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2章 彼は暗闇に差す橙色の日差しが恋しくなりました
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「ったく、よりによってアイツなんでこんな人混みに来ちゃったんだよ…!」
腕時計に表示されたGPSの反応を頼りに街まで走ってきたが、街にはあまりに人が多くて検討がつかない.。
「すみません、黒髪の野良犬見ませんでしたか?黒いカットソー着た…首輪が外れちまったんです」
反応が近い場所で度々、人に尋ねてみるが皆は首を横に振る。
野良犬かなんて腕時計の有無と首のバーコードでしか判別がつかない。身綺麗にしていれば一見は人間に見えるだろう。
正直このまま誰にも野良犬だと分からないまま街のどこかで俺に怯えててくれればいいが、誰かに捕まったらタダでは済まない。身綺麗な野良犬ほど貴重で金になる落し物はない。
クリフの反応を追って路地に入るが、こんな街だから貧民層が暮らす路地は無駄に広くてアリの巣のように入り組んでいる。とりあえず近くのビルの外階段を登る。上から見れば見つかるかもしれない。
クリフが大人しくなったら付けようと思って買っておいた首輪は持ってきた。でも、もっと早く付けておくべきだった。もっと細かく危険性を説明しておけば良かった。
誰も脱走できたことがない自分の屋敷を過信していた。俺の怠慢だ。
ビルの屋上から隣のビルに伸びる足場を渡り、距離が短ければジャンプで渡る。盗みを働かなくては生きていけない者が多いせいか、この辺は上空の移動が楽だ。
ふと、下の方に火が見える。ドラム缶に放り込んだ何かを燃やしている。よくある浮浪者の集まりだろうが、なんだか様子がおかしい。
浮浪者たちが1箇所に群がっている。耳をすませば何だか騒いでいるようにも聞こえる。
GPSを確認すると、確かにこの周辺だ。この周辺で一番怪しいとすればあの場所くらいか。
俺は近くの階段をかけ下りる。錆び付いた鉄階段を軋ませ、すこし上から地面へと飛ぶ。降りた先に浮浪者たちが何かを取り囲んで騒いでいるの異様な光景が眼前に広がっていた。
「安いよ安いよー!1発3000円…いや、順番飛ばしたいなら6000円だ!風俗じゃこうもいかねえぞー!今のうちだ!」
風俗という言葉に俺は嫌な予感がして近付く。
「何やってんの?ちょっと避けて」
群がっている男たちを強引にかきわけ、中央を覗き込む。その中央には黒髪の小柄な男が浮浪者にまたがり、またその上から浮浪者にかぶさられている状態だった。
アザだらけで服はビリビリに破かれていたが、細くて白い小さな身体と、顔の右半分が腫れ上がっているものの透き通るようなガラスみたいな瞳は間違えようもなかった。
「クリフ!」
俺が呼ぶと、クリフはこちらを弱々しく見上げる。口には布を噛まされている。
「おい!お前らどけ!」
押しのけようとするが多勢に無勢。ふざけんなと怒号が飛び、男たちに突き飛ばされる。
「おい、にいちゃん順番飛ばしたいなら6000円だぜ」
群がる男たちを眺めて笑うと男は愉快そうに言う。
「今、すげー順番待ちなんだよ。ケツに入れるにしても同時に2本が限界だ。1人で独占したいならもっと…」
「10万払う」
俺の言葉に男たちが一気に静まり返る。
「10万で買い取る。そんなボロボロな犬、もう使えなくなるだろ」
タバコを加えた男は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたが、周囲からブーイングが飛ぶ。
「ふざけんな!こちとら先払いしてんだ!」
「お前ら1人ずつ1万キャッシュバックしてやる!精々6000円ぽっちしか払ってねえんだろ!さっさとその汚ねえもんしまってズラかれ!」
俺が怒鳴ると男たちは少しずつクリフから離れていく。
「え、まだ俺途中なんだけど…」
クリフに被さったままの男がおずおずと俺に尋ねる。
「中断しろ。今すぐに」
低い声で威圧すると、男もしぶしぶと立ち上がる。解放されたクリフはそのまま跨っていた男から崩れ落ちるように地面へと倒れた。
