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序章【限り無く透過】

【限り無く透過】

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「ハックション!」

 ――突如、おそらくはクシャミと思われる盛大な声が響き渡った。

 冬の冷たい空気が入り込んで来ている広々とした体育館、その冷たい空気を突き破るかのような盛大、かつ大胆なクシャミだった。

 退屈な全校集会が早く終わることを頭の片隅で祈りながら、ズボンのポケットに手を入れてぼんやりと立っていた俺の頭は瞬時に覚醒した。思わず壇上を見ると、一人の女子生徒が俺たちには背を向ける形で校長の目の前に立っている。裸眼で両目共に視力一.五を誇る俺の目には、間の抜けたような校長の顔がバッチリ映っていた。笑いたくなるのを堪えながら、俺はそのまま壇上の女子に目を戻す。

「あ、すみません。今のリセットで。続けて下さい」

 僅かにマイクを通して拡声された彼女のハキハキとした声が終わって少しの間を空けた後、まるで止まっていた時が動き出したかのように校長が言葉を紡ぎ出した。

「……えー、よって、それをここに讃えるものである」

 未だ戸惑い気味の校長の言葉が終わった後、彼女が校長から賞状のようなものを受け取っているのが見えた。どうやら、何か表彰でもされたようだ。

 流麗な動作で賞状を受け取り俺たちの方に体を向けて一礼した彼女は、やはり流れるように壇上中央のステップを下り、俺の目の前に広がる生徒の群れの中の一人となった。

 すっかり目が覚めた俺は、おかげで残りの退屈な時間を冷たい空気の如くに冴えた頭でやり過ごすことになる。

 この時、俺の脳味噌に彼女は刻まれなかった。寒さと睡魔と戦いながら、ただ時間が過ぎることを待っていた俺が知りもしない人間の表彰などを始めから聞いているはずも無く。だから名前すらも知らないまま、その時間は過ぎ去った。

 ただ、マイクを通して体育館内全体に広がった大きなクシャミだけは何となく脳の片隅に残されたようだった。確かに、寒いよな。という相槌めいた胸の中の独り言は、間違い無く俺しか知らない。

 ――冬休みを間近に控えているせいか、最近の校内は何となく浮き足立っているような気がする。祭りの前日とまではいかないものの、どこか隠し切れない小さな高揚に近いものがあちこちに流れているのを感じていた。その落ち着かない雰囲気は嫌いでは無いが普段より二割増しくらいは騒がしく思える教室内で、俺は早くホームルームを終わらせる為に担任が来ないかと何度も時計を見ては心の中で溜め息をついた。

 別段、用事があるわけでは無かった。しかし、だからと言って必要以上にここに居る意味も無いだろう。

 窓の外には殺風景な校庭がいつもと同じように広がっていた。しかし、それを飾る木々の枝に葉が少なく日の光も弱いせいか、確実に訪れている冬の寒さを伝えていた。その寒そうな外の景色を眺めつつ、気温が今よりも下がる前に早く帰りたいものだと考えていたら、教室の前扉が勢い良く開く音がした。

 ――やっとか、と思い窓の外から壁時計に視線を移すと、いつもより十五分も遅れていた。

「では、漢字のテストを始める。終わった者は提出して帰って良いぞ」

 遅刻を一言も詫びること無く担任は言い放つ。その声に大多数のクラスメイトが騒ぎ始め、慌てた様子で新出漢字帳を捲《めく》る者もいた。

「静かに。全部、仕舞って。プリントが手元に届いた者から始めて」

 畳み掛けるように担任は告げる。やがて回って来た一枚のペラペラしたプリントに名前を書き、俺は軽快に解答欄を埋めて行った。

 二十の設問に対する解答欄は、すぐに完璧に埋まった。シャープペンシルをペンケースに仕舞い、それを既に支度の済んでいる鞄に押し込んでプリントを持ち、席を立った。未だ前傾姿勢でプリントと戦っているクラスメイトの間を抜け、俺は担任の机の上にプリントを伏せて置く。

「いつも早いな」

 早く帰りたいので。だからちゃんと定時に教室に来てくれ、そうしないとホームルームが終わらないだろう、とは思うだけに留め、

「さようなら」

 と、いつもの挨拶をして教室を出た。案の定、廊下の空気は冷え切っていた。

 高校から駅までは徒歩で約三十分ほどかかる。通学用のバスも公共用のバスも出ているのだが、金が勿体無い気がして滅多に利用することは無い。

 冬の寒さが襲う中、俺はペラペラのコート一枚で暖を取り、ポケットに片手を突っ込みながら駅までの長い道を歩いた。学校指定のものしか認められないということで入学時に購入したコートだが、こんなにペラペラのものを一万円で売るとはどういう了見なのだろうと腹が立って来る。確か去年の冬も同じことを思ったと頭の片隅で声がしたが、それだけ腹立たしく思っていることの顕れなのだろうと、あまり気にしないことにした。

 正門を出てしばらくの道の両脇には小さな山のようなものが聳《そび》えていて、それを抜けると目の前にはバス停が見える。ここから公共用のバスに乗ると十分もしない内に駅前へと運んでくれるのだが、金を節約する為に俺はそれを横目で見つつ、通り過ぎる。

