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10月5日(土)
(1)――なんとなく、あの少女のことは伏せておいたほうが良い気がしていた。
しおりを挟む午前八時。
けたたましく鳴る目覚まし時計を止め、僕は起床した。
ゆっくりと上半身を起こし、強引に眠気を飛ばそうと試みる。
昨日の夜、ばあちゃんに弁当の話をして一緒に買い出しに行っていたら、ついつい寝るのが遅くなってしまった。少女のことを誤魔化しつつ、弁当の用意を手伝ってもらうためにあれこれ言い訳じみたことをぐだぐだと言い続けてしまったことが、間違いなく敗因である。
学校で合唱コンクールの練習があるとだけ、ばあちゃんには伝えている。練習自体は午前中だけなのだが、その後、友達と弁当を食べて、そのまま学校で自主練をする、とも。二人分の弁当になる理由は、その友達の母親が利き手を怪我しちゃってとか、そんな感じ。
嘘をついていると思うと心苦しいが、本当のことを言って心配もかけたくない。
それに、なんとなく、あの少女のことは伏せておいたほうが良い気がしていた。
「ふああ……ん?」
今朝の眠気は、なかなかに手強い。眠気にぐらつく身体を引きずり、どうにか布団からの脱出に成功する。ぺたぺたと廊下を歩いて行くと、飼っている猫が足元にすり寄ってきた。今の今までストーブの前にでも居たのか、その身体はいやに温かい。
「おはよ、タマ」
しゃがんで、猫の頭や背中、顎の下を撫でる。やがて、猫は気持ち良く喉を鳴らし始めた。その様子を見ていると、どうしてか脳裏にあの自称狛犬の少女が過った。どうやら、僕が自覚している以上に、あの狛犬設定は浸透してきているらしい。
「……ふふっ」
思わず溢れた笑い声に、猫は不思議そうにこちらを見上げた。まるで聞いたことのない声を聞いたような顔をしている。もう何年も一緒に住んでいるというのに、失礼なやつだ。
「美秋ー? 起きたんけー?」
台所からばあちゃんの声が飛んできた。
それに応えるため、急ぎ足で台所へ向かう。
「おはよ。今日は早起きだね、ばあちゃん」
台所に入ると、既に割烹着を着て、準備万端なばあちゃんが立っていた。一足先に弁当作りを開始する気満々らしい。あまり朝は強くないはずなのに。もしかして、張り切っているのだろうか。
「はいおはよ」
優しく返事をすると、ばあちゃんは歯を見せて笑う。
「そら早起きもするこさ。美秋に弁当を作らんは久しぶりだすけの」
「んだっけ」
「んだ」
「ばあちゃん、朝ご飯はもう食べたん?」
「ん。もう食べたで」
「はーい」
トースターに一人分の食パンをセットし、ココアを淹れてから椅子に座った。
ばちゃんに弁当を作ってもらうのは何時ぶりかと、記憶を辿ってみる。
そもそもこの村の小中学校は給食制で、平日に弁当を持っていくことはほとんどない。あるとすれば、運動会や文化祭などのイベントの日くらいだ。その限られた弁当持参の日だって、今までは母さんが作ってくれていた。
そういえば、前日には必ず「お弁当になに入れて欲しい?」と訊かれていたっけ。僕はそれに、いつも「ミートボールは絶対に入れて」と答えていた。兄さんはいつもその会話に横入りしてきては、「唐揚げと玉子焼きも! あ、玉子焼きは甘いやつねっ!」と決まったリクエストしていた。母さんはそんな兄さんに少し呆れたように肩を竦め、それでもしっかりリクエストに答えていた。きっと母さんは、僕がそれらのおかずも好きなことも、遠慮する僕に代わってリクエストしている兄さんにも、気づいていたのだろう。
「……ばあちゃん、ミートボール入れてくれる?」
「ん。いっぺごと入れよな。唐揚げも玉子焼きも入れるすけの」
「……玉子焼きは、甘いのが良い」
「ん」
短く頷くと、ばあちゃんはあれこれ調理器具を取り出し、料理をし始めた。朝の静かな台所に、かちゃかちゃと規則的な音が鳴り始める。
その小さな背中を眺めながら、僕は思い出す。
半年前までは、その隣に誰かが居るのが当たり前の風景であったということを。
ばあちゃんは今も足腰が丈夫で、一人でもすいすい移動できる。しかし、そうは言ってもばあちゃんは今年で八十八歳だ。注意すべきことはたくさんある。特に火や刃物を使う台所は、できるだけ誰かと一緒にやろうと決めていた。
朝は、父さんと兄さん。
昼は、母さん。
夜は、僕と母さん。
いつも誰かしらと料理をしているばあちゃんは、楽しげだった。
けれどそれは、半年前までの話である。
あの日以来、僕はあまり手伝いをできていない。
もうこの家には僕以外に手伝う人間がいないのだ。
それになにより、ばあちゃん自身から言われたのだ。新しく始まる中学生活が落ち着くまで――僕自身が手伝える状態になるまで、無理に手伝おうとしなくて良い、と。
僕だけじゃなく、きっとばあちゃんにだって、一人の時間が必要だったんだ。
二人で居るのは心強いが、同時に疲れてしまう。僕らに必要だったのは、周囲の声に流されず、自分の中で唐突に起きた現実を飲み込む時間だったのだ。
あれから半年。
果たして今は、どう思っているのだろう。
「ばあちゃん」
まだ寝ぼけている頭は、思ったことをそのまま口に出す。
「料理、楽しい?」
尋ねたのと同時に、トースターがチンと音を鳴らして調理終了を知らせた。
最近、少し耳の遠くなってきたばあちゃんには聞き取れなかっただろうと思った僕は、今の質問をなかったことにして、トースターから食パンを取り出しにかかった。
「……たのっしぇよ」
少し焼き焦げた食パンにバターを塗っていると、ばあちゃんがふと手を止めて言った。
「料理すらんは、昔からばあちゃんは好きらてな。誰かと一緒に作るのもおもっしぇども、今は、美秋が美味そうに食ってくれるすけ、それがうれっしぇしたのっしぇ」
「嬉しいし、楽しい?」
「んだ」
満足げに頷いたばあちゃんの表情と言ったら、とても清々しい笑顔で。
そこにひとつたりとも嘘が含まれていないことは、疑いようがなかった。
僕はこれまで、ほとんど料理をしたことがない。
前までしていた夕飯の手伝いは、使う調理器具や食器を用意したり、ばあちゃんも母さんも台所を離れてしまうときに少しだけ火の前に立つ程度だ。今日の弁当だって、僕が最初から最後まで自力で作れるのは、精々おにぎりくらいだろう。だから料理に対して、そこまでの感情を持つことはなかった。
翻って、今はどうだろう。
ばあちゃんの言葉が心に刺さるような感覚があったことは確かである。
生きている以上、食事は必要不可欠だ。だから料理は日常に欠かせない行為のひとつと言えるのだろう。しかし、それだけではない。料理を作る人が居て、食べる人が居る。その間にあるものの正体を、きっと僕は知っているようで知らないままなのだ。
だから僕は、おにぎりひとつ作るだけでもわからないことだらけでいるのだ。僕の基準で作ることは簡単だ。しかし、今日作るこれらは僕だけで食べるものじゃない。少女と二人で食べるためのものなのだ。塩加減や具の量、米の量なんてのは人によって適量が異なる。あの少女にとっての適量はどれくらