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1章 入院
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※リレー小説なので一節ごとに書き手と視点が変わります…!文体は寄せていますが、違和感がありましたらすみません!※
1.
僕に友達はいない。恋人もいない。欲しいとも思わない。必要性がないからだ。
「地上には人が溢れているね。自分たちの過去の過ちも忘れて、増え続けていくだけの怠惰で傲慢な彼らを減らしてあげる。だからシェルターから人が溢れないんで済むんだよ」
眼帯を付けた逞しい中年男性が、僕のガスマスクを眺めながら言う。常に微笑みを絶やさない彼は僕の父親だ。
ガスマスクに仕込まれた変声機のメンテナンスは父親が定期的にしてくれる。息が常にかかるから、湿りやすく、壊れやすい。仕事中では外すことの出来ない装備なので、常に問題がないか見ておく必要がある。
「うん、きちんと手入れされてるね。顔に付けるものなんだから、常に清潔にしておくんだよ」
彼はガスマスクを僕に手渡す。
これが僕の物になったのは2年前。昔に父が使っていたものをリメイクして譲られた。
ガスマスクは僕らの家紋のようなもの。歴代の家長が代々引き継ぐトレードマーク。
「期待してるよ 、『肉屋』の新しい家長さん」
僕は黙って頷き、ガスマスクを受け取る。
僕は始末屋だ。地下世界最強と謳われた『肉屋』の息子。目の前の父が先代の家長だ。
父は昔と変わらぬ手つきで僕の頭をぽんぽんと撫でた。
「じゃあ今日も仕事頑張れよ!」
マンションの玄関を開いて彼は手を振る。僕は黙って父の背中を見送った。
1DKの最低限の家具しかないこのマンションが僕の家だ。テレビもラジオもコンポもない。ソファもない。あるとすれば仕事に使うパソコンと電話、シュレッダー、ベッドと1人がけのテーブルと椅子だけだ。
娯楽は必要ない。興味もない。趣味を1つあげるならば、それは仕事だ。
テーブルに置いて置いた資料の紙を手に取る。資料と一緒に送られてきたのはターゲットの写真。金髪のシニヨンと琥珀色の瞳。向かって右頬には古い傷跡のような皮膚の膨らみがある。派手な白いジャージを着た若い男の子だ。
ターゲットの名前は角田黄金。高校生3年生。
今日、僕は彼を始末する。彼は僕の知り合いで、彼は僕を「友人」と形容した。
彼は僕の名前も知らない。僕の顔も知らない。それなのに友人だなんて有りうるだろうか。
彼の資料をシュレッダーにかけて処分する。刃渡り20センチほどのカーヴィングナイフと柄の長いミートフォークをギターケースに詰め、上から作業服や靴と手袋、ガスマスクを重ねて蓋をした。
腕時計を見ると、時間は深夜の12時を回ろうとしている。
僕は玄関のコートハンガーに引っ掛けていた黒いロングコートに袖を通してフードを目深に被る。マンションのドアを開けて外に出ると、オートロックが閉まる音がした。
早歩きで街の中央のビルの中、エレベーターへ向かう。地上と唯一繋がるそれは、バベルの塔さながらだ。
地上に出るまでエレベーターで30分ほど。僕ら始末屋や掃除屋は特定の時間、特定のタイミングでのみ自由に地上に出る権利があり、地上を歩き回ることが出来る。
ビルのあちこちに設置された受付に腕時計を認証し、荷物チェックを経てようやく辿り着いた地上で、僕がまず向かう所は地上で経営しているバー『ガロウズ』の裏口だ。
一見するとただのレンガの外装だが、特定の石を決められた順序で叩くことで隠し扉が開く仕組みだ。その中で僕ら始末屋たちが依頼をこなす支度をする。
ガロウズは地上と地下が提携している、始末屋に唯一会って話が出来る場所だ。地上は地下の主Sに誓ってこの場所を侵したりしない。不可侵領域みたいなものだ。
地上の法に触れてしまう僕ら始末屋にとって、地上で唯一無二の隠れ家にして、セールスを行える数少ない場だ。
汚してもいいTシャツの上から腰にエプロンを巻き、私服とは別のコートを羽織る。ナイフとフォークをエプロンのベルトに下げ、ガスマスクを顔に付けた。
ガスマスクにはめられた赤いナイトレンズは相手から僕の顔を隠してくれる。マジックミラーと同じ要領で僕からしかレンズの向こうを見ることはできない。夜道も見える。闇に隠れなくてはいけない身からすれば、これ以上にない代物だ。
フードを被り、目深に顔を隠す。分厚い黒のゴムで作られた靴と手袋をはめ、準備はこれで完了だ。
ガロウズの内扉を静かに開くと、マスターが店のシャッターを閉めている背中があった。
「…荷物、預けさせてもらうよ」
声を掛けると、彼は少し驚いたようにこちらを振り返り、困ったように眉を寄せて笑った。
