だった。あるいは、子供の頃から習っていた空手や柔道の道着姿か。
鏡の中の青年を見る度、いつもながら、これは一体誰なのだろうと不思議な気分になる。
「おはようございます、ルネさん」
「おはよう、オリビエ、今日も早いね」
ルネが五階の副社長室に隣接する秘書室に入ると、一か月前にここに入ったばかりの研修生のオリビエが、人懐っこそうなそばかす顔を向けて、挨拶してきた。
「副社長室の掃除は済ませておきました。ムッシュ・ヴェルヌのデスクに用意しておく新聞と雑誌は、これでよかったですか…?」
「ああ、大丈夫、間違いないよ」
「では、置いてきます」
「ああ、待って、そのままじゃ駄目だよ。新聞の折り方だとか、雑誌の並び方だとか、ムッシュの好みがあるから……やっぱり僕がやるよ」
ルネは、ちらっと壁の時計を見やりながら、素早く副社長室に入った。オリビエの掃除と整理整頓の微妙なあらをチェックし修正すると、重厚な木目のデスクの上に、雑誌のタイトルが一目で分かって選びやすいよう綺麗に並べた。
「これで、よしと」
黒い革張りの椅子の背もたれにそっと手を滑らせ、ルネは一瞬ぼんやりした。
「ローラン…」
秘書室のドアがやや乱暴に開けられる音がし、緊張したオリビエの声が聞こえるのに、ルネは副社長室のドアの方に顔を傾けた。
「ルネ、そこにいるのか?」
低い声が呼ばわるや否や、ルネの視線の先にあるドアが大きく開かれた。
ルネは一瞬のうちに気持ちを切り替えて、いつも通り慎み深く丁寧な物腰で愛する上司を迎えた。
「おはようございます、ムッシュ・ヴェルヌ」
ローラン・ヴェルヌは鋭く光る翠眼でルネを見据え、その服装や態度が自分の基準に照らして完璧なのを見て取り満足したのだろう、鷹揚に頷き返した。
ローランはまだ30前の若さだが、やり手と名が通っている経営者らしく、いつも自信と覇気に満ち溢れている。ダーク・グレーのスーツを隙なく着こなした、背筋のすっと伸びた長身の姿は、モデルか俳優だと言っても通りそうなほど決まっていて、我が上司ながらほれぼれするほど格好がいい。
しかし、ローランのことなら熟知しているルネの目は、その端正な顔にうっすらと疲労の色が滲んでいることを見て取っていた。
無理もない。ほとんどオフィスに顔を出しもしないで自分の好きな料理研究に血道をあげている社長に代わり、朝から晩まで分刻みのスケジュールで働いているのだ。週末金曜日となれば、さすがに疲れも出てくるのだろう。世の経営者の平均年齢よりはるかに若いとは言っても、やっぱり30前である。
ルネはドアの向こうから恐る恐る顔を出しているオリビエに目配せをし、既にスタンバイしているコーヒー・メーカーのスイッチを入れるよう指示を出した。
15分後には、四階の会議室でミィーティングが始まる。その前に、今日一日のスケジュールの確認などを素早くすませなくてはならない。
「会議が終わった後の今日の予定ですが、10時にホテル・サン・ジョルジュのムッシュ・アルダンがご訪問、その後、人事部のレオンスと採用の件で面談、11時15分に雑誌の取材が一件」
ローランは渋い顔をして、ルネが読み上げるスケジュールを聞きながら、オリビエが運んできたコーヒーを飲んでいる。
「ルネ」
「はい?」
話を遮られて怪訝そうな眼差しを向けるルネの前に、ローランはデスクから取り出した一枚のカードを投げてよこした。
「後で、ここの花屋に電話をして、正午までに薔薇の花束をオフィスに届けるよう頼んでおいてくれ。大輪の赤いバラを30本。品種はアマダかローテ・ローゼがいいな」
ルネが物言いたげな眼差しを向けると、ローランは黒い革張りの椅子の背もたれに体をもたせかけながら、悪びれもせずに言った。
「それから、ムッシュ・サトウとのビジネス・ランチの約束はキャンセルしておいてくれ。代わりに、別の予定をねじ込むからな」
「……分かりました」
ルネは一瞬躊躇った後、さりげなく尋ねてみた。
「念のためにお聞きしますが、代わりの予定というのは…?」
「ガブリルエルとの会食だ。昨夜夕食を共にする約束だったのを、仕事が長引いて遅れたものだから、あいつの機嫌を損ねてな。まあ、薔薇の花共々、その埋め合わせだ」
立派に働いている男を捕まえて、少しくらい夕食の時間に遅れたからといって不機嫌になるとは、一体どういう了見だ。のんびりものを食っているだけが能の道楽者のくせに。
