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4章 退院
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僕の目の前で銃を構えていた男が膝から崩れ落ちる。その男の背後に立つのは花屋。白いフードの下から覗くゴーグル越しに彼は倒れた男を見つめ、ふうと大きく息をついた。
「これでヤーさん名乗っちゃうんだから、地上の犯罪集団ってチョロすぎ~。こんなん鼻くそほじって食べながらでも全然倒せるわ」
「鼻くそは排泄物なんだから、食べたら身体に良くないよ」
ガスを吸ったような異様に高い声で喋る花屋に、僕もガスマスクの変声器から出る機械音声で話しかける。
花屋との仕事は案外快適なもので、あれだけ敵視されていたのが嘘のように、近頃では黄金くんに続いて気軽に話せる人間のうちの一人になっていた。黄金くんと違って、多少は嫌われてもいいと思って接しているから、気遣いがない分楽なのかもしれない。
「しかしまあ、腹立つけどお前のアドバイス通りに無駄な動きを減らしてデカい一撃お見舞いさせた方が確実に相手をダウンできるわ。俺、花屋向いてねえのかな」
花屋はすっかり出番が減った注射器をホルダーから取り出して、くるくると指先で回す。
彼はずっと養父が強いて来たスタイルに従っていたそうで、自分の戦闘スタイルが確立されていなかった。それでいて、あれだけの実力を備えていたのだから、自分に合った戦い方を磨けば僕より強くなってしまう日も近いかもしれない。
「使用頻度が低くても投擲技術が高いのはメリットしかないよ」
「あーはいはい。お気遣いどうもありがとうございます~」
「本当に思っているから、言っているんだよ」
うんざりしたように口を尖らせる彼に僕は訂正を入れる。彼はひねくれ者だから口先ではああ言うが、言った分だけちゃんと通じているだろう。
「…で、あの頭ゆるゆるクソヤンキーが普通に暮らせる方法って見つかったの?」
目の前に転がった男の傍に花屋はしゃがむと、取り出した注射器を彼の腕に差し込んで液体を注入する。恐らく致命毒だ。確実に仕留めるために打っておくのだろう。
「まだなんだ。情報屋で関連情報を買いあさったんだけど、成果はなかった。ラプラスはコンピューターではなくて人間の可能性があるという情報があったから、ラプラスにコンタクトをとって黄金くんを人間としてもらえないか交渉することも考えたんだけど…」
この都市を管理するスーパーコンピューター、ラプラス。この街にある地上に繋がるエレベーターの傍にある高い塔の上にあると言う。
多くの人間がそれを無機物だと思っているが、人間なのだと一人の情報屋に3000万ほど詰んだら話してくれた。
しかし、確実な情報ではないらしく、確実性は55%程度だそうだ。時折発見される不可解なエラーや、ラプラスが判定するグレーゾーンの曖昧さなどから分析したものらしく、根拠こそあれそんな頼りない情報では心もとない。
「へえ。でも、もし人間で交渉できるとして、Sが直接管理しているラプラスの塔に忍び込むのは俺たちでもちょっと無理があるな」
使い終わった注射器をホルダーにしまい、花屋が立ち上がる。彼は僕に振り返ることなく窓の外に目線を投げ、腰に手を当ててため息をついた。
「…肉屋はブラウンシュヴァイクの成金息子を知ってるか?この間、ニュースで懸賞金がかかったバケモノみてえな野良犬捕まえたっていう変な奴」
僕は彼の言葉に首を傾げた。僕はあまり興味のないニュースをすぐに忘れてしまうが、ブラウンシュヴァイクの名前は知っている。
こちらもS直属の犬売りを中心とした卸業を商っている富豪の名前だ。地下で人間として中流以上の生活をしているなら、誰でも耳にしたことがあるだろう。
「名前は知っている。あそこのご子息がどうしたの?」
「俺はアイツと同じ高校だったんで、ちょっとしたツテがあってよ。アイツが言ってたんだけど、戸籍をラプラスに偽って犬を人間にする方法があるんだと。先日も一人の調教師が、入れ込んだ犬を自分の身分と引き換えに人間にしたらしい」
「ラプラスに偽って…?」
話が見えずに口に手を当てて僕は思考する。しかし、その調教師の話は正直身に覚えがあった。身に覚えがあるというか、ほんの数週間前に全裸の元調教師をオークション会場から救出した。救出を依頼してきたのは、地上から来た犬の少年だ。
地下から地上に上がれるのは人間だけで、犬はできない。彼の依頼を受けたのは地上にあるガロウズなので、その時点で彼はもう犬ではなかったのだろう。
それをどうやってラプラスに誤魔化すというのだろう。
「…これでどう誤魔化すというの?」
顔を上げて花屋を見やると、彼は少し得意げな笑みを口元にたたえながら僕に一つの道具を渡した。
それは針が付いた長方形のスタンプのような物だった。
「これはその調教師が戸籍を偽るときに使った道具だ。成金息子はこれを調教師に依頼されて作り、一人の犬売りを介して売り渡したらしいぜ。俺たちのマイクロチップに特殊な電磁波を流して情報を作り変えるとかで、これでラプラスに存在を誤認させるらしい」
「詳しい仕組みは作った本人に聞かないとわかりませんけどね~」と花屋は口を尖らせる。
「これは特別仕様で、この針を差すだけでマイクロチップに代わる極小の機器が差した場所に埋め込まれる。地下の人間だという情報をその機器に登録して埋め込めば、晴れてあのゆるゆるヤンキーは地下の人間だ」
「でも、人口は全て数値でラプラスが管理しているはずだ。突然、黄金くんみたいな成長した人間が一人、何の情報もなく登録されたら怪しまれると思うよ。入れ替える人間もいない」
僕だって何もしていなかったわけではない。花屋と同じようなことは考えた。
ただ、それでは腕時計の支給をSに申し込んだ際に黄金くんの詳細を調べられてしまう。嘘で固めた情報しかない人間を、Sがすんなりと承認してくれるわけがないのだ。
しかも、黄金くんは地上で行方不明扱いになって、今現在もニュースで報道されている。Sが調べなくとも、誰かが黄金くんのことを不審に思って調べたらあっという間にバレてしまう。
誰かを殺して戸籍を入れ替える方法もあるが…そもそも地下の人間から始末屋に依頼がくることがあまりない。法律がない分、私怨で殺しても合法だからだ。
そうなると、いくら仕事で始末屋をしていようと、依頼でもない人間を誰か無差別に選別して殺すなんて、さすがに良心が痛む。
「ところがさ~、近いうちに俺の身近な地下の人間が死ぬ予定があるんだよね~」
花屋は片方の口の端だけ釣りあげて、不敵な笑みを浮かべて僕に振り返った。
「俺の育ての親か、お前。俺はお前が死んだ時点でトンズラするのは決定事項だから、生きること間違いなしだけど、さっきの二人のうち少なくともどっちかが死ぬ」
僕が手に持ったままのスタンプを再び奪うように取り上げると、彼はそれをヒラヒラと振る。
「死んだ方の戸籍と、腕時計を奪ってアイツに譲渡すれば万事解決。そうだろ、お肉屋さん?」
僕は彼の手の中のスタンプを見つめながら沈黙し、小さく頷いた。