「もちろんです。お肉屋さんは、いつもながら気配を消されるのが上手ですね」
気配や足音の消し方、人の四角に入る術は物心付く頃から徹底的に父親から教えこまれた。努力が実を結んでいるということだろう。
「ありがとう。今日は他にガロウズを使う始末屋はいる?」
「いいえ、今日はお肉屋さんしか予定はないです」
僕の問いに答えながら、マスターは近くに立てかけてあるホウキを手に取る。
「お花屋さんとお肉屋さんが鉢合わせしてしまうのは、私としてもあまり喜ばしくないので
可能な限りずらして来て頂けるよう調整してますよ」
手馴れた手つきで彼は床をはく。表情は穏やかだが、本当に迷惑しているのは言葉のニュアンスでなんとなく分かる。
始末屋たちは家業なのでそれぞれに看板と言う名の別称がある。それが僕は肉屋。花屋も存在する。他にも香水師、人形繰り、鷹匠など看板の名前だけでは何者か分からないような別称を持って自らを名乗る。彼らも地上に来る際はガロウズを利用するので、たびたび時間が被ると顔を合わせてしまうのだ。
マスターとの話題に出た『花屋』は地下ではナンバー2に当たる敏腕の始末屋。『肉屋』にとっての商売敵に当たる。
僕としては彼に何の恨みもないが、何故だか一方的に酷く嫌われていて、顔を合わせるとどうにも雰囲気が悪くてマスターは気まずいのだそうだ。
「彼が来ないなら安心したよ。じゃあ、仕事に行ってくるね」
僕がドアの奥に戻るのを、マスターは頭を下げて笑顔で見送る。
ガロウズの裏手から伸びる路地は地上にしては入り組んでいて、20時くらいまでは飲み屋街として機能しているそうだ。地上は原則22時以降の外出を控えるよう定めているので、深夜24時を過ぎれば一気に人気がなくなる。暗闇と入り組んだ路地のおかげで、僕らみたいな日陰者は安心して活動できるのだ。
ターゲットの角田黄金がいる病院は、依頼人がわざわざ始末しやすいようガロウズの近場にしたらしい。
角田黄金は酷いアレルギーを持っていた。それも1つや2つじゃないらしく、少しでも摂取すばアナフィラキシーショックを起こす。しかも喘息持ちだ。病院通いも長く、食費も食事を作る手間も人一倍。彼の両親は彼を愛し、貧しくも医療費と生活費を捻出していたが、事故で亡くなったそうだ。
角田黄金はその後に親戚に引き取られ、今日までその家で生きてきたが、皮肉にも僕に彼の始末を依頼してきたのはその親戚たちだった。
看護師たちの死角を縫い、音もなく病院に忍び込むと角田黄金は個室で呼吸器を付けて眠っていた。
先日、彼の親戚はわざと食事に彼がアレルギーを起こす食材を少量だけ混ぜて発作を起こさせた。それにより、角田黄金はここで意識を失って入院しているというわけだ。
跡形もなく殺して消し去れるなら何でもいいと言われている。そのためにわざわざ密室がつくれる個室を用意したそうだ。
簡単な依頼だ。お膳立てまでされている。僕より依頼費の安い始末屋に頼んだって容易く完遂出来ただろう。
2年前、角田黄金と初めて出会ったのは肉屋として初めての依頼を受けて地上に出た時だった。
当時17歳だった僕はまだ未熟で、ターゲットに接近を気付かれてしまい、命を奪うことは出来たものの、腹に大きな切り傷を負う羽目になってしまった。
ガロウズに帰るまでの道のりで血を流しすぎて路地に座り込んだ僕をたまたま見つけたのが彼だった。
「…え?な…ど、どしたん?大丈夫…?」
少し離れた場所からこちらの様子を伺うように、逃げ腰で距離を詰めながら困惑した声をかける。
黒い髪を後ろで束ね、シニヨンにしているのが男性にしては珍しくて印象深かった。太陽みたいな明るい琥珀色の目には動揺の色が宿っている。
暗闇の中とは言え、僕はガスマスクを付けていて、腹からは血を流している。腰には血で汚れたナイフとフォーク。どう考えても、そんな人間に声をかけるのは愚かな選択だ。
「…サバイバルゲームで…うっかり本当に怪我を…」
苦しすぎる言い訳だとは自分にも痛いほど分かっていた。
ガスマスクを通して出る僕の声は変声機で機械的に変えられる。サバイバルゲームで変声機まで仕込む人などそうはいない。怪しさの塊だっただろうが、血が回らない頭では他の言い訳が出てこなかった。
「サ、サバゲー…?あ、な、なるほど…?」
僕の苦しすぎる言い訳を彼は首を斜めにしながら無理やり飲み込む。危機管理能力がさすがになさすぎるような気がしたが、地上の人間はこんなものなのかもしれない。
「と、とりま…えーっと…救急車…!あ、いや警察が先…?どうしよ、救急車…何番だっけ…?」
彼はポケットからあたふたとスマホを取り出し電話をかけようとするが、軽いパニック状態になっているのか番号が出てこないようでぶつぶつとひとり呟く。