大体会社経営など、本来はガブリエルがするべき仕事だろう。そんなに嫌ならさっさとやめてしまって、ローランを社長の座に据えればいいのだ。その方が対外的にも、ルネの心情的にも、よほどすっきりする。
一瞬イラッとしたルネだったが、ローランの絶対的君主に対する批判を口にするわけにはいかず、上品に眉をひそめて見せるだけにした。
「何だ、不満顔だな、ルネ?」
ローランは、ルネの考えていることなどお見通しとばかりに、揶揄するよう聞いてきた。
「僕が不満を覚えているか否かは問題ではないんです、ムッシュ・ヴェルヌ」
ルネは、パリに出てきてから苦労して覚えたポーカー・フェイスを何とか保つと、ローランの深い緑色の瞳をまっすぐに見返した。
「あなたが、あなたの天使の我が儘や無体を容認し、そのなさりように別に何の不満も感じないのであれば、僕もあえて口を差し挟もうとは思いません」
「では、その口は閉じておくべきだろうな、ルネ」
ローランはルネの挑戦的な視線をこともなげに受け流して、にやりと悪そうに笑った。
「ついでに言うなら、もう少しにこやかな顔をしてくれないか、ルネ。朝っぱらから、愛するガブリエルそっくりな顔にむっつりと機嫌悪そうにされると、何やら胸が痛んで仕方がない」
恥ずかしげもなくよく言う――さすがにちょっと呆れてしまったルネの前で、ローランはおもむろに革張りの椅子から立ち上がった
「それから、もう1つ」
「あ」
いきなり、ローランはルネの腕を掴んで、自分の方に引き寄せた。手にしていたタブレットを取り落としそうになってルネは、慌ててそれを掴みしめる。
「な、何ですか、ムッシュ…?」
ローランに息がかかりそうなほど間近で顔を覗きこまれたルネは、動揺のあまりほとんど素に戻って問い返した。
「俺に出すコーヒーは、おまえが淹れろ。研修生に任せて手を抜くなんて、許さんぞ」
低く甘い響きの声に耳朶をなぶられて、はからずも体が震えだしそうになる。
「で、でも、豆を用意したのは僕ですし、いつもの店で買ったあなたの好みのブレンドです。そもそもコーヒー・メーカーを使うなら、誰が淹れても同じだと思いますが?」
「俺は鼻が利くんだ。おまえが淹れたコーヒーの方が断然香りがいいし、口に合う。俺の好みを熟知し、完璧に満足させてくれるのは、おまえしかいない、他の誰もおまえの代わりになどなれるものか」
ああ、そうでしょうね、何しろあなた、『犬』だから。心の中で密かに突っ込んだルネだったが、ローランに甘やかすように囁かれ、髪に指をさしこまれて優しく愛撫されると、自然と唇が綻んでしまう。
(駄目だ。我ながら馬鹿だとは思うけど、僕は、本当にこの人には甘い。この人が、ガブリルエルに対して盲目的に甘いのと同じほど、僕はこの人を盲目的に愛している)
ローランはルネの表情がとろんと蜂蜜のように溶けていくのを満足そうに眺めると、そのふっくらと柔らかな唇に、ちゅっと軽い音を立ててキスを落とした。
「ルネ、おまえは俺の理想に限りなく近い」
ルネはおずおずと手を伸ばして、ローランの頬に触れ、綺麗にとかしつけられた艶やかな黒髪に指先を滑らせた。
「ローラン…」
ローランの逞しい腕の中、ふわりと漂う、彼の愛用のコロン『エゴイスト』の香りが鼻腔に広がって、ルネは、朝っぱらから官能的な気分に溺れそうになった。
(いやいや、始業時間を過ぎてこれはまずいって……ああ、でも……)
現実的な思いがルネの頭をかすめるが、たちまちかき消されてしまう。
体を密着させてキスを交わしている、この一時、いつもは他の人を見ているローランが自分だけのものになってくれたかのようで、嬉しい。
「朝からこんなことをされてしまったら、今日一日仕事に集中できなくなりそうで困ります」
ローランの強引な抱擁からやっとの思いで抜け出したルネは、ほうっと甘い息を吐いた。オフィスにいる間は秘書としての節度を保とうとの努力を簡単に打ち壊してくれたローランに恨み事を言いたくなるも、それはぐっと飲み下す。
「おまえは、とても優秀な秘書だから、俺と2人きりでいる時とそうでない時の気持ちの切り替えくらい、何なくできるさ」
ローランは、ルネの頬から唇にかけて指でなぞりながら、そんな無責任な言葉を吐くと、ちらっと壁の時計を確認した。
「そろそろ会議の時間です、ムッシュ」
うっかり本気で忘れるところだったルネは、内心焦りながら、ローランを促す。
「…さて、では俺も、気持ちを切り替えることにしよう」