確かにそれなら黄金くんは確実に、安全に地下の人間になれる。人目を気にせずに外を出歩ける。お金を気にする彼がバイトをすることだって出来るし、好きなものを自分の好きなタイミングで買いに行ける。それはとても大事なことだ。
「…理不尽に思わねえのか?俺はお前に何かあったら迷いなく逃げるし、お前が死んでも養父が死んでも俺は自由になる。この計画、最初から俺にしか得がないのは分かってるだろ」
ニヤニヤと笑っていた花屋が、不意に笑うのをやめて訝しむように首を傾げた。
そうだ。分かっている。これをやったところで、本来僕には何の得もないのだ。
黄金くんが花屋を助けたいと願っているから、彼に幸せになって欲しいから手伝うだけ。見返りがあるとすれば、花屋から自分への私怨が消えるってだけ。それは本当に嬉しい話だが、それは僕が死んだら成り立たない。
何も言わない僕に、花屋は「あーあ」と苛立った声を出した。
「そう思ったから、この計画が出たときに俺も色々調べた。いわば、これがあのヤンキーに執着するお前への成功報酬だ。もしお前が死んだら、アイツは人間になっても路頭に迷う。だからお前が死んだ時、俺は絶対生きて帰って俺がアイツの面倒見てやるよ」
その申し出は、嬉しいような複雑な気分になるものだ。黄金くんは確かに平和に暮らしていけるだろうけれど、僕が死んだ時は花屋が彼の隣でずっと過ごすのか。
僕は思わず笑う。
「…僕が生きてるうちはあげないからね」
「はあ~?いりませんし?お前みたいな変態とつるむ奴の気が知れねえなあ~」
わざとらしく高い声を出して花屋は出口へと向かう。僕もナイフとフォークを腰にしまって彼に続いた。
「ところで、先代の肉屋さんは手伝ってくれたりしないの?」
「黄金くんの存在を教えてないから内緒」
僕の答えに花屋はケッと吐き捨てるように息を吐いて口を尖らせた。
花屋とこなす仕事は、一人で黙々とやるよりは随分と楽しかった。
死人の内臓を愛でることだけを趣味として、人との関わりを拒絶していた頃が嘘のようだ。こういう環境を作ってくれた黄金くんには、やっぱり感謝が尽きない。
作戦決行を間近に控えて、僕と花屋はそれぞれ前日に休みを取ることにした。もしかしたら死ぬかもしれないのだ。最後の晩餐と言ってもおかしくはない。花屋だって散々生きて帰ると言ってはいるが、絶対に生きていられる保証はどこにもないのだ。
僕は黄金くんが心配しないようにあくまでいつも通り過ごすことにした。近頃はキスやハグも許してもらえるようになって、ヤキモチを妬いたなんて言ってみたら困った顔をするくらいには気にかけてもらえている。
もうそれで十分かなと思っている。あわよくばその先も、なんて思ってしまったが、拒絶させてしまったので仕方ない。
もう少し時間があったらチャンスがあったかもしれないとか、そんな下心だけで言えば、ちょっと作戦結構の時期が早いことが憎い。僕だって黄金くんの体内に触れてみたいよ。
休みの日の朝、もぞもぞと僕はベッドの傍の床に頭をつけた状態で目が覚める。なんでこんな体勢で寝てしまうのか僕もわからない。小さい頃はよく布団から大分離れたとこで目覚めていたから、ベッドに身体が乗っているだけ大分マシなのかもしれない。
ベッドに乗ったままの足を床に下ろして起き上がる。欠伸をして立ち上がる。髪を腰で踏んでしまって、少し引っ張られる。ずっと放っておいてしまっていたけど、さすがに腰より長くなってきたから切るべきかもしれない。
キッチンに立って今日の朝ごはんを考える。初めて黄金くんを家に入れた時は、アレルギー原がない料理を作ることに慣れていなくて苦労したけど、最近では慣れたものでレシピを見ずに作れるものも増えた。
今日は何にしようかな…最近は和食が続いていたし、たまには洋食にしようかな。彼が食べられる具材を使ってサンドイッチでも作ろう。黄金くんは牛乳アレルギーだから、添えるヨーグルトはアレルギー用のだ。カルシウムが取れて身体にとてもいいけど、独特の苦味があるから、ちょっとジャムを大目に入れて分からないようにしないと。
そんなことを考えながら朝ごはんを作り始め、完成が近づいたあたりで黄金くんが眠そうな顔で欠伸をしながら自室から出て来た。僕がいつもこの時間に起こすことに慣れて、習慣化しているようだ。
黄金くんが地下に来てから、早いもので半年が経過しようとしていた。半年も家の中に閉じ込めてしまったことを申し訳なく思う。一刻も早く、彼が自由に地下を歩き回れるようにしてあげたい。
「おはよう」
「おう、要おはよー」
まどろんだ目で彼は少し微笑むと僕の傍へとやってくる。出来上がりつつある朝食を見て「おっ、今日は洋食だ」と感嘆の声を上げた。
「ヨーグルトだ!なんか凄い久しぶりに食べる気がする…市販のはダメなのに、どうやって作ってるの?」
「アレルギー用のがあるんだよ。ちょっと成分が違うから、慎重に使わないといけないんだけどね」
少し苦味があることは伏せて伝える。意識してなければ分からないこともある。
黄金くんは完成されたお皿を持って一足先にリビングへと向かう。僕も残りのサンドイッチを皿に盛り付け、自分の分のコーヒーを持って向かった。
テーブルに朝食を並べ、すでに椅子に座っていた黄金くんの頭に触れるだけのキスをする。
黄金くんはちょっと照れたようで頬をかいて目をそらす。この彼の癖もだいぶ見慣れたものだ。
「じゃあ食べよっか」
黄金くんの向かいの席に座り、僕は両手を合わせる。黄金くんもそれを見て、パンッと多きな音を立てて手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます!」
朝食に手をつける。
「俺、サンドイッチはトマトのやつが1番好きだなあ。トマトの汁吸ってべしょっとしたパンってなんであんなうめえんだろな?」
厚切りのトマトを挟んだサンドイッチをかじりながら、幸せそうに目を細める。
「美味しいんだ…」
僕はあまりそういうことを考えていなかった。確かに味がしみているのは美味しいが、パンの食感が損なわれるので僕としては判断が難しい。
ヨーグルトも軽くジャムをかき回してから、スプーンで大きな1口を運ぶ。
「やっぱジャムはケチらずたっぷりがうめえよな。ほら、ヨーグルトってちょっと苦いし」
黄金くんは普通のヨーグルトを食べたことはなかったようで、アレルギー用ヨーグルトの独特な後味を気にしない様子で食べていた。
「…あ、そういや今日…だったよな?花屋のおやっさん…」
少し気まずそうに黄金くんが声をかけてきた。
「うん、夕飯はここで食べて12時頃には出かけるよ」
いつも仕事に行く時と同じように伝えるが、黄金くんは何やら難しい顔で考え事をしているようだ。
「あのさ。今日の夕食、俺が作っちゃダメ?」
サンドイッチの最後の1口を口に放り込みながら、彼はおずおずと申し出た。
「何を作るの?」
サンドイッチをかじり、飲み込んでから尋ねる。すると彼は慌てたように僕に片手を開いた状態で突き出した。
「あっ、メニューはあとのお楽しみだから要の手伝いも禁止な!大丈夫、勝算はあるからさ!」
任せとけと言いたげに自身の胸をドンと叩く彼に少し不安があるが、そのやる気を否定するのは忍びないので任せることにした。
