天底ノ箱庭 新世界

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5章

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2.
「じゃあ、また後で…絶対無茶はしないでね…?」
男たちの気配に慌てて解散したシャムが、ベッドに戻りながら俺に小さな声で笑った。その笑顔がどうにも可愛くて、力いっぱい抱きしめたいのに俺にはもう左腕はないし、右腕はまだ使えない。
シャムが上の階層に帰るらしい。頭の良い彼のことだから、現実離れした夢物語を話しているわけでもなく、理由を聞けば腑に落ちる話だった。
俺は地下の神にも等しいラプラスから追放された大量殺人鬼だ。いくらシャムが俺を庇おうと、彼が俺を連れて行こうとしても、神の決定には逆らえない。つまり、帰れるとしてもシャムしか帰れはしないのだ。
本当はシャムが帰るのは寂しいし、バビロンから逃げ出したとこで、この最下層でバビロンから逃げ切ることなんか無理で、この脱出計画を成功させたって俺に希望がないのは分かっていた。
でも、俺は彼に償わないといけないことも、今度こそ守りたい約束も沢山ある。それは、俺が命をかけるには充分すぎる理由だった。
男たちが帰ってきた頃に、シャムはベッドで寝たフリをし、俺はぐったりとソファで横になっていた。
シャムが身体を張って取ってきてくれた媚薬は、彼がさっきまでずっと相手をしてくれていたにも関わらず、じわじわと俺の身体を熱して呼吸を荒くさせた。
「よお、本日のお勤めといこうか」
刺青の男が横になっている俺の髪を掴みあげる。拳を振り上げたところで、彼は俺の様子がいつもと違うことに気が付いて眉をひそめた。
「…なんだ?随分熱いし、汗がひどい」
彼の言葉に火傷痕の男が隣から俺の顔を覗き込んだ。
「本当だ…もしかして、火傷が悪化したんじゃねえか?最近ガーゼ変えてなかったし、ずっと殴り倒してたからな…俺も火傷が悪化した時は高熱でだぞ」
彼らは困惑したように顔を見合わせる。さすがにいつも媚薬の効果が切れている時間に、媚薬と同じ状態になっているとは思いもしないようだ。
俺はあえて呼吸を更に大袈裟にあらげ、背中を丸めた。
「…く、くるし…いたい…」
火傷が悪化した説でいこうと、火傷が痛むフリをする。本当はそこまでじゃない。
「こんなん大した事ねえだろ、いつも通りぶん殴って…」
「いいやだめだ、火傷はたとえ軽症でも命に係わるときはある。コイツを殺すのだけは許されない。先にボスに報告した方がいい」
火傷跡の男は俺に殴りかかろうとする金髪の男の拳を止める。
「エリオ…」
彼等の向こうではシャムが心配そうな声を出すが、彼等にが見ていないのを良いことに小さくブイサインなんかを見せてくる。意外と肝が座ってるし、やってることが無邪気可愛くて笑いたくなるからやめて欲しい。
「俺らはボスを呼びに行く。てめえはここで見張ってろ、勝手に手出したりすんじゃねえぞ」
刺青の男は金髪に釘を刺すように低い声で言いつけると、火傷跡の男を連れて足早に部屋を出て行った。残された金髪の男は舌打ちをすると俺の頭をつま先で軽く蹴りながらむしゃくしゃした様子で呟いた。
「くそっくそっ…てめぇなんか早く死んじまえばいいんだ…!リーサルウェポンがなんだ、戦力なんか今更必要あんのかよ…くそっ」
俺はあくまで弱った様子を装いつつ、彼を見上げる。
考えてみれば、ここ最近の彼からの風当たりが特に強かった。わざと気絶しなさそうな部位を執拗に攻撃したり、他の2人が止めても殴るを止めなかったり、正直なところ厄介でめんどくさいと思っていたのだが、なにか逆恨みでもされているのかもしれない。
「…俺が、死んで…何になる…」
可能な限り掠れた声を出して尋ねてみる。興味はあった。野次馬根性ってやつだ。
