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10月26日(土)

(1)――この曲において、僕のお手本はいつだって神社で聴いた、あの歌声だった。

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「……さて」
 十月二十六日、土曜日。
 今日は、遂に文化祭本番だ。
 合唱コンクールは午前中に開催される。発表順は基本的に学年順で、一年生は必然的に最初のほうになるのだ。朝はクラスで発声練習を行い、朝学活が終われば、すぐに体育館に移動して合唱コンクールが始まる。
「どうした美秋? 誰か探してんの?」
 全校生徒が体育館への移動を終え、ちらほらと保護者が入ってくるのを横目に眺めていた僕に、賢斗が声をかけてきた。
 今日の体育館はコンクール仕様になっていて、普段と様相が異なっている。全ての暗幕カーテンが閉められ、煌々と照明が灯っている。わかりやすい『発表会』形式というわけだ。
「いや、別に……」
 そう答えながらも、僕の視線は体育館の出入り口から外れない。
「お前んちのばあちゃんなら、さっき来てたろ?」
「それは、そうなんだけど……」
 ばあちゃんは今日のために、近所の人からビデオカメラの使いかたを教えてもらっていた。おめのおっ父みてには撮られねかもしれねどな、なんて苦笑いしていたけれど。そう言っているばあちゃんは、とても楽しげだった。そんなばあちゃんは既に到着しており、カメラの用意もばっちりである。
 だから、僕が探しているのはばあちゃんじゃなくて――
「美秋さ、神社の幽霊と会ったってマジ?」
「は?」
 唐突な話題に、僕の口からはそんな音しか出せなかった。
「先々週、美秋が学校休んだ日があったじゃん」
 それは、怪我を負った翌日のことを指しているのだろう。さすがの僕も、丸一日は休むことを余儀なくされた。
「その前の日の夕方に、神社から出てきたお前を見たって人が居たらしいんだけど。お前の隣にすげぇ美人が居た、みたいな話を聞いたんだよ」
 確かに、神社の近くは数時間に一度くらいは車が通る。人通りが全くないとは言えないのだから、目撃者が居たっておかしくはないだろう。とはいえ、神社を出てすぐに清野先生が僕らを発見してくれたから、まさか見られていたとは思わなかった。
「それって、清野先生のことか?」
 僕はなんとなく、はぐらかすように言った。
「清野先生もキレーだけど、そうじゃなくてさ」
 しかし賢斗は追求の手を緩めない。僕と清野先生と、それ以外にもう一人があの場に居たことは、もう確定事項らしい。それならば、しらばっくれるにも限界がある。
「ああ、うん。居たよ」
 観念して、僕は言う。
 体育館の出入り口に、それらしい人物は現れない。その代わり、教頭先生がマイク片手に前に出てきていた。じきに合唱コンクールが始まる。
「その人は、僕の友達」
 そう言ったところで、マイクの電源が入れられ、僅かにハウリングした。
 賢斗との会話はここで中断となり、お互い姿勢を正して前を向く。
 教頭先生の司会により、合唱コンクールは予定通りに進行していく。校長先生の挨拶の後、校歌斉唱。それが終われば、遂にクラスごとによる合唱が始まるのだ。
 体育館の照明が一度全て落とされ、壇上にだけ照明が点けられる。
 一番最初を飾るのは、一年二組――隣のクラスだ。
 曲の難易度としては、僕らのクラスと大差ない。しかしながら、最後の交歓練習会から格段に上達しているのは明らかだった。わざわざ目で確認しなくとも、クラスメイトに緊張感が増していくのがわかる。
 呆気にとられているうちに曲は終わり、照明が落とされた。隣のクラスは達成感に満ち溢れた顔で降壇していき、次は僕らのクラスの出番である。
 上手く歌えるだろうか。
 失敗してしまわないだろうか。
 親が、家族が、先生が見ているのに。