夕食時になると、黄金くんはいやに張り切った様子で腕まくりをしながらキッチンへと消え行く。
ガチャンとか「うわっ!?」と音や声が聞こえる度に心配になって見に行こうとするのをキッチン前で追い返されるのを3回ほど繰り返した後、黄金くんは蓋を乗せたどんぶりを両手に持って表れる。
「お待ちどうさま!」
先に席につかされていた僕の目の前にどんぶりを置いて箸をわたしながら、黄金くんは得意げに喋り出す。
「今日は決戦だろ。だから勝負前にふさわしい料理を作ったんだ!」
匂いだけなら美味しそうだ。蓋を開けるとご飯に敷かれた不揃いな千切りキャベツの上に、形は崩れているもののたっぷりとソースの染みたカツが散らばった、ワイルドと表現したくなるソースカツ丼が現れる。
「本当は卵とじする方が一般的なんだけど、俺卵ダメだからさ。俺の中ではこれが一般的なカツ丼!受験前とかに自分で調べて作ったんだ。ほら勝負に勝つ!なんつってな!」
僕は彼の言葉に首を傾げる。カツ丼を食べると勝てる…?聞いたことがない。どこの宗派の考え方なんだろう。
「あー、一応シャレだからねこれ?笑うとこな?」
気まずそうに苦笑いする彼に僕は遅れて「ああ」と手を叩く。カツと勝つをかけた言葉遊びだったのか。察しが悪くて申し訳ないことをした。
「ま、まあ食ってみ!形ちょっと崩れたけど味はそんな悪くないと思う…!」
「いっただきまーす」と手を合わせる彼に釣られるように僕も手を合わせる。
「いただきます」
彼のカツ丼に箸をつけて、白飯と一緒に咀嚼する。少し塩分が強い。少し身体に悪そうだが、黄金くんが僕の勝利祈願で作ってくれたんだ。ありがたく食べないと。
「ありがとう」
目の前でカツ丼を食べる黄金くんに僕は微笑む。
「よかった!これで大勝利間違いねえな!」
ニカッと笑って彼も自分の分のカツ丼に箸をつける。
「ちょっとしょっぺー!」
笑ってお茶を口にする黄金くんだったが、ふと不安げに俯むく。いつもはよく噛んで色んな話をしながら食事を楽しむ彼は、何だか泣きそうな顔で黙々とカツ丼を掻っ込むように食べていた。
「どうしたの?そんなにしょっぱかった?」
カツ丼をかき込んで食べる彼の顔を覗き込む。
「何でもない!」
どんぶりから顔を上げた彼は自分の顔を腕でゴシゴシと擦ると、いつも通りの笑顔を僕に向けた。
彼も何か思うことがあるのかもしれない。そうだとしたら、不謹慎だけど少し嬉しかった。
夕飯を食べ終えて、黄金くんとはいつも通りの会話をした。
先代の花屋と戦うなんて、不安がないわけじゃない。僕が死んでも気にしないでとか、僕の戸籍になるからお金の心配はないよとか、そう言う話は今の花屋に託した。だから、このままの方がお互い心に優しいだろう。
約束の12時が近づき、僕はいつもの仕事着や武器をギターケースに入れて玄関に行く。黄金くんは僕の後ろについて見守っていた。
「じゃあ、行ってくるよ。朝には戻るから」
本当に戻ってこられるかはわからないが、少しでも彼を安心させたくて、いつも通り予定を告げた。
「…うん、気をつけてな」
不安を押し殺したような悲しげな笑顔で黄金くんは答える。
靴紐を結び終えて立ち上がりギターケースを背負うために振り返ると、1歩後ろにいたはずの黄金くんがすぐ傍で僕が振り返るのを待ち構えていたように立っている。
「どうし…」
そう言い終わる前に黄金くんは僕を力強く抱きしめる。彼からこういったスキンシップをとることは片手で数えるくらいしかない。驚いて空いた両手を半端に広げたまま彼を見つめる。彼は僕の胸に顔を押し付けていた。
「ぜってー帰ってきてよ」
彼の表情は見えなかったが、涙を堪えているのかその声は微かに震えている。
「心配しないで、帰ってくるよ」
黄金くんの背中をトントンと優しく撫でると、彼は僕の肩に手を添えたまま少し上半身を離す。
そのまま何も言わずに、僕の唇に自分のものを重ねて長い口付けをした。
「行ってらっしゃい」
ちょっと嬉しくて、僕の顔の筋肉が緩むのが自分でも分かった。彼の唇が触れた自分の口を舐める。
「いってきます」
マンションを出て、花屋との待ち合わせ場所へと足を運ぶ。僕が着く頃には花屋はすでに待っていて、僕を見ると小さく手招きをした。
「おせーよ、遅刻魔か」
「君が早いんだよ」
まだ12時を回ったばかりの時計を見ながら不機嫌そうに呟く彼に答えた。
「作戦は予定通りでいい?」
建物の影に入り、僕はギターケースを地面に置く。花屋は周囲に人がいないか腕を組んだまま目配せし、頷いた。
「ああ、問題なく。俺は今日、仕事でいないと養父に伝えてある。ないとは思うが、アイツが調べても分からないよう情報屋にも嘘の情報を扱うよう根回ししておいたから、万が一はそうねえだろうよ」
ギターケースから作業着を取り出して身につけ、僕はガスマスクを被る。
「僕は依頼で彼を殺しに来た、ということでいいんだよね?」
「まあ、嘘じゃねえ。俺からの依頼みてえなもんだろ」
ケッと吐き捨てるように花屋は笑った。
「お前が充分にアイツの注意を引いてくれたら、俺が後ろからあいつの背中、心臓目がけて積年の恨みを込めて一撃ズドン!だな」
手の平に自分の拳を叩きつけ、花屋はそう言うと、チラりと僕を見下ろす。
「…養父は毒使いだが、ガンナーだ。一撃食らうだけでも行動に支障が出るだろ。本当にかわしきれるのか」
「うん」
ナイフとフォークを腰にさげ、僕はギターケースを花屋に押し付けた。
僕らがここ最近、ずっと一緒にこなしてきた仕事は地上のヤクザたちが中心だ。ただ闇雲に受けたのではなく、彼らは銃を使うから練習に引き受けていたのだ。
「銃口の向きから軌道は予測出来るよ。見ての通り、君と組んでからも僕は無傷だ」
「バケモンかよ…これだから変態は嫌だね」
僕のギターケースを抱えたまま花屋はうんざりしたようにため息をついたが、その表情はどこか安心したようにも見えた。
「じゃ、後で合流だ。せいぜい生きるか、俺が養父に見つかる前に死んでくれよ。生き残った後に言い訳苦しくなるのは勘弁だぜ」
口の片方だけ釣り上げて、挑発的に笑う花屋に僕は黙って頷いた。
花屋から教えてもらった人気のない通りを進み、影を縫うようにして彼の屋敷へと向かった。
いつもなら自分で侵入経路を確保するが、今回は花屋がわざわざ裏手の扉とセキュリティを解除してきている。僕は指定された入り口に音を立てないように侵入し、中を見回す。どうやらキッチンのようだが、中は真っ暗だ。もう寝ているのだろうか。花屋からそんな話は聞いていないが。
キッチンから出ると広いダイニングに出る。ダイニングテーブル一式の他に、暖炉と大きなテレビ、革張りの1人がけソファはティータイム用だろうか。
先程から屋敷の壁沿いには見たこともない植物が均等に植えられている。花屋というだけあって、観葉植物を好むのだろうか。
生活感がないほどに整えられたその家具は、いずれも埃をかぶることなく綺麗な状態で置かれている。几帳面で、神経質そうな家主の性格が伺えるような気がした。
廊下を通り、ホールにつくとガスマスクのナイトレンズに人影が写った。
石像か?そう思った瞬間、人影は僕に向けて片手を突き出す。
あの手の動き、拳銃か?