俺の質問に彼は怒ったような顔で目を細めこちらを睨みつける。
「…お前が生きてると…あいつがずっと壊れねえ、ギリギリで正気を保って絶対希望を捨てないでお前の姿を追い続けてる。俺はそれが気に入らねえ…」
彼の背後でシャムは何かに焦ったような顔で身体を起こすが、俺と目が合うとすごすごと元のぐったりとベッドに横たわる姿勢に身体を戻した。
これは2人に何かあるな。俺みたいなニブチンでもちょっと察せる部分はある。
「…シャムが、好きなのか…?」
弱った状態を演出しながら、ソファに這いつくばったまま質問を重ねる。
金髪の男は何も答えないが、俺を見つめたまま目の端をピクリと反応させた。
「…ここから逃がしてやる。あいつら戻ってくる前に…だからお前だけでさっさとどっかいっちまえよ。今ならお前は死んだってことにしてやってもいい」
「お断りだ…」
2人一緒に逃がしてくれるなら、それほど嬉しいことはないが、要約すればシャムを譲れと言うことだろう。そんなことするわけがないし、俺はシャムのためにここまで来たんだ。むしろ、俺が死んでシャムが逃げ切るくらいの気持ちでいるのだから、舐めないで欲しい。
「シャムは、絶対に渡さないし…シャムは俺しか、好きにならない」
金髪の男は一層目を吊り上げて傍らに転がっていたコーラの瓶を掴んで振り上げる。彼が瓶を振り下ろすと同時に反射的に目を閉じると、痛みより先にパシッという音が響いた。
痛みが来ないことに疑問を抱いて目を開けると瓶を持った金髪の男の腕をすんでのところでシャルルが受け止めていた。
「ボ…ボス…」
「だめだよ、そんなもので人を殴っては。怪我をしてしまうだろ?」
シャルルは穏やかに微笑んで金髪の男を優しく抱きしめた。
「君は少し疲れているみたいだ。暫く休んだ方がいいね。後で気持ちが落ち着くお茶を入れてあげよう」
彼が優しく背中を撫でると鬼のような形相の金髪の男はみるみる泣きそうな顔に変わりめそめそとシャルルにすがってぐずり始めた。
シャルルの心の隙間に入り込むような独特な話術や立ち振る舞いは、俺がここ連日ずっと正気を保った状態で見ているから、何となく把握しつつあるが、ああも簡単に人を手なずけてしまう彼はやはり怖い。
こんな汚い世界のトップになるだけあってのカリスマなのだろう。手口を知っていると内心ドン引きだが、シャルルのおかげで殴られなくて本当に良かった。
シャルルは自分が着ていたファー付きのコートを金髪の男に羽織らせて後ろで驚いたような顔で立っていた仲間の二人に子供のようにベソをかく彼を受け渡す。
「部屋で休ませてやってくれ。よく眠れるようにあのアロマを焚くのを忘れずにね」
シャルルの笑顔に二人は少し表情を曇らせて男を連れて去って行った。
「さて…報告を受けて忙しいところをわざわざ来たわけだけど…症状はどうだろうか?」
彼は俺の顎を掴んで顔をまじまじと見つめる。シャムも俺たちの様子が気になるようでベッドに突っ伏しながらチラチラとこちらの様子を伺っている。
本当なら媚薬1本分くらい本気で煩悩を捨て去れば何とかなるくらいには最近は免疫が出来ているのだが、あえてエロいシャムについて考える。あっという間に身体が興奮を覚えて汗が吹き出したので、妄想は5秒で中断し、息を荒くシャルルを見上げた。
「確かに高熱で汗も通常より大量にかいているようだね…でも」
目を細めたシャルルは俺の顎をグイと持ち上げて自身の唇に寄せ、食むようなキスで舌を俺の口に侵入させようとしてきた。
「ん~!んん~っ!」
歯でその舌をガードし、腕がないので首だけで小さく抵抗する。あまり強い抵抗をすれば弱ってないとバレてしまうが、シャムがそばに居ると思うと気まずすぎて変な汗が追加で吹き出した。
シャムを視線だけで見ると、目を真ん丸にして俺を見つめるシャムの顔が見えた。