警察や救急車を呼ばれては面倒になる。僕は血まみれのグローブで彼の手首を掴んでスマホを下ろさせ、静かに首を横に振った。
「…サバイバルゲームで救急車は…恥ずかしいから、やめてほしい…警察も」
ここまで騙されてくれるならサバイバルゲームで言い訳を統一することにした。
「そういうもんなん…?え、でも…血やべえけど…大丈夫…?」
「半分くらいは血糊だよ。撃たれたりした時の、臨場感を…出すために」
本当は紛うことなく人間の血だし、血液が流れ続けて呼吸が辛いが、出来るだけ平静を装う。
「近くで裁縫道具を買ってきて、貰えないだろうか」
「裁縫道具!?それちょっと…ま、まあコンビニ行ってくっからあんま動かすなよ…?」
そう言うと彼は、数度こちらを振り返りながら走っていった。
暫くすると挙動不審な彼がコンビニの袋を手に戻ってきた。袋の中からソーイングセットを僕に手渡しながら隣に袋を置く。
「これと…一応ミネラルウォーターとタオルも買っといた…あとポテチ、店のオススメだって」
正直縫えるだけで万々歳だと思っていたが、気の利いた差し入れに僕は少し目を丸くする。危機管理能力はないが、人を労る心は目を見張るものがある。
ミネラルウォーターで腹の傷を洗い流し、タオルで拭いてから裁縫針に糸を通す。
彼はその光景に思わず顔を反らすが、気にもなるのかチラチラとこちらの様子を伺っては「うっ…」とか「あぁ…」と顔色を青や白にころころと歪めた。
医療針でも医療用の糸でもないそれは麻酔なしでは流石に痛いが、我慢出来ないことはない。
「…なんでポテトチップス?」
なぜか痛くないはずの彼があんまり辛そうに顔を歪めているので、気を逸らそうと話題を変える。
ポテトチップスが入った筒状の入れ物には『サワークリームオニオン』と書かれている。
「えっ…なんか、食ったら元気出るかなって思って…」
頬の傷跡をぽりぽりとかきながら彼は誤魔化すようにへへっと笑った。
「…君は優しい人なんだね、ありがとう」
傷を手早く縫い、痛みが落ち着くのを待とうと壁に寄りかかる。もう血は止まったから、少しすれば歩けるようになるはずだ。
傷の手当てが終わったことで忙しい表情の変化も落ち着き、彼も一息つくようにその場にしゃがんだまま安堵の息を吐く。
「…帰らなくていいのかい?22時以降の外出はあまり良くないだろう」
僕の手当が終わっていることに気付いているはずなのに、すぐに帰ろうとしない彼に視線を投げる。
「あー…うんまあ…そなんだけど」
指で地面の小石をいじりながら気まずそうに答えると、先ほどまでとはまた違った静かな声で答えた。
「俺家いても厄介者でさ…居心地悪いって言うか…だからまあちょっと長めの散歩中ってか?」
「そうなのか」
家族に恵まれてないのだろうか。それにしても、僕みたいな見るからに怪しい人間を助けたりする人の良さと危機感のなさでは、そのうち誰かに間違えて殺されたり、巻き込まれたりしそうだ。
「僕は君のおかげで助かったけど、夜の路地は危ないよ。早く帰った方がいい」
「だ、だよねえ…」
彼は笑って軽く受け流しているようだったが、一瞬残念そうに肩を落としていた。
僕はポケットに入れていたメモにガロウズの住所を書き記す。なんでそんな気になったのか自分でも不思議だが、借りは返すべきだと思った。
その紙を彼に差し出す。半分以上が僕の血に染まった物騒なペイント付きだが仕方ない。
「どうせ来るならここに来たらいい。僕はここで夜中1時の閉店掃除のバイトをしている。遊びに来るなら待ってるよ」
彼は恐る恐るその紙を受け取り目を落とす。僕の言葉に彼は心底嬉しそうな笑顔が溢れだす。
「いいの!?」
「バーだから未成年は入りずらいだろうけど、ソフトドリンクなら頼めるから」
僕はようやく頭に血がめぐり始めたのを感じて、ゆっくりと立ち上がる。
「今日はありがとう。ポテトチップス、家に帰ったら食べるよ」
「おう、お大事にな?…サバゲーもほどほどに遊べよ?」
冗談めかしく笑顔を見せる彼は先ほどのサバイバルゲームの話をすっかり信じ込んだようで「今度サバゲーの話いろいろ聞かせてよ!」と僕の姿が見えなくなるまで手を振った。
サバイバルゲームなんて正直、僕も分からないし興味もない。でも、また彼に会うなら多少の知識が必要だ。
2日後に彼は本当にガロウズに訪れた。どの格好で会うべきなのか迷ったが、マスターから声を掛けられてから出来たのは長い前髪を上げて全てフードの中に隠すくらいで、結局出会った時と同じガスマスクにコートを羽織った仕事着でバーに顔を出した。
マスターの気づかいでホウキを渡され、掃除バイトという体を貫くことにした。
「…どゆこと?」
