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1章
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2.
「いたた…あー…ズボンまで破けちゃった…」
膝にヒリヒリとした痛みを感じて目を向けると、さっき転んだ時に出来たのだろう擦り傷がぱっくりと破けたズボンから覗いている。
怪我をするなんて何年ぶりだろうか。慣れない痛みにため息をついて、僕は隠れた瓦礫の陰から周りを見渡した。
この当たりの景色は食堂や自室から見える街並みとは全然違ってて、僕の知るラプラスの塔はどこにも見当たらない。
本当に助けてくれた青年の言う地下の地下なのか…あるいはとても遠い場所まで来てしまったのだろう。
塔から出たことも、出る必要さえない僕は地下の地理すらもよくわからない。
ラプラスの塔と言われたこの大きな柱のような物は僕の帰る場所とは別物のようだ。
「はあ…困ったなぁ…」
不安と緊張感で既にヘトヘトだ。柱に寄りかかって物陰から街をみていると、そこへ突然人の顔が眼前に現れた。
「おや、見ない顔だ」
急に現れた彼に驚いて、僕は座ったまま少し後ずさるように身を縮める。
隠れていたはずなのに声をかけられた疑問とか、絶対に見つかるなと言われていたのに呆気なく声をかけられている事に少し焦りを感じながらも僕は彼の様子を伺った。
「えっと…何かご用…うっ」
思い出したようにせり上がってきた吐き気に慌てて口を抑えて深呼吸をする。
それを見た男性は驚いたように口を開いて、ベルトについたペットボトルを僕に差し出した。
「具合悪いんだね。大丈夫?良かったら飲んで」
今まで見てきた人に比べて品の良さそうな、清潔な雰囲気の男性だ。彼は僕が水を受け取ると瓦礫を跨いで隣にしゃがみ、僕と目線を合わせた。
「どこから来たの?新入りさんかな?」
「新入りさん…なのかもしれないんですけど…何とか帰れないかなって…」
貰った水を少し飲むと少し吐き気が落ち着いて、僕はようやく深く息を着いた。
「すみません、ありがとうございます。少し楽になりました」
「いやいや、役に立ったなら何より」
彼は柔和な笑みを浮かべながらジロジロと僕を舐めるように眺める彼には、なんだか妙な違和感を覚える。
「…ところで、新入りさんなら俺たちそういう子を集めて街についてレクチャーしてるんだ。君も新入りさんなら街のルール分からないでしょ?良かったらおいでよ」
ニコニコと微笑みながら、彼は僕を見つめる。
「ありがとうございます。でも僕ここで待ってる約束なんで…この街についてもその彼が教えてくれているので大丈夫そうです」
ありがたい申し出であることは確かだが、幸運なことに僕を手助けしてくれる人は既にいてくれてる。もしこちらの男性にお世話になるとしても、彼に黙っていなくなる訳には行かないし、お礼のために連絡先くらいは聞いておきたかった。
「えー、そうなんだ。じゃあ、先にさっきのお水の分の対価は貰わないとね。何か交換できるものある?」
不意に、彼は僕に空いた手を差し出す。
「えっ…た対価…?」
タダで水をよこせだなんて言うつもりは無いが、好意的に差し出された水で対価を求められるとは思っていなかった。
僕はズボンやジャケットのポケットを探ってみるが対価になる物は何も無い。助けてくれた青年の話ではお金は意味をなさないし、そもそも腕時計が壊れているので支払うことも出来ないのだが。
「ごめんなさい、今何も持ってなくて…」
「困ったなあ。何もなしじゃ、この街で生活出来ないよ。君にルールを教えてくれた人、不親切じゃない?やっぱりうちにおいでよ、ルールを教えたら次にちゃんと仕事をあげる。そしたら、水はチャラでいいよ」
彼は優しげに微笑んではいるものの、どことなく恐怖を感じさせる。
「じゃ…じゃあせめて待ち合わせの彼が戻るまで待ってて貰えませんか?何も言わずにいなくなると、きっと心配するので…」
「そんなに待てないよ。ほら、もう行こう?この街は狭いから、その人もすぐ場所分かるって」
不意に彼が面倒くさそうに眉をしかめた。僕の手を取り、無理やり立たせようと引っ張りあげる。
「やっ…こ、困ります!」
いよいよ彼に感じていた違和感が確信へと変わり、僕は掴まれた手を振りほどこうと腕を振った。
彼は見た目よりも力が強く、掴まれた手が解けない。
「ちょっと!作戦1は失敗だ!手伝って!」
彼が僕の手を掴んだまま叫ぶと、柱の影から僕を取り囲むように大柄な男たちが姿を見せる。1人が僕を担ぎあげ、もう1人が僕の口に布を詰めた。
「君ちょっと目立つから、静かにしててね。ライバル増えると困るんだ」
話しかけてきた男性は僕の両手首を縄で縛る 。僕を担いだ男性を叩いたり蹴ったりして必死に抵抗するが、彼はビクともせず逆にお尻を平手で力いっぱい叩かれた。
「んぐぅっ」
今までに感じたことの無いようなビリビリとした痛みに体を強ばらせる。
「そーそー、顔は最大の売り物だから傷つけたらダメだよ?出荷まで大事にしてね」
僕を担いだ男性に機嫌良さそうに話しながら、最初の男性が歩き出す。
街並みには相変わらず悲鳴や罵声が絶え間なくどこからか聞こえていて、丸裸のまま放置されたボロボロの男性や、両手足を切り落とされた女性の死体まで落ちている。
そんな街並みをまるで、彼らは塔の中を歩く人のように軽い足取りで進んでいく。
何とか逃れようと時折体を捩ると、先程のようにおしりを強く叩かれて僕は大人しく彼らに連れて行かれる。
なんの目的でどこに向かっているのかとか、さっきの彼がきっと心配するとか考えると不安でお腹が痛くなった。
「おい!待て!」
顔を上げると、通りの向こうからさっきの義手の青年が走ってくる。片手に持っていたペットボトルを道に放り投げ、全力疾走でこちらに向かってくる。
「んー!」
彼の姿にほっとして布の詰められた口で必死に彼を呼んだ。
「やばい、リーサルウェポンが戻って来たぞ!早く走れ!」
彼らは青年を見つけると同時に走る速度をあげる。彼らも全力で走り出すと、みるみる青年は引き離されて姿がどんどん小さくなっていく。
「はっ!アイツ案外とろくせえぞ!チビだから歩幅せめえんだな!」
僕を担いだ男性が笑う。
安心していたのもつかの間、あっという間に絶たれた希望に再びお腹が痛くなってきた。
僕が急にいなくなったと思うより、不注意に攫われたと知っててもらえるだけ良かったと思うべきなのだろうか…僕は全然良くないのだけど。
彼らに担がれて行き着いたのは普通に少し古い二階建ての一軒家だ。最初の男性はその家の扉を開けて僕を担いだ男達を先に中へ通した。
「ありがと。あとは俺が処理するから先に上に運んで置いて」
彼の言葉に、僕を担いだ男性がそのまま階段を上がる。
2階に上がると、階段の先はすぐに扉があった。中から何かがぶつかるような音が聞こえるが、人の声らしいものは聞こえない。
その扉を開けると、男性は僕を床に放り投げる。真っ暗な部屋の中に倒れ込む僕を見下ろして、彼はそのまま来た道を引き返し、ドアを閉めた。
縛られた手で何とか体を起こして、口に詰められた布を引っ張り出して畳んでポケットにいれた。真っ暗の部屋の中を壁伝いに歩き、出口の場所を探していると何かに足を引っかけて大きな音を立てて転んでしまった。
「あいててて…もう…こんなとこに一体なんなんだろ…」
躓いた何かを確かめるように手で触ると、それは生暖かく柔らかい。まるで人間の肌のような感触のそれが、僕の手の中でビクビクと暴れるように動いた。
「ひえっ!!」
後ろに飛び退いて尻もちをつく。その何かが動くたび、ガチャガチャと金属が擦れるような音と、重たいものが床を引きずるような音がする。よく耳を澄ませてみれば、人の荒い呼吸のようなものが微かに混ざっていた。
「おまたせ」
不意に先ほどの男性の声が飛び込み、同時に部屋に電気が灯る。目の前にいたのは、四肢をもがれた丸裸の男性だ。四肢に巻かれた包帯には真っ赤な鮮血が滲み、口に入れられた猿轡からは涎が漏れていた。
血走った目をひん剥いて、彼は僕に助けを乞うように僕を見て這いよって来る。
「う、うわああああああ!!!」
こんな大きな悲鳴を上げたのはいつぶりだろうか。尻もちを着いたまま目の前の恐ろしい光景から後ずさりて逃げると背中に何者かの膝がぶつかった。
何となくその相手に心当たりを感じながら後ろを見上げると、やはりそれは僕をここに連れてきたあの男性だった。
「やあ、ようやく来てくれたね。待ってたよ」
僕を見下ろす彼はにこやかに笑う彼から、震える足を引きずるように這って逃げる。部屋の奥へ逃げ、周囲を見回すと、周囲に僕以外の人間が3人いたことにようやく気が付く。
周囲の人間たちには全員、両手足がなかった。丸裸に剥かれた状態で猿轡を噛まされ、付けられた首輪は鎖で壁に繋げられている。
目の前の恐ろしい光景に、僕は足がすくんで立つこともできず呆然と男性を見上げた。
「みんな今日のクレーンで落ちてきた子たちでさ、全員回収したはずなのに君を見逃したなんてビックリさ」
後ろ手にしていた彼の手には小型のチェーンソーが握られている。周囲に転がる人達の両手足に巻かれた包帯にも鮮血が滲んでいるのは、おそらく彼の手に握られたそれの仕業だと恐怖でいっぱいになった頭でも分かった。
「みんな手足をちぎって、声帯を切っちゃうんだ。見た目が綺麗だと、いい感じのオナホだって強い人たちが喜んで使ってくれる。俺は彼らに守ってもらう代わりに、性処理道具は定期的に貢がないと安全に暮らせないんだ」
チェーンソーのスイッチを入れ、彼はジリジリと僕に歩み寄る。
「今日の新入りさんは結構みんな顔面偏差値が高くてさあ、4人もいるなんて豊作さ!特に君は評判良さそう」
僕の足にチェーンソーを近づけていく。
「や、やだああ!!」
すくむ足に鞭をうって何とか立ち上がるも、震える足で上手く走れずすぐに転んでしまう。立ち上がりたいのに膝が震えて力が入らない。
「や…やだ…やめて…」
後ずさりしながら懇願すると、恐怖で涙が溢れる。人生で1番大きな怪我はたんこぶだった。3日も腫れが引かなくて大変で、お母さんに毎晩泣きついてた。チェーンソーで足を切り落とすのはそのたんこぶの何倍痛いんだろう。
想像できない程の恐怖に呼吸も出来なくなる。
「大丈夫、すぐ終わらせるしちゃんと縫合するから死なせないよ」
男性が笑顔で僕の足を掴み、チェーンソーを再び近づける。突然、背後からガラスが割れるような音が鳴る。何かが僕の首元のシャツを引っ張り、後ろへと投げ飛ばされる。
驚いて顔をあげると、目の前には僕を助けてくれたあの小柄な青年が立っていた。
「あぶねー、近道して正解だった」
彼は僕に振り返らずに右手の剣を構える。僕に男性を近づけまいとするようにその手を広げる。
「俺のって知ってて攫ったでしょ。そうじゃなきゃ、こんな短時間で持ってかないよな?」
チェーンソーを握った男性は彼の姿を見ると、笑顔を初めて崩して舌打ちをした。
「くそっ、思ってたより早かったね…。もしかしなくても、やっぱりその彼にご執心?俺に任せてくれたら良いオナホにしてあげるけど?」
「いや、大丈夫。返してくれりゃあ、それでいい」
青年が右腕を動かすと、酷く軋むような音が鳴る。それをチラと男性は見つめ、チェーンソーを手から離して床に捨て、そのまま両手を上げた。
「…分かった、彼は返す。だから、他のを没収したり、俺の命を奪ったりしないでくれ」
男性の言葉に青年はじりじりと後ろに下がると、男性の様子を見ながら僕の隣にしゃがむ。
「大丈夫?ごめん、他はちょっと見捨てるんだけど、正義の味方じゃないから許して」
恐怖で声も出せない僕は小さく頷く事しか出来なかった。
僕を両腕で抱き上げて、そのまま彼は自分が入ってきた窓から身を乗り出す。
あれ、ここ2階だったような…そう思い出して彼を止めようとした時にはもう遅かった。
躊躇いもなく飛び降りた彼に驚きのあまり悲鳴すら出なかった。片腕が刃物だからか、お姫様抱っこのように僕を抱いた彼の首にしがみついて目を強く閉め、着地したのだろう衝撃の後ゆっくりと目を開いた。
「ごめん、びっくりしたろ。1回うち帰って休もうぜ。どうせ帰るとこないだろ?」