急いで拳銃の軌道から僕は上半身を横にずらして回避する。それとほぼ同時に銃声が鳴り響き、僕の背後の壁に穴が空いた。
「…そのガスマスク、肉屋のせがれか」
コツコツと踵を鳴らして人影が近づいてくる。窓からもれる光を浴びて現れたのは、金色の髪を後ろに撫で付けたオールバックの初老の男だった。
「この家は目に見えないほど小さな胞子を飛ばす植物を植えていてね。普通の人間なら忍び込んでも5分と経たずに息絶える。花屋の人間以外はね」
彼は僕のガスマスクに銃口を向ける。
「それをさせない、そのガスマスク。忌々しいな」
彼が引き金に指をかけるのを見て、僕は軌道から首をそらして避ける。ゆっくりと歩み寄る僕に向けて、彼は様子を見るように引き金を引く。
「先代の肉屋は結構当たったんだが、せがれの方は随分と身軽なようだ。華奢なだけある」
僕が歩み寄るのと同じ速度で彼は距離を取ると、使い終えたマガジンを捨て、新しいものを装着する。
「息子から聞いたよ。君が今日の夜に私を殺しに来るとね。だからここで待っていた」
彼の言葉に僕は足を止める。花屋が予め教えていたから、彼はここで武装して待っていた…?
打ち合わせ段階ではなかった情報に困惑するが、ガスマスクが幸いして相手には僕の表情は分からなかったようだ。
「寝首を搔くつもりだったのだろうが、残念だな」
彼は足のホルダーからもう一丁の銃を取り出し、僕に向ける。もう片方はリボルバー式だ。
銃口がこちらを向く。軌道を読んですぐさま首をそらすと、弾丸がまとった風が横を頬を掠めた。
地面を蹴るように走り出し、彼の懐を目指す。先代の花屋はすぐにバックステップで距離を取り、銃を連射する。
色々な銃を扱う人間を相手に練習をしてきたが、どれも精度が違う。寸でのところで身を逸らして回避し、足元に飛ぶ銃弾をジャンプでかわす。
リボルバーの装填数は6発。今ならリボルバーなら残弾切れで、普通の銃一丁ならフォークで弾ける。リボルバーやライフルでないなら貫通の驚異はないはずだ。
先代の花屋との距離が詰まる。目の前に迫る彼は表情も変えずに追撃を行う。その銃口は明後日の方を向け、発砲する。不意に感じる嫌な予感に、僕は首をつこうと構えていたナイフを彼が銃口を向けていた方向へと向ける。
バネが勢いよく伸びたような奇妙な音と共にナイフに強い衝撃が走る。ナイフに響くような振動。煙を上げるナイフの傷は1つの答えを連想させる。
跳弾だ。
「防ぐか。だが、武器が壊れたら君は何で私を屠るんだろうな」
跳弾に気を取られている間に距離を取った彼はリボルバーに弾を装填する。
周囲を確認すると、鏡のような銀色の光沢を放つ板がいくつも部屋に置かれている。あれが恐らく跳弾する素材なのだろう。
「チュートリアルはおしまいだ、肉屋のせがれ。君はここで死んでもらう」
先代の花屋が再び銃を発砲する。軌道を回避し、身体を逸らすが、背後から跳ね返ってくるそれが僕の肩を掠める。
微かな痛みに眉をひそめる。でも、こんなのは痛みに入らない。彼に再び距離を詰めようと走り込む。
跳弾する板の位置は把握した。それであれば、下手に動き回るより、跳弾の角度が計算できるこの位置から大きく逸れる方が愚策だ。僕に許されているのは、彼への正面突破だけだった。
放たれる銃弾を避け、足元へ放たれる弾を地面を蹴りあげて宙でかわす。間髪入れずに放たれる銃弾を宙に浮いたまま身体を反らして回避し、身体をそのまま一回転させる。背面から飛び込む跳弾をナイフとフォークで弾き、正面に向きを戻して着地する。再び目の前まで迫った先代の花屋の首元にナイフを突くが、身体を捻って彼はそれを回避する。
続けてフォークを床に滑らせるように足を狙うが、それを先代の花屋は足で踏みつけて止める。
「青いな。経験不足だ」
リボルバーを握ったまま僕の顔を下から上へと拳で殴り上げる。ガスマスクがずれる。危機感を覚えてフォークから手を離すと、彼はそれを遠くへと蹴飛ばす。空いた足で僕の顔面を目がけて蹴りを入れるが、それを腕で防ぐ。ギリギリと強い力がかかる。現花屋には劣るが、強烈なキックだった。
ナイフを足に向けて振ると、彼はそれをバックステップで回避し、再び銃口を向ける。それは背後の跳弾板へと向けられている。弾を往復させる気だ。
銃口の軌道から身体を逸らし、跳弾に備えて身を屈ませると、突然足に激痛が走る。
力が抜けていく左足を震わせながら体勢を保つ。何故か跳弾した弾は僕の足を貫通していた。よく見ると背後で跳弾した弾は床の絨毯へと飛び、その下に敷かれた跳弾板でこちらに飛んできていたようだった。絨毯の焦げ目から銀色の反射がそれを物語る。
「こんな時でも悲鳴1つ上げないのは立派だな」
先代の花屋が鼻で笑い、僕の顔面目がけて再び回し蹴りを入れる。腕で防ぐと、身体を支える足から血が吹き出す。続けて顔面に向かってくる拳をナイフで受け止めると、ナイフが音を立てて折れた。
武器を失った驚きに目を見開く。宙を舞う破片が風に乗って背後へと飛んでいく。その隙に先代の花屋は僕の怪我をした足を蹴り飛ばす。
「くっ…」
バランスを崩す僕のガスマスクを掴み、彼はそれをむしり取る。
「…驚くほど若い頃の肉屋に似ているな」
それを彼の背後へと放りなげる。ガスマスクがカラカラと床を滑り、遠くへと姿を消した。
「知っているよ。既存の毒では死なないんだろう?でも、肉屋にも秘密にしたこの室内の毒はどうだろうね」
彼の言葉から間を置かずに視界が歪んでくる。込み上げる吐き気と割れるような頭痛。膝をついてその場に座り込む僕を彼は足で蹴飛ばした。
床を転がり、僕の足から流れ出る血液が線をひいた。距離が空いた先代の花屋はその線をなぞるようにゆっくりと僕へと歩み寄る。
「サヨナラだ」
「…どうだろうね」
歪んでいく視界の中、吐き気をこらえながら僕は笑う。
「彼が裏切ってないなら、僕の任務は完了だ」
その瞬間、バキッという金属が弾ける音で屋敷が揺れる。鎖が擦れる音と共に天井の巨大なシャンデリアが落ちる。それは先代の花屋の上へと落ちて弾け飛ぶ。破片が僕の身体を掠める。
シャンデリアの上に乗っていた白い人影は僕に駆け寄り、手を差し伸べる。
「下手くそ!真ん中におびき出せって言っただろうが!」
「人の誘導なんか…やったこと…ないからね…」
彼の手を取ってよろよろと立ち上がる。頭がグラグラと揺れるので、立っているのが精一杯だ。
「それに、シャンデリを落とすなんて…聞いてないよ。彼に僕が来ることまで…」
「その方が確実に仕留められんだろ。あのシャンデリアの太い鎖を握力で壊せるなんて、アイツは知らなかっただろうし、俺が直接殴るより殺意高めだろ」
よろける僕を見ながら、花屋は口を曲げる。ふと、彼は僕の顔を見て首を傾げた。
「…てか、お前ガスマスクどこやったの?」
なんとか立っていた足から力が抜ける。完全に床に倒れ伏し、僕の視界が暗くなっていく。
「しまった!お前ガスマスクないと死んじまうのか!おい!勝手に死ぬな!」
花屋が怒鳴りながら部屋の隅に投げられた僕のガスマスクへと走っていく。
ああ、でも終わったな。遠ざかる意識の中で僕は目をつぶる。