 片道、百五十円という僅かな金額ではあるのかもしれないが、それを僅かと見るかどうかは個人差がある。それに毎日のこととなると、往復で三百円×十八日間=五千四百円という大きな出費になる。五千四百円あればCDアルバムが一枚、シングルCDが三枚か四枚は買えてしまう。

 学校の通学用バスに乗るにはバス券が必要であり、一枚百円と公共用バスに乗るよりは五十円安いのだが、やはり毎日のこととなると、往復で二百円×十八日間=三千六百円となり、CDアルバムが一枚、シングルCDが二枚か三枚は買えてしまう金額になる。ここは節約するのが利口だ。

 通う高校は私立校の割に学費が安く、寄付金も一切無い。勿論、県立に比べれば全体的な費用は高くなって来るが、それでも他の私立に比べては安い部類だ。それが俺には有り難かった。学費を支払うのは俺では無いが、安ければ安いほど家の負担は減るのだ。学生という無力な俺からすれば、その比例関係からは目を逸らせなかった。

 しかし、ちゃんと小遣いを貰える環境に俺はいて、たとえばこうして目に留まった本屋で新刊を買うことが出来る。駅まではあと五分のところにある、この本屋で新刊をチェックするのが帰り道を行く俺の楽しみだった。

 先程に本屋で買ったばかりのコミックス新刊を手にし、俺は駅のベンチに座って早速、読み始めた。紙製のカバーに隠れて見えづらくなってしまった作者のコメントを読み、一ページ目を捲る。

 きっと電車は十分くらいでやって来るはずだと、いつも俺は敢えて電光掲示板を見上げることはしない。滅多に無いが、急いでいる時には反射的に電光掲示板を見上げることもある。しかし、それを見たところで電車の走行速度は変わらないし、到着時刻も変わらない。それなら焦るだけ損だし、見上げるという行為に消費されるエネルギーが無駄だ。無駄は少ない方が良い。

 しばらく本の中に引き込まれていた俺は「まもなく二番線に上り列車が参ります」という、いつものアナウンスで顔を上げた。駅構内には先程よりも生徒の姿が見える。

 本を鞄に仕舞い、俺が立ち上がって軽く伸びをしたところで、ガタガタと音を立ててホームに電車が走り込んで来た。

 やがて開かれた扉から車内へと足を踏み入れ進めたその時、

「ハックション!」

 と、大きなクシャミの音がして思わず俺は振り返った。

 目の前で閉まった扉越しに見えたのは、反対側のホームを向いてひとりで立っている女子生徒の姿だった。すぐに電車は走り出し、その生徒の姿は駅ごと見えなくなった。そして、いつもの見慣れた景色が俺の目に映り込み始めた。

 ――何となく引っ掛かる。

 そう思って僅かの後に、ああ、そうかと思い当たった。今朝の全校集会の時に聞いたクシャミのせいだ。あれは凄かったよな、と改めて思う。何せマイクによって拡声されたクシャミは、広々とした体育館内に見事に響き渡ったのだから。しかも彼女は何かを表彰されていた最中だったようで、壇上にいた。

 おそらく、ほとんどの生徒や教師の視線は元より彼女の後ろ姿に注がれていたに違い無い。あるいは、仮に俺のように全校集会など上の空だった人間がいたとして、それでもあのクシャミで壇上に視線を向けたことだろう。

 しかし彼女は全く動じること無く表彰状を受け取り、悠々とステップを下りて行った。確かに生徒らの視線を受け止めていたのは後ろ姿かもしれないが、自身のアクションに少しも動揺をしなかった、あの様子は賞賛に値する。

 きっと凄く図々しいか凄く剛胆か……あるいは凄く天然か。そんなところだろう。

 あの後、俺の頭は覚醒してしまって残りの退屈な時間を冴えた脳味噌でやり過ごすこととなってしまったが、今、思えば面白いものが見られたので良しとするか。

 彼女に対する思考は、ここで止められた。終わったと言うべきか。

 俺はガラガラに空いている車内の適当なところに座り、鞄から本を取り出して続きを読むことに没頭した。

 やがて、いつも通り二十分程で着いた降車駅に降り立つ頃には、俺の頭の中は読み掛けの本の続きとペラペラのコートでは防ぎ切れない冬の寒さのことが大半で、彼女のことは勿論、クシャミ云々については記憶の彼方に追いやられていた。

 ピュウ、と後ろから吹き抜けて行った冬の風を恨めしく思いながら俺は家路を急いだ。特に用事は無い。ただ、早くこの冷たい外気から抜け出したい、それだけだった。

 家に着いたら暖かい部屋で温かい珈琲でも飲みながら、鞄の中で揺れる本の続きを読むとしよう。その後で公民の課題プリントを手早く済ませ、夕食を食べたら音楽を聴いたりテレビを観たりしよう。

 襲って来る寒さから逃れるかのように、俺は家に着いた後のことをあれこれと考えた。

 ――これが俺の日常。特別な不満は無く、うまくやっている自信のようなものもあった。そこそこ満足はしていたし、それで充分だと思っていた。本当の意味で彼女に出会うまでは。
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