彼は僕を地面に降ろすことなく、そのままトコトコと走り出す。僕よりも10cm以上は背が低そうな彼は、見た目よりも随分と力持ちのようで僕の体重などまるで意に介してない。
浅黒い肌に埋め込まれた垂れ目がちな赤と青のオッドアイが僕を心配そうに見ている。オレンジ色の赤毛は癖で少し広がっていて、こうして見ると小さなライオンのようにも見えた。
「あ、あの…!もう下ろしていいよ…?」
ようやく落ち着いてきた僕は彼の肩を叩いて話しかける。
さっきから彼に運んでもらってばかりだからそろっと申し訳なさでいっぱいだ。
「大丈夫大丈夫、全然重くないし」
彼は何故か少し機嫌良さそうな笑みを浮かべ、そのまま道を進んでいく。
「な、何かごめんね…」
確かに擦りむいた膝は無理に動かしたせいか先程よりもジンジンとした痛みを感じるし、あまり走ったりするのは得意じゃない。半ば流されるような形だったが、僕は彼に甘えさせて貰うことにした。
人が多い中心部から少し離れたアパートにたどり着くと、彼は軽やかに階段を駆け上がって最上階の一室の前でようやく僕を下ろした。
「ここが君の家…?」
「おー、まあね」
彼はポケットから鍵を取り出し、それを開ける。扉を開けたすぐ傍にある電気のスイッチを付けると、彼は僕に部屋の中を顎で指す。
「電気あんまり使えねえから早く上がってくれ。ちょっとしたらロウソクに切り替える」
「う、うん。お邪魔します」
彼に言われて少し焦りながら部屋の中へと足を踏み入れた。
部屋の中はワンルーム…と思いきや、踏み入れてみれば、壁の一部が明らかに鈍器で壊したような穴でぶち抜かれている。実質2部屋分の広さを持つその部屋には小さなキッチンとダイニングテーブルが置かれている。部屋の壁に沿うように置かれた棚には瓶や缶が並べられ、ちょっとした食品売り場のようになっている。
彼の容姿や行動から想像していたより随分と小綺麗に片された室内を見回していると、彼は壊された壁の向こうにあるベッドの横に立って僕を見る。
「…あー…ごめん、うちシングルベッドで、ソファもないから一緒に寝てもらうことになるんだけど…大丈夫?」
少し歯切れ悪く言いながら、彼は部屋脇の小さな棚の上に置かれた大きなロウソクに火をつけた。
「えっ、い、いいよそんな!泊めてもらえるだけとってもありがたいもん!」
僕は彼のベッドから数歩離れたところにある、壁際のクローゼットに寄りかかり膝を抱えて座った。
「えー…来たばっかりで大変だろ?少しくらい甘えていいよ。ベッド、一緒に寝るの無理なら初日くらい貸すしさ」
彼は何故か僕の隣に来ると、一緒に床に座る。
「無理なんかじゃないよ!なんか僕、君に迷惑ばかりかけちゃってるから…」
「そんな事…」
そこまで言ってから彼は思い出したように隣の部屋にあるテーブルを指さした。そこには、今日買って彼に渡したドーナツの箱がある。
「ほら、俺、報酬貰ったからさ。あれが宿賃」
ニッと歯を見せて笑う彼は無邪気な少年のように見えた。
「ふふっ、じゃあお言葉に甘えようかな」
そう言って立ち上がると彼も笑顔で立ち上がる。
僕をベッドの壁際に寄せ、彼は反対側で僕に背中を向けて横になる。彼が小柄なせいか、思っていたより狭く無かった。
平和な塔の中で何不自由なく暮らしてきたのに、突然全く知らないそれもとんでもなく恐ろしい所に場所にきてしまった。それなのに、彼がいてくれるおかげか僕は不思議なくらい落ち着いていた。
「明日は…帰る方法が見つかるといいな」
目を閉じたまま独り言のようにそう呟いた。
「…あまり期待しないで、ここで暮らす努力した方がいいと思うよ」
背中合わせに横になった青年が小さく声を発した。とても申し訳なさそうなその声には悪意は感じられない。
それでも、帰れないという言葉をどうにも真に受けることが僕にはできなかった。
今日は仕事が休みの日だったから、きっと僕がいなくなったことに気づく人がいなかったのかもしれない。
明日になって仕事場に僕がいなかったら誰かが気づいて報告してくれるだろう。そしたらきっとラプラスがこの場所に気づいて助けてくれる。そうしたら彼にももっとちゃんとお礼が出来るのに。
彼がリモコンで部屋から電気を消す。部屋にポツンと点った炎がオレンジ色に柔らかく部屋を染めた。
彼の背中に額をつけると不安な気持ちが和らいで、思っていたよりもよく眠ることが出来た。
朝になるとベッドが小さく揺れて、ウトウトとまだ眠い目を薄らと開く。青年がモゾモゾと起き上がり、足音を立てないように静かにベッドから立ち上がる。大きな欠伸をすると、彼は部屋に併設されたユニットバスへと入っていった。
シャワーのような音やトイレが流れるが聞こえ、20分程度で彼が上半身に服を着ないままで戻ってきた。肩に引っ掛けたタオルで頭を拭きながら彼は並べられた食品棚を眺める。
「うーん…おはよう…」
まだ疲労感の残る体を無理やり起こしながら彼に声をかけた。彼は僕の方に振り返り、缶詰を片手に持ったまま歯を見せて笑う。
「おはよー、体調大丈夫?」
そう言う彼の身体は随分と傷だらけで、手袋のない義手は硬い金属で出来た機械仕掛けのものだ。腕を動かすための最低限の神経は通っていそうだが、触覚などを感じる人工皮膚が備わっていない中途半端な作りに思える。
右腕は肩から全てが金属で覆われており、肩から伸びる細いチューブは彼の背中などの胴体に繋がっている。右側の脇腹には何かディスプレイのようなものが付いていた。
「その腕、そうなってたんだ…珍しいタイプみたいだね」
まじまじと彼の体を見つめると、彼は苦笑いをしてからまた視線を棚に戻した。
最近は義手も技術が進んでいて、制作費用こそお金は掛かるが、切れた腕の神経を義手本体に繋げることで本来の腕と遜色なく動かすことが出来る。
しかし、彼のタイプのものでは物の触り心地や体温は分からないだろうし、見た目も本物に程遠い。
「上の階層で闘犬やってた時に、両腕がダメになったから付けられたんだ。だから、戦いに不要な痛覚をあまり持たせないようにあえて触覚は持たせなかったんだってさ」
まるで天気の話をするように彼は答える。指がある左手で缶詰をいくつか棚から取り出すと、彼はテーブルにそれらを置いた。
「闘犬…?」
「正確に言えば労働用の犬だったけど、地下のカジノのあたりにファイトクラブって言う殺し合いの施設があっただろ。そこで戦わせるために育てた犬を闘犬って一部じゃ呼ぶんだってさ」
テーブルに置いた缶詰を捻り、コマのように指で弾いて器用にくるくると回す。
「戦わせるため…?なんでそんなこと…」
塔の外をほとんど知らない僕にとって彼の話はとても信じ難い事だが、きっと世間知らずというのは僕のことを指すのだろう。
「ぎゅるるる…」
彼の返事を待つより先に、僕のお腹が盛大に鳴ってしまった。
そういえば昨日はお昼ご飯のドーナツも食べ損ねて、それからなんにも口にしていない。さすがにお腹がすいてしまった。
「…飯ないよな。どうすっか…」
彼は少し悩むように首を捻り、難しい顔のまま右手の切っ先でドーナツの箱を押し、テーブルの上を滑らせて僕に差し出した。
「…宿賃、ドーナツ3個でいいから良かったら2つ食べなよ」
立ち上がると貧血でフラフラする頭を抑えながら、彼が差し出したドーナツの箱を開けてみる。昨日より更にめちゃくちゃになった無惨なドーナツが5個残っている。
甘いものは大好きだがトッピングのチョコレートや粉砂糖、クリームがぐちゃぐちゃに混ざってしまった何かを食べる気にはなれずに箱を閉じた。
「う、うーん…これはちょっと…」
「こんなにご馳走なのに?多分、当分はもうドーナツなんて焼き菓子食えないぜ。後悔しない?」
彼は心配そうに首を捻るが、僕は首を横に振る。
キャラメルとチョコレートのソースが混ざりあった中に潰れたクリームドーナツから吹き出したホイップクリームが絡まってベトベトになっているドーナツを惜しむ気持ちは湧かない。
「じゃあ、ドーナツ2つで缶詰とトレードしようぜ」
彼は眉をよせた彼は困ったように笑ってから食料棚へと歩き出す。両腕に缶詰や瓶を持ってテーブルに戻り、僕の前にそれらを並べた。
「お前が持ってるのは、ここじゃ手に入らない腐ってない新しいドーナツだ。その価値はなかなか高い。みんなが欲しがる贅沢品だ」
「ええ…これが…?」
「うん、見た目がぐちゃぐちゃでも、糖分が取れるし腹にも溜まるだろ?カロリーもあるし、何より美味い!」
彼は箱からボロボロのドーナツを手に取り、嬉しそうに笑ってみせる。
手に取ったドーナツを口に咥え、彼は缶詰を僕の前に積む。魚の缶詰を7つ積み上げた小さな塔を僕に差し出す。
「よく手に入るツナ缶や鯖缶、人気のないクジラ缶は価値が低い。交換するならこれくらい出せるが、多分飽きる。でも、腹には1番溜まると思う」
続いて彼はフルーツ缶を4つ並べる。
「人気の高いフルーツ缶だ。糖分も摂取できる地下では珍しい甘味。味はドーナツにはかなわないけどうまい。でも、ほとんど水分だから腹にはあまりたまらない。ドーナツに合わせると値打ち的には4つ分くらいかな」
そのまま彼は肉や豆の詰まった特殊な缶詰を5つ詰んだ。
「魚缶に比べて少し手に入りにくい種類だ。5つが出せる限界かな。でも、味は豊富で飽きないし、腹にも溜まる。問題は1個1個の量がすくないとこかな」
つらつらと説明する彼はどうやら僕にここの物価を教えようとしてくれているようだった。
ドーナツなんて値段にすればせいぜい1つ120円から高くても200円くらいなものを、そんなに価値のあるものと感じるのはなかなか難しい。
「ジャーキーやジャムもあるが、これは貴重品だからドーナツに出せるのはせいぜいジャーキー4枚かジャム2瓶ってとこだ。最初の交換には勧めない」
持ってきた瓶の頭をぽんぽんと叩いて示し、彼は僕を見て穏やかな笑みを浮かべる。
「この街じゃ、無償の親切は命取りだ。だから、何をするにも対価が必要になる。慎重に交換してくれ、ドーナツはお前の唯一の資産だ」
「うーん…じゃあフルーツ缶と魚系ってのはできる?」
あまり沢山貰ってもポケットに入り切らないと思い、僕は少しレートが高いらしいフルーツ缶と魚系の缶詰を指差す。
彼は笑顔で頷くと、僕の前にフルーツ缶2つと魚缶を4つ差し出した。
「じゃあ、これでどう?」
「うん、ありがとう!助かるよ」
彼から受け取った缶の中から桃の絵がかかれたものを開けた。よく見る普通の桃缶だがなんだかすごく安心する。
早速食べようとした所でふと食器がないことに気がついた。
ドーナツやクレープならともかく、桃缶を手掴みで食べるのはお行儀が悪い。
「あっ…フォークとかなにか…」
そこまで口走ってから、彼の言った何事にも対価が必要だと言う話を思い出す。
「こ、これでフォークって交換出来る…?」
僕はついさっき彼から交換してもらった魚の缶詰を1つ差し出しながら彼に尋ねた。
彼はその缶詰を見つめてから、僕の顔を見て、困ったように目尻を下げて笑う。
「…交換出来るけど…」
そこまで言ってから、僕が差し出した缶詰を再びテーブルに滑らせて返す。
「俺の家でレンタルってことなら無料でいいよ。お前だけ特別だから、誰にも内緒な?」
そう言って彼は席を立つと、キッチンへと向かう。棚からフォークを取り出すと、彼はそれを僕に差し出した。
「…ありがとう。君は優しいね」
フォークを受け取って彼に笑いかけると、彼は目を丸くし、何故か照れたように頬を赤くして目を逸らした。
彼はまた僕の正面に座り直す。食べかけのドーナツに彼が再び口を付けるのを確認してから、僕も手を合わせる。
「いただきます」
「お、それ懐かしい」
僕の言葉に、彼は笑って一緒に手を合わせた。
「いただきます!」
もうとうに食べ始めていたのに、改めてそう言うと食事を再開する。
僕もフォークで桃を引きずり出すように桃缶を食べた。
「そういえば。昨日の怖い人にね、水を貰って対価を求められたのに結局何も返せなくて、ちょっと悪いことしちゃったかな」
恐ろしい体験をしたとはいえ、水に助けられたのは事実だ。…だからといって四肢を切っていいとはとてもならないが…。
「…その水ってお前から下さいって頼んだの?」
青年は眉をひそめて、首を傾げる。彼の口の端にはホイップクリームがついたままだ。