「微かに媚薬の味かするけど…最近は彼等が面白がって飲ませていたそうだね。まあ具合が悪い…そういう事にしておいてあげようか」
シャルルはそういうとシャツの胸ポケットから、俺の右手をつなぐ鎖の鍵を取り出した。
鍵穴に鍵を差し込みカチリと小さな音を立てて鎖が解かれる。
その瞬間、俺は右腕をすぐさまシャルルに向けてその場から飛び退いた。
「動くな!撃つぞ!」
身体を蝕む媚薬について出来るだけ考えないように、シャルルに睨みをきかせながら、後ろ歩きでシャムの元へと向かう。
「なるほど、やっぱり嘘か」
銃口を向けられた彼は焦るでもなくその場に立ったまま俺を見てにっこりと笑った。
「彼と逃げて何になる?この最下層でバビロンの手の及ばない場所なんて無いんだよ?」
「ある!シャムなら逃げ切れる!」
シャムの元まで行き、シャルルの様子を見ながら素早くシャムの鎖を右手で握り潰す。バキバキと音を立ててそれを壊すと、シャムは起き上がって俺に身を寄せて小さな声で呟く。
「…キスしてた」
「後で弁明させて」
シャルルから目を離さずに小声でシャムに笑う。俺がずっと着たまま脱がして貰えずにいた袖の破けたコートを右腕だけで脱いで、全裸のシャムに手渡した。
「ありがと…」
シャムはちょっと悪戯っぽく目を細めると、それを受け取り羽織る。
「そうだね。彼はきっとここに来るべくして来た人間では無いんだろう。忌々しいラプラスの元に帰るつもりかな」
シャルルは銃口を向けたままの俺に、少しの動揺もすることなくゆっくりと近づいてきた。
「来るな!」
銃口から弾を発射する。俺の血液で精製されたそれは彼の腹に飛び込み、破裂する。
威力をかなり落としたので、それはシャルルに殴られた程度のダメージしか入らないだろうが、彼は衝撃で後ろに倒れ込む。すぐに上体を起こした彼は腹を触り、そこには自分の傷ではなく俺の血が付着していることに気付いてか笑った。
「はっはっ…撃たないと思っていたんだけどね、少しだけ驚いたよ。だけど傷一つ付けないなんて随分威力を落としたらしいね、そんなに彼との約束が大事かい?」
シャルルは床に座り込んだまま愉快そうに俺を見つめる。
「ああ、大事だよ。嫁に貰う予定なんだ、今から約束破りまくりじゃ婚約破棄されんだろ」
シャムを背中に隠しながら、ジリジリとシャルルを回り込むように部屋の出口を目指す。
「いいさ行きな。届かない夢を死にものぐるいで追いかけなよ」
彼はあの穏やかで冷たい笑みを浮かべて俺を見詰めた。
「愛情なんて上辺だけの甘い言葉遊びだって思い知ればいい。君はどうせどこにも行けやしないんだからさ」
シャルルの視線を睨み返し、俺はシャムの手を右手のバレルで掴んで走り出した。
「期限は1ヶ月だ。1ヶ月で俺の手の届かないところまで逃げてみろ。出来なかったらまた迎えに行ってあげるからね」
部屋を出る俺たちの背中にシャルルの声が響いた。
逃げる途中、シャルルは…バビロンの連中は本当に追いかけて来なかった。あんなにしつこく俺たちを痛めつけた3人も、バビロンに関わる発端になった新入り狩りたちも、街ですれ違っても話しかけて来ることすらなかった。
シャルルの最後の言葉にあった1ヶ月という猶予。恐らくあれは本当なのだろう。
彼が何の目的でその期間を設けたのか、俺には分からない。分からないが、シャムだけを上に返すには充分すぎる猶予だ。
俺たちが暮らしていた、あの酷い有様の家に寄った。血なまぐささが残るその家に、シャムは怯えるように肩を竦めて一緒についてきた。大変申し訳ないことをしたと思う。
「とりあえず服着替えよ。もうずっと俺も同じ服着てるし、シャムに至っては…ね?」
部屋のタンスを漁りながら俺は苦笑いする。彼は俺が渡したコートの前をキュッと握って恥ずかしそうに体を隠す。
シャムが着ていたケーブルニットはバビロンに取られてしまったようなので、俺は適当なパーカーとジーパンと下着をシャムに手渡した。