この毒、後遺症とか残らなければいいな。
僕の目の前で銃を構えていた男が膝から崩れ落ちる。その男の背後に立つのは花屋。白いフードの下から覗くゴーグル越しに彼は倒れた男を見つめ、ふうと大きく息をついた。
「これでヤーさん名乗っちゃうんだから、地上の犯罪集団ってチョロすぎ~。こんなん鼻くそほじって食べながらでも全然倒せるわ」
「鼻くそは排泄物なんだから、食べたら身体に良くないよ」
ガスを吸ったような異様に高い声で喋る花屋に、僕もガスマスクの変声器から出る機械音声で話しかける。
花屋との仕事は案外快適なもので、あれだけ敵視されていたのが嘘のように、近頃では黄金くんに続いて気軽に話せる人間のうちの一人になっていた。黄金くんと違って、多少は嫌われてもいいと思って接しているから、気遣いがない分楽なのかもしれない。
「しかしまあ、腹立つけどお前のアドバイス通りに無駄な動きを減らしてデカい一撃お見舞いさせた方が確実に相手をダウンできるわ。俺、花屋向いてねえのかな」
花屋はすっかり出番が減った注射器をホルダーから取り出して、くるくると指先で回す。
彼はずっと養父が強いて来たスタイルに従っていたそうで、自分の戦闘スタイルが確立されていなかった。それでいて、あれだけの実力を備えていたのだから、自分に合った戦い方を磨けば僕より強くなってしまう日も近いかもしれない。
「使用頻度が低くても投擲技術が高いのはメリットしかないよ」
「あーはいはい。お気遣いどうもありがとうございます~」
「本当に思っているから、言っているんだよ」
うんざりしたように口を尖らせる彼に僕は訂正を入れる。彼はひねくれ者だから口先ではああ言うが、言った分だけちゃんと通じているだろう。
「…で、あの頭ゆるゆるクソヤンキーが普通に暮らせる方法って見つかったの?」
目の前に転がった男の傍に花屋はしゃがむと、取り出した注射器を彼の腕に差し込んで液体を注入する。恐らく致命毒だ。確実に仕留めるために打っておくのだろう。
「まだなんだ。情報屋で関連情報を買いあさったんだけど、成果はなかった。ラプラスはコンピューターではなくて人間の可能性があるという情報があったから、ラプラスにコンタクトをとって黄金くんを人間としてもらえないか交渉することも考えたんだけど…」
この都市を管理するスーパーコンピューター、ラプラス。この街にある地上に繋がるエレベーターの傍にある高い塔の上にあると言う。
多くの人間がそれを無機物だと思っているが、人間なのだと一人の情報屋に3000万ほど詰んだら話してくれた。
しかし、確実な情報ではないらしく、確実性は55%程度だそうだ。時折発見される不可解なエラーや、ラプラスが判定するグレーゾーンの曖昧さなどから分析したものらしく、根拠こそあれそんな頼りない情報では心もとない。
「へえ。でも、もし人間で交渉できるとして、Sが直接管理しているラプラスの塔に忍び込むのは俺たちでもちょっと無理があるな」
使い終わった注射器をホルダーにしまい、花屋が立ち上がる。彼は僕に振り返ることなく窓の外に目線を投げ、腰に手を当ててため息をついた。
「…肉屋はブラウンシュヴァイクの成金息子を知ってるか?この間、ニュースで懸賞金がかかったバケモノみてえな野良犬捕まえたっていう変な奴」
僕は彼の言葉に首を傾げた。僕はあまり興味のないニュースをすぐに忘れてしまうが、ブラウンシュヴァイクの名前は知っている。
こちらもS直属の犬売りを中心とした卸業を商っている富豪の名前だ。地下で人間として中流以上の生活をしているなら、誰でも耳にしたことがあるだろう。
「名前は知っている。あそこのご子息がどうしたの?」
「俺はアイツと同じ高校だったんで、ちょっとしたツテがあってよ。アイツが言ってたんだけど、戸籍をラプラスに偽って犬を人間にする方法があるんだと。先日も一人の調教師が、入れ込んだ犬を自分の身分と引き換えに人間にしたらしい」
「ラプラスに偽って…?」
話が見えずに口に手を当てて僕は思考する。しかし、その調教師の話は正直身に覚えがあった。身に覚えがあるというか、ほんの数週間前に全裸の元調教師をオークション会場から救出した。救出を依頼してきたのは、地上から来た犬の少年だ。
地下から地上に上がれるのは人間だけで、犬はできない。彼の依頼を受けたのは地上にあるガロウズなので、その時点で彼はもう犬ではなかったのだろう。
それをどうやってラプラスに誤魔化すというのだろう。
「…これでどう誤魔化すというの?」
顔を上げて花屋を見やると、彼は少し得意げな笑みを口元にたたえながら僕に一つの道具を渡した。
それは針が付いた長方形のスタンプのような物だった。
「これはその調教師が戸籍を偽るときに使った道具だ。成金息子はこれを調教師に依頼されて作り、一人の犬売りを介して売り渡したらしいぜ。俺たちのマイクロチップに特殊な電磁波を流して情報を作り変えるとかで、これでラプラスに存在を誤認させるらしい」
「詳しい仕組みは作った本人に聞かないとわかりませんけどね~」と花屋は口を尖らせる。
「これは特別仕様で、この針を差すだけでマイクロチップに代わる極小の機器が差した場所に埋め込まれる。地下の人間だという情報をその機器に登録して埋め込めば、晴れてあのゆるゆるヤンキーは地下の人間だ」
「でも、人口は全て数値でラプラスが管理しているはずだ。突然、黄金くんみたいな成長した人間が一人、何の情報もなく登録されたら怪しまれると思うよ。入れ替える人間もいない」
僕だって何もしていなかったわけではない。花屋と同じようなことは考えた。
ただ、それでは腕時計の支給をSに申し込んだ際に黄金くんの詳細を調べられてしまう。嘘で固めた情報しかない人間を、Sがすんなりと承認してくれるわけがないのだ。
しかも、黄金くんは地上で行方不明扱いになって、今現在もニュースで報道されている。Sが調べなくとも、誰かが黄金くんのことを不審に思って調べたらあっという間にバレてしまう。
誰かを殺して戸籍を入れ替える方法もあるが…そもそも地下の人間から始末屋に依頼がくることがあまりない。法律がない分、私怨で殺しても合法だからだ。
そうなると、いくら仕事で始末屋をしていようと、依頼でもない人間を誰か無差別に選別して殺すなんて、さすがに良心が痛む。
「ところがさ~、近いうちに俺の身近な地下の人間が死ぬ予定があるんだよね~」
花屋は片方の口の端だけ釣りあげて、不敵な笑みを浮かべて僕に振り返った。
「俺の育ての親か、お前。俺はお前が死んだ時点でトンズラするのは決定事項だから、生きること間違いなしだけど、さっきの二人のうち少なくともどっちかが死ぬ」
僕が手に持ったままのスタンプを再び奪うように取り上げると、彼はそれをヒラヒラと振る。
「死んだ方の戸籍と、腕時計を奪ってアイツに譲渡すれば万事解決。そうだろ、お肉屋さん?」
僕は彼の手の中のスタンプを見つめながら沈黙し、小さく頷いた。
確かにそれなら黄金くんは確実に、安全に地下の人間になれる。人目を気にせずに外を出歩ける。お金を気にする彼がバイトをすることだって出来るし、好きなものを自分の好きなタイミングで買いに行ける。それはとても大事なことだ。