「ううん。僕が具合悪そうだったから、良かったらどうぞって…」
「あー、あるある。この街では1番主流な騙し方だよ。何も対価を払えなそうな人間に好意的に差し出して、対価を後出しで請求することで逃げられなくするんだ。水と命じゃどのみち釣り合わないし、詐欺だから気にしなくていいよ」
口についたホイップクリームを指で取って舐める彼は、鼻で笑うように言う。
「そ、そっか詐欺だったんだ…今度から気をつけないとね」
桃缶を食べ終えて残りの缶詰をジャケットのポケットにしまう。
さすがにジャケットだけでは入り切らなかった分はスキニーの小さなお尻のポケットに何とかねじ込んだ。
食事が終わると、青年が席を立って伸びをした。
「じゃ、俺はこれから食料調達に行くよ。お前はどうする?留守番しててもいいよ」
「僕も行くよ!沢山助けてもらったし、良かったらお手伝いさせて」
彼の後に続いて立ち上がるとジャケットのポケットから缶詰が1つ落っこちる。
慌ててそれを拾おうとしゃがんだ拍子に今度は反対のポケットからも缶詰が逃げ出した。
「…ここに置いてく?俺は取らないよ」
それを見ていた青年が苦笑いする。逃げて床を転がるそれを1つ手に取り、彼はテーブルにそれを置いた。
「…じゃ、じゃあそうさせてもらおうかな」
パンパンに詰め込まれた缶詰達をテーブルの端に詰んで置く。
軽くなったジャケットのポケットをパンパンと叩いて「これで大丈夫!」と彼に笑いかけた。彼はそれに頷いて昨日着ていたファー付きのコートを羽織り、空っぽのリュックを背負う。よく見ると剣の切っ先で切れてしまったのか、右腕の袖はあちこち切れ目だらけだ。
「えっと…じゃあ、お手伝いってことで傘持ってもらってもいい?」
玄関の脇に置かれた傘を2本手に取り、それを僕に差し出す。
「うん…?今日は雨なの?地下の雨は毒性が強いからこういう時は外に出ない方がいいって聞いたことあるけど…」
首を傾げてそれを受け取りながら尋ねると、彼は微笑んだまま肩を竦めた。
「雨じゃないけど、これから行く所は砂がいっぱい降るから、ないと目に入るんだ。だから、必ず持って行くようにしてる」
そのまま彼は空いた左手で僕の手を取る。肩で玄関の扉を開けて、外に僕を連れ出す。
「なんか…俺だけ手ぶらでごめんな。なんか、こうしとかないと、お前すぐ攫われちゃいそうだからさ…」
もごもごと口篭りながら、彼はドアを足で蹴るように閉めた。
「え、僕ってそんなにどん臭そうにみえるの?」
「いやいやいや!それはな…いことはないけど、それよりもその…めちゃくちゃ可愛いから心配って話」
確かに運動は苦手だしここの知識もまるでないけど、そんな1目見ただけで攫おうと思われるほどなのかなと少し冗談のつもりで言ってみたが、否定しきらない彼の反応に僕は少し自信がなくなった。
僕の様子を見た青年は慌てて右手をあわあわと宙で小さく振る。
「違う!違うんだって!鈍臭いってか、お前すっごい優しいし、性格良すぎるからこの街だとカモられそうって話!ホントだよ!」
「あ…でも優しいってのはよく言われるからそうなのかも。良かった、鈍臭いとかじゃなくて」
ホッと安心して微笑むと、彼も微笑みながら何故か安心したようなため息を着いた。
歩きながら彼に渡された傘をクルクル回して観察する。
塔の中で生活しているとまず使うことはないから、本物を触ったのは初めてだ。
空っぽのリュックを背負い、彼は昨日僕らが初めて出会ったゴミ山へと歩いて行く。僕に歩くスピードを合わせているのか、手を繋いでても歩きにくくはなかった。
「あっそうだ!そういえばまだ自己紹介してなかったよね?」
ここで目が覚めてから色んなことがありすぎて、すっかり忘れていた。
「僕はシャム。シャム・シーウィ。改めてよろしくね」
青年に笑顔を向けると、彼はまた照れたように視線を逸らしたが、笑みを口元に浮かべたまま僕に視線を戻した。
「俺はエリオット・マーティス。こちらこそよろしく、シャム」
彼は繋いだ手を離さないまま、握手するように上下に揺すった。
「…あれ?リーサルウェポンじゃないの?」
確か彼は度々そのように呼ばれていたようだから、てっきりそれが名前なのだとばかり思っていたがそういう訳ではないらしい。
「んー、あれはあだ名みたいな?あんまり好きな呼ばれ方じゃないから、エリオットがいいな」
「そうだったんだ。じゃあエリオくん!エリオくんならどうかな?」
僕の提案にエリオくんは目を丸くした。
「エリオ?変な区切り方すんね。別にいいけど」
ふっと彼が吹き出すように笑う。
「普通はエリーとかありそうだけど、シャムは出身国ってか…何人なの?」
「一応中国系だけど、長い間に色んな国籍の血が混ざってたと思うから…僕は塔の生まれだし、国籍とかそういうのないんだ。何か関係があるの?」
「あー、そっか…地上のイギリスとかだとそういう愛称はなかったってだけなんだ。つい癖でさ」
彼はそこまで言うと再び視線を進行方向に戻す。
「イギリス…エリオくんって地上の人だったんだ…なんかごめんね」
地上から来たということはきっと誘拐か、売られて地下に来てしまったんだろう。彼はそんな僕の心情は察せなかったようで、不思議そうに首を傾げていた。
しばらく歩くと、遠くに茶色い山のようなものが見えてくる。どんどん悪くなる足場に足を取られて、時々躓く僕を気遣うように彼は何度も足を止めて引っ張りあげてくれた。
「あ、ありがとう。手伝いに来たはずなのにごめんね…」
「いや、大丈夫。楽しいよ」
エリオくんははにかむように笑う。
何とか立ち上がって歩き始めたものの、今度は丸い空き缶を踏んで足を滑らせた。勢いよく前に飛んだ僕はエリオくんの胸に飛び込むように倒れ込む。
「おわっ…!」
エリオくんはそれを抱きとめて踏みとどまる。なんとか共倒れせずに済んだものの、彼は僕を引き剥がすでもなく身体を強ばらせていた。
彼の胸から馬の大群が走るような激しい鼓動が聞こえる。
「うう…ごめん、ごめんねぇ…」
彼の胸を借りてバランスを建て直して起き上がると、身体を固めたまま浅黒い肌でもよく分かるほど顔を真っ赤にしている彼の表情が目に入った。
「…エリオくん?ど、どうしたの、大丈夫?」
彼の目の前で手を振って見ると、彼は我に返ったように瞬きをして小さく首を横に振った。
「あ!いや!何でもない!大丈夫!」
彼はよろよろとゴミの山を再び歩き出す。目の前に広がるのは錆びた鉄片や壊れた家具など、様々なものが積み上げられたゴミの山。
「わ…凄い景色…」
「そろそろ傘ささねえと砂まみれになるから、準備しといた方がいいんじゃね?」
エリオくんが僕から傘を取り、それを左手で何かを操作すると、傘がひとりでに開いた。
「わあ!凄い!」
「え、傘開いただけだよ…?」
エリオくんにパチパチと小さく拍手するのを、彼は照れた様子で右手の刃裏で頬を掻く。
「僕ね、実は傘に触るの初めなんだ。えっと…どうやったら開くの?」
傘の開き方を探して喋りながらいじり倒してみるが、なかなか開かない。
「ここがボタンで、押し込むとワンタッチ」
隣に来て、彼は僕の手にある傘にある突起を右手の切っ先で器用に押し込んだ。
ボンッと音を立てて傘が開く。
「わあー!凄い!!なんだか楽しくなる音だね!」
映像でしか見る機会の無い光景が自分の手の中で起きた小さな奇跡に感動して、傘を横に倒したり先端を覗き込んで浸っていると、不意に街が震える。
「あれ?地震?」
「お、今日の食料が来るぞ」
隣でエリオくんが上を見上げながらニヤリと笑う。天井にはぽっかりと大きな穴が空いていて、パラパラと頭上から降ってきた小石や砂が頭に当たる。
確かにこれはちょっと痛いし傘がなければ頭が砂まみれになってしまうと、開いたまま抱えていた傘を慌てて頭の上に掲げた。
「シャムはここにいて!拾ってくる!あっ、でも知らない人についてったらダメだぞ!」
彼はまるで母親みたいなことを言いながら、今いるゴミ山から滑るように降りて行く。穴から落ちてくるゴミの元へと駆けていく彼を、大切な傘を落とさないように両手でしっかり握って後を追って少しずつ滑り降りようと歩きだす。
「えっ、あっ…僕も手伝うよ?」
彼の後を追うように崩れやすいゴミ山をよろよろと滑り降りた。
エリオくんはゴミが落ちてきたあたりにしゃがんで、袋の中を確認したりしながらリュックに何かを詰めている。僕が近くまで行く頃には回収が終わったのか、彼はリュックを背負って立ち上がる。
「だめだめ!早く逃げて!粗大ゴミがくるぞ!」
「えっ?粗大ゴミ?」
呆気に取られている僕を彼は左腕で担ぎあげてゴミ山を再び滑り降りる。彼が離れて数秒後にガラガラと上から家具や廃材などの巨大なゴミが落ちてきた。
「び、びっくりした…こんな大きなゴミも降ってくるなんて…ごめんね僕なにも知らなくって…」
「いいよ、この街初めてだもんな。しゃーない」
エリオくんは全然怒った様子もなく、相変わらず眉を寄せて優しそうな顔で笑っている。僕をゆっくり地面に下ろし、肩を竦めた。
「お前は昨日、ああやってゴミと一緒に穴から落ちてきたんだ。すぐ気付いて本当に良かった」
エリオくんは先ほどのゴミ山を親指で指差す。さっきまで彼が食料を拾っていた場所には、折れ曲がった鉄骨がむき出しになった大きな瓦礫や割れたガラス戸の重そうなタンスが無造作に積み重なっている。
「エ、エリオくんが助けてくれなかったらこの下敷きになってたんだ…君は命の恩人だね、本当にありがとう」
「別に助けたつもりはないし…たまたま拾っただけだよ」
そう言いつつも、悪い気はしないのかエリオくんは鼻の下を指で擦りながら歯を見せて笑う。
「でも、あそこから落ちてきたってことはあそこから帰れるかもしれないね!」
「え!?いや、無理だって!無理だし今はだめ!本当にだめ!」
穴の真下に向かって歩き出す僕に、エリオくんは慌てて傍をついてくる。
「ほら、ここに大きなゴミを積み上げて登れば何とかなりそうじゃないかな?上まで届かなくても叫べば声くらい届くかもしれないし」
「この山は登れないように定期的にてっぺんを機械でプレスされてて、常に登れない高さに調整されてるんだ。それに、これから人間のゴミがくる。つまり、新入り狩りも集まるってことだ」
「シンイリガリ?でも人が増えるならみんなで力を合わせたらプレス機が来る前に登れるかも!」
僕は傍らに埋まっている大きめの木材を積み上げようと抱えて引っ張るが、なかなか動かない。
「わっ」
木材の中側は腐敗していたらしく突然ボキリと折れて、バランスを崩した僕はゴロゴロと穴の真下まで転がってしまった。
「いてて…」
また地面が揺れる。仰向けに転がったまま上を見上げると、穴から巨大な鉄の檻がクレーンで下ろされて来るのが見えた。
「ああもう!やばいって!」
僕を引っ張りあげて、彼は僕を再び肩に担ぎあげる。そのまま登ってきたゴミ山を再びかけ下りると、半分以上埋まった大きな冷蔵庫の影に身を潜める。
「また助けて貰っちゃったね、本当ありがとう」
「うんうん、大丈夫だから静かに」
彼は周囲を見回しながや自分の口に人差し指を立てて、僕の声の大きさを指摘する。
安全な所まで逃げたことを確認してから後ろを振り返ると、ちょうど降ろされた檻が地面に着地する所だった。
その檻は鉄製の物だが、天井部だけがクレーンに直接繋がっているようで、再び引き上げられたそれは天井だけを持ち上げてスルスルと上へ消えていく。
「あっ、あれに掴まって行けば帰れそうだよ!」
「だめなんだって!あの天井部も鎖も上に上がる時だけ高圧電流が流れてる。あれに掴まったが最後、黒焦げだ」
小声で言うと、彼も声を殺して僕に仕組みを答える。
天井部がなくなった檻は四方向に壁が開かれる。中に入っていたのは男性2人と女性が1人。彼らはキョロキョロと周囲を見回しながら、檻の外へと足を踏み出した。
「お、来てる来てる」
どこからともなく笑い声が聞こえる。檻が開かれるのを見計らっていたように5人程度のグループで、男性たちが彼らに詰め寄る。それは、昨日僕の足を切り落とそうとした、あの男性たちだ。
「あっ…あの人たち昨日の…!どうしよう、皆ついて行っちゃうよ!」
彼の胸を叩いて檻からでてきたばかりの3人を指さすが、彼は3人を見ずにに冷蔵庫に背を預けたまま俯いた。
「アイツらはこの街で有名な新入り狩りで、ああやって毎日新しい人間をさらって生きている。敵に回すと今後の生活に響くから…悪いけど俺も関わり合いにはなりたくないんだ」
「でも…」
彼と檻からでてきた3人を交互に見やる。
僕は戦うすべなんて持ってないし数も向こうが圧倒的だ。関わらないのが安全なことは嫌でもわかる。
何も出来ずに見守っていると、3人はあの5人組に安心した表情で着いて行った。
きっと昨日僕にしてくれたように親切を装って誘ったんだろう。
「でもやっぱりほっとけないよ…」
冷蔵庫の影から飛び出して彼らの後を追う。
「シャム!」
背後からエリオくんが声をあげる。彼を無視するようで心が痛いが、彼らを見殺しにはできない。
「そ、その人たちに着いて行ったらダメ!!手足を切られて酷いことされちゃう!」
エリオくんに新入り狩りと呼ばれていた男性たちは僕に振り返り、首を傾げた。
「ん?ああ、君は…」
昨日の男性が僕を見て、あの優しそうな笑顔を浮かべる。何も知らなければ安堵させるだろうその笑みは、容易く僕の背筋を凍らせる。
「ごめんね、彼はここに来た時から心を病んでいて、ありもしないことを話すんだ。彼も僕らと一緒に住んでいたんだけど、こうして外に出て触れ回っている。だから気にしないで」
男性の言葉を聞きながら、3人は訝しげに男性と僕を交互に見る。
「違うよ!その人たちは嘘をついてるんだ、僕は昨日彼に…チェーンソーで手足を切られそうになった!だから早く逃げて!」
ゴミの山は走りづらく何度も転びながら彼らに近づく。
僕の様子にさすがに3人は何かを感じたのか、男性のグループを前に後ずさる。彼はまだニコニコとした笑みを浮かべていたが、ベルトに下げていたホルダーから銃を取り出し、3人のうちの1人の膝を撃った。
悲鳴を上げながら倒れた彼を見て、残り2人が一斉に逃げ出すが、男性グループの他の4人が同じように銃で2人の膝を撃ち抜く。
彼らを守るか、せめて逃げなくてはいけないのに銃口を前に足がすくんで動けない。なんで僕の足はいつも大事なときに限って動かなくなるんだろう。
喚き散らす3人をグループの男性たちが担ぎあげる。何も出来ずにみつめていると、昨日会った男性は笑顔のまま僕に近付いた。
「全く、あのリーサルウェポンにご贔屓されてるからって君はつくづく調子に乗ってるね」
彼は僕の腕を掴んで引っ張る。行先はあの家なんだろうと、嫌でも想像がついた。
「や、やだ!離して!!」
パンッと銃声が鳴り響いて、男性の足元から煙が上がる。顔を上げると、そこにはエリオくんが険しい表情で立っていた。
「そいつはダメ。あげない。昨日も言っただろ」
「エリオくん…!?」
静止を振り切って飛び出したというのに、助けに入ってくれた彼に感謝と申し訳なさが押し寄せる。
「ごめん…ごめんなさい」
「いいんだ、俺もちゃんと止めなくてごめん」
男性から目を離さずに彼が答える。男性は僕の腕を掴みあげたまま笑った。
「本当にご執心だね。そんなにお気に入り?」
「いいから離せ。次は威嚇射撃じゃない」
男性の言葉にまるで本物のライオンのように鼻の頭にしわを寄せて右腕を構える。それを見た男たち2人が僕と僕を掴む男性の前へと出た。
「音喜多さん、早く運んでください!足止めします!」
「りょーかい。じゃ、お先に」
男性が手招きをすると、もう1人が僕を後ろから持ち上げる。前に攫われた時と同じように肩に担がれ、男性は走り出す。
「んじゃね!アデュー」
音喜多と呼ばれた男性はエリオくんに手を上げて、僕を担ぐ男性と一緒に走り出す。
3人に囲まれて足止めされるエリオくんに銃口が向けられる。それは彼の足を掠めて血が吹き出す。彼はその怪我に一瞬怯むものの、右手の刃裏で男を殴り飛ばす。
「シャム!」
僕を追いかけようとするエリオくんの足に、殴られた男が起き上がって足に組みつく。他の2人が彼に殴り掛かり、彼はそれを防ぐので手一杯だ。
僕が助けようとした3人は怪我をしたまま散り散りに逃げていく。
「やだ!やめて!!下ろしてよ!!」
「それ、いい材料になりそうだから手足のカットは最後で。ああ、声帯はとっておいて」
僕を担ぐ男性に、昨日の彼がさも当然のように話す。
担がれたまま男性の体を蹴ったり殴ったりするが、僕の力が弱すぎるのか彼がとても我慢が上手いのか、これといった抵抗にはなっていないようだった。
「エリオくん!!」
名前を呼ぶも、彼は男たちを殺したくないのか極力武器を使わないよう左手で応戦している。1人の手から銃を奪い取って投げ捨てるも、次々に組み付く男性たちに彼はその場から動けない。
「絶対助けに行くから!」
動けないまま彼が叫ぶ。担がれたまま距離が広がり、少しずつ小さくなる彼の姿に不安と申し訳からかまたお腹が痛くなってきた。自分のせいでこんなことになってしまって僕は「助けて」とか「待ってる」なんて都合のいいことを言えない。
かと言って「僕の事はいいから」なんてかっこつける事もできない僕は、何も言葉を返せないまま彼の姿が見えなくなるまで見つめる事しか出来なかった。
昨日訪れたばかりの一軒家の2階へと運ばれる。
「この子は屋根裏でちょっと方針を決める。時間がないからすぐにでも会場に行けるよう準備しといて」
男性の言葉に僕を担いだ人は2階にある梯子に手をかける。人を担いでいるのに彼は軽々と梯子を登り、僕が暴れたところでどうもなりそうになかった。
1階のダイニングにも何人か縛り上げられた人たちがいて、彼らと対峙するように座っていた男性が小瓶を片手にこちらを振り返る。
「おかえりっす。音喜多さん、コイツの媚薬どれくらい入れます?」
「規定量の4倍にしておこう。5倍入れると、たまに急性薬物中毒で死ぬ奴がいる。死んでもいいんだけど、1回くらいは使えないと俺が怒られちゃうから、くれぐれもよろしくね」
梯子を登りながら尋ねる男性に音喜多が下から答える。
屋根裏にたどり着くと、僕を担いだ人は僕を乱暴に床に降ろすと、慣れた手つきで傍にあった手枷を僕につけ、鎖のついた首輪を僕の首に巻き付ける。
「やだ!離れて!!」
「うるせぇ!」
僕の声が耳に触ったのか、静かにしていた彼は恐ろしい形相で拳を振り上げる。
「あー、だめだめ。その子、顔しか取り柄ないんだから傷つけないで。汚いものより綺麗なものの方がウケがいいのは地下も最下層も同じでしょ?」
男性の拳に手を添えて、昨日の男性はニコリと微笑んだ。
「でもコイツ…」
「いーのいーの。ほら、それより外出準備」
音喜多に諭され、怒りの表情を浮かべていた彼は渋々と手を下ろした。
「じゃ、後でね」
ヒラヒラと音喜多が手を振ると、納得のいかないような表情を浮かべたまま彼は梯子を降りていった。
「血気盛んな奴でごめんね~、彼はまだ俺のチーム入って日が浅いんだ」
彼は僕の前にあぐらをかいて座る。そのままベルトについたカバンを開いて広げた。
床に並べられていくのは注射器、メス、ペンチのようなもの、小型のチェーンソーと巨大な刃を持つハサミ。どれも嫌な想像しか浮かばない。
「さて、君に聞きたい。俺が君に提示する未来は3つだ」
彼はメスとチェーンソーを僕の目の前に持ってくる。
「1つは君が見た通り、昨日の彼らのように四肢を切り落として声帯をもぐ。そのまま死ぬまで誰かの性欲処理に使われる道だ」
下の階から悲鳴やチェーンソーの音が聞こえ始める。その恐ろしい悲鳴は、手足を麻酔なしで切り落とされる痛みを物語っていた。
音喜多が次に並べたのはペンチと注射器とハサミだ。
「2つめは君の身体を少しずつ、生きたまま解体するんだ。麻酔をうってあげる。永遠に切れない麻酔だ。解体して再生できるパーツは再生して、また解体する。死ぬまでずっとそう、逃げ出すなんて絶対に出来ない」
四肢を切り落とされるのもさながら、なにが楽しくてそんな恐ろしいことばかり思いつくのだろう。
彼は相変わらず静かに淡々と話すが、逆にそれが酷く恐ろしく思えた。
「もう1つ、俺はこれを推したい。君にしか出来ないことだ」
今まで並べた道具を全て僕の前から避けて、彼はあぐらをかいた足で頬杖をついた。
「君にリーサルウェポンを誘惑してもらいたい。君が彼に媚びてくれれば、彼は俺たちの庇護者になってくれる。君は五体満足で、リーサルウェポンも可愛い君を手放さずに済むし、俺たちも安全だ。どう?悪くないでしょ?」
機嫌良さそうな笑みを浮かべた男性から目を逸らすと、男の横に避けられた恐ろしい道具が目に入る。
「そんな騙すようなこと出来ないよ…そ、それに…貴方たちは悪いことしてるんでしょ…?彼にそのお手伝いさせるなんて僕は嫌だ…」
「悪いこと?ここじゃ、楽しく暮らすならこれくらい手を汚すのが常識さ。リーサルウェポンは強いのに、みみっちくゴミなんか集めて暮らしてる。楽な生き方を教えてあげるだけだよ?」
彼は穏やかな声で答えるが、その瞳の奥は背筋が凍るほど恐ろしく感じる。
エリオくんはびっくりするくらい親切にしてくれて、危ない目にあいながらも僕を助けてくれるくらい優しい。そんな彼の優しさが否定されたようで僕は少し腹が立った。
「だから、君がその可愛い顔で愛を囁いてごらんよ。あれが絆されるくらい、君はきっと彼の好みなんだろうと俺は踏んでるんだよ」
僕の顎を人差し指だけで持ち上げて、彼はじろじろと観察するように僕の顔を見つめた。
「だ、だめ!騙すのも悪いことさせるのも僕は絶対しないから…!」
「偽の愛を囁くだけだよ?そんなに怒るくらい生理的に無理?まあ、確かにリーサルウェポンは強いけど、それだけだもんね。背は低いし、顔もあまり万人受けする感じじゃないし」
「そういう問題じゃなくて…!」
僕の言葉など無視して彼は立ち上がると、腕を組んで僕を見下ろした。
しばらく考え込むようにつま先で床をトントンと踏み鳴らしていたが、思いついたように目を開いて笑った。
「それなら、君がどうやってもリーサルウェポンを誘惑せざる得ない状態を作ってあげよう。嘘が吐けない君を、俺たちが手伝ってあげる」
僕を見下ろして、彼はニッコリと笑った。
「ど、どうするつもりなの…?」
「いや、簡単な話だよ。君にはシャワーを浴びて貰って清潔になってもらう。可愛いラッピングを施して、媚薬を飲んで貰って彼にお届けだ。いい案でしょ?」
それが本当に素敵な贈り物の提案だったらどんなに良かったか。しかしそれはただの贈りものなんかでは無い。
「なんにもいい案じゃ…エリオくんと仲良くしたいなら悪いことやめてもっと素敵な贈り物を用意した方がいいよ…?ほ、ほら…ドーナツとか、彼喜ぶと思うよ…?」
そう言いながら僕は座り込んだまま後ろへと後ずさる。
「ドーナツ!これは面白いや!そんなもの、この街じゃどこにも手に入らないし、俺たちが欲しているのは、これからも快適に新入りを狩るための守護者だ。彼を使って、俺たちはより多くの新入りの手足を切り落として強者に献上する。俺たちはその仕事をやめる気はないし、そんな危険な汚れ仕事をドーナツで君は引き受けるかい?」
声を上げて笑いながら彼は僕を見つめる。
「だからその仕事がダメなんだって…きっとエリオくんだって嫌だって言うよ!」
「それを「うん」と言わせるのが君の誘惑だって話してるのに…それに、君がこれからどう死ぬか、死に際を選ばせてあげてるだけで意見は聞いてない。勘違いしない方がいいよ?」
彼は僕の頭を指先でコンコンとつついた。思い出し笑いをしているのか、何も言っていないのに小さく笑いを漏らしながら、彼は僕に小さく手を振った。
「それじゃ、今日の君の舞台は街の中心部にある元劇場だ。あそこで毎日開催している乱交パーティにリーサルウェポンを誘い出して、君に骨抜きにしてもわらなきゃ」
そこまで話してから、思い出したように彼は手を叩いた。
「そうだ、言い忘れてたんだけど…もしリーサルウェポンが君になびかなかったら、君はその劇場でフリーセックスだ。毎日媚薬を飲んでもらって、気持ちよく死なせてあげるから安心して」
脳裏に道端に縛られた男性がいた光景が浮かび上がる。背中から嫌な汗が滲み出し、息が詰まるような不安に襲われ呼吸が乱れた。
「い、いやだ…お願いやめて…!」
「じゃあ、頑張って誘惑してね。準備できたら現地に連れて行くからそこで少し待ってて」
彼は僕に向けて投げキッスをするような仕草をしてから、ウィンクをする。