「あのケーブルニットすごく気に入ってたのになぁ…」
パーカーに袖を通しながら肩を落とすシャムに俺は苦笑いする。
「もっと良い服、すぐに着られるよ」
シャムが塔に帰れば、ここで手に入る物よりずっと質のいい服が沢山あるはずだ。こんな場所で改めてケーブルニットを買う必要もないだろう。
「この子も一緒に持っていこう」
そう言ってシャムは俺があげた黒い兎のぬいぐるみを抱き上げた。
「この子も大事な宝物だもんね!」
そうやって笑う彼の笑顔は今日も可愛い。
俺が彼を閉じ込めた2週間で、食料は底を尽き掛けていた。残されていた少量の缶詰をリュックに詰め、傘を手に2人でゴミ山へ向かう。
傘とぬいぐるみを持っているシャムの手を右手のバレルで握る。この手をもう握れる日が来ることは多分ないのだろう。
「迎えが来るなら、あの大穴以外考えられないから、あそこで出待ちしよう」
出会ってから初めて一緒に食料調達に出掛けた日を思い出す。あれから2ヶ月半が経過した。あの時は久しぶりに過ごす、好きな人との生活でわくわくとしたのに、今日の彼はこのままいなくなってしまう。
それがどうにも寂しくて、でもそれを伝えたらシャムが帰るのを躊躇ってしまいそうだから言えなかった。
ゴミ山にたどり着き、傘をさす。2人で1つのそれに身を寄せあった。ゴミ山の上に座ってシャムの肩に頭を乗せた。
「…塔に帰ったら何すんの?」
「え、うーんと…まずはエリオにちゃんとした腕を作ってあげないとね!そしたら2人でエリオに似合う服を買いに行こ、右腕の袖を千切らなくてもいい服。それからとにかく甘いものが食べたいや!ドーナツにクレープにワッフルとか…エリオは何が食べたい?塔にはなんでもあるんだよ!」
シャムは俺の右手を握って、本当に嬉しそうに話す。
彼の口から語られる未来はどれも俺が一緒にいるものばかりだ。キラキラする彼の希望に満ちた目がとても眩しくて、可愛くて。でも、俺が塔に行ける日は来ない。
「俺との話じゃなくて、シャム個人の予定を聞いてるんだよ」
シャムの話に小さく笑いながら目を閉じる。頬を当てた彼の肩の温もりが、すぐ傍にあるのにこんなにも寂しい。
「僕のかあ…うーん…医療班に義手の制作依頼を出しに行かないとだし、エリオの新しい居住スペースが決まるまで僕の部屋に住むなら少し片付けないとな…あと甘いものがすごく食べたいからそしたらエリオと…ってこれじゃあ一緒か」
自分の言ってることが可笑しいのか、シャムは「ふふっ」と笑いを漏らした。
「エリオは?何がしたい?何が見たい?」
「俺は…」
彼の質問に喉が詰まった。
一緒にやりたいことなんて、本当は沢山ある。こんな汚くて娯楽のない街じゃなくて、地上みたいな明るい場所で色んな場所に行きたかった。
口を開いたまま声が出せず、笑顔を作る顔の筋肉が引き攣るように震えた。
「…塔で暮らすシャムが見たい」
声が震える。細めていた瞼が痙攣して、じわじわと込み上げる涙が目尻から溢れ出し、慌てて右手で顔を覆った。
「…エリオ?どうしたの?」
シャムは不思議そうに首を傾げて俺を抱き寄せ、背中をトントンと優しくあやすように叩く。その彼にすがるように右腕で彼を抱き締めて、彼の首に顔を埋めた。
「寂しい…もっと一緒に、いたかった。シャムと色んな場所行って、普通に遊んで、美味いもの沢山…食べたかった…」
「エリオ、どうしたの?大丈夫だよ?」
シャムは困ったような声でしゃくりあげる俺を何とか慰めようと声をかける。
こんなみっともない姿は見せたくなかったから、絶対に泣かないと決めていたのに、クールに笑って別れてシャムの記憶の中で一番の男前飾ってやろうと思ったのに酷い有様だ。
「ほらエリオ、これぎゅーってして?元気になれるから!」
シャムは俺の右腕に兎のぬいぐるみを差し込んだ。彼にとって、それだけこれが大事で心の支えになっていたんだろうと思うと嬉しくて、それを腕と脇に挟んで抱きしめた。
