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第三章【遭遇、降雨】
【遭遇、降雨】2
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私は彼の言葉を頭の中に巡らせながら、入口を潜る。例の菓子売り場に行こうかと思いつつも、足はそれを拒むかのように重い。先程に歩調を緩めた時よりも更にそれは速度を失い、まるで水の中を歩いているような錯覚すらして来る。
彼は、意味の無いことはほとんど言わない。即ち、彼の言にはほとんど意味がある。そしてそれはとても重要なことだ。確かな証拠があるわけでは無かったが、私はそう思っている。その彼が言った。今日の数字を考えろと。此処で何をしたかと。全てのことには理由があると。そして、振り返れと。
私は歩みを止めないまま考え続ける。何か焦りのようなものを覚える。それでも、彼の言葉の指す所が分からない。それが焦燥を更に強く、大きくする。
店内に広がる菓子の甘い香りのせいだろうか、思考するにあたっての肝心な所がぼやけてしまい、私はうまく考えをまとめることが出来なかった。
連綿と続く菓子売り場、笑顔の売り子、佇む猫、客の姿、ざわめき。それらが一緒くたに混ざり合い、ごく緩やかに私の周りを回転する。私はその中心で動けない。いや、体はあの菓子売り場へ向けてゆっくりと動いている。だが、脳味噌の真ん中が甘く痺れたようになってうまく機能していない。
「いらっしゃいませ」
瞬間、ぱちりと何かが弾けて飛んで行く。ぼやけていたような気がする視界は澄み渡り、私の両目は正しく目の前を捉える。其処には彼女が笑顔で立っていた。私はいつの間にか、例の菓子売り場に辿り着いていた。まとまっていなかった思考は緩慢にその姿を隠す。代わりに彼女の姿が刻まれ始める。
「良かったら、ご試食して行って下さいね」
彼女はそう言い、手のひらで試食の場を示す。そこには練り羊羹と煎餅があった。私は勧められるまま、煎餅に手を伸ばす――伸ばし掛ける。しかし、その右手は煎餅のかけらに届く寸前でぴたりと止まった。
「どうかしましたか?」
春の風のような彼女の声が頭上でする。私はその声に答えることも出来ぬまま、あと少しで触れていた指の先にある煎餅を見つめ続けていた。
まるで時が止まったような気すらする。私は今、此処で何をしている? そんな基本的すぎる疑問が胸に湧く。
私の目は、煎餅のかけらに伸ばしている指先を映している。何も、何も特別に変わったことなど無い。だが、私の指先はそれ以上、決して進もうとはしなかった。背中に、じわりと嫌な汗が滲む。
「大丈夫ですか?」
降って来た声に顔を上げると、彼女が心配を湛えた顔で私を見ている。私は、その言葉に返事をしようとしたもののそれはどうしてか叶わず、喉の奥に何か言い知れないつかえを感じただけだった。
「お加減が悪いのですか?」
「……いや、そんなことは無いんだ」
それだけをやっとの思いで私は口にする。何故、私はこんなにも不安を覚えているのだろう。私は彼女から視線を離し、もう一度、煎餅を見る。
「当店で人気の醤油煎餅なんですよ」
彼女の声が、まるで何処か遠くの地から届けられているように聞こえる。残響が耳の奥底で反響する。それは私の思考をぐるりと掻き回すようで。気が付けば私は、止まっていた指先を煎餅のかけらへと更に伸ばしていた。
「やめるんだ!」
私は、ぴたりと動きを止める。ゆっくりと首を動かすと、私の足元で彼が強く私を睨んでいた。喩えではなく、本当に。滅多に開かれない彼の闇夜のような瞳が大きく丸くその存在を主張し、私を見据えていた。
彼は今まで私と共にいて、大きな声を出すことは無かった。まして、このように私を鋭く見つめて来ることも。これまでに無い彼の態度は私の心情を大きく揺さぶる。今、何が起きているというのだろう。
彼は、意味の無いことはほとんど言わない。即ち、彼の言にはほとんど意味がある。そしてそれはとても重要なことだ。確かな証拠があるわけでは無かったが、私はそう思っている。その彼が言った。今日の数字を考えろと。此処で何をしたかと。全てのことには理由があると。そして、振り返れと。
私は歩みを止めないまま考え続ける。何か焦りのようなものを覚える。それでも、彼の言葉の指す所が分からない。それが焦燥を更に強く、大きくする。
店内に広がる菓子の甘い香りのせいだろうか、思考するにあたっての肝心な所がぼやけてしまい、私はうまく考えをまとめることが出来なかった。
連綿と続く菓子売り場、笑顔の売り子、佇む猫、客の姿、ざわめき。それらが一緒くたに混ざり合い、ごく緩やかに私の周りを回転する。私はその中心で動けない。いや、体はあの菓子売り場へ向けてゆっくりと動いている。だが、脳味噌の真ん中が甘く痺れたようになってうまく機能していない。
「いらっしゃいませ」
瞬間、ぱちりと何かが弾けて飛んで行く。ぼやけていたような気がする視界は澄み渡り、私の両目は正しく目の前を捉える。其処には彼女が笑顔で立っていた。私はいつの間にか、例の菓子売り場に辿り着いていた。まとまっていなかった思考は緩慢にその姿を隠す。代わりに彼女の姿が刻まれ始める。
「良かったら、ご試食して行って下さいね」
彼女はそう言い、手のひらで試食の場を示す。そこには練り羊羹と煎餅があった。私は勧められるまま、煎餅に手を伸ばす――伸ばし掛ける。しかし、その右手は煎餅のかけらに届く寸前でぴたりと止まった。
「どうかしましたか?」
春の風のような彼女の声が頭上でする。私はその声に答えることも出来ぬまま、あと少しで触れていた指の先にある煎餅を見つめ続けていた。
まるで時が止まったような気すらする。私は今、此処で何をしている? そんな基本的すぎる疑問が胸に湧く。
私の目は、煎餅のかけらに伸ばしている指先を映している。何も、何も特別に変わったことなど無い。だが、私の指先はそれ以上、決して進もうとはしなかった。背中に、じわりと嫌な汗が滲む。
「大丈夫ですか?」
降って来た声に顔を上げると、彼女が心配を湛えた顔で私を見ている。私は、その言葉に返事をしようとしたもののそれはどうしてか叶わず、喉の奥に何か言い知れないつかえを感じただけだった。
「お加減が悪いのですか?」
「……いや、そんなことは無いんだ」
それだけをやっとの思いで私は口にする。何故、私はこんなにも不安を覚えているのだろう。私は彼女から視線を離し、もう一度、煎餅を見る。
「当店で人気の醤油煎餅なんですよ」
彼女の声が、まるで何処か遠くの地から届けられているように聞こえる。残響が耳の奥底で反響する。それは私の思考をぐるりと掻き回すようで。気が付けば私は、止まっていた指先を煎餅のかけらへと更に伸ばしていた。
「やめるんだ!」
私は、ぴたりと動きを止める。ゆっくりと首を動かすと、私の足元で彼が強く私を睨んでいた。喩えではなく、本当に。滅多に開かれない彼の闇夜のような瞳が大きく丸くその存在を主張し、私を見据えていた。
彼は今まで私と共にいて、大きな声を出すことは無かった。まして、このように私を鋭く見つめて来ることも。これまでに無い彼の態度は私の心情を大きく揺さぶる。今、何が起きているというのだろう。
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