「期待してるよ、俺たちの幸運の女神ちゃん」
「いたた…あー…ズボンまで破けちゃった…」
膝にヒリヒリとした痛みを感じて目を向けると、さっき転んだ時に出来たのだろう擦り傷がぱっくりと破けたズボンから覗いている。
怪我をするなんて何年ぶりだろうか。慣れない痛みにため息をついて、僕は隠れた瓦礫の陰から周りを見渡した。
この当たりの景色は食堂や自室から見える街並みとは全然違ってて、僕の知るラプラスの塔はどこにも見当たらない。
本当に助けてくれた青年の言う地下の地下なのか…あるいはとても遠い場所まで来てしまったのだろう。
塔から出たことも、出る必要さえない僕は地下の地理すらもよくわからない。
ラプラスの塔と言われたこの大きな柱のような物は僕の帰る場所とは別物のようだ。
「はあ…困ったなぁ…」
不安と緊張感で既にヘトヘトだ。柱に寄りかかって物陰から街をみていると、そこへ突然人の顔が眼前に現れた。
「おや、見ない顔だ」
急に現れた彼に驚いて、僕は座ったまま少し後ずさるように身を縮める。
隠れていたはずなのに声をかけられた疑問とか、絶対に見つかるなと言われていたのに呆気なく声をかけられている事に少し焦りを感じながらも僕は彼の様子を伺った。
「えっと…何かご用…うっ」
思い出したようにせり上がってきた吐き気に慌てて口を抑えて深呼吸をする。
それを見た男性は驚いたように口を開いて、ベルトについたペットボトルを僕に差し出した。
「具合悪いんだね。大丈夫?良かったら飲んで」
今まで見てきた人に比べて品の良さそうな、清潔な雰囲気の男性だ。彼は僕が水を受け取ると瓦礫を跨いで隣にしゃがみ、僕と目線を合わせた。
「どこから来たの?新入りさんかな?」
「新入りさん…なのかもしれないんですけど…何とか帰れないかなって…」
貰った水を少し飲むと少し吐き気が落ち着いて、僕はようやく深く息を着いた。
「すみません、ありがとうございます。少し楽になりました」
「いやいや、役に立ったなら何より」
彼は柔和な笑みを浮かべながらジロジロと僕を舐めるように眺める彼には、なんだか妙な違和感を覚える。
「…ところで、新入りさんなら俺たちそういう子を集めて街についてレクチャーしてるんだ。君も新入りさんなら街のルール分からないでしょ?良かったらおいでよ」
ニコニコと微笑みながら、彼は僕を見つめる。
「ありがとうございます。でも僕ここで待ってる約束なんで…この街についてもその彼が教えてくれているので大丈夫そうです」
ありがたい申し出であることは確かだが、幸運なことに僕を手助けしてくれる人は既にいてくれてる。もしこちらの男性にお世話になるとしても、彼に黙っていなくなる訳には行かないし、お礼のために連絡先くらいは聞いておきたかった。
「えー、そうなんだ。じゃあ、先にさっきのお水の分の対価は貰わないとね。何か交換できるものある?」
不意に、彼は僕に空いた手を差し出す。
「えっ…た対価…?」
タダで水をよこせだなんて言うつもりは無いが、好意的に差し出された水で対価を求められるとは思っていなかった。
僕はズボンやジャケットのポケットを探ってみるが対価になる物は何も無い。助けてくれた青年の話ではお金は意味をなさないし、そもそも腕時計が壊れているので支払うことも出来ないのだが。
「ごめんなさい、今何も持ってなくて…」
「困ったなあ。何もなしじゃ、この街で生活出来ないよ。君にルールを教えてくれた人、不親切じゃない?やっぱりうちにおいでよ、ルールを教えたら次にちゃんと仕事をあげる。そしたら、水はチャラでいいよ」
彼は優しげに微笑んではいるものの、どことなく恐怖を感じさせる。
「じゃ…じゃあせめて待ち合わせの彼が戻るまで待ってて貰えませんか?何も言わずにいなくなると、きっと心配するので…」
「そんなに待てないよ。ほら、もう行こう?この街は狭いから、その人もすぐ場所分かるって」
不意に彼が面倒くさそうに眉をしかめた。僕の手を取り、無理やり立たせようと引っ張りあげる。
「やっ…こ、困ります!」
いよいよ彼に感じていた違和感が確信へと変わり、僕は掴まれた手を振りほどこうと腕を振った。
彼は見た目よりも力が強く、掴まれた手が解けない。
「ちょっと!作戦1は失敗だ!手伝って!」
彼が僕の手を掴んだまま叫ぶと、柱の影から僕を取り囲むように大柄な男たちが姿を見せる。1人が僕を担ぎあげ、もう1人が僕の口に布を詰めた。
「君ちょっと目立つから、静かにしててね。ライバル増えると困るんだ」
話しかけてきた男性は僕の両手首を縄で縛る 。僕を担いだ男性を叩いたり蹴ったりして必死に抵抗するが、彼はビクともせず逆にお尻を平手で力いっぱい叩かれた。
「んぐぅっ」
今までに感じたことの無いようなビリビリとした痛みに体を強ばらせる。
「そーそー、顔は最大の売り物だから傷つけたらダメだよ?出荷まで大事にしてね」
僕を担いだ男性に機嫌良さそうに話しながら、最初の男性が歩き出す。
街並みには相変わらず悲鳴や罵声が絶え間なくどこからか聞こえていて、丸裸のまま放置されたボロボロの男性や、両手足を切り落とされた女性の死体まで落ちている。
そんな街並みをまるで、彼らは塔の中を歩く人のように軽い足取りで進んでいく。
何とか逃れようと時折体を捩ると、先程のようにおしりを強く叩かれて僕は大人しく彼らに連れて行かれる。
なんの目的でどこに向かっているのかとか、さっきの彼がきっと心配するとか考えると不安でお腹が痛くなった。
「おい!待て!」
顔を上げると、通りの向こうからさっきの義手の青年が走ってくる。片手に持っていたペットボトルを道に放り投げ、全力疾走でこちらに向かってくる。
「んー!」
彼の姿にほっとして布の詰められた口で必死に彼を呼んだ。
「やばい、リーサルウェポンが戻って来たぞ!早く走れ!」
彼らは青年を見つけると同時に走る速度をあげる。彼らも全力で走り出すと、みるみる青年は引き離されて姿がどんどん小さくなっていく。
「はっ!アイツ案外とろくせえぞ!チビだから歩幅せめえんだな!」
僕を担いだ男性が笑う。
安心していたのもつかの間、あっという間に絶たれた希望に再びお腹が痛くなってきた。
僕が急にいなくなったと思うより、不注意に攫われたと知っててもらえるだけ良かったと思うべきなのだろうか…僕は全然良くないのだけど。
彼らに担がれて行き着いたのは普通に少し古い二階建ての一軒家だ。最初の男性はその家の扉を開けて僕を担いだ男達を先に中へ通した。
「ありがと。あとは俺が処理するから先に上に運んで置いて」
彼の言葉に、僕を担いだ男性がそのまま階段を上がる。
2階に上がると、階段の先はすぐに扉があった。中から何かがぶつかるような音が聞こえるが、人の声らしいものは聞こえない。
その扉を開けると、男性は僕を床に放り投げる。真っ暗な部屋の中に倒れ込む僕を見下ろして、彼はそのまま来た道を引き返し、ドアを閉めた。
縛られた手で何とか体を起こして、口に詰められた布を引っ張り出して畳んでポケットにいれた。真っ暗の部屋の中を壁伝いに歩き、出口の場所を探していると何かに足を引っかけて大きな音を立てて転んでしまった。
「あいててて…もう…こんなとこに一体なんなんだろ…」
躓いた何かを確かめるように手で触ると、それは生暖かく柔らかい。まるで人間の肌のような感触のそれが、僕の手の中でビクビクと暴れるように動いた。
「ひえっ!!」
後ろに飛び退いて尻もちをつく。その何かが動くたび、ガチャガチャと金属が擦れるような音と、重たいものが床を引きずるような音がする。よく耳を澄ませてみれば、人の荒い呼吸のようなものが微かに混ざっていた。
「おまたせ」
不意に先ほどの男性の声が飛び込み、同時に部屋に電気が灯る。目の前にいたのは、四肢をもがれた丸裸の男性だ。四肢に巻かれた包帯には真っ赤な鮮血が滲み、口に入れられた猿轡からは涎が漏れていた。
血走った目をひん剥いて、彼は僕に助けを乞うように僕を見て這いよって来る。
「う、うわああああああ!!!」
こんな大きな悲鳴を上げたのはいつぶりだろうか。尻もちを着いたまま目の前の恐ろしい光景から後ずさりて逃げると背中に何者かの膝がぶつかった。
何となくその相手に心当たりを感じながら後ろを見上げると、やはりそれは僕をここに連れてきたあの男性だった。
「やあ、ようやく来てくれたね。待ってたよ」
僕を見下ろす彼はにこやかに笑う彼から、震える足を引きずるように這って逃げる。部屋の奥へ逃げ、周囲を見回すと、周囲に僕以外の人間が3人いたことにようやく気が付く。
周囲の人間たちには全員、両手足がなかった。丸裸に剥かれた状態で猿轡を噛まされ、付けられた首輪は鎖で壁に繋げられている。
目の前の恐ろしい光景に、僕は足がすくんで立つこともできず呆然と男性を見上げた。
「みんな今日のクレーンで落ちてきた子たちでさ、全員回収したはずなのに君を見逃したなんてビックリさ」
後ろ手にしていた彼の手には小型のチェーンソーが握られている。周囲に転がる人達の両手足に巻かれた包帯にも鮮血が滲んでいるのは、おそらく彼の手に握られたそれの仕業だと恐怖でいっぱいになった頭でも分かった。
「みんな手足をちぎって、声帯を切っちゃうんだ。見た目が綺麗だと、いい感じのオナホだって強い人たちが喜んで使ってくれる。俺は彼らに守ってもらう代わりに、性処理道具は定期的に貢がないと安全に暮らせないんだ」
チェーンソーのスイッチを入れ、彼はジリジリと僕に歩み寄る。
「今日の新入りさんは結構みんな顔面偏差値が高くてさあ、4人もいるなんて豊作さ!特に君は評判良さそう」
僕の足にチェーンソーを近づけていく。
「や、やだああ!!」
すくむ足に鞭をうって何とか立ち上がるも、震える足で上手く走れずすぐに転んでしまう。立ち上がりたいのに膝が震えて力が入らない。
「や…やだ…やめて…」
後ずさりしながら懇願すると、恐怖で涙が溢れる。人生で1番大きな怪我はたんこぶだった。3日も腫れが引かなくて大変で、お母さんに毎晩泣きついてた。チェーンソーで足を切り落とすのはそのたんこぶの何倍痛いんだろう。
想像できない程の恐怖に呼吸も出来なくなる。
「大丈夫、すぐ終わらせるしちゃんと縫合するから死なせないよ」
男性が笑顔で僕の足を掴み、チェーンソーを再び近づける。突然、背後からガラスが割れるような音が鳴る。何かが僕の首元のシャツを引っ張り、後ろへと投げ飛ばされる。
驚いて顔をあげると、目の前には僕を助けてくれたあの小柄な青年が立っていた。
「あぶねー、近道して正解だった」
彼は僕に振り返らずに右手の剣を構える。僕に男性を近づけまいとするようにその手を広げる。
「俺のって知ってて攫ったでしょ。そうじゃなきゃ、こんな短時間で持ってかないよな?」
チェーンソーを握った男性は彼の姿を見ると、笑顔を初めて崩して舌打ちをした。
「くそっ、思ってたより早かったね…。もしかしなくても、やっぱりその彼にご執心?俺に任せてくれたら良いオナホにしてあげるけど?」
「いや、大丈夫。返してくれりゃあ、それでいい」
青年が右腕を動かすと、酷く軋むような音が鳴る。それをチラと男性は見つめ、チェーンソーを手から離して床に捨て、そのまま両手を上げた。
「…分かった、彼は返す。だから、他のを没収したり、俺の命を奪ったりしないでくれ」
男性の言葉に青年はじりじりと後ろに下がると、男性の様子を見ながら僕の隣にしゃがむ。
「大丈夫?ごめん、他はちょっと見捨てるんだけど、正義の味方じゃないから許して」
恐怖で声も出せない僕は小さく頷く事しか出来なかった。
僕を両腕で抱き上げて、そのまま彼は自分が入ってきた窓から身を乗り出す。
あれ、ここ2階だったような…そう思い出して彼を止めようとした時にはもう遅かった。
躊躇いもなく飛び降りた彼に驚きのあまり悲鳴すら出なかった。片腕が刃物だからか、お姫様抱っこのように僕を抱いた彼の首にしがみついて目を強く閉め、着地したのだろう衝撃の後ゆっくりと目を開いた。
「ごめん、びっくりしたろ。1回うち帰って休もうぜ。どうせ帰るとこないだろ?」
彼は僕を地面に降ろすことなく、そのままトコトコと走り出す。僕よりも10cm以上は背が低そうな彼は、見た目よりも随分と力持ちのようで僕の体重などまるで意に介してない。