「――みんな」
 登壇する直前、小山田さんが口を開いた。
 粛々たる雰囲気の中、あくまでも小声で。
 けれど、やる気に満ちた凛々しい表情で。
「いつも通り、精一杯、歌ってこよう。大丈夫、絶対に、成功するよ」
 今日まで実行委員としてクラスを取りまとめてきた彼女だからこそ、その言葉が取って付けたようなものではないことは、みんなわかっていた。
 身体の内にのしかかる居心地の悪いものから、己を奮い立たせる程良いものに変化していく。クラスメイトも、そして僕も、小山田さんの言葉に小さく頷いて返す。
 壇上に上がってしまえば、もう歌うしかない。
 全員が定位置に付いたところで指揮者が合図を送り、ぱっと照明が点く。
 そのときだった。
 体育館の出入り口に、人の動きがあったのである。
 観客席となっているところは照明が落とされているし、僕は壇上で眩しいほどの照明を浴びているから、確証は持てない。
 けれど。
 体育館に入ってきた瞬間、優雅に揺れた髪。そして、すらりとした長身の体躯。
 まさか、と思う。
 体温が一気に上昇して、顔が熱い。こちらに気がついてくれるだろうか。
 そんな淡い期待と共に視線を向けるが、その人影は体育館に入ると、するりと奥のほうへ消えてしまった。僕の位置からでは、もう判別はつかない。
 だけど。
 だけどあれは、もしかして。
「……っ」
 隣に立つ賢斗に肘で突かれ、指揮者が指揮棒を上げたことに気付いた。慌てて足を肩幅に開き、歌う体勢を取ったところで、伴奏が始まった。
 この曲は前奏が短い。とにかく今は、歌に集中しなければ。
 すうっと息を吸い込んで、優しく語りかけるように出だしを歌う。
 この曲において、僕のお手本はいつだって神社で聴いた、あの歌声だった。土砂降りの雨から、次第に雲が晴れ、太陽の光が差すような、感情豊かな歌声。あんな風に歌えたらと思いながら、この二週間、練習を続けてきたのだ。僕がそれに、一体どれだけ近付くことができただろう。ぼんやりと、そんなことを考える。
 サビに入ると、否応なしに神社で過ごした日々が脳裏を過った。
 あの数日間に、僕がどれだけ救われたか。
 少しでも良い、その想いがこの歌に乗せられたらと考えながら、男子が主旋律となるパートを丁寧に歌っていく。ここまで来ると、この曲ももう折り返しだ。
 始まったからには、終わりが来る。
 それは至極当然のことなのに、今は寂寞の思いに駆られる。別段これは突然に迎える終わりではないのに。予定調和の終焉に、どうしてここまで心を締め付けられるのだろう。
 ああそうか。
 はたと僕は理解する。
 きっと、名残惜しいのだ。この曲が終わってしまったら、あの日々とも一区切りついてしまう気がして、それが嫌なんだ。
 終わりが怖い。
 けれど、足を止めることはできないのだ。
 生きている以上、時間は進んでいく。
 僕の意思とは関係なしに、全てが始まり、そして終わっていく。
 それなら僕は、少しでも後悔しないように先へ進むしかない。
 真っ直ぐ、前を向いて。
「――……」
 歌い終わり、拍手が鳴り響き、照明が落とされる。
 終わりは予定通り、呆気なくやって来た。けれど、不思議なことに喪失感はなく。あるのは、達成感であった。
 歌詞を間違えなかった。音程を間違えなかった。後悔なく歌いきれた。
 いつも通りに、いつも以上に頑張れた。それが嬉しかった。
「あ」
 降壇中、僕は思わずそんな音を吐いた。
 それもそのはず。
 体育館中のざわめきを縫うように移動する、ひとつの人影。もう見間違いようもない。見覚えのあるそれが、一切無駄のない動作で体育館から出て行く瞬間を目撃したのだ。
「お、おい美秋?!」
「ごめん、保健室行ってくる!」
 気がつけば、僕はクラスの列を抜け出し、走り出していた。
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