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嬉しそうな声で俺の肩を叩くシャムは俺の手を引くように立ち上がる。それに合わせてよろよろと立ち上がると、彼に続いた。
手を振りながら駆け寄っていくシャムに気づいた白服の人達は、彼を指をさしたり手を振り返して反応を示した。
それは、本当に彼のお迎えなのだという証拠だった。俺はその様子に歩く速度を落とし、少し遠くから立ち止まって彼を見つめる。
白服の中で一際体の小さな人物がシャムに近づいて何かのセンサーのようなものを彼に照射する。
そのまま彼を連れていこうと手を小柄の白服にシャムが足止めて振り返った。
「エリオ!何してるの?一緒に帰ろう?」
そう俺に声をかけるシャムに小柄の白服が彼の腕を引いて冷たい少年らしき声で答えた。
「彼は罪人です。連れていくことは許されません」
彼の言葉にシャムは目を丸くして困惑したような顔を浮かべた。
「え…で、でも…エリオは僕を助けてくれて…凄くいい人なんだよ…」
「俺は大丈夫」
少し離れた場所で、俺は彼に声をかける。泣いたばかりの情けない顔を、少しでも明るく出来るように歯を見せて笑った。
「だから、早く帰んなよ。今まで本当に楽しかった、ありがとう」
「え…や、やだよ…なんで?…一緒に帰るって…お嫁さんにするって約束は?ねえ…エリオ!!」
シャムは泣きそうな顔で俺に叫ぶ。
俺に近付こうと歩き出したシャムを少年含める白服の人達が立ち塞がるように抑え込む。
「帰還しましょう」
「やだ、やだ!!エリオが行けないなら僕も帰らない!!離して!帰りたくない!!」
引きずられるように柱へと連れていかれるシャムに手を振る。
まるで理想郷のようと言っていた塔よりも、俺を取ろうとしてくれた、彼の一言だけで充分救われた。
「お嫁に貰えなくてごめん…でも、きっといつかまた会えたらその約束も果たすから!」
多分、会える日はもう来ないのだろう。それでも、そんな約束さえあれば1人きりの夜もなんとかやれるような気がする。
抵抗するシャムを何とか柱へと押し込もうとする白服から逃れてシャムは俺に向かって手を伸ばす。
「絶対迎えに来る!!絶対エリオを塔に連れていくから!だから生きてて…僕をお嫁さんに…」
彼の言葉が言い終わる前に白服に抑え込まれたままシャムはエレベーターに乗って上へと登って行く。小柄な少年も俺にふり返ることもなくエレベーターに足を踏み入れ、上へと姿を消した。
再び地面が揺れ、柱が上へと上がっていく。パラパラと落ちる砂が目に入り、目を伏せた。
先程のことが幻だったように何もかもが穴の上へと引き上げられ、何も無くなったゴミ山は見慣れた最下層の風景だ。
シャムが穴に落ちてきた時から長い夢を見ていたような気すらするのに、なくなった左腕や全身に残る痛みが現実だったのだと俺に言っていた。
その場に座り込み、ぼんやりと穴を見上げながら上体もそのまま後ろに倒す。
「…何しよう…」
シャムがいなかった頃に戻ればいいだけだ。毎日このゴミ山で日がな1日暇しながら、今日の缶詰はなんだろうとか、腕の寿命はあとどれくらいだろうとか、そんなことばかり考えてダラダラ過ごすんだ。ここに落ちてから3年間そうやって暮らしていたのに、シャムと一緒にいた時間があまりに楽しかったから、またあの無意義な生活に戻るのは凄く難しいような気がした。
最後にキスの1つや2つしとけば良かった。シャムはあれだけ可愛いくて、優しいのだ。塔に戻れば平和な世界ですぐに恋人も出来るだろう。そうすれば、そのうち俺と過ごした日々もそのうち色褪せて…むしろ悪い思い出だったと蓋されてしまうかもしれない。
大量殺人鬼で、情緒不安定で理不尽にキレて監禁したクソみてえなDV彼氏だったとか言われるんだろうな。そりゃあ蓋したくもなる。