浅黒い肌に埋め込まれた垂れ目がちな赤と青のオッドアイが僕を心配そうに見ている。オレンジ色の赤毛は癖で少し広がっていて、こうして見ると小さなライオンのようにも見えた。
「あ、あの…!もう下ろしていいよ…?」
ようやく落ち着いてきた僕は彼の肩を叩いて話しかける。
さっきから彼に運んでもらってばかりだからそろっと申し訳なさでいっぱいだ。
「大丈夫大丈夫、全然重くないし」
彼は何故か少し機嫌良さそうな笑みを浮かべ、そのまま道を進んでいく。
「な、何かごめんね…」
確かに擦りむいた膝は無理に動かしたせいか先程よりもジンジンとした痛みを感じるし、あまり走ったりするのは得意じゃない。半ば流されるような形だったが、僕は彼に甘えさせて貰うことにした。
人が多い中心部から少し離れたアパートにたどり着くと、彼は軽やかに階段を駆け上がって最上階の一室の前でようやく僕を下ろした。
「ここが君の家…?」
「おー、まあね」
彼はポケットから鍵を取り出し、それを開ける。扉を開けたすぐ傍にある電気のスイッチを付けると、彼は僕に部屋の中を顎で指す。
「電気あんまり使えねえから早く上がってくれ。ちょっとしたらロウソクに切り替える」
「う、うん。お邪魔します」
彼に言われて少し焦りながら部屋の中へと足を踏み入れた。
部屋の中はワンルーム…と思いきや、踏み入れてみれば、壁の一部が明らかに鈍器で壊したような穴でぶち抜かれている。実質2部屋分の広さを持つその部屋には小さなキッチンとダイニングテーブルが置かれている。部屋の壁に沿うように置かれた棚には瓶や缶が並べられ、ちょっとした食品売り場のようになっている。
彼の容姿や行動から想像していたより随分と小綺麗に片された室内を見回していると、彼は壊された壁の向こうにあるベッドの横に立って僕を見る。
「…あー…ごめん、うちシングルベッドで、ソファもないから一緒に寝てもらうことになるんだけど…大丈夫?」
少し歯切れ悪く言いながら、彼は部屋脇の小さな棚の上に置かれた大きなロウソクに火をつけた。
「えっ、い、いいよそんな!泊めてもらえるだけとってもありがたいもん!」
僕は彼のベッドから数歩離れたところにある、壁際のクローゼットに寄りかかり膝を抱えて座った。
「えー…来たばっかりで大変だろ?少しくらい甘えていいよ。ベッド、一緒に寝るの無理なら初日くらい貸すしさ」
彼は何故か僕の隣に来ると、一緒に床に座る。
「無理なんかじゃないよ!なんか僕、君に迷惑ばかりかけちゃってるから…」
「そんな事…」
そこまで言ってから彼は思い出したように隣の部屋にあるテーブルを指さした。そこには、今日買って彼に渡したドーナツの箱がある。
「ほら、俺、報酬貰ったからさ。あれが宿賃」
ニッと歯を見せて笑う彼は無邪気な少年のように見えた。
「ふふっ、じゃあお言葉に甘えようかな」
そう言って立ち上がると彼も笑顔で立ち上がる。
僕をベッドの壁際に寄せ、彼は反対側で僕に背中を向けて横になる。彼が小柄なせいか、思っていたより狭く無かった。
平和な塔の中で何不自由なく暮らしてきたのに、突然全く知らないそれもとんでもなく恐ろしい所に場所にきてしまった。それなのに、彼がいてくれるおかげか僕は不思議なくらい落ち着いていた。
「明日は…帰る方法が見つかるといいな」
目を閉じたまま独り言のようにそう呟いた。
「…あまり期待しないで、ここで暮らす努力した方がいいと思うよ」
背中合わせに横になった青年が小さく声を発した。とても申し訳なさそうなその声には悪意は感じられない。
それでも、帰れないという言葉をどうにも真に受けることが僕にはできなかった。
今日は仕事が休みの日だったから、きっと僕がいなくなったことに気づく人がいなかったのかもしれない。
明日になって仕事場に僕がいなかったら誰かが気づいて報告してくれるだろう。そしたらきっとラプラスがこの場所に気づいて助けてくれる。そうしたら彼にももっとちゃんとお礼が出来るのに。
彼がリモコンで部屋から電気を消す。部屋にポツンと点った炎がオレンジ色に柔らかく部屋を染めた。
彼の背中に額をつけると不安な気持ちが和らいで、思っていたよりもよく眠ることが出来た。
朝になるとベッドが小さく揺れて、ウトウトとまだ眠い目を薄らと開く。青年がモゾモゾと起き上がり、足音を立てないように静かにベッドから立ち上がる。大きな欠伸をすると、彼は部屋に併設されたユニットバスへと入っていった。
シャワーのような音やトイレが流れるが聞こえ、20分程度で彼が上半身に服を着ないままで戻ってきた。肩に引っ掛けたタオルで頭を拭きながら彼は並べられた食品棚を眺める。
「うーん…おはよう…」
まだ疲労感の残る体を無理やり起こしながら彼に声をかけた。彼は僕の方に振り返り、缶詰を片手に持ったまま歯を見せて笑う。
「おはよー、体調大丈夫?」
そう言う彼の身体は随分と傷だらけで、手袋のない義手は硬い金属で出来た機械仕掛けのものだ。腕を動かすための最低限の神経は通っていそうだが、触覚などを感じる人工皮膚が備わっていない中途半端な作りに思える。
右腕は肩から全てが金属で覆われており、肩から伸びる細いチューブは彼の背中などの胴体に繋がっている。右側の脇腹には何かディスプレイのようなものが付いていた。
「その腕、そうなってたんだ…珍しいタイプみたいだね」
まじまじと彼の体を見つめると、彼は苦笑いをしてからまた視線を棚に戻した。
最近は義手も技術が進んでいて、制作費用こそお金は掛かるが、切れた腕の神経を義手本体に繋げることで本来の腕と遜色なく動かすことが出来る。
しかし、彼のタイプのものでは物の触り心地や体温は分からないだろうし、見た目も本物に程遠い。
「上の階層で闘犬やってた時に、両腕がダメになったから付けられたんだ。だから、戦いに不要な痛覚をあまり持たせないようにあえて触覚は持たせなかったんだってさ」
まるで天気の話をするように彼は答える。指がある左手で缶詰をいくつか棚から取り出すと、彼はテーブルにそれらを置いた。
「闘犬…?」
「正確に言えば労働用の犬だったけど、地下のカジノのあたりにファイトクラブって言う殺し合いの施設があっただろ。そこで戦わせるために育てた犬を闘犬って一部じゃ呼ぶんだってさ」
テーブルに置いた缶詰を捻り、コマのように指で弾いて器用にくるくると回す。
「戦わせるため…?なんでそんなこと…」
塔の外をほとんど知らない僕にとって彼の話はとても信じ難い事だが、きっと世間知らずというのは僕のことを指すのだろう。
「ぎゅるるる…」
彼の返事を待つより先に、僕のお腹が盛大に鳴ってしまった。
そういえば昨日はお昼ご飯のドーナツも食べ損ねて、それからなんにも口にしていない。さすがにお腹がすいてしまった。
「…飯ないよな。どうすっか…」
彼は少し悩むように首を捻り、難しい顔のまま右手の切っ先でドーナツの箱を押し、テーブルの上を滑らせて僕に差し出した。
「…宿賃、ドーナツ3個でいいから良かったら2つ食べなよ」
立ち上がると貧血でフラフラする頭を抑えながら、彼が差し出したドーナツの箱を開けてみる。昨日より更にめちゃくちゃになった無惨なドーナツが5個残っている。
甘いものは大好きだがトッピングのチョコレートや粉砂糖、クリームがぐちゃぐちゃに混ざってしまった何かを食べる気にはなれずに箱を閉じた。
「う、うーん…これはちょっと…」
「こんなにご馳走なのに?多分、当分はもうドーナツなんて焼き菓子食えないぜ。後悔しない?」
彼は心配そうに首を捻るが、僕は首を横に振る。
キャラメルとチョコレートのソースが混ざりあった中に潰れたクリームドーナツから吹き出したホイップクリームが絡まってベトベトになっているドーナツを惜しむ気持ちは湧かない。
「じゃあ、ドーナツ2つで缶詰とトレードしようぜ」
彼は眉をよせた彼は困ったように笑ってから食料棚へと歩き出す。両腕に缶詰や瓶を持ってテーブルに戻り、僕の前にそれらを並べた。
「お前が持ってるのは、ここじゃ手に入らない腐ってない新しいドーナツだ。その価値はなかなか高い。みんなが欲しがる贅沢品だ」
「ええ…これが…?」
「うん、見た目がぐちゃぐちゃでも、糖分が取れるし腹にも溜まるだろ?カロリーもあるし、何より美味い!」
彼は箱からボロボロのドーナツを手に取り、嬉しそうに笑ってみせる。
手に取ったドーナツを口に咥え、彼は缶詰を僕の前に積む。魚の缶詰を7つ積み上げた小さな塔を僕に差し出す。
「よく手に入るツナ缶や鯖缶、人気のないクジラ缶は価値が低い。交換するならこれくらい出せるが、多分飽きる。でも、腹には1番溜まると思う」
続いて彼はフルーツ缶を4つ並べる。
「人気の高いフルーツ缶だ。糖分も摂取できる地下では珍しい甘味。味はドーナツにはかなわないけどうまい。でも、ほとんど水分だから腹にはあまりたまらない。ドーナツに合わせると値打ち的には4つ分くらいかな」
そのまま彼は肉や豆の詰まった特殊な缶詰を5つ詰んだ。
「魚缶に比べて少し手に入りにくい種類だ。5つが出せる限界かな。でも、味は豊富で飽きないし、腹にも溜まる。問題は1個1個の量がすくないとこかな」
つらつらと説明する彼はどうやら僕にここの物価を教えようとしてくれているようだった。
ドーナツなんて値段にすればせいぜい1つ120円から高くても200円くらいなものを、そんなに価値のあるものと感じるのはなかなか難しい。
「ジャーキーやジャムもあるが、これは貴重品だからドーナツに出せるのはせいぜいジャーキー4枚かジャム2瓶ってとこだ。最初の交換には勧めない」
持ってきた瓶の頭をぽんぽんと叩いて示し、彼は僕を見て穏やかな笑みを浮かべる。
「この街じゃ、無償の親切は命取りだ。だから、何をするにも対価が必要になる。慎重に交換してくれ、ドーナツはお前の唯一の資産だ」
「うーん…じゃあフルーツ缶と魚系ってのはできる?」
あまり沢山貰ってもポケットに入り切らないと思い、僕は少しレートが高いらしいフルーツ缶と魚系の缶詰を指差す。
彼は笑顔で頷くと、僕の前にフルーツ缶2つと魚缶を4つ差し出した。
「じゃあ、これでどう?」
「うん、ありがとう!助かるよ」
彼から受け取った缶の中から桃の絵がかかれたものを開けた。よく見る普通の桃缶だがなんだかすごく安心する。
早速食べようとした所でふと食器がないことに気がついた。
ドーナツやクレープならともかく、桃缶を手掴みで食べるのはお行儀が悪い。
「あっ…フォークとかなにか…」
そこまで口走ってから、彼の言った何事にも対価が必要だと言う話を思い出す。
「こ、これでフォークって交換出来る…?」
僕はついさっき彼から交換してもらった魚の缶詰を1つ差し出しながら彼に尋ねた。
彼はその缶詰を見つめてから、僕の顔を見て、困ったように目尻を下げて笑う。
「…交換出来るけど…」
そこまで言ってから、僕が差し出した缶詰を再びテーブルに滑らせて返す。
「俺の家でレンタルってことなら無料でいいよ。お前だけ特別だから、誰にも内緒な?」
そう言って彼は席を立つと、キッチンへと向かう。棚からフォークを取り出すと、彼はそれを僕に差し出した。
「…ありがとう。君は優しいね」
フォークを受け取って彼に笑いかけると、彼は目を丸くし、何故か照れたように頬を赤くして目を逸らした。
彼はまた僕の正面に座り直す。食べかけのドーナツに彼が再び口を付けるのを確認してから、僕も手を合わせる。
「いただきます」
「お、それ懐かしい」
僕の言葉に、彼は笑って一緒に手を合わせた。
「いただきます!」
もうとうに食べ始めていたのに、改めてそう言うと食事を再開する。
僕もフォークで桃を引きずり出すように桃缶を食べた。
「そういえば。昨日の怖い人にね、水を貰って対価を求められたのに結局何も返せなくて、ちょっと悪いことしちゃったかな」
恐ろしい体験をしたとはいえ、水に助けられたのは事実だ。…だからといって四肢を切っていいとはとてもならないが…。
「…その水ってお前から下さいって頼んだの?」
青年は眉をひそめて、首を傾げる。彼の口の端にはホイップクリームがついたままだ。
「ううん。僕が具合悪そうだったから、良かったらどうぞって…」
「あー、あるある。この街では1番主流な騙し方だよ。何も対価を払えなそうな人間に好意的に差し出して、対価を後出しで請求することで逃げられなくするんだ。水と命じゃどのみち釣り合わないし、詐欺だから気にしなくていいよ」