俺は自分の着ていたジャケットをクリフの上に被せ、クリフの下にいた男の腕時計に自分の所持金1万円分を移す。
「お、おお…」
「ほら、さっさと粗末なもんしまってうせろ」
男は腕時計を確認すると立ち上がって遠くへ消える。
「じゃあ約束は守る。みんな並んでくれ」
不服そうな表情の男たちもいるが、さすがにキャッシュバックキャンペーンは逃しがたいのか大人しく俺の前に1列に並ぶ。全員に所持金を移すと、最後に金を巻き上げていた男が来た。
「買い取るんだろ?でも10万ぽっちか…」
「はあ?」
「今の人数見ただろ、死ぬまで相手させりゃもっと稼げたかもしれねえ。それを10万ぽっちで譲るのはなあ…」
ニヤニヤとタバコを吸う男に、俺は言いようのない怒りを覚える。
腕時計を操作し、飼い犬のタブを開くとクリフの情報と写真が表示される。
「コイツは俺の飼い犬だ。人の犬をここまで痛めつけておいて、さらに金を巻き上げようなんていい根性してんな」
俺の腕時計を確認すると、男は少し困ったように顔をしかめたが首を横に振る。
「でも首輪付けてないくらい不必要な犬だったんだろ?それなら躾てやっただけ…」
「はあ?躾だって?」
地面で横になったクリフを見る。さっき見た限り下半身にも血がこびり付いて、身体中アザだらけだった。綺麗な顔も鼻血の跡がべったりとついていて酷いもんだ。
「あんな粗末な躾があるか。死んだらどうすんだ」
「野良犬にしか見えないんだから、それは俺の落ち度じゃないでしょうが」
男は腕時計を差し出す。
「30万でなら譲る」
男の言葉に頭の血管が切れそうだった。周囲を確認すれば、男の仲間と思しき浮浪者たちはみんな金を持って立ち去ったようだ。それならもう我慢することもない。
男の顔面に右ストレートをお見舞する。歯を食いしばりもしていなかった男の顎がずれ、倒れ込む男の傍にポタポタと血溜まりが生成された。
「な、なにを… 」
「10万だ」
鼻血を流しながら困惑する男の傍にしゃがみ、俺は男の耳をギリギリと引っ張った。
「いだだだ…」
「10万で手を打つか、俺にここで半殺しにされるのどっちがいい?」
男は怯えた顔でこちらを見つめ、震える口で「すみませんでした」と謝罪する。
「わかりゃいいんだよ」
俺は男の腕時計に自分のものを寄せて所持金を移す。しめて25万強か…最近クリフを買ってから出費が止まらねえ。
俺はクリフの首に持って来た首輪を着ける。
「…もっと早く着けなくてごめんな」
クリフを抱き上げて大通りに出る。大して珍しい光景でもないだろうが、関わったらヤバそうな雰囲気しかない俺とクリフを見て人々が道を開けていく。次はもっと楽しい気分になる外出をしたいもんだ。
15分以上かけて徒歩で家まで帰ると、クリフをベッドの上に寝かせる。とにかくあちこち傷が酷い。
自分も体罰は場合によってはするから手当の仕方は分かるが、さすがにここまでケツが裂けた場合は医者に見せるべきだろう。
クリフの口に噛まされた布を取り、ビリビリのカットソーを脱がせる。風邪をひかないように毛布を被せて風呂へ走った。バケツいっぱいにお湯を汲んで、洗いたてのタオルを一緒に持っていく。
「お気に入りのカットソーだったのになあ」
おまけにダメージジーンズも行方不明だ。本当に出費が止まらない。
クリフの汚れた身体をタオルで濡らして優しく拭く。アザの上を拭くと、意識はないままだがクリフは痛そうに眉をしかめる。
「これもっと腫れそうだよな…」
特に右手首が酷い。折れてなければいいが、生きていただけラッキーだったのかもしれない。
クリフの身体の汚れや血痕、汚らしい白い汚物は大体取り去った。毛布を再びかけると、俺は腕時計の電話機能でかかりつけの医者に電話をする。
「あ、いつもすいません。また訪問診療お願いできますか?」
俺はクリフの頭を撫でながら話す。
ああ、そう言えば部屋もぶっ壊されたんだっけ。リフォームしないとな…。
こんなに金ばっかりかかって、こんなに面倒ごとばかりなのに、なんでかやっぱり手離したくない。ペットってそんなもんなのかな。
それから医者が見に来てクリフの診察があった。ケツや口は切れているが炎症もなく今のところ健康だそうだ。右手首にヒビが入っているらしく、これに関しては絶対安静だ。