「…理不尽に思わねえのか?俺はお前に何かあったら迷いなく逃げるし、お前が死んでも養父が死んでも俺は自由になる。この計画、最初から俺にしか得がないのは分かってるだろ」
ニヤニヤと笑っていた花屋が、不意に笑うのをやめて訝しむように首を傾げた。
そうだ。分かっている。これをやったところで、本来僕には何の得もないのだ。
黄金くんが花屋を助けたいと願っているから、彼に幸せになって欲しいから手伝うだけ。見返りがあるとすれば、花屋から自分への私怨が消えるってだけ。それは本当に嬉しい話だが、それは僕が死んだら成り立たない。
何も言わない僕に、花屋は「あーあ」と苛立った声を出した。
「そう思ったから、この計画が出たときに俺も色々調べた。いわば、これがあのヤンキーに執着するお前への成功報酬だ。もしお前が死んだら、アイツは人間になっても路頭に迷う。だからお前が死んだ時、俺は絶対生きて帰って俺がアイツの面倒見てやるよ」
その申し出は、嬉しいような複雑な気分になるものだ。黄金くんは確かに平和に暮らしていけるだろうけれど、僕が死んだ時は花屋が彼の隣でずっと過ごすのか。
僕は思わず笑う。
「…僕が生きてるうちはあげないからね」
「はあ~?いりませんし?お前みたいな変態とつるむ奴の気が知れねえなあ~」
わざとらしく高い声を出して花屋は出口へと向かう。僕もナイフとフォークを腰にしまって彼に続いた。
「ところで、先代の肉屋さんは手伝ってくれたりしないの?」
「黄金くんの存在を教えてないから内緒」
僕の答えに花屋はケッと吐き捨てるように息を吐いて口を尖らせた。
花屋とこなす仕事は、一人で黙々とやるよりは随分と楽しかった。
死人の内臓を愛でることだけを趣味として、人との関わりを拒絶していた頃が嘘のようだ。こういう環境を作ってくれた黄金くんには、やっぱり感謝が尽きない。
作戦決行を間近に控えて、僕と花屋はそれぞれ前日に休みを取ることにした。もしかしたら死ぬかもしれないのだ。最後の晩餐と言ってもおかしくはない。花屋だって散々生きて帰ると言ってはいるが、絶対に生きていられる保証はどこにもないのだ。
僕は黄金くんが心配しないようにあくまでいつも通り過ごすことにした。近頃はキスやハグも許してもらえるようになって、ヤキモチを妬いたなんて言ってみたら困った顔をするくらいには気にかけてもらえている。
もうそれで十分かなと思っている。あわよくばその先も、なんて思ってしまったが、拒絶させてしまったので仕方ない。
もう少し時間があったらチャンスがあったかもしれないとか、そんな下心だけで言えば、ちょっと作戦結構の時期が早いことが憎い。僕だって黄金くんの体内に触れてみたいよ。
休みの日の朝、もぞもぞと僕はベッドの傍の床に頭をつけた状態で目が覚める。なんでこんな体勢で寝てしまうのか僕もわからない。小さい頃はよく布団から大分離れたとこで目覚めていたから、ベッドに身体が乗っているだけ大分マシなのかもしれない。
ベッドに乗ったままの足を床に下ろして起き上がる。欠伸をして立ち上がる。髪を腰で踏んでしまって、少し引っ張られる。ずっと放っておいてしまっていたけど、さすがに腰より長くなってきたから切るべきかもしれない。
キッチンに立って今日の朝ごはんを考える。初めて黄金くんを家に入れた時は、アレルギー原がない料理を作ることに慣れていなくて苦労したけど、最近では慣れたものでレシピを見ずに作れるものも増えた。
今日は何にしようかな…最近は和食が続いていたし、たまには洋食にしようかな。彼が食べられる具材を使ってサンドイッチでも作ろう。黄金くんは牛乳アレルギーだから、添えるヨーグルトはアレルギー用のだ。カルシウムが取れて身体にとてもいいけど、独特の苦味があるから、ちょっとジャムを大目に入れて分からないようにしないと。
そんなことを考えながら朝ごはんを作り始め、完成が近づいたあたりで黄金くんが眠そうな顔で欠伸をしながら自室から出て来た。僕がいつもこの時間に起こすことに慣れて、習慣化しているようだ。
黄金くんが地下に来てから、早いもので半年が経過しようとしていた。半年も家の中に閉じ込めてしまったことを申し訳なく思う。一刻も早く、彼が自由に地下を歩き回れるようにしてあげたい。
「おはよう」
「おう、要おはよー」
まどろんだ目で彼は少し微笑むと僕の傍へとやってくる。出来上がりつつある朝食を見て「おっ、今日は洋食だ」と感嘆の声を上げた。
「ヨーグルトだ!なんか凄い久しぶりに食べる気がする…市販のはダメなのに、どうやって作ってるの?」
「アレルギー用のがあるんだよ。ちょっと成分が違うから、慎重に使わないといけないんだけどね」
少し苦味があることは伏せて伝える。意識してなければ分からないこともある。
黄金くんは完成されたお皿を持って一足先にリビングへと向かう。僕も残りのサンドイッチを皿に盛り付け、自分の分のコーヒーを持って向かった。
テーブルに朝食を並べ、すでに椅子に座っていた黄金くんの頭に触れるだけのキスをする。
黄金くんはちょっと照れたようで頬をかいて目をそらす。この彼の癖もだいぶ見慣れたものだ。
「じゃあ食べよっか」
黄金くんの向かいの席に座り、僕は両手を合わせる。黄金くんもそれを見て、パンッと多きな音を立てて手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます!」
朝食に手をつける。
「俺、サンドイッチはトマトのやつが1番好きだなあ。トマトの汁吸ってべしょっとしたパンってなんであんなうめえんだろな?」
厚切りのトマトを挟んだサンドイッチをかじりながら、幸せそうに目を細める。
「美味しいんだ…」
僕はあまりそういうことを考えていなかった。確かに味がしみているのは美味しいが、パンの食感が損なわれるので僕としては判断が難しい。
ヨーグルトも軽くジャムをかき回してから、スプーンで大きな1口を運ぶ。
「やっぱジャムはケチらずたっぷりがうめえよな。ほら、ヨーグルトってちょっと苦いし」
黄金くんは普通のヨーグルトを食べたことはなかったようで、アレルギー用ヨーグルトの独特な後味を気にしない様子で食べていた。
「…あ、そういや今日…だったよな?花屋のおやっさん…」
少し気まずそうに黄金くんが声をかけてきた。
「うん、夕飯はここで食べて12時頃には出かけるよ」
いつも仕事に行く時と同じように伝えるが、黄金くんは何やら難しい顔で考え事をしているようだ。
「あのさ。今日の夕食、俺が作っちゃダメ?」
サンドイッチの最後の1口を口に放り込みながら、彼はおずおずと申し出た。
「何を作るの?」
サンドイッチをかじり、飲み込んでから尋ねる。すると彼は慌てたように僕に片手を開いた状態で突き出した。
「あっ、メニューはあとのお楽しみだから要の手伝いも禁止な!大丈夫、勝算はあるからさ!」
任せとけと言いたげに自身の胸をドンと叩く彼に少し不安があるが、そのやる気を否定するのは忍びないので任せることにした。
夕食時になると、黄金くんはいやに張り切った様子で腕まくりをしながらキッチンへと消え行く。