口についたホイップクリームを指で取って舐める彼は、鼻で笑うように言う。
「そ、そっか詐欺だったんだ…今度から気をつけないとね」
桃缶を食べ終えて残りの缶詰をジャケットのポケットにしまう。
さすがにジャケットだけでは入り切らなかった分はスキニーの小さなお尻のポケットに何とかねじ込んだ。
食事が終わると、青年が席を立って伸びをした。
「じゃ、俺はこれから食料調達に行くよ。お前はどうする?留守番しててもいいよ」
「僕も行くよ!沢山助けてもらったし、良かったらお手伝いさせて」
彼の後に続いて立ち上がるとジャケットのポケットから缶詰が1つ落っこちる。
慌ててそれを拾おうとしゃがんだ拍子に今度は反対のポケットからも缶詰が逃げ出した。
「…ここに置いてく?俺は取らないよ」
それを見ていた青年が苦笑いする。逃げて床を転がるそれを1つ手に取り、彼はテーブルにそれを置いた。
「…じゃ、じゃあそうさせてもらおうかな」
パンパンに詰め込まれた缶詰達をテーブルの端に詰んで置く。
軽くなったジャケットのポケットをパンパンと叩いて「これで大丈夫!」と彼に笑いかけた。彼はそれに頷いて昨日着ていたファー付きのコートを羽織り、空っぽのリュックを背負う。よく見ると剣の切っ先で切れてしまったのか、右腕の袖はあちこち切れ目だらけだ。
「えっと…じゃあ、お手伝いってことで傘持ってもらってもいい?」
玄関の脇に置かれた傘を2本手に取り、それを僕に差し出す。
「うん…?今日は雨なの?地下の雨は毒性が強いからこういう時は外に出ない方がいいって聞いたことあるけど…」
首を傾げてそれを受け取りながら尋ねると、彼は微笑んだまま肩を竦めた。
「雨じゃないけど、これから行く所は砂がいっぱい降るから、ないと目に入るんだ。だから、必ず持って行くようにしてる」
そのまま彼は空いた左手で僕の手を取る。肩で玄関の扉を開けて、外に僕を連れ出す。
「なんか…俺だけ手ぶらでごめんな。なんか、こうしとかないと、お前すぐ攫われちゃいそうだからさ…」
もごもごと口篭りながら、彼はドアを足で蹴るように閉めた。
「え、僕ってそんなにどん臭そうにみえるの?」
「いやいやいや!それはな…いことはないけど、それよりもその…めちゃくちゃ可愛いから心配って話」
確かに運動は苦手だしここの知識もまるでないけど、そんな1目見ただけで攫おうと思われるほどなのかなと少し冗談のつもりで言ってみたが、否定しきらない彼の反応に僕は少し自信がなくなった。
僕の様子を見た青年は慌てて右手をあわあわと宙で小さく振る。
「違う!違うんだって!鈍臭いってか、お前すっごい優しいし、性格良すぎるからこの街だとカモられそうって話!ホントだよ!」
「あ…でも優しいってのはよく言われるからそうなのかも。良かった、鈍臭いとかじゃなくて」
ホッと安心して微笑むと、彼も微笑みながら何故か安心したようなため息を着いた。
歩きながら彼に渡された傘をクルクル回して観察する。
塔の中で生活しているとまず使うことはないから、本物を触ったのは初めてだ。
空っぽのリュックを背負い、彼は昨日僕らが初めて出会ったゴミ山へと歩いて行く。僕に歩くスピードを合わせているのか、手を繋いでても歩きにくくはなかった。
「あっそうだ!そういえばまだ自己紹介してなかったよね?」
ここで目が覚めてから色んなことがありすぎて、すっかり忘れていた。
「僕はシャム。シャム・シーウィ。改めてよろしくね」
青年に笑顔を向けると、彼はまた照れたように視線を逸らしたが、笑みを口元に浮かべたまま僕に視線を戻した。
「俺はエリオット・マーティス。こちらこそよろしく、シャム」
彼は繋いだ手を離さないまま、握手するように上下に揺すった。
「…あれ?リーサルウェポンじゃないの?」
確か彼は度々そのように呼ばれていたようだから、てっきりそれが名前なのだとばかり思っていたがそういう訳ではないらしい。
「んー、あれはあだ名みたいな?あんまり好きな呼ばれ方じゃないから、エリオットがいいな」
「そうだったんだ。じゃあエリオくん!エリオくんならどうかな?」
僕の提案にエリオくんは目を丸くした。
「エリオ?変な区切り方すんね。別にいいけど」
ふっと彼が吹き出すように笑う。
「普通はエリーとかありそうだけど、シャムは出身国ってか…何人なの?」
「一応中国系だけど、長い間に色んな国籍の血が混ざってたと思うから…僕は塔の生まれだし、国籍とかそういうのないんだ。何か関係があるの?」
「あー、そっか…地上のイギリスとかだとそういう愛称はなかったってだけなんだ。つい癖でさ」
彼はそこまで言うと再び視線を進行方向に戻す。
「イギリス…エリオくんって地上の人だったんだ…なんかごめんね」
地上から来たということはきっと誘拐か、売られて地下に来てしまったんだろう。彼はそんな僕の心情は察せなかったようで、不思議そうに首を傾げていた。
しばらく歩くと、遠くに茶色い山のようなものが見えてくる。どんどん悪くなる足場に足を取られて、時々躓く僕を気遣うように彼は何度も足を止めて引っ張りあげてくれた。
「あ、ありがとう。手伝いに来たはずなのにごめんね…」
「いや、大丈夫。楽しいよ」
エリオくんははにかむように笑う。
何とか立ち上がって歩き始めたものの、今度は丸い空き缶を踏んで足を滑らせた。勢いよく前に飛んだ僕はエリオくんの胸に飛び込むように倒れ込む。
「おわっ…!」
エリオくんはそれを抱きとめて踏みとどまる。なんとか共倒れせずに済んだものの、彼は僕を引き剥がすでもなく身体を強ばらせていた。
彼の胸から馬の大群が走るような激しい鼓動が聞こえる。
「うう…ごめん、ごめんねぇ…」
彼の胸を借りてバランスを建て直して起き上がると、身体を固めたまま浅黒い肌でもよく分かるほど顔を真っ赤にしている彼の表情が目に入った。
「…エリオくん?ど、どうしたの、大丈夫?」
彼の目の前で手を振って見ると、彼は我に返ったように瞬きをして小さく首を横に振った。
「あ!いや!何でもない!大丈夫!」
彼はよろよろとゴミの山を再び歩き出す。目の前に広がるのは錆びた鉄片や壊れた家具など、様々なものが積み上げられたゴミの山。
「わ…凄い景色…」
「そろそろ傘ささねえと砂まみれになるから、準備しといた方がいいんじゃね?」
エリオくんが僕から傘を取り、それを左手で何かを操作すると、傘がひとりでに開いた。
「わあ!凄い!」
「え、傘開いただけだよ…?」
エリオくんにパチパチと小さく拍手するのを、彼は照れた様子で右手の刃裏で頬を掻く。
「僕ね、実は傘に触るの初めなんだ。えっと…どうやったら開くの?」
傘の開き方を探して喋りながらいじり倒してみるが、なかなか開かない。
「ここがボタンで、押し込むとワンタッチ」
隣に来て、彼は僕の手にある傘にある突起を右手の切っ先で器用に押し込んだ。
ボンッと音を立てて傘が開く。
「わあー!凄い!!なんだか楽しくなる音だね!」
映像でしか見る機会の無い光景が自分の手の中で起きた小さな奇跡に感動して、傘を横に倒したり先端を覗き込んで浸っていると、不意に街が震える。
「あれ?地震?」
「お、今日の食料が来るぞ」
隣でエリオくんが上を見上げながらニヤリと笑う。天井にはぽっかりと大きな穴が空いていて、パラパラと頭上から降ってきた小石や砂が頭に当たる。
確かにこれはちょっと痛いし傘がなければ頭が砂まみれになってしまうと、開いたまま抱えていた傘を慌てて頭の上に掲げた。
「シャムはここにいて!拾ってくる!あっ、でも知らない人についてったらダメだぞ!」
彼はまるで母親みたいなことを言いながら、今いるゴミ山から滑るように降りて行く。穴から落ちてくるゴミの元へと駆けていく彼を、大切な傘を落とさないように両手でしっかり握って後を追って少しずつ滑り降りようと歩きだす。
「えっ、あっ…僕も手伝うよ?」
彼の後を追うように崩れやすいゴミ山をよろよろと滑り降りた。
エリオくんはゴミが落ちてきたあたりにしゃがんで、袋の中を確認したりしながらリュックに何かを詰めている。僕が近くまで行く頃には回収が終わったのか、彼はリュックを背負って立ち上がる。
「だめだめ!早く逃げて!粗大ゴミがくるぞ!」
「えっ?粗大ゴミ?」
呆気に取られている僕を彼は左腕で担ぎあげてゴミ山を再び滑り降りる。彼が離れて数秒後にガラガラと上から家具や廃材などの巨大なゴミが落ちてきた。
「び、びっくりした…こんな大きなゴミも降ってくるなんて…ごめんね僕なにも知らなくって…」
「いいよ、この街初めてだもんな。しゃーない」
エリオくんは全然怒った様子もなく、相変わらず眉を寄せて優しそうな顔で笑っている。僕をゆっくり地面に下ろし、肩を竦めた。
「お前は昨日、ああやってゴミと一緒に穴から落ちてきたんだ。すぐ気付いて本当に良かった」
エリオくんは先ほどのゴミ山を親指で指差す。さっきまで彼が食料を拾っていた場所には、折れ曲がった鉄骨がむき出しになった大きな瓦礫や割れたガラス戸の重そうなタンスが無造作に積み重なっている。
「エ、エリオくんが助けてくれなかったらこの下敷きになってたんだ…君は命の恩人だね、本当にありがとう」
「別に助けたつもりはないし…たまたま拾っただけだよ」
そう言いつつも、悪い気はしないのかエリオくんは鼻の下を指で擦りながら歯を見せて笑う。
「でも、あそこから落ちてきたってことはあそこから帰れるかもしれないね!」
「え!?いや、無理だって!無理だし今はだめ!本当にだめ!」
穴の真下に向かって歩き出す僕に、エリオくんは慌てて傍をついてくる。
「ほら、ここに大きなゴミを積み上げて登れば何とかなりそうじゃないかな?上まで届かなくても叫べば声くらい届くかもしれないし」
「この山は登れないように定期的にてっぺんを機械でプレスされてて、常に登れない高さに調整されてるんだ。それに、これから人間のゴミがくる。つまり、新入り狩りも集まるってことだ」
「シンイリガリ?でも人が増えるならみんなで力を合わせたらプレス機が来る前に登れるかも!」
僕は傍らに埋まっている大きめの木材を積み上げようと抱えて引っ張るが、なかなか動かない。
「わっ」
木材の中側は腐敗していたらしく突然ボキリと折れて、バランスを崩した僕はゴロゴロと穴の真下まで転がってしまった。
「いてて…」
また地面が揺れる。仰向けに転がったまま上を見上げると、穴から巨大な鉄の檻がクレーンで下ろされて来るのが見えた。
「ああもう!やばいって!」
僕を引っ張りあげて、彼は僕を再び肩に担ぎあげる。そのまま登ってきたゴミ山を再びかけ下りると、半分以上埋まった大きな冷蔵庫の影に身を潜める。
「また助けて貰っちゃったね、本当ありがとう」
「うんうん、大丈夫だから静かに」
彼は周囲を見回しながや自分の口に人差し指を立てて、僕の声の大きさを指摘する。
安全な所まで逃げたことを確認してから後ろを振り返ると、ちょうど降ろされた檻が地面に着地する所だった。
その檻は鉄製の物だが、天井部だけがクレーンに直接繋がっているようで、再び引き上げられたそれは天井だけを持ち上げてスルスルと上へ消えていく。
「あっ、あれに掴まって行けば帰れそうだよ!」
「だめなんだって!あの天井部も鎖も上に上がる時だけ高圧電流が流れてる。あれに掴まったが最後、黒焦げだ」
小声で言うと、彼も声を殺して僕に仕組みを答える。
天井部がなくなった檻は四方向に壁が開かれる。中に入っていたのは男性2人と女性が1人。彼らはキョロキョロと周囲を見回しながら、檻の外へと足を踏み出した。
「お、来てる来てる」
どこからともなく笑い声が聞こえる。檻が開かれるのを見計らっていたように5人程度のグループで、男性たちが彼らに詰め寄る。それは、昨日僕の足を切り落とそうとした、あの男性たちだ。
「あっ…あの人たち昨日の…!どうしよう、皆ついて行っちゃうよ!」
彼の胸を叩いて檻からでてきたばかりの3人を指さすが、彼は3人を見ずにに冷蔵庫に背を預けたまま俯いた。
「アイツらはこの街で有名な新入り狩りで、ああやって毎日新しい人間をさらって生きている。敵に回すと今後の生活に響くから…悪いけど俺も関わり合いにはなりたくないんだ」
「でも…」