「ガスマスクが好きなんだ。趣味で付けてる」
彼は僕の適当な言い訳に真顔で黙ったが「なるほどね」とやはり無理やり納得したようにうんうんと一人頷く。
「ガスマスクって何歳なの?」
「ガスマスクは無機物だから歳は取らないよ」
「あ、いやそうじゃなくて!お前の愛称っての…?名前聞いてなかったから…」
何故か気まずそうに目を伏せる彼の言葉に、僕は「ああ」と手を叩いた。
愛称など生きてきて必要に感じたことがないが、確かに名前がなければ呼びずらい。メガネをかけている人をメガネと呼称するようなものか。
名乗りたいところだが、仕事柄名乗るわけにもいかない。
「いい愛称だね。僕は17歳だよ」
「歳近そうって勝手に思ってたけどマジだったなあ!俺は今年で16になる!」
歳が近かったのがそんなに嬉しかったのか彼はニッと歯を見せて笑う。
こんな不審人物と歳が近いことに何か利益でも生まれるんだろうか。
「じゃあ高校生なのかな。学校は楽しい?」
「うーん…つまらなくはないけど…結構気疲れするかなー」
彼は相変わらずの笑顔だったが、少し困ったように眉を顰め付け加えるように小声を漏らした。
「金髪とかピアスとか話あんまついてけねえし…」
彼のよく着ている派手なジャージに不釣り合いな黒い髪。それはそれで綺麗な気もするが、地上のトレンドには金髪やピアスがあるのかもしれない。
「ピアスくらいならすぐあけられそうだけど」
「あー、うんまあ開けられなくはないんだけど…アレルギーでさ…」
彼は残念そうに肩を落とすと「だー」と悔しそうな声をあげて机に突っ伏す。
アレルギーなら仕方がない話だ。合わない金属だと痒くて仕方がないと聞いたことがある。
「じゃあ髪を染めたらいい。髪が長くて染めにくいなら手伝おうか?」
「え、でも…ああいうのって結構金かかるし、維持するのも高いかなって」
僕の提案に少し嬉しそうに顔を上げるがもごもごと煮え切らない様子で指先をいじる。
確かに美容師に頼むとそれなりに値は張るが、大した額ではない。それに自分が染めるものなら安いだろう。母親の髪を染めるのをたまに手伝っているから相場は理解しているつもりだ。
地上の高校生は金欠なのかもしれない。
「…それなら、家に余った染料をもらって来てあげようか。母親が買いすぎたんだ」
僕の母親は髪を染めてはいるが、茶髪だ。金髪の染料など本当はない。
「ポテトチップスのお礼だと思ってくれればいい」
彼には手当ての恩がある。ポテトチップスも地下にはない味でとても美味しかった。
大金をせびられるのに比べたら、安すぎる礼だろう。
彼は「ポテチのほうが全然安いと思うけど」と言うがお礼と言われると幾分受け取りやすいのか「ありがとな」とまた笑った。
それからも2日おきや3日おきに彼はガロウズを訪れた。2階にあるマスターの自室の洗面台を借りて彼の髪を染めたり、他愛ない会話をして過ごすのが僕の仕事の合間の日課にもなっていった。
「俺。お前みたいな、気の置ける友人って初めてだからこうして会いに来るのめっちゃ楽しい!」
出会ってから数ヶ月が過ぎた頃にふと彼が僕に言った。
数ヶ月、夜中にバーで1時間程度喋るだけの関係。怪しいガスマスクを付けた名前も顔も分からない人間に、彼は無邪気に言う。
警戒心がなさすぎる。地上の人間はなんでこんなに不用心なんだろう。
「…信用できる友人は『気の置けない友人』って言うんだよ」
訂正を入れてみる。信用できないって意味なら正しい使い方だが、嬉しそうにする彼を見ていると、どうにも間違えている気がした。
「え、マジ?だって気が置けなかったらなんか警戒してるみたいじゃない?」
納得できないと言ったように彼は熱く語る。
警戒してないことくらい、見ていれば分かる。彼は非常に分かりやすくて、単純で、優しい人だった。
あれから2年経っても、僕らの交流は続いていた。ベッドに横たわる彼の寝顔を見下ろし、僕はその額を指先で触れる。ゴム手袋の上からでは、熱があるのかすらも分からない。
よく入院する人だとは思っていた。会いに来なくなったと思えば突然現れて「入院してたわ!」とあっけらかんと笑いながら事後報告する。病弱なんだろうとか勝手に思っていた。
アナフィラキシーショックは発疹や酷い痒みから始まり、呼吸器系に支障をきたすアレルギー反応。酷い時は皮膚が爛れたり、呼吸困難で意識を失うとも言う。
居心地の悪い家庭と繰り返す入退院を考えれば、同情せざる得ない。僕にまで始末の依頼を頼むような親族では、どんな扱いだったのかは想像に易い。
依頼は彼を跡形もなく消し去ること。失踪したということにして、痕跡を掃除屋に消させて、彼の遺体が見つからないように捜査を迷宮入りさせればいいだけだ。
「…君の周囲にはろくな人間がいないね」