ガチャンとか「うわっ!?」と音や声が聞こえる度に心配になって見に行こうとするのをキッチン前で追い返されるのを3回ほど繰り返した後、黄金くんは蓋を乗せたどんぶりを両手に持って表れる。
「お待ちどうさま!」
先に席につかされていた僕の目の前にどんぶりを置いて箸をわたしながら、黄金くんは得意げに喋り出す。
「今日は決戦だろ。だから勝負前にふさわしい料理を作ったんだ!」
匂いだけなら美味しそうだ。蓋を開けるとご飯に敷かれた不揃いな千切りキャベツの上に、形は崩れているもののたっぷりとソースの染みたカツが散らばった、ワイルドと表現したくなるソースカツ丼が現れる。
「本当は卵とじする方が一般的なんだけど、俺卵ダメだからさ。俺の中ではこれが一般的なカツ丼!受験前とかに自分で調べて作ったんだ。ほら勝負に勝つ!なんつってな!」
僕は彼の言葉に首を傾げる。カツ丼を食べると勝てる…?聞いたことがない。どこの宗派の考え方なんだろう。
「あー、一応シャレだからねこれ?笑うとこな?」
気まずそうに苦笑いする彼に僕は遅れて「ああ」と手を叩く。カツと勝つをかけた言葉遊びだったのか。察しが悪くて申し訳ないことをした。
「ま、まあ食ってみ!形ちょっと崩れたけど味はそんな悪くないと思う…!」
「いっただきまーす」と手を合わせる彼に釣られるように僕も手を合わせる。
「いただきます」
彼のカツ丼に箸をつけて、白飯と一緒に咀嚼する。少し塩分が強い。少し身体に悪そうだが、黄金くんが僕の勝利祈願で作ってくれたんだ。ありがたく食べないと。
「ありがとう」
目の前でカツ丼を食べる黄金くんに僕は微笑む。
「よかった!これで大勝利間違いねえな!」
ニカッと笑って彼も自分の分のカツ丼に箸をつける。
「ちょっとしょっぺー!」
笑ってお茶を口にする黄金くんだったが、ふと不安げに俯むく。いつもはよく噛んで色んな話をしながら食事を楽しむ彼は、何だか泣きそうな顔で黙々とカツ丼を掻っ込むように食べていた。
「どうしたの?そんなにしょっぱかった?」
カツ丼をかき込んで食べる彼の顔を覗き込む。
「何でもない!」
どんぶりから顔を上げた彼は自分の顔を腕でゴシゴシと擦ると、いつも通りの笑顔を僕に向けた。
彼も何か思うことがあるのかもしれない。そうだとしたら、不謹慎だけど少し嬉しかった。
夕飯を食べ終えて、黄金くんとはいつも通りの会話をした。
先代の花屋と戦うなんて、不安がないわけじゃない。僕が死んでも気にしないでとか、僕の戸籍になるからお金の心配はないよとか、そう言う話は今の花屋に託した。だから、このままの方がお互い心に優しいだろう。
約束の12時が近づき、僕はいつもの仕事着や武器をギターケースに入れて玄関に行く。黄金くんは僕の後ろについて見守っていた。
「じゃあ、行ってくるよ。朝には戻るから」
本当に戻ってこられるかはわからないが、少しでも彼を安心させたくて、いつも通り予定を告げた。
「…うん、気をつけてな」
不安を押し殺したような悲しげな笑顔で黄金くんは答える。
靴紐を結び終えて立ち上がりギターケースを背負うために振り返ると、1歩後ろにいたはずの黄金くんがすぐ傍で僕が振り返るのを待ち構えていたように立っている。
「どうし…」
そう言い終わる前に黄金くんは僕を力強く抱きしめる。彼からこういったスキンシップをとることは片手で数えるくらいしかない。驚いて空いた両手を半端に広げたまま彼を見つめる。彼は僕の胸に顔を押し付けていた。
「ぜってー帰ってきてよ」
彼の表情は見えなかったが、涙を堪えているのかその声は微かに震えている。
「心配しないで、帰ってくるよ」
黄金くんの背中をトントンと優しく撫でると、彼は僕の肩に手を添えたまま少し上半身を離す。
そのまま何も言わずに、僕の唇に自分のものを重ねて長い口付けをした。
「行ってらっしゃい」
ちょっと嬉しくて、僕の顔の筋肉が緩むのが自分でも分かった。彼の唇が触れた自分の口を舐める。
「いってきます」
マンションを出て、花屋との待ち合わせ場所へと足を運ぶ。僕が着く頃には花屋はすでに待っていて、僕を見ると小さく手招きをした。
「おせーよ、遅刻魔か」
「君が早いんだよ」
まだ12時を回ったばかりの時計を見ながら不機嫌そうに呟く彼に答えた。
「作戦は予定通りでいい?」
建物の影に入り、僕はギターケースを地面に置く。花屋は周囲に人がいないか腕を組んだまま目配せし、頷いた。
「ああ、問題なく。俺は今日、仕事でいないと養父に伝えてある。ないとは思うが、アイツが調べても分からないよう情報屋にも嘘の情報を扱うよう根回ししておいたから、万が一はそうねえだろうよ」
ギターケースから作業着を取り出して身につけ、僕はガスマスクを被る。
「僕は依頼で彼を殺しに来た、ということでいいんだよね?」
「まあ、嘘じゃねえ。俺からの依頼みてえなもんだろ」
ケッと吐き捨てるように花屋は笑った。
「お前が充分にアイツの注意を引いてくれたら、俺が後ろからあいつの背中、心臓目がけて積年の恨みを込めて一撃ズドン!だな」
手の平に自分の拳を叩きつけ、花屋はそう言うと、チラりと僕を見下ろす。
「…養父は毒使いだが、ガンナーだ。一撃食らうだけでも行動に支障が出るだろ。本当にかわしきれるのか」
「うん」
ナイフとフォークを腰にさげ、僕はギターケースを花屋に押し付けた。
僕らがここ最近、ずっと一緒にこなしてきた仕事は地上のヤクザたちが中心だ。ただ闇雲に受けたのではなく、彼らは銃を使うから練習に引き受けていたのだ。
「銃口の向きから軌道は予測出来るよ。見ての通り、君と組んでからも僕は無傷だ」
「バケモンかよ…これだから変態は嫌だね」
僕のギターケースを抱えたまま花屋はうんざりしたようにため息をついたが、その表情はどこか安心したようにも見えた。
「じゃ、後で合流だ。せいぜい生きるか、俺が養父に見つかる前に死んでくれよ。生き残った後に言い訳苦しくなるのは勘弁だぜ」
口の片方だけ釣り上げて、挑発的に笑う花屋に僕は黙って頷いた。
花屋から教えてもらった人気のない通りを進み、影を縫うようにして彼の屋敷へと向かった。
いつもなら自分で侵入経路を確保するが、今回は花屋がわざわざ裏手の扉とセキュリティを解除してきている。僕は指定された入り口に音を立てないように侵入し、中を見回す。どうやらキッチンのようだが、中は真っ暗だ。もう寝ているのだろうか。花屋からそんな話は聞いていないが。
キッチンから出ると広いダイニングに出る。ダイニングテーブル一式の他に、暖炉と大きなテレビ、革張りの1人がけソファはティータイム用だろうか。
先程から屋敷の壁沿いには見たこともない植物が均等に植えられている。花屋というだけあって、観葉植物を好むのだろうか。
生活感がないほどに整えられたその家具は、いずれも埃をかぶることなく綺麗な状態で置かれている。几帳面で、神経質そうな家主の性格が伺えるような気がした。
廊下を通り、ホールにつくとガスマスクのナイトレンズに人影が写った。
石像か?そう思った瞬間、人影は僕に向けて片手を突き出す。
あの手の動き、拳銃か?