シャルルから言い渡された期間は1ヶ月。シャムがそれまでに迎えに来てくれたなら、俺はバビロンの手から逃れられる。シャムは迎えに来ると言っていたが、俺の日頃の行いを思えばまず無理だ。
生きてて、と言ったシャムの言葉が鼓膜に張り付いている。何度も何度もそれが頭に響いて離れない。
身体を起こして、ぬいぐるみを抱えたまま歩き出す。また何処か適当な場所に引っ越そう。シャムとの思い出が詰まった場所じゃ、毎日泣いて暮らしてしまいそうだ。
俺は1人で暮らせるだけの小さな部屋に身一つで移り住んだ。シャムがいなくなったベッドはシングルベッドでも広くて、寒い夜が明けて朝になれば寝ぼけて左手で彼を探そうとし、左手がないことに気がついた。
服を着ようと思ってシャムを呼ぶ。いつも返事がなくて、彼がいないと思い知る。シャワーを浴びて、髪を乾かしたいと言おうにも彼の姿はどこにもなくて、食卓に缶詰を2つ並べたってシャムは来ない。
2ヶ月ですっかりシャムのいる生活に慣れてしまって、彼は俺の身体の一部みたいになっていた。ただでさえ左手がなくなって不便なのに、それよりもっと大きなものをうしなった俺の生活は不便を極めた。
俺のこと抱き締めてくれる人がいなくなった。抱きしめたい人もいなくなった。触れ合う人がいなくなって、冷たい無機物の右手だけが残されると、自分の体温もよく分からない。シャムがいないと俺は何も分からなくなってしまった。今やぬいぐるみにシャムと名前をつけて、不毛な独り言を話すだけの変人だ。
シャムが迎えに来るだろうかと小さな期待をして、ゴミ山に行くたびに穴を見上げてはシャムの姿を探した。1週間、2週間とそんな日が続いたが、白服の人間1人すら降りてくる様子もなく、やはり俺がここから抜け出すなんて夢のまた夢なのだろうと感じ始めて、そのうち穴を見上げることを止めた。
シャルルとの約束の1ヶ月が終わる。1人で暮らし始めたアパートで、兎のぬいぐるみと一緒にベッドに転がってロウソクの火を吹き消した。
明日からきっとバビロンの連中がまた俺を捕まえに来るのだろう。もう捕まってもいい気がした。シャムがいないなら、俺が人を殺して泣く人もいない。エリオと名前を呼んでくれる人がいなければ、この街での俺の名前はリーサルウェポン、殺人兵器だ。
暗闇で目を閉じると、シャムの笑顔が浮かぶ。もう1ヶ月も見てないのに、瞼に焼き付いたそれは未だに鮮明で何一つ色褪せない。
もう少し粘ってみようと、瞼の裏の彼を見ながら思う。そうやって1日、1日と無駄な期待をする。それに、彼を嫁に貰うという約束が今でも有効なら、彼とした人間を殺さないという約束もまだ有効になるのだろう。それなら、まだバビロンに下るわけにはいかなかった。
眠りについて、俺が目覚める前にドンドンとドアがノックされる音がした。
「リーサルウェポン、迎えに来たぞ」
シャムとバビロンの本拠地で過ごした地獄のような10日間、毎日聞いていた男の声がした。
シャルルは本当に迎えに来たようだ。この街で逃げ切れる場所もなければ、バビロンに属する人間は山のようにいる。
俺はそのノックに答えず、昨日のうちに食料を詰めたリュックを背負ってぬいぐるみを小脇に抱え、アパートの窓から飛び降りた。
「おい!待てコラ!」
背中に俺を呼ぶ声が聞こえて、俺は首だけで振り返る。
「お迎え待ってるからまた今度!」
男たちを茶化すように笑って、街のどこか休める場所を探して走り出す。長い長い鬼ごっこの始まりだ。
街の隙間を縫うように走り、追っ手が来ると物陰に身を潜めて遠くに行ったと見せかけて先に行かせ、追っ手と逆方向に逃げる。大体はいつもこの手法で撒けるのだが、シャルルの今回の『お迎え』は本当に本気らしく、逃げた先で別の人間に見付かる。