彼の親族も、友人だと思い込んでいるガスマスクの男も、本当にろくでもない。
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僕に友達はいない。恋人もいない。欲しいとも思わない。必要性がないからだ。
「地上には人が溢れているね。自分たちの過去の過ちも忘れて、増え続けていくだけの怠惰で傲慢な彼らを減らしてあげる。だからシェルターから人が溢れないんで済むんだよ」
眼帯を付けた逞しい中年男性が、僕のガスマスクを眺めながら言う。常に微笑みを絶やさない彼は僕の父親だ。
ガスマスクに仕込まれた変声機のメンテナンスは父親が定期的にしてくれる。息が常にかかるから、湿りやすく、壊れやすい。仕事中では外すことの出来ない装備なので、常に問題がないか見ておく必要がある。
「うん、きちんと手入れされてるね。顔に付けるものなんだから、常に清潔にしておくんだよ」
彼はガスマスクを僕に手渡す。
これが僕の物になったのは2年前。昔に父が使っていたものをリメイクして譲られた。
ガスマスクは僕らの家紋のようなもの。歴代の家長が代々引き継ぐトレードマーク。
「期待してるよ 、『肉屋』の新しい家長さん」
僕は黙って頷き、ガスマスクを受け取る。
僕は始末屋だ。地下世界最強と謳われた『肉屋』の息子。目の前の父が先代の家長だ。
父は昔と変わらぬ手つきで僕の頭をぽんぽんと撫でた。
「じゃあ今日も仕事頑張れよ!」
マンションの玄関を開いて彼は手を振る。僕は黙って父の背中を見送った。
1DKの最低限の家具しかないこのマンションが僕の家だ。テレビもラジオもコンポもない。ソファもない。あるとすれば仕事に使うパソコンと電話、シュレッダー、ベッドと1人がけのテーブルと椅子だけだ。
娯楽は必要ない。興味もない。趣味を1つあげるならば、それは仕事だ。
テーブルに置いて置いた資料の紙を手に取る。資料と一緒に送られてきたのはターゲットの写真。金髪のシニヨンと琥珀色の瞳。向かって右頬には古い傷跡のような皮膚の膨らみがある。派手な白いジャージを着た若い男の子だ。
ターゲットの名前は角田黄金。高校生3年生。
今日、僕は彼を始末する。彼は僕の知り合いで、彼は僕を「友人」と形容した。
彼は僕の名前も知らない。僕の顔も知らない。それなのに友人だなんて有りうるだろうか。
彼の資料をシュレッダーにかけて処分する。刃渡り20センチほどのカーヴィングナイフと柄の長いミートフォークをギターケースに詰め、上から作業服や靴と手袋、ガスマスクを重ねて蓋をした。
腕時計を見ると、時間は深夜の12時を回ろうとしている。
僕は玄関のコートハンガーに引っ掛けていた黒いロングコートに袖を通してフードを目深に被る。マンションのドアを開けて外に出ると、オートロックが閉まる音がした。
早歩きで街の中央のビルの中、エレベーターへ向かう。地上と唯一繋がるそれは、バベルの塔さながらだ。
地上に出るまでエレベーターで30分ほど。僕ら始末屋や掃除屋は特定の時間、特定のタイミングでのみ自由に地上に出る権利があり、地上を歩き回ることが出来る。
ビルのあちこちに設置された受付に腕時計を認証し、荷物チェックを経てようやく辿り着いた地上で、僕がまず向かう所は地上で経営しているバー『ガロウズ』の裏口だ。
一見するとただのレンガの外装だが、特定の石を決められた順序で叩くことで隠し扉が開く仕組みだ。その中で僕ら始末屋たちが依頼をこなす支度をする。
ガロウズは地上と地下が提携している、始末屋に唯一会って話が出来る場所だ。地上は地下の主Sに誓ってこの場所を侵したりしない。不可侵領域みたいなものだ。
地上の法に触れてしまう僕ら始末屋にとって、地上で唯一無二の隠れ家にして、セールスを行える数少ない場だ。
汚してもいいTシャツの上から腰にエプロンを巻き、私服とは別のコートを羽織る。ナイフとフォークをエプロンのベルトに下げ、ガスマスクを顔に付けた。
ガスマスクにはめられた赤いナイトレンズは相手から僕の顔を隠してくれる。マジックミラーと同じ要領で僕からしかレンズの向こうを見ることはできない。夜道も見える。闇に隠れなくてはいけない身からすれば、これ以上にない代物だ。
フードを被り、目深に顔を隠す。分厚い黒のゴムで作られた靴と手袋をはめ、準備はこれで完了だ。
ガロウズの内扉を静かに開くと、マスターが店のシャッターを閉めている背中があった。
「…荷物、預けさせてもらうよ」
声を掛けると、彼は少し驚いたようにこちらを振り返り、困ったように眉を寄せて笑った。
「もちろんです。お肉屋さんは、いつもながら気配を消されるのが上手ですね」
気配や足音の消し方、人の四角に入る術は物心付く頃から徹底的に父親から教えこまれた。努力が実を結んでいるということだろう。