医者を見送る頃にはすっかり外は暗く、俺はクリフを起こさないようスタンドライトを付けてベッドの隣に椅子を並べてぼんやりとクリフを眺めていた。
「何のために休み取ったんだか分かんねえな…」
クリフで遊ぶつもりが、これじゃしばらくセックスどころか何もできない。友達と遊ぶにしたってクリフがこれでは家を長時間離れるのも心配だ。また脱走したら次こそ死ぬ。
俺は大きくため息をついてベッドに上半身だけ倒して目の前のクリフの小さな手をつつく。あんなに綺麗な指だったのに爪に泥が入って汚れてる。
「…ううっ」
クリフのうめき声に顔を覗き込むと、彼はゆっくりと目を開き、硝子玉のような瞳でこちらをぼんやりと見つめる。
「起きた?」
俺は少し目を細めて笑う。
クリフは何かを思い出したようにハッと目を見開くと飛び起きようとしたが、体が痛むのか少し上体を起こしてよろめいた。
「馬鹿だなあ、お前今めっちゃ怪我してんだから動くな」
クリフの起き上がろとする上体を手で押し返して布団にゆっくり倒す。
「…怒らないのか」
注意しないと聴き逃してしまいそうなほど小さな声でクリフが囁く。
本当は犬は話さないと注意したいが、今は大目に見る。
「怒ってるよ?でも、俺も悪かった部分はある」
クリフの目を見ると驚いたような顔をしたが、それ以上は何も言わず静かに目を逸らした。
「ちょっとずつ話すつもりだったんだけど、犬にとって首輪は最強の防具なんだ。首輪がないと『死ぬまで好きにしていいよ』って意味になる。だから、新しい首輪は付けといた」
ネイビーの革の首輪が着いたクリフの首を指先でつつく。
クリフは今までその存在に気づいていなかったらしく、その存在を確かめるように自身の首を撫でると少し落胆したような顔をした。
「それが付いていれば、少なくとも今日みたいなことにはならない。飼い主の持ち物を壊せば多額の罰金が発生する。大概のやつはお前に手が出せなくなるよ」
顔を伏せたままこちらを見ないクリフに、俺は肩を竦める。
「説明不足だったし、屋敷の強度を過信して脱走を手伝うような真似をして悪かった。でも、地上の常識とこっちの常識は多分、全然違うんだよ」
クリフは相変わらず顔を伏せたまま反応を見せない。ただ静かに話を聞いているのか、腹ただしくて無視してるのか、その意図は汲み取れない。
「ま、気の毒だとは思うけど俺がお前にすることは全て犯罪ではないし、こっちの街じゃ常識だ。犬と口を聞く飼い主は侮蔑されるから、犬は飼い主のためにも喋らない。飼い主の躾が行き届いてると証明するために犬は従順でいる」
俺は立ち上がると、首を傾げて見せる。
「ルール分かった?」
「……」
クリフは視線をこちらに向けないまま、こくりと頷いてみせた。一応は聞いていたようだ。
「よし、じゃあご飯食べる?」
僅かにこちらをチラと見ようとした動きをするが結局視線は向けず、塞ぎ込むように背中を丸めてしまった。
俺は深くため息をつく。あんなに威勢が良かったのにここまで落ち込むとは相当しんどかったんだろう。ここでお仕置とかは到底できるもんじゃない。
「…じゃあ、お茶持ってくるから」
俺は静かにドアを閉めてキッチンへ向かう。こういう時は紅茶とかハーブティーがいいんだっけ?来客用に在庫はあるが、よく分からん。
紅茶のパックの入った箱を食器棚から取り出す。困ったらダージリンにしとけって父親が言ってたのを俺はまだ信じている。
ダージリンのパックを入れて、ケトルで沸かしたお湯を注ぐ。それっぽい色になったらパックを捨てて、砂糖とミルクを皿に添えて持って行く。
クリフの部屋に軽くノックして入る。相変わらず背中を丸めてベッドに伏せているクリフの背中側に腰を下ろす。
「ダージリンあるよ。飲めば?」
まだ起きているようで俺の言葉に反応はするが、動く気力を失ったのか体が痛むからかクリフは動こうとはしなかった。
「痛む?」
俺はサイドテーブルに紅茶を置くと、ベッドに足を上げてクリフの隣に座る。クリフの身体を持ち上げるように優しく仰向けにする。
「起き上がれる?」
クリフは体を動かそうとすると顔をしかめて痛そうなうめき声を漏らした。動きたくないというより動けないといった様子か…。
「うーん」