急いで拳銃の軌道から僕は上半身を横にずらして回避する。それとほぼ同時に銃声が鳴り響き、僕の背後の壁に穴が空いた。
「…そのガスマスク、肉屋のせがれか」
コツコツと踵を鳴らして人影が近づいてくる。窓からもれる光を浴びて現れたのは、金色の髪を後ろに撫で付けたオールバックの初老の男だった。
「この家は目に見えないほど小さな胞子を飛ばす植物を植えていてね。普通の人間なら忍び込んでも5分と経たずに息絶える。花屋の人間以外はね」
彼は僕のガスマスクに銃口を向ける。
「それをさせない、そのガスマスク。忌々しいな」
彼が引き金に指をかけるのを見て、僕は軌道から首をそらして避ける。ゆっくりと歩み寄る僕に向けて、彼は様子を見るように引き金を引く。
「先代の肉屋は結構当たったんだが、せがれの方は随分と身軽なようだ。華奢なだけある」
僕が歩み寄るのと同じ速度で彼は距離を取ると、使い終えたマガジンを捨て、新しいものを装着する。
「息子から聞いたよ。君が今日の夜に私を殺しに来るとね。だからここで待っていた」
彼の言葉に僕は足を止める。花屋が予め教えていたから、彼はここで武装して待っていた…?
打ち合わせ段階ではなかった情報に困惑するが、ガスマスクが幸いして相手には僕の表情は分からなかったようだ。
「寝首を搔くつもりだったのだろうが、残念だな」
彼は足のホルダーからもう一丁の銃を取り出し、僕に向ける。もう片方はリボルバー式だ。
銃口がこちらを向く。軌道を読んですぐさま首をそらすと、弾丸がまとった風が横を頬を掠めた。
地面を蹴るように走り出し、彼の懐を目指す。先代の花屋はすぐにバックステップで距離を取り、銃を連射する。
色々な銃を扱う人間を相手に練習をしてきたが、どれも精度が違う。寸でのところで身を逸らして回避し、足元に飛ぶ銃弾をジャンプでかわす。
リボルバーの装填数は6発。今ならリボルバーなら残弾切れで、普通の銃一丁ならフォークで弾ける。リボルバーやライフルでないなら貫通の驚異はないはずだ。
先代の花屋との距離が詰まる。目の前に迫る彼は表情も変えずに追撃を行う。その銃口は明後日の方を向け、発砲する。不意に感じる嫌な予感に、僕は首をつこうと構えていたナイフを彼が銃口を向けていた方向へと向ける。
バネが勢いよく伸びたような奇妙な音と共にナイフに強い衝撃が走る。ナイフに響くような振動。煙を上げるナイフの傷は1つの答えを連想させる。
跳弾だ。
「防ぐか。だが、武器が壊れたら君は何で私を屠るんだろうな」
跳弾に気を取られている間に距離を取った彼はリボルバーに弾を装填する。
周囲を確認すると、鏡のような銀色の光沢を放つ板がいくつも部屋に置かれている。あれが恐らく跳弾する素材なのだろう。
「チュートリアルはおしまいだ、肉屋のせがれ。君はここで死んでもらう」
先代の花屋が再び銃を発砲する。軌道を回避し、身体を逸らすが、背後から跳ね返ってくるそれが僕の肩を掠める。
微かな痛みに眉をひそめる。でも、こんなのは痛みに入らない。彼に再び距離を詰めようと走り込む。
跳弾する板の位置は把握した。それであれば、下手に動き回るより、跳弾の角度が計算できるこの位置から大きく逸れる方が愚策だ。僕に許されているのは、彼への正面突破だけだった。
放たれる銃弾を避け、足元へ放たれる弾を地面を蹴りあげて宙でかわす。間髪入れずに放たれる銃弾を宙に浮いたまま身体を反らして回避し、身体をそのまま一回転させる。背面から飛び込む跳弾をナイフとフォークで弾き、正面に向きを戻して着地する。再び目の前まで迫った先代の花屋の首元にナイフを突くが、身体を捻って彼はそれを回避する。
続けてフォークを床に滑らせるように足を狙うが、それを先代の花屋は足で踏みつけて止める。
「青いな。経験不足だ」
リボルバーを握ったまま僕の顔を下から上へと拳で殴り上げる。ガスマスクがずれる。危機感を覚えてフォークから手を離すと、彼はそれを遠くへと蹴飛ばす。空いた足で僕の顔面を目がけて蹴りを入れるが、それを腕で防ぐ。ギリギリと強い力がかかる。現花屋には劣るが、強烈なキックだった。
ナイフを足に向けて振ると、彼はそれをバックステップで回避し、再び銃口を向ける。それは背後の跳弾板へと向けられている。弾を往復させる気だ。
銃口の軌道から身体を逸らし、跳弾に備えて身を屈ませると、突然足に激痛が走る。
力が抜けていく左足を震わせながら体勢を保つ。何故か跳弾した弾は僕の足を貫通していた。よく見ると背後で跳弾した弾は床の絨毯へと飛び、その下に敷かれた跳弾板でこちらに飛んできていたようだった。絨毯の焦げ目から銀色の反射がそれを物語る。
「こんな時でも悲鳴1つ上げないのは立派だな」
先代の花屋が鼻で笑い、僕の顔面目がけて再び回し蹴りを入れる。腕で防ぐと、身体を支える足から血が吹き出す。続けて顔面に向かってくる拳をナイフで受け止めると、ナイフが音を立てて折れた。
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バランスを崩す僕のガスマスクを掴み、彼はそれをむしり取る。
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それを彼の背後へと放りなげる。ガスマスクがカラカラと床を滑り、遠くへと姿を消した。
「知っているよ。既存の毒では死なないんだろう?でも、肉屋にも秘密にしたこの室内の毒はどうだろうね」
彼の言葉から間を置かずに視界が歪んでくる。込み上げる吐き気と割れるような頭痛。膝をついてその場に座り込む僕を彼は足で蹴飛ばした。
床を転がり、僕の足から流れ出る血液が線をひいた。距離が空いた先代の花屋はその線をなぞるようにゆっくりと僕へと歩み寄る。
「サヨナラだ」
「…どうだろうね」
歪んでいく視界の中、吐き気をこらえながら僕は笑う。
「彼が裏切ってないなら、僕の任務は完了だ」
その瞬間、バキッという金属が弾ける音で屋敷が揺れる。鎖が擦れる音と共に天井の巨大なシャンデリアが落ちる。それは先代の花屋の上へと落ちて弾け飛ぶ。破片が僕の身体を掠める。
シャンデリアの上に乗っていた白い人影は僕に駆け寄り、手を差し伸べる。
「下手くそ!真ん中におびき出せって言っただろうが!」
「人の誘導なんか…やったこと…ないからね…」
彼の手を取ってよろよろと立ち上がる。頭がグラグラと揺れるので、立っているのが精一杯だ。
「それに、シャンデリを落とすなんて…聞いてないよ。彼に僕が来ることまで…」
「その方が確実に仕留められんだろ。あのシャンデリアの太い鎖を握力で壊せるなんて、アイツは知らなかっただろうし、俺が直接殴るより殺意高めだろ」
よろける僕を見ながら、花屋は口を曲げる。ふと、彼は僕の顔を見て首を傾げた。
「…てか、お前ガスマスクどこやったの?」
なんとか立っていた足から力が抜ける。完全に床に倒れ伏し、僕の視界が暗くなっていく。
「しまった!お前ガスマスクないと死んじまうのか!おい!勝手に死ぬな!」
花屋が怒鳴りながら部屋の隅に投げられた僕のガスマスクへと走っていく。
ああ、でも終わったな。遠ざかる意識の中で僕は目をつぶる。
この毒、後遺症とか残らなければいいな。
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