「ありがとう。今日は他にガロウズを使う始末屋はいる?」
「いいえ、今日はお肉屋さんしか予定はないです」
僕の問いに答えながら、マスターは近くに立てかけてあるホウキを手に取る。
「お花屋さんとお肉屋さんが鉢合わせしてしまうのは、私としてもあまり喜ばしくないので
可能な限りずらして来て頂けるよう調整してますよ」
手馴れた手つきで彼は床をはく。表情は穏やかだが、本当に迷惑しているのは言葉のニュアンスでなんとなく分かる。
始末屋たちは家業なのでそれぞれに看板と言う名の別称がある。それが僕は肉屋。花屋も存在する。他にも香水師、人形繰り、鷹匠など看板の名前だけでは何者か分からないような別称を持って自らを名乗る。彼らも地上に来る際はガロウズを利用するので、たびたび時間が被ると顔を合わせてしまうのだ。
マスターとの話題に出た『花屋』は地下ではナンバー2に当たる敏腕の始末屋。『肉屋』にとっての商売敵に当たる。
僕としては彼に何の恨みもないが、何故だか一方的に酷く嫌われていて、顔を合わせるとどうにも雰囲気が悪くてマスターは気まずいのだそうだ。
「彼が来ないなら安心したよ。じゃあ、仕事に行ってくるね」
僕がドアの奥に戻るのを、マスターは頭を下げて笑顔で見送る。
ガロウズの裏手から伸びる路地は地上にしては入り組んでいて、20時くらいまでは飲み屋街として機能しているそうだ。地上は原則22時以降の外出を控えるよう定めているので、深夜24時を過ぎれば一気に人気がなくなる。暗闇と入り組んだ路地のおかげで、僕らみたいな日陰者は安心して活動できるのだ。
ターゲットの角田黄金がいる病院は、依頼人がわざわざ始末しやすいようガロウズの近場にしたらしい。
角田黄金は酷いアレルギーを持っていた。それも1つや2つじゃないらしく、少しでも摂取すばアナフィラキシーショックを起こす。しかも喘息持ちだ。病院通いも長く、食費も食事を作る手間も人一倍。彼の両親は彼を愛し、貧しくも医療費と生活費を捻出していたが、事故で亡くなったそうだ。
角田黄金はその後に親戚に引き取られ、今日までその家で生きてきたが、皮肉にも僕に彼の始末を依頼してきたのはその親戚たちだった。
看護師たちの死角を縫い、音もなく病院に忍び込むと角田黄金は個室で呼吸器を付けて眠っていた。
先日、彼の親戚はわざと食事に彼がアレルギーを起こす食材を少量だけ混ぜて発作を起こさせた。それにより、角田黄金はここで意識を失って入院しているというわけだ。
跡形もなく殺して消し去れるなら何でもいいと言われている。そのためにわざわざ密室がつくれる個室を用意したそうだ。
簡単な依頼だ。お膳立てまでされている。僕より依頼費の安い始末屋に頼んだって容易く完遂出来ただろう。
2年前、角田黄金と初めて出会ったのは肉屋として初めての依頼を受けて地上に出た時だった。
当時17歳だった僕はまだ未熟で、ターゲットに接近を気付かれてしまい、命を奪うことは出来たものの、腹に大きな切り傷を負う羽目になってしまった。
ガロウズに帰るまでの道のりで血を流しすぎて路地に座り込んだ僕をたまたま見つけたのが彼だった。
「…え?な…ど、どしたん?大丈夫…?」
少し離れた場所からこちらの様子を伺うように、逃げ腰で距離を詰めながら困惑した声をかける。
黒い髪を後ろで束ね、シニヨンにしているのが男性にしては珍しくて印象深かった。太陽みたいな明るい琥珀色の目には動揺の色が宿っている。
暗闇の中とは言え、僕はガスマスクを付けていて、腹からは血を流している。腰には血で汚れたナイフとフォーク。どう考えても、そんな人間に声をかけるのは愚かな選択だ。
「…サバイバルゲームで…うっかり本当に怪我を…」
苦しすぎる言い訳だとは自分にも痛いほど分かっていた。
ガスマスクを通して出る僕の声は変声機で機械的に変えられる。サバイバルゲームで変声機まで仕込む人などそうはいない。怪しさの塊だっただろうが、血が回らない頭では他の言い訳が出てこなかった。
「サ、サバゲー…?あ、な、なるほど…?」
僕の苦しすぎる言い訳を彼は首を斜めにしながら無理やり飲み込む。危機管理能力がさすがになさすぎるような気がしたが、地上の人間はこんなものなのかもしれない。
「と、とりま…えーっと…救急車…!あ、いや警察が先…?どうしよ、救急車…何番だっけ…?」
彼はポケットからあたふたとスマホを取り出し電話をかけようとするが、軽いパニック状態になっているのか番号が出てこないようでぶつぶつとひとり呟く。
警察や救急車を呼ばれては面倒になる。僕は血まみれのグローブで彼の手首を掴んでスマホを下ろさせ、静かに首を横に振った。