ベッドにはヘッドボードがついているので背中を持たれかけてやれる場所はない。俺は紅茶をヘッドボードに移動させると、今度はクリフの背中と膝裏に腕を入れて持ち上げる。
「ちょっと痛いかもしれないけど頑張れ」
クリフを少し足側にずらして下ろすと、自分はクリフの背中側に腰を下ろす。クリフの背中を自分の胸にもたれさせて、ベッドボードに置いていた紅茶を後ろからクリフの前へと差し出す。
「ほれ」
クリフは左手でカップを受け取りそろりそろりと口をつけ1口飲み込む。
ふうと息を吐くクリフの表情は少し和らいだように見えた。
「ゆっくりでいいよ。待ってるから」
とは言え、手持ち無沙汰ではある。クリフの肩に軽く顎を乗せた。これだけ密着していると、背中越しにもクリフの鼓動がわかる。
肩に顎をのせると少し体が強ばったようだったがクリフは特に抵抗するでもなく、静かに紅茶を飲んだ。
「これからしばらく動けないだろうけど、飯食う時とか毎回これでいい?」
犬の身からすりゃあ迷惑な話だろうとは思うが、他に解決しようがない。俺はペットを構えて楽しいっちゃ楽しいけど。
彼は少し複雑そうに眉をしかめたがしぶしぶといった様子で頷いた。
「りょーかい。じゃあ今日はもうゆっくり寝なよ」
空いたティーカップを回収すると、俺は背もたれを卒業してクリフの身体をゆっくりと寝かせる。いちいち場所を移動するのも面倒なので枕をクリフの頭の位置まで移動させた。
「なんか本いる?」
閉じていた目をパチッと開き視線で本棚を指す。本を読みたいということだろう。
「じゃあ適当に枕元に置いとくから」
俺は本棚から目に付いた本を3冊取り出してヘッドボードに置く。ついでにサイドテーブルのスタンドライトもクリフの手が届く位置までずらす。
「じゃ、あとは自分でやってくれ」
俺は部屋のドアを開けてクリフに小さく手を振る。
「おやすみ」
腕時計に表示されたGPSの反応を頼りに街まで走ってきたが、街にはあまりに人が多くて検討がつかない.。
「すみません、黒髪の野良犬見ませんでしたか?黒いカットソー着た…首輪が外れちまったんです」
反応が近い場所で度々、人に尋ねてみるが皆は首を横に振る。
野良犬かなんて腕時計の有無と首のバーコードでしか判別がつかない。身綺麗にしていれば一見は人間に見えるだろう。
正直このまま誰にも野良犬だと分からないまま街のどこかで俺に怯えててくれればいいが、誰かに捕まったらタダでは済まない。身綺麗な野良犬ほど貴重で金になる落し物はない。
クリフの反応を追って路地に入るが、こんな街だから貧民層が暮らす路地は無駄に広くてアリの巣のように入り組んでいる。とりあえず近くのビルの外階段を登る。上から見れば見つかるかもしれない。
クリフが大人しくなったら付けようと思って買っておいた首輪は持ってきた。でも、もっと早く付けておくべきだった。もっと細かく危険性を説明しておけば良かった。
誰も脱走できたことがない自分の屋敷を過信していた。俺の怠慢だ。
ビルの屋上から隣のビルに伸びる足場を渡り、距離が短ければジャンプで渡る。盗みを働かなくては生きていけない者が多いせいか、この辺は上空の移動が楽だ。
ふと、下の方に火が見える。ドラム缶に放り込んだ何かを燃やしている。よくある浮浪者の集まりだろうが、なんだか様子がおかしい。
浮浪者たちが1箇所に群がっている。耳をすませば何だか騒いでいるようにも聞こえる。
GPSを確認すると、確かにこの周辺だ。この周辺で一番怪しいとすればあの場所くらいか。
俺は近くの階段をかけ下りる。錆び付いた鉄階段を軋ませ、すこし上から地面へと飛ぶ。降りた先に浮浪者たちが何かを取り囲んで騒いでいるの異様な光景が眼前に広がっていた。
「安いよ安いよー!1発3000円…いや、順番飛ばしたいなら6000円だ!風俗じゃこうもいかねえぞー!今のうちだ!」
風俗という言葉に俺は嫌な予感がして近付く。
「何やってんの?ちょっと避けて」
群がっている男たちを強引にかきわけ、中央を覗き込む。その中央には黒髪の小柄な男が浮浪者にまたがり、またその上から浮浪者にかぶさられている状態だった。
アザだらけで服はビリビリに破かれていたが、細くて白い小さな身体と、顔の右半分が腫れ上がっているものの透き通るようなガラスみたいな瞳は間違えようもなかった。