ほとんど休む暇もなく、見付かるたびに足止めにバレルで弾丸を撃ち込むと、体内の血液が減って少しずつ体力が消耗されるのを感じた。丸一日、鬼ごっこで走り続けた足の裏は擦りむけてジクジクと痛む。
正直、舐めていた。1週間くらいなら何とでもなるだろうと思っていたが、街のほとんどにバビロンの息がかかっているせいで、本当に安全な場所なんかなかった。人の顔を見たら逃げるくらいの気持ちでいないと、不意打ちをくらった。
銃でいくら相手を撃とうとも、威力が下がったそれに殺傷能力はあまりない。敵は減らず、自分の血液ばかりが減っていく。
左腕がないせいで走りにくいし、血液が減る度に変な動悸が増え、休憩後のたちくらみが酷い。
「シャム…」
迎えになんて、きっと彼は来ないだろう。そうは分かっていても、走り続けられるのは彼にまた会えるかもしれないという夢のような儚い希望と、彼を嫁に貰うという何の確証もない口約束だけだ。
シャムと別れたごみ捨てに向かって足を引きずるように走る。呼吸を絶え間なく続けた喉がヒューヒューと音を立てて痛み、ふくらはぎや太ももがギシギシと鈍い痛みを発している。
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パンッという発砲音に右足に鋭い痛みがが走り、バランスを崩して転んだ俺に背後からシャルルが銃を片手にゆっくりと近づいてきた。
「あまり血を使うなよ。本当に死んじまうぜ?」
痛みの走った足は銃弾のかすったような跡がありじんわりとかすかに血が滲む。
「こんなところまでやってきて、まさか本当に彼が迎えに来ると信じてるのか?」
「…信じてるよ」
よろよろと痛む足で無理やり立ち上がり、シャルルに振り返って笑った。
「信じてるけど、別に迎えなんか期待してない。アイツが俺のために頑張ってくれてるから、俺も会うための最善を尽くしてるだけだ」
「何でそんな虚しい努力をするんだ。俺のもとに来れば楽な暮らしも身の安全も保証される。欲しいものは何でも与えてやるよ、食い物も、権力も愛情だってな」
シャルルは笑顔で俺に手を差し出す。
「彼は来ない。もうお前の事なんか忘れて豊かな場所で何不自由なく暮らしている。お前は捨てられたんだよ。捨てられた者は捨てられたもの同士手を取り合おうぜ?」
彼の手を見つめる。大きくて華奢な、奇抜なネイルアートがほどこされたその手は、シャムの小さくて柔らかそうな手と全然違った。
「…捨てられたかもしれないな、確かに」
彼が俺を迎えに来る約束なんて、彼にとって叶えるのは難しいことなのに、叶えた先にある利益は俺の命だけなんて全然得しないだろう。
彼に心無い言葉を投げつけて、1度は約束を反故にして、身体だって好きなように弄んだ。頼る先が俺しかいなかった彼が元の場所に帰って、俺が嫌な奴だったと気付いたら、それこそ助ける価値はないだろう。
「でも、俺が助けたくて助けただけだし、見返りを求めてやったわけじゃないんだ。俺が欲しいは彼の愛情だけで、他の誰かじゃ埋められない。死に場所に彼と約束した場所を選ぶくらい別におかしな話じゃないだろ。万が一、本当に迎えが来たら嬉しいとは思ってるけどさ」
シャルルに背を向けて歩き出す。
「そういうのが夢見がちだって言ってるんだけどな。絶望しながら死ぬより、何も考えずに俺の元で生きろよ。俺はどんなお前だって受け入れてやるのに」
高笑いをしたシャルルの後ろからたくさんの男たちが、武器や縄を持って追いかけてきていた。
「お前らに捕まって生きるくらいなら、アイツの迎えが来る楽しい夢でも見ながら失血死してやる」
彼らに笑うと再び重たく痛む足を引きずって走り出す。
天井に開いた大穴の下。シャムが来てくれるなんて、ありそうもない希望だけが俺足を動かしていた。
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