警鐘を打ち鳴らせ

有未

文字の大きさ
上 下
17 / 18
第三章【遭遇、降雨】

【遭遇、降雨】2

しおりを挟む
 私は彼の言葉を頭の中に巡らせながら、入口をくぐる。例の菓子売り場に行こうかと思いつつも、足はそれを拒むかのように重い。先程に歩調を緩めた時よりも更にそれは速度を失い、まるで水の中を歩いているような錯覚すらして来る。

 彼は、意味の無いことはほとんど言わない。即ち、彼の言にはほとんど意味がある。そしてそれはとても重要なことだ。確かな証拠があるわけでは無かったが、私はそう思っている。その彼が言った。今日の数字を考えろと。此処で何をしたかと。全てのことには理由があると。そして、振り返れと。

 私は歩みを止めないまま考え続ける。何か焦りのようなものを覚える。それでも、彼の言葉の指す所が分からない。それが焦燥を更に強く、大きくする。

 店内に広がる菓子の甘い香りのせいだろうか、思考するにあたっての肝心な所がぼやけてしまい、私はうまく考えをまとめることが出来なかった。

 連綿と続く菓子売り場、笑顔の売り子、佇む猫、客の姿、ざわめき。それらが一緒くたに混ざり合い、ごく緩やかに私の周りを回転する。私はその中心で動けない。いや、体はあの菓子売り場へ向けてゆっくりと動いている。だが、脳味噌の真ん中が甘く痺れたようになってうまく機能していない。

「いらっしゃいませ」

 瞬間、ぱちりと何かが弾けて飛んで行く。ぼやけていたような気がする視界は澄み渡り、私の両目は正しく目の前を捉える。其処には彼女が笑顔で立っていた。私はいつの間にか、例の菓子売り場に辿り着いていた。まとまっていなかった思考は緩慢にその姿を隠す。代わりに彼女の姿が刻まれ始める。

「良かったら、ご試食して行って下さいね」

 彼女はそう言い、手のひらで試食の場を示す。そこには練り羊羹と煎餅があった。私は勧められるまま、煎餅に手を伸ばす――伸ばし掛ける。しかし、その右手は煎餅のかけらに届く寸前でぴたりと止まった。

「どうかしましたか?」

 春の風のような彼女の声が頭上でする。私はその声に答えることも出来ぬまま、あと少しで触れていた指の先にある煎餅を見つめ続けていた。

 まるで時が止まったような気すらする。私は今、此処で何をしている? そんな基本的すぎる疑問が胸に湧く。

 私の目は、煎餅のかけらに伸ばしている指先を映している。何も、何も特別に変わったことなど無い。だが、私の指先はそれ以上、決して進もうとはしなかった。背中に、じわりと嫌な汗が滲む。

「大丈夫ですか?」

 降って来た声に顔を上げると、彼女が心配を湛えた顔で私を見ている。私は、その言葉に返事をしようとしたもののそれはどうしてか叶わず、喉の奥に何か言い知れないつかえを感じただけだった。

「お加減が悪いのですか?」

「……いや、そんなことは無いんだ」

 それだけをやっとの思いで私は口にする。何故、私はこんなにも不安を覚えているのだろう。私は彼女から視線を離し、もう一度、煎餅を見る。

「当店で人気の醤油煎餅なんですよ」

 彼女の声が、まるで何処か遠くの地から届けられているように聞こえる。残響が耳の奥底で反響する。それは私の思考をぐるりと掻き回すようで。気が付けば私は、止まっていた指先を煎餅のかけらへと更に伸ばしていた。

「やめるんだ!」

 私は、ぴたりと動きを止める。ゆっくりと首を動かすと、私の足元で彼が強く私を睨んでいた。喩えではなく、本当に。滅多に開かれない彼の闇夜のような瞳が大きく丸くその存在を主張し、私を見据えていた。

 彼は今まで私と共にいて、大きな声を出すことは無かった。まして、このように私を鋭く見つめて来ることも。これまでに無い彼の態度は私の心情を大きく揺さぶる。今、何が起きているというのだろう。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

スライム10,000体討伐から始まるハーレム生活

昼寝部
ファンタジー
 この世界は12歳になったら神からスキルを授かることができ、俺も12歳になった時にスキルを授かった。  しかし、俺のスキルは【@&¥#%】と正しく表記されず、役に立たないスキルということが判明した。  そんな中、両親を亡くした俺は妹に不自由のない生活を送ってもらうため、冒険者として活動を始める。  しかし、【@&¥#%】というスキルでは強いモンスターを討伐することができず、3年間冒険者をしてもスライムしか倒せなかった。  そんなある日、俺がスライムを10,000体討伐した瞬間、スキル【@&¥#%】がチートスキルへと変化して……。  これは、ある日突然、最強の冒険者となった主人公が、今まで『スライムしか倒せないゴミ』とバカにしてきた奴らに“ざまぁ”し、美少女たちと幸せな日々を過ごす物語。

あなたは異世界に行ったら何をします?~良いことしてポイント稼いで気ままに生きていこう~

深楽朱夜
ファンタジー
13人の神がいる異世界《アタラクシア》にこの世界を治癒する為の魔術、異界人召喚によって呼ばれた主人公 じゃ、この世界を治せばいいの?そうじゃない、この魔法そのものが治療なので後は好きに生きていって下さい …この世界でも生きていける術は用意している 責任はとります、《アタラクシア》に来てくれてありがとう という訳で異世界暮らし始めちゃいます? ※誤字 脱字 矛盾 作者承知の上です 寛容な心で読んで頂けると幸いです ※表紙イラストはAIイラスト自動作成で作っています

せっかくのクラス転移だけども、俺はポテトチップスでも食べながらクラスメイトの冒険を見守りたいと思います

霖空
ファンタジー
クラス転移に巻き込まれてしまった主人公。 得た能力は悪くない……いや、むしろ、チートじみたものだった。 しかしながら、それ以上のデメリットもあり……。 傍観者にならざるをえない彼が傍観者するお話です。 基本的に、勇者や、影井くんを見守りつつ、ほのぼの?生活していきます。 が、そのうち、彼自身の物語も始まる予定です。

💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活

XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。

処理中です...