「…サバイバルゲームで救急車は…恥ずかしいから、やめてほしい…警察も」
ここまで騙されてくれるならサバイバルゲームで言い訳を統一することにした。
「そういうもんなん…?え、でも…血やべえけど…大丈夫…?」
「半分くらいは血糊だよ。撃たれたりした時の、臨場感を…出すために」
本当は紛うことなく人間の血だし、血液が流れ続けて呼吸が辛いが、出来るだけ平静を装う。
「近くで裁縫道具を買ってきて、貰えないだろうか」
「裁縫道具!?それちょっと…ま、まあコンビニ行ってくっからあんま動かすなよ…?」
そう言うと彼は、数度こちらを振り返りながら走っていった。
暫くすると挙動不審な彼がコンビニの袋を手に戻ってきた。袋の中からソーイングセットを僕に手渡しながら隣に袋を置く。
「これと…一応ミネラルウォーターとタオルも買っといた…あとポテチ、店のオススメだって」
正直縫えるだけで万々歳だと思っていたが、気の利いた差し入れに僕は少し目を丸くする。危機管理能力はないが、人を労る心は目を見張るものがある。
ミネラルウォーターで腹の傷を洗い流し、タオルで拭いてから裁縫針に糸を通す。
彼はその光景に思わず顔を反らすが、気にもなるのかチラチラとこちらの様子を伺っては「うっ…」とか「あぁ…」と顔色を青や白にころころと歪めた。
医療針でも医療用の糸でもないそれは麻酔なしでは流石に痛いが、我慢出来ないことはない。
「…なんでポテトチップス?」
なぜか痛くないはずの彼があんまり辛そうに顔を歪めているので、気を逸らそうと話題を変える。
ポテトチップスが入った筒状の入れ物には『サワークリームオニオン』と書かれている。
「えっ…なんか、食ったら元気出るかなって思って…」
頬の傷跡をぽりぽりとかきながら彼は誤魔化すようにへへっと笑った。
「…君は優しい人なんだね、ありがとう」
傷を手早く縫い、痛みが落ち着くのを待とうと壁に寄りかかる。もう血は止まったから、少しすれば歩けるようになるはずだ。
傷の手当てが終わったことで忙しい表情の変化も落ち着き、彼も一息つくようにその場にしゃがんだまま安堵の息を吐く。
「…帰らなくていいのかい?22時以降の外出はあまり良くないだろう」
僕の手当が終わっていることに気付いているはずなのに、すぐに帰ろうとしない彼に視線を投げる。
「あー…うんまあ…そなんだけど」
指で地面の小石をいじりながら気まずそうに答えると、先ほどまでとはまた違った静かな声で答えた。
「俺家いても厄介者でさ…居心地悪いって言うか…だからまあちょっと長めの散歩中ってか?」
「そうなのか」
家族に恵まれてないのだろうか。それにしても、僕みたいな見るからに怪しい人間を助けたりする人の良さと危機感のなさでは、そのうち誰かに間違えて殺されたり、巻き込まれたりしそうだ。
「僕は君のおかげで助かったけど、夜の路地は危ないよ。早く帰った方がいい」
「だ、だよねえ…」
彼は笑って軽く受け流しているようだったが、一瞬残念そうに肩を落としていた。
僕はポケットに入れていたメモにガロウズの住所を書き記す。なんでそんな気になったのか自分でも不思議だが、借りは返すべきだと思った。
その紙を彼に差し出す。半分以上が僕の血に染まった物騒なペイント付きだが仕方ない。
「どうせ来るならここに来たらいい。僕はここで夜中1時の閉店掃除のバイトをしている。遊びに来るなら待ってるよ」
彼は恐る恐るその紙を受け取り目を落とす。僕の言葉に彼は心底嬉しそうな笑顔が溢れだす。
「いいの!?」
「バーだから未成年は入りずらいだろうけど、ソフトドリンクなら頼めるから」
僕はようやく頭に血がめぐり始めたのを感じて、ゆっくりと立ち上がる。
「今日はありがとう。ポテトチップス、家に帰ったら食べるよ」
「おう、お大事にな?…サバゲーもほどほどに遊べよ?」
冗談めかしく笑顔を見せる彼は先ほどのサバイバルゲームの話をすっかり信じ込んだようで「今度サバゲーの話いろいろ聞かせてよ!」と僕の姿が見えなくなるまで手を振った。
サバイバルゲームなんて正直、僕も分からないし興味もない。でも、また彼に会うなら多少の知識が必要だ。
2日後に彼は本当にガロウズに訪れた。どの格好で会うべきなのか迷ったが、マスターから声を掛けられてから出来たのは長い前髪を上げて全てフードの中に隠すくらいで、結局出会った時と同じガスマスクにコートを羽織った仕事着でバーに顔を出した。
マスターの気づかいでホウキを渡され、掃除バイトという体を貫くことにした。
「…どゆこと?」
「ガスマスクが好きなんだ。趣味で付けてる」
彼は僕の適当な言い訳に真顔で黙ったが「なるほどね」とやはり無理やり納得したようにうんうんと一人頷く。
「ガスマスクって何歳なの?」