「クリフ!」
俺が呼ぶと、クリフはこちらを弱々しく見上げる。口には布を噛まされている。
「おい!お前らどけ!」
押しのけようとするが多勢に無勢。ふざけんなと怒号が飛び、男たちに突き飛ばされる。
「おい、にいちゃん順番飛ばしたいなら6000円だぜ」
群がる男たちを眺めて笑うと男は愉快そうに言う。
「今、すげー順番待ちなんだよ。ケツに入れるにしても同時に2本が限界だ。1人で独占したいならもっと…」
「10万払う」
俺の言葉に男たちが一気に静まり返る。
「10万で買い取る。そんなボロボロな犬、もう使えなくなるだろ」
タバコを加えた男は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたが、周囲からブーイングが飛ぶ。
「ふざけんな!こちとら先払いしてんだ!」
「お前ら1人ずつ1万キャッシュバックしてやる!精々6000円ぽっちしか払ってねえんだろ!さっさとその汚ねえもんしまってズラかれ!」
俺が怒鳴ると男たちは少しずつクリフから離れていく。
「え、まだ俺途中なんだけど…」
クリフに被さったままの男がおずおずと俺に尋ねる。
「中断しろ。今すぐに」
低い声で威圧すると、男もしぶしぶと立ち上がる。解放されたクリフはそのまま跨っていた男から崩れ落ちるように地面へと倒れた。
俺は自分の着ていたジャケットをクリフの上に被せ、クリフの下にいた男の腕時計に自分の所持金1万円分を移す。
「お、おお…」
「ほら、さっさと粗末なもんしまってうせろ」
男は腕時計を確認すると立ち上がって遠くへ消える。
「じゃあ約束は守る。みんな並んでくれ」
不服そうな表情の男たちもいるが、さすがにキャッシュバックキャンペーンは逃しがたいのか大人しく俺の前に1列に並ぶ。全員に所持金を移すと、最後に金を巻き上げていた男が来た。
「買い取るんだろ?でも10万ぽっちか…」
「はあ?」
「今の人数見ただろ、死ぬまで相手させりゃもっと稼げたかもしれねえ。それを10万ぽっちで譲るのはなあ…」
ニヤニヤとタバコを吸う男に、俺は言いようのない怒りを覚える。
腕時計を操作し、飼い犬のタブを開くとクリフの情報と写真が表示される。
「コイツは俺の飼い犬だ。人の犬をここまで痛めつけておいて、さらに金を巻き上げようなんていい根性してんな」
俺の腕時計を確認すると、男は少し困ったように顔をしかめたが首を横に振る。
「でも首輪付けてないくらい不必要な犬だったんだろ?それなら躾てやっただけ…」
「はあ?躾だって?」
地面で横になったクリフを見る。さっき見た限り下半身にも血がこびり付いて、身体中アザだらけだった。綺麗な顔も鼻血の跡がべったりとついていて酷いもんだ。
「あんな粗末な躾があるか。死んだらどうすんだ」
「野良犬にしか見えないんだから、それは俺の落ち度じゃないでしょうが」
男は腕時計を差し出す。
「30万でなら譲る」
男の言葉に頭の血管が切れそうだった。周囲を確認すれば、男の仲間と思しき浮浪者たちはみんな金を持って立ち去ったようだ。それならもう我慢することもない。
男の顔面に右ストレートをお見舞する。歯を食いしばりもしていなかった男の顎がずれ、倒れ込む男の傍にポタポタと血溜まりが生成された。
「な、なにを… 」
「10万だ」
鼻血を流しながら困惑する男の傍にしゃがみ、俺は男の耳をギリギリと引っ張った。
「いだだだ…」
「10万で手を打つか、俺にここで半殺しにされるのどっちがいい?」
男は怯えた顔でこちらを見つめ、震える口で「すみませんでした」と謝罪する。
「わかりゃいいんだよ」
俺は男の腕時計に自分のものを寄せて所持金を移す。しめて25万強か…最近クリフを買ってから出費が止まらねえ。
俺はクリフの首に持って来た首輪を着ける。
「…もっと早く着けなくてごめんな」
クリフを抱き上げて大通りに出る。大して珍しい光景でもないだろうが、関わったらヤバそうな雰囲気しかない俺とクリフを見て人々が道を開けていく。次はもっと楽しい気分になる外出をしたいもんだ。
15分以上かけて徒歩で家まで帰ると、クリフをベッドの上に寝かせる。とにかくあちこち傷が酷い。