ガブリエルの機嫌取りを最優先させても、ルネとのいちゃいちゃにかまけて職務を疎かにすることはないらしい。ローランは瞬く間に、仕事モードの厳しい表情に戻って、ルネに事務的な命令を幾つか残した後、足早に部屋を出て行った。
(ほんとに嵐みたい人なんだから…)
いつも自分を振り回す身勝手な愛しい人の背中を、ルネはうっとりと見送った。数分前まで苛々していたのが、あんな口先だけの優しい言葉とキスだけでたちまち上機嫌になるなんて、我ながら単純なことこの上ない。
(何だか、またあの人にいいように丸めこまれてしまったような気もするけれど――まあ、いいか。細かいことには目を瞑って、ローランのしたいようにさせてあげればいいんだ。ガブリエルに対するローランの忠犬っぷりは今に始まったことじゃないんだし…愛する主人の満足した顔を見て、あの人が幸せになれるなら、それでいいじゃないか。僕は僕で、ローランの喜ぶ顔を見たいから、つくす訳で…)
ルネは、髪や服の乱れを手早く直し、何事もなかったかのように秘書室に戻っていった。その足取りは、心なしかうきうきと軽い。
「ルネさん、どうしたんですか、顔が赤いです…? 」
部屋に戻ると、整理中の書類の束から訳知り顔を覗かせたオリビエが、すかさず声をかけてくる。
ルネがローランの『愛人』だという噂はずっと前から社内に流れていて、もうほとんど公認に等しい。
どうぞ勝手によろしくやってくれとか、あんな難しい人の相手は大変でしょうというような生温かい励ましの目で見られることが日常化した社内では、まだ新人のオリビエの興味津々の態度はむしろ新鮮なくらいだ。
しかし、お互い独身で何も問題ないとはいえ、経営者とその秘書の恋愛を自らおおっぴらに話題にするほどには、ルネも図々しくはなれない。だから、一応とぼけてみる。
「空調のせいだよ、きっと…」
ルネはこほんと咳払いをすると、オリビエの意味深な視線避けるようにしてデスクに座った。
念のため、引き出しから鏡を取り出して、自分の顔におかしな点はないかチェックしてみる。
別ににやけた顔にはなっていないが、金髪に染めた髪の生え際に黒い地毛が目立ってきたことに気がついた。
(ああ、明日にでもまた染め直さなきゃ。ローランは僕の外見にもうるさく注文をつけるから――)
ローランの望みどおり髪の色まで変えて、彼の愛する者にそっくりな姿となって――そうまでして、一体、自分は何がしたいのか。
『ルネ、おまえは俺の理想に限りなく近い』
まるで自ら手がけた作品に評価を下すような、この上もなく満足そうなローランの囁きが脳裏によみがえる。
(僕はガブリエルじゃない。いくら姿かたちを似せてみたって、本当の本物にはなれない。そんなこと、『本物』を見慣れているローランが一番よく知っている。それでも、ローランは僕を選んで傍に置き、自分の好みにあうよう、少しずつ手を加えて磨き上げていった……その結果として、今の僕がある)
ルネはちょっと複雑な気分になったが、悶々としたものを無理矢理振り払って、彼から預かった店のカードを手元から拾い上げた。
(さて、大輪の赤いバラを30本、正午までに持ってこさせなきゃ)
ガブリエル・ドゥ・ロスコーのために花束を電話で注文したり、あらかじめローランがオーダーしておいた気のきいたプレゼントを店まで受け取りに行ったりしたことが、これまで何度あっただろう。
間近で見る機会が増えたためにルネの目も肥えたが、自ら買って身につけようとは思わない贅沢な逸品、1人暮らしのアパルトマンの部屋ではうきそうな芸術品にも久しい見事な花々、それらはまさに天上人のガブリエルにこそふさわしい。
(ローランに一番愛されて、宝物のように大切されているガブリエルが羨ましくないとは言わないよ。もしも自分がガブリエルのようにローランに尽くされたら、そりゃ天にも昇る心地になるかもしれないな。でも、やっぱり、僕には無理だ。そんなことになったら、きっと背中がこそばゆくて落ちつかなくなるに違いない、向いてないもの……豪奢な赤い薔薇が僕向けじゃないように、自分にふさわしくないものを望んだりはしないよ。僕が望むのはただ、大好きなローランが――)
ルネは心の中に浮かんだある思いにふっと微笑むと、愛する主人の命を忠実に果たすべく、電話の受話器を取り上げた。
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