「ガスマスクは無機物だから歳は取らないよ」
「あ、いやそうじゃなくて!お前の愛称っての…?名前聞いてなかったから…」
何故か気まずそうに目を伏せる彼の言葉に、僕は「ああ」と手を叩いた。
愛称など生きてきて必要に感じたことがないが、確かに名前がなければ呼びずらい。メガネをかけている人をメガネと呼称するようなものか。
名乗りたいところだが、仕事柄名乗るわけにもいかない。
「いい愛称だね。僕は17歳だよ」
「歳近そうって勝手に思ってたけどマジだったなあ!俺は今年で16になる!」
歳が近かったのがそんなに嬉しかったのか彼はニッと歯を見せて笑う。
こんな不審人物と歳が近いことに何か利益でも生まれるんだろうか。
「じゃあ高校生なのかな。学校は楽しい?」
「うーん…つまらなくはないけど…結構気疲れするかなー」
彼は相変わらずの笑顔だったが、少し困ったように眉を顰め付け加えるように小声を漏らした。
「金髪とかピアスとか話あんまついてけねえし…」
彼のよく着ている派手なジャージに不釣り合いな黒い髪。それはそれで綺麗な気もするが、地上のトレンドには金髪やピアスがあるのかもしれない。
「ピアスくらいならすぐあけられそうだけど」
「あー、うんまあ開けられなくはないんだけど…アレルギーでさ…」
彼は残念そうに肩を落とすと「だー」と悔しそうな声をあげて机に突っ伏す。
アレルギーなら仕方がない話だ。合わない金属だと痒くて仕方がないと聞いたことがある。
「じゃあ髪を染めたらいい。髪が長くて染めにくいなら手伝おうか?」
「え、でも…ああいうのって結構金かかるし、維持するのも高いかなって」
僕の提案に少し嬉しそうに顔を上げるがもごもごと煮え切らない様子で指先をいじる。
確かに美容師に頼むとそれなりに値は張るが、大した額ではない。それに自分が染めるものなら安いだろう。母親の髪を染めるのをたまに手伝っているから相場は理解しているつもりだ。
地上の高校生は金欠なのかもしれない。
「…それなら、家に余った染料をもらって来てあげようか。母親が買いすぎたんだ」
僕の母親は髪を染めてはいるが、茶髪だ。金髪の染料など本当はない。
「ポテトチップスのお礼だと思ってくれればいい」
彼には手当ての恩がある。ポテトチップスも地下にはない味でとても美味しかった。
大金をせびられるのに比べたら、安すぎる礼だろう。
彼は「ポテチのほうが全然安いと思うけど」と言うがお礼と言われると幾分受け取りやすいのか「ありがとな」とまた笑った。
それからも2日おきや3日おきに彼はガロウズを訪れた。2階にあるマスターの自室の洗面台を借りて彼の髪を染めたり、他愛ない会話をして過ごすのが僕の仕事の合間の日課にもなっていった。
「俺。お前みたいな、気の置ける友人って初めてだからこうして会いに来るのめっちゃ楽しい!」
出会ってから数ヶ月が過ぎた頃にふと彼が僕に言った。
数ヶ月、夜中にバーで1時間程度喋るだけの関係。怪しいガスマスクを付けた名前も顔も分からない人間に、彼は無邪気に言う。
警戒心がなさすぎる。地上の人間はなんでこんなに不用心なんだろう。
「…信用できる友人は『気の置けない友人』って言うんだよ」
訂正を入れてみる。信用できないって意味なら正しい使い方だが、嬉しそうにする彼を見ていると、どうにも間違えている気がした。
「え、マジ?だって気が置けなかったらなんか警戒してるみたいじゃない?」
納得できないと言ったように彼は熱く語る。
警戒してないことくらい、見ていれば分かる。彼は非常に分かりやすくて、単純で、優しい人だった。
あれから2年経っても、僕らの交流は続いていた。ベッドに横たわる彼の寝顔を見下ろし、僕はその額を指先で触れる。ゴム手袋の上からでは、熱があるのかすらも分からない。
よく入院する人だとは思っていた。会いに来なくなったと思えば突然現れて「入院してたわ!」とあっけらかんと笑いながら事後報告する。病弱なんだろうとか勝手に思っていた。
アナフィラキシーショックは発疹や酷い痒みから始まり、呼吸器系に支障をきたすアレルギー反応。酷い時は皮膚が爛れたり、呼吸困難で意識を失うとも言う。
居心地の悪い家庭と繰り返す入退院を考えれば、同情せざる得ない。僕にまで始末の依頼を頼むような親族では、どんな扱いだったのかは想像に易い。
依頼は彼を跡形もなく消し去ること。失踪したということにして、痕跡を掃除屋に消させて、彼の遺体が見つからないように捜査を迷宮入りさせればいいだけだ。
「…君の周囲にはろくな人間がいないね」
彼の親族も、友人だと思い込んでいるガスマスクの男も、本当にろくでもない。
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