自分も体罰は場合によってはするから手当の仕方は分かるが、さすがにここまでケツが裂けた場合は医者に見せるべきだろう。
クリフの口に噛まされた布を取り、ビリビリのカットソーを脱がせる。風邪をひかないように毛布を被せて風呂へ走った。バケツいっぱいにお湯を汲んで、洗いたてのタオルを一緒に持っていく。
「お気に入りのカットソーだったのになあ」
おまけにダメージジーンズも行方不明だ。本当に出費が止まらない。
クリフの汚れた身体をタオルで濡らして優しく拭く。アザの上を拭くと、意識はないままだがクリフは痛そうに眉をしかめる。
「これもっと腫れそうだよな…」
特に右手首が酷い。折れてなければいいが、生きていただけラッキーだったのかもしれない。
クリフの身体の汚れや血痕、汚らしい白い汚物は大体取り去った。毛布を再びかけると、俺は腕時計の電話機能でかかりつけの医者に電話をする。
「あ、いつもすいません。また訪問診療お願いできますか?」
俺はクリフの頭を撫でながら話す。
ああ、そう言えば部屋もぶっ壊されたんだっけ。リフォームしないとな…。
こんなに金ばっかりかかって、こんなに面倒ごとばかりなのに、なんでかやっぱり手離したくない。ペットってそんなもんなのかな。
それから医者が見に来てクリフの診察があった。ケツや口は切れているが炎症もなく今のところ健康だそうだ。右手首にヒビが入っているらしく、これに関しては絶対安静だ。
医者を見送る頃にはすっかり外は暗く、俺はクリフを起こさないようスタンドライトを付けてベッドの隣に椅子を並べてぼんやりとクリフを眺めていた。
「何のために休み取ったんだか分かんねえな…」
クリフで遊ぶつもりが、これじゃしばらくセックスどころか何もできない。友達と遊ぶにしたってクリフがこれでは家を長時間離れるのも心配だ。また脱走したら次こそ死ぬ。
俺は大きくため息をついてベッドに上半身だけ倒して目の前のクリフの小さな手をつつく。あんなに綺麗な指だったのに爪に泥が入って汚れてる。
「…ううっ」
クリフのうめき声に顔を覗き込むと、彼はゆっくりと目を開き、硝子玉のような瞳でこちらをぼんやりと見つめる。
「起きた?」
俺は少し目を細めて笑う。
クリフは何かを思い出したようにハッと目を見開くと飛び起きようとしたが、体が痛むのか少し上体を起こしてよろめいた。
「馬鹿だなあ、お前今めっちゃ怪我してんだから動くな」
クリフの起き上がろとする上体を手で押し返して布団にゆっくり倒す。
「…怒らないのか」
注意しないと聴き逃してしまいそうなほど小さな声でクリフが囁く。
本当は犬は話さないと注意したいが、今は大目に見る。
「怒ってるよ?でも、俺も悪かった部分はある」
クリフの目を見ると驚いたような顔をしたが、それ以上は何も言わず静かに目を逸らした。
「ちょっとずつ話すつもりだったんだけど、犬にとって首輪は最強の防具なんだ。首輪がないと『死ぬまで好きにしていいよ』って意味になる。だから、新しい首輪は付けといた」
ネイビーの革の首輪が着いたクリフの首を指先でつつく。
クリフは今までその存在に気づいていなかったらしく、その存在を確かめるように自身の首を撫でると少し落胆したような顔をした。
「それが付いていれば、少なくとも今日みたいなことにはならない。飼い主の持ち物を壊せば多額の罰金が発生する。大概のやつはお前に手が出せなくなるよ」
顔を伏せたままこちらを見ないクリフに、俺は肩を竦める。
「説明不足だったし、屋敷の強度を過信して脱走を手伝うような真似をして悪かった。でも、地上の常識とこっちの常識は多分、全然違うんだよ」
クリフは相変わらず顔を伏せたまま反応を見せない。ただ静かに話を聞いているのか、腹ただしくて無視してるのか、その意図は汲み取れない。
「ま、気の毒だとは思うけど俺がお前にすることは全て犯罪ではないし、こっちの街じゃ常識だ。犬と口を聞く飼い主は侮蔑されるから、犬は飼い主のためにも喋らない。飼い主の躾が行き届いてると証明するために犬は従順でいる」
俺は立ち上がると、首を傾げて見せる。
「ルール分かった?」
「……」
クリフは視線をこちらに向けないまま、こくりと頷いてみせた。一応は聞いていたようだ。
「よし、じゃあご飯食べる?」