彼と檻からでてきた3人を交互に見やる。
僕は戦うすべなんて持ってないし数も向こうが圧倒的だ。関わらないのが安全なことは嫌でもわかる。
何も出来ずに見守っていると、3人はあの5人組に安心した表情で着いて行った。
きっと昨日僕にしてくれたように親切を装って誘ったんだろう。
「でもやっぱりほっとけないよ…」
冷蔵庫の影から飛び出して彼らの後を追う。
「シャム!」
背後からエリオくんが声をあげる。彼を無視するようで心が痛いが、彼らを見殺しにはできない。
「そ、その人たちに着いて行ったらダメ!!手足を切られて酷いことされちゃう!」
エリオくんに新入り狩りと呼ばれていた男性たちは僕に振り返り、首を傾げた。
「ん?ああ、君は…」
昨日の男性が僕を見て、あの優しそうな笑顔を浮かべる。何も知らなければ安堵させるだろうその笑みは、容易く僕の背筋を凍らせる。
「ごめんね、彼はここに来た時から心を病んでいて、ありもしないことを話すんだ。彼も僕らと一緒に住んでいたんだけど、こうして外に出て触れ回っている。だから気にしないで」
男性の言葉を聞きながら、3人は訝しげに男性と僕を交互に見る。
「違うよ!その人たちは嘘をついてるんだ、僕は昨日彼に…チェーンソーで手足を切られそうになった!だから早く逃げて!」
ゴミの山は走りづらく何度も転びながら彼らに近づく。
僕の様子にさすがに3人は何かを感じたのか、男性のグループを前に後ずさる。彼はまだニコニコとした笑みを浮かべていたが、ベルトに下げていたホルダーから銃を取り出し、3人のうちの1人の膝を撃った。
悲鳴を上げながら倒れた彼を見て、残り2人が一斉に逃げ出すが、男性グループの他の4人が同じように銃で2人の膝を撃ち抜く。
彼らを守るか、せめて逃げなくてはいけないのに銃口を前に足がすくんで動けない。なんで僕の足はいつも大事なときに限って動かなくなるんだろう。
喚き散らす3人をグループの男性たちが担ぎあげる。何も出来ずにみつめていると、昨日会った男性は笑顔のまま僕に近付いた。
「全く、あのリーサルウェポンにご贔屓されてるからって君はつくづく調子に乗ってるね」
彼は僕の腕を掴んで引っ張る。行先はあの家なんだろうと、嫌でも想像がついた。
「や、やだ!離して!!」
パンッと銃声が鳴り響いて、男性の足元から煙が上がる。顔を上げると、そこにはエリオくんが険しい表情で立っていた。
「そいつはダメ。あげない。昨日も言っただろ」
「エリオくん…!?」
静止を振り切って飛び出したというのに、助けに入ってくれた彼に感謝と申し訳なさが押し寄せる。
「ごめん…ごめんなさい」
「いいんだ、俺もちゃんと止めなくてごめん」
男性から目を離さずに彼が答える。男性は僕の腕を掴みあげたまま笑った。
「本当にご執心だね。そんなにお気に入り?」
「いいから離せ。次は威嚇射撃じゃない」
男性の言葉にまるで本物のライオンのように鼻の頭にしわを寄せて右腕を構える。それを見た男たち2人が僕と僕を掴む男性の前へと出た。
「音喜多さん、早く運んでください!足止めします!」
「りょーかい。じゃ、お先に」
男性が手招きをすると、もう1人が僕を後ろから持ち上げる。前に攫われた時と同じように肩に担がれ、男性は走り出す。
「んじゃね!アデュー」
音喜多と呼ばれた男性はエリオくんに手を上げて、僕を担ぐ男性と一緒に走り出す。
3人に囲まれて足止めされるエリオくんに銃口が向けられる。それは彼の足を掠めて血が吹き出す。彼はその怪我に一瞬怯むものの、右手の刃裏で男を殴り飛ばす。
「シャム!」
僕を追いかけようとするエリオくんの足に、殴られた男が起き上がって足に組みつく。他の2人が彼に殴り掛かり、彼はそれを防ぐので手一杯だ。
僕が助けようとした3人は怪我をしたまま散り散りに逃げていく。
「やだ!やめて!!下ろしてよ!!」
「それ、いい材料になりそうだから手足のカットは最後で。ああ、声帯はとっておいて」
僕を担ぐ男性に、昨日の彼がさも当然のように話す。
担がれたまま男性の体を蹴ったり殴ったりするが、僕の力が弱すぎるのか彼がとても我慢が上手いのか、これといった抵抗にはなっていないようだった。
「エリオくん!!」
名前を呼ぶも、彼は男たちを殺したくないのか極力武器を使わないよう左手で応戦している。1人の手から銃を奪い取って投げ捨てるも、次々に組み付く男性たちに彼はその場から動けない。
「絶対助けに行くから!」
動けないまま彼が叫ぶ。担がれたまま距離が広がり、少しずつ小さくなる彼の姿に不安と申し訳からかまたお腹が痛くなってきた。自分のせいでこんなことになってしまって僕は「助けて」とか「待ってる」なんて都合のいいことを言えない。
かと言って「僕の事はいいから」なんてかっこつける事もできない僕は、何も言葉を返せないまま彼の姿が見えなくなるまで見つめる事しか出来なかった。
昨日訪れたばかりの一軒家の2階へと運ばれる。
「この子は屋根裏でちょっと方針を決める。時間がないからすぐにでも会場に行けるよう準備しといて」
男性の言葉に僕を担いだ人は2階にある梯子に手をかける。人を担いでいるのに彼は軽々と梯子を登り、僕が暴れたところでどうもなりそうになかった。
1階のダイニングにも何人か縛り上げられた人たちがいて、彼らと対峙するように座っていた男性が小瓶を片手にこちらを振り返る。
「おかえりっす。音喜多さん、コイツの媚薬どれくらい入れます?」
「規定量の4倍にしておこう。5倍入れると、たまに急性薬物中毒で死ぬ奴がいる。死んでもいいんだけど、1回くらいは使えないと俺が怒られちゃうから、くれぐれもよろしくね」
梯子を登りながら尋ねる男性に音喜多が下から答える。
屋根裏にたどり着くと、僕を担いだ人は僕を乱暴に床に降ろすと、慣れた手つきで傍にあった手枷を僕につけ、鎖のついた首輪を僕の首に巻き付ける。
「やだ!離れて!!」
「うるせぇ!」
僕の声が耳に触ったのか、静かにしていた彼は恐ろしい形相で拳を振り上げる。
「あー、だめだめ。その子、顔しか取り柄ないんだから傷つけないで。汚いものより綺麗なものの方がウケがいいのは地下も最下層も同じでしょ?」
男性の拳に手を添えて、昨日の男性はニコリと微笑んだ。
「でもコイツ…」
「いーのいーの。ほら、それより外出準備」
音喜多に諭され、怒りの表情を浮かべていた彼は渋々と手を下ろした。
「じゃ、後でね」
ヒラヒラと音喜多が手を振ると、納得のいかないような表情を浮かべたまま彼は梯子を降りていった。
「血気盛んな奴でごめんね~、彼はまだ俺のチーム入って日が浅いんだ」
彼は僕の前にあぐらをかいて座る。そのままベルトについたカバンを開いて広げた。
床に並べられていくのは注射器、メス、ペンチのようなもの、小型のチェーンソーと巨大な刃を持つハサミ。どれも嫌な想像しか浮かばない。
「さて、君に聞きたい。俺が君に提示する未来は3つだ」
彼はメスとチェーンソーを僕の目の前に持ってくる。
「1つは君が見た通り、昨日の彼らのように四肢を切り落として声帯をもぐ。そのまま死ぬまで誰かの性欲処理に使われる道だ」
下の階から悲鳴やチェーンソーの音が聞こえ始める。その恐ろしい悲鳴は、手足を麻酔なしで切り落とされる痛みを物語っていた。
音喜多が次に並べたのはペンチと注射器とハサミだ。
「2つめは君の身体を少しずつ、生きたまま解体するんだ。麻酔をうってあげる。永遠に切れない麻酔だ。解体して再生できるパーツは再生して、また解体する。死ぬまでずっとそう、逃げ出すなんて絶対に出来ない」
四肢を切り落とされるのもさながら、なにが楽しくてそんな恐ろしいことばかり思いつくのだろう。
彼は相変わらず静かに淡々と話すが、逆にそれが酷く恐ろしく思えた。
「もう1つ、俺はこれを推したい。君にしか出来ないことだ」
今まで並べた道具を全て僕の前から避けて、彼はあぐらをかいた足で頬杖をついた。
「君にリーサルウェポンを誘惑してもらいたい。君が彼に媚びてくれれば、彼は俺たちの庇護者になってくれる。君は五体満足で、リーサルウェポンも可愛い君を手放さずに済むし、俺たちも安全だ。どう?悪くないでしょ?」
機嫌良さそうな笑みを浮かべた男性から目を逸らすと、男の横に避けられた恐ろしい道具が目に入る。
「そんな騙すようなこと出来ないよ…そ、それに…貴方たちは悪いことしてるんでしょ…?彼にそのお手伝いさせるなんて僕は嫌だ…」
「悪いこと?ここじゃ、楽しく暮らすならこれくらい手を汚すのが常識さ。リーサルウェポンは強いのに、みみっちくゴミなんか集めて暮らしてる。楽な生き方を教えてあげるだけだよ?」
彼は穏やかな声で答えるが、その瞳の奥は背筋が凍るほど恐ろしく感じる。
エリオくんはびっくりするくらい親切にしてくれて、危ない目にあいながらも僕を助けてくれるくらい優しい。そんな彼の優しさが否定されたようで僕は少し腹が立った。
「だから、君がその可愛い顔で愛を囁いてごらんよ。あれが絆されるくらい、君はきっと彼の好みなんだろうと俺は踏んでるんだよ」
僕の顎を人差し指だけで持ち上げて、彼はじろじろと観察するように僕の顔を見つめた。
「だ、だめ!騙すのも悪いことさせるのも僕は絶対しないから…!」
「偽の愛を囁くだけだよ?そんなに怒るくらい生理的に無理?まあ、確かにリーサルウェポンは強いけど、それだけだもんね。背は低いし、顔もあまり万人受けする感じじゃないし」
「そういう問題じゃなくて…!」
僕の言葉など無視して彼は立ち上がると、腕を組んで僕を見下ろした。
しばらく考え込むようにつま先で床をトントンと踏み鳴らしていたが、思いついたように目を開いて笑った。
「それなら、君がどうやってもリーサルウェポンを誘惑せざる得ない状態を作ってあげよう。嘘が吐けない君を、俺たちが手伝ってあげる」
僕を見下ろして、彼はニッコリと笑った。
「ど、どうするつもりなの…?」
「いや、簡単な話だよ。君にはシャワーを浴びて貰って清潔になってもらう。可愛いラッピングを施して、媚薬を飲んで貰って彼にお届けだ。いい案でしょ?」
それが本当に素敵な贈り物の提案だったらどんなに良かったか。しかしそれはただの贈りものなんかでは無い。
「なんにもいい案じゃ…エリオくんと仲良くしたいなら悪いことやめてもっと素敵な贈り物を用意した方がいいよ…?ほ、ほら…ドーナツとか、彼喜ぶと思うよ…?」
そう言いながら僕は座り込んだまま後ろへと後ずさる。
「ドーナツ!これは面白いや!そんなもの、この街じゃどこにも手に入らないし、俺たちが欲しているのは、これからも快適に新入りを狩るための守護者だ。彼を使って、俺たちはより多くの新入りの手足を切り落として強者に献上する。俺たちはその仕事をやめる気はないし、そんな危険な汚れ仕事をドーナツで君は引き受けるかい?」
声を上げて笑いながら彼は僕を見つめる。
「だからその仕事がダメなんだって…きっとエリオくんだって嫌だって言うよ!」
「それを「うん」と言わせるのが君の誘惑だって話してるのに…それに、君がこれからどう死ぬか、死に際を選ばせてあげてるだけで意見は聞いてない。勘違いしない方がいいよ?」
彼は僕の頭を指先でコンコンとつついた。思い出し笑いをしているのか、何も言っていないのに小さく笑いを漏らしながら、彼は僕に小さく手を振った。
「それじゃ、今日の君の舞台は街の中心部にある元劇場だ。あそこで毎日開催している乱交パーティにリーサルウェポンを誘い出して、君に骨抜きにしてもわらなきゃ」
そこまで話してから、思い出したように彼は手を叩いた。
「そうだ、言い忘れてたんだけど…もしリーサルウェポンが君になびかなかったら、君はその劇場でフリーセックスだ。毎日媚薬を飲んでもらって、気持ちよく死なせてあげるから安心して」
脳裏に道端に縛られた男性がいた光景が浮かび上がる。背中から嫌な汗が滲み出し、息が詰まるような不安に襲われ呼吸が乱れた。
「い、いやだ…お願いやめて…!」
「じゃあ、頑張って誘惑してね。準備できたら現地に連れて行くからそこで少し待ってて」
彼は僕に向けて投げキッスをするような仕草をしてから、ウィンクをする。
「期待してるよ、俺たちの幸運の女神ちゃん」
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