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10月26日(土)

(2)【完】――「アキと出会えて、本当に良かった」

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 この中学の体育館は特段広いわけではない。バレーボールのコート二面分程度の、一般的な大きさだ。しかし今日は合唱コンクールのために、全校生徒と、その保護者がみっちりと収容されている。
 端的に言えば、動きにくいことこの上なかった。普段であれば数秒で抜けられる距離に人が溢れかえっていて、倍以上の時間がかかる。必要以上に焦る気持ちが、このもどかしさを増長させていた。
 どうにか体育館と校舎を繋ぐ廊下に出たところで、ようやくその姿を捉えることができた。
 初めて会ったときから綺麗だと思っていた黒髪が、秋の日差しを受けて柔らかに揺れる。冬用の制服に身を包み、その袖口からは小豆色のカーディガンが覗いていた。
 ああほら、やっぱり。
 僕の見間違いなんかじゃなかったんだ。
「――コマ!」
 憚ることなく名前を叫んだ。
 声を投げた、その先。ほんの十数メートル先を歩いていた少女は、はたと足を止めた。
 なんと言葉をかけようか一瞬だけ迷い、しかし少女相手に変に気負う必要はないと思い、僕は努めていつも通りに、 
「良かった。来てくれてたんだな」
と声をかけた。
「……約束、したからな」
 果たして、少女は若干強張っている様子だが、そう言葉を返してきた。
 こちらに振り返りはしない。
「アキのクラスの合唱、すごく良かった。練習の成果が見事に発揮されていた」
「ありがとう」
「とても綺麗なハーモニーだった」
「それは良かった」
 僕に背を向けたまま、少女は感想を口にする。
 一緒に練習してきた少女からこれだけ褒められて、嬉しくないはずがない。それなのに何故か、僕の心は曇っていた。
 これはそう、不安だ。少女は体育館の照明が落とされてから、こっそりと入ってきた。そして僕のクラスの合唱を聞き届けたら、すぐさま体育館を後にした。追いかけて体育館を出てきた僕とは、目を合わせようとしない。
 あの日。
 あのあと。
 少女の身に一体なにが起こったのか。それを想像するのは、悔しいことに容易だった。
「なあ、コマ――」
「――古賀こが舞春まはる
 僕の言葉を遮って、少女は言う。
「ワタシの本当の名前は、古賀舞春というのだ」
「こが、まはる……」
 どうにか言葉の意味を理解しようと、今しがた聞いたばかりの名前を繰り返すと、少女は、うん、と首肯する。
「あれから、いろいろとあったんだけれど。ワタシ、叔父さんと一緒に暮らすことになったんだ。お母さんとおばあちゃんとは、少し距離を置くことにしたのだ」
「……」
「叔父さんは隣町に住んでいるから、本当なら転校もしなきゃいけないんだけど。少し無理を言って、このままこの中学に通えるようにしてもらった。ここならアキがいるから、少しずつでも学校に行けるようになると思って」
「……」
「ひとつ問題があるとすれば、この制服だった」
 言いながら、少女はひらりとスカートの裾をつまむ。
「この真新しい制服が、一番嫌いだった。みんなとは違うこの制服の所為で、ワタシは余計にクラスで浮いていたから。今日だって、ここまで来るのにすごく勇気が要ったんだけど。アキから貰ったカーディガンをお守り代わりにしたら、頑張れた」
「え……?」
 少女がとても嬉しいことを言ってくれたが、しかし僕の耳は別の言葉に違和感を覚えていた。
 みんなとは違う制服?
 少女が着ている制服は、今年の一年生からデザインを一新されたものだ。上級生とは全く異なるものだが、クラスのみんなと違うなんてことはありえない。
 いや、待てよ?
 ひとつの可能性が脳裏を過る。
 まさか、そういうことなのか?
「もしかしてお前って、一年じゃないのか?」
 恐る恐る尋ねた僕に、
「ああ。ワタシは二年だ」
と、あっさり肯定し、少女はゆっくりとこちらを向いた。
 案の定、冬服にも名札は付いけていない。しかし足元の内履きに通された紐の色は、確かに二年生の証拠である青色だった。
「あ、ええと……」
「あはは、いまさら畏まる必要なんてないだろう、アキ。今までどおりで良い。ワタシはそっちのほうが嬉しい」
「そ、そうか?」
「そうだ」
「これからも『コマ』って呼んで良いのか?」
「構わないが、アキ、ワタシは狛犬ではないぞ?」
「何編も言わなくたってわかってるよ」
 そうじゃなくて、と僕は続ける。
「お前の名前、古賀舞春っていうんだろ? 名字と名前から一文字ずつ取ったら『コマ』になるじゃん」
「本当だ……!」
 その発想はなかったと言わんばかりに目を見開く少女、もとい、コマ。
 この良い意味で脱力感のあるやりとりが既に懐かしい。
「お前にまた会えて嬉しい」
 僕は改めて、お礼の言葉を口にする。
「ダンケ、コマ」
「ダンケアオフ、こちらこそありがとう。アキと出会えて、本当に良かった」
 そう言って笑うコマは、神社で見たどんな笑顔よりも輝いて見えた。
 鬱蒼とした木々に囲まれ、昼でも薄暗い場所でばかり会っていたからだろうか。それとも、お面をしていないからだろうか。このときの僕には判断がつかず、だから思考を切り替えることにした。
「なあコマ、これからもよろしくって、ドイツ語でなんて言うんだ?」
「むう。ドイツにそういう言い回しはないのだが、確か『ビッテ』が当てはまるはずだ」
 そうなんだ、と頷き、僕はコマに右手を差し出した。
「ビッテ、コマ」
 その透き通った青の瞳を嬉しそうに細め、コマは僕の右手をぎゅっと握る。
 悲しいできごとを思い出すから大嫌いだった青空。
 だけどそれと同じ色をした瞳が今、こんなにも温かく僕を見つめている。
 それを不快に思うことはなく。
 むしろこの瞳のおかげで、僕は少しだけ青空を好きになれたくらいだった。
「ビッテ、アキ」
 そうして僕らは二人、合図をするでもなく、同時に笑みを零した。



 終
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