僅かにこちらをチラと見ようとした動きをするが結局視線は向けず、塞ぎ込むように背中を丸めてしまった。
俺は深くため息をつく。あんなに威勢が良かったのにここまで落ち込むとは相当しんどかったんだろう。ここでお仕置とかは到底できるもんじゃない。
「…じゃあ、お茶持ってくるから」
俺は静かにドアを閉めてキッチンへ向かう。こういう時は紅茶とかハーブティーがいいんだっけ?来客用に在庫はあるが、よく分からん。
紅茶のパックの入った箱を食器棚から取り出す。困ったらダージリンにしとけって父親が言ってたのを俺はまだ信じている。
ダージリンのパックを入れて、ケトルで沸かしたお湯を注ぐ。それっぽい色になったらパックを捨てて、砂糖とミルクを皿に添えて持って行く。
クリフの部屋に軽くノックして入る。相変わらず背中を丸めてベッドに伏せているクリフの背中側に腰を下ろす。
「ダージリンあるよ。飲めば?」
まだ起きているようで俺の言葉に反応はするが、動く気力を失ったのか体が痛むからかクリフは動こうとはしなかった。
「痛む?」
俺はサイドテーブルに紅茶を置くと、ベッドに足を上げてクリフの隣に座る。クリフの身体を持ち上げるように優しく仰向けにする。
「起き上がれる?」
クリフは体を動かそうとすると顔をしかめて痛そうなうめき声を漏らした。動きたくないというより動けないといった様子か…。
「うーん」
ベッドにはヘッドボードがついているので背中を持たれかけてやれる場所はない。俺は紅茶をヘッドボードに移動させると、今度はクリフの背中と膝裏に腕を入れて持ち上げる。
「ちょっと痛いかもしれないけど頑張れ」
クリフを少し足側にずらして下ろすと、自分はクリフの背中側に腰を下ろす。クリフの背中を自分の胸にもたれさせて、ベッドボードに置いていた紅茶を後ろからクリフの前へと差し出す。
「ほれ」
クリフは左手でカップを受け取りそろりそろりと口をつけ1口飲み込む。
ふうと息を吐くクリフの表情は少し和らいだように見えた。
「ゆっくりでいいよ。待ってるから」
とは言え、手持ち無沙汰ではある。クリフの肩に軽く顎を乗せた。これだけ密着していると、背中越しにもクリフの鼓動がわかる。
肩に顎をのせると少し体が強ばったようだったがクリフは特に抵抗するでもなく、静かに紅茶を飲んだ。
「これからしばらく動けないだろうけど、飯食う時とか毎回これでいい?」
犬の身からすりゃあ迷惑な話だろうとは思うが、他に解決しようがない。俺はペットを構えて楽しいっちゃ楽しいけど。
彼は少し複雑そうに眉をしかめたがしぶしぶといった様子で頷いた。
「りょーかい。じゃあ今日はもうゆっくり寝なよ」
空いたティーカップを回収すると、俺は背もたれを卒業してクリフの身体をゆっくりと寝かせる。いちいち場所を移動するのも面倒なので枕をクリフの頭の位置まで移動させた。
「なんか本いる?」
閉じていた目をパチッと開き視線で本棚を指す。本を読みたいということだろう。
「じゃあ適当に枕元に置いとくから」
俺は本棚から目に付いた本を3冊取り出してヘッドボードに置く。ついでにサイドテーブルのスタンドライトもクリフの手が届く位置までずらす。
「じゃ、あとは自分でやってくれ」
俺は部屋のドアを開けてクリフに小さく手を振る。
「おやすみ」
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2022.05.28
今日で完結です。閲覧、お気に入り本当にありがとうございました。
次作も頑張って書きます。
よろしくおねがいします。


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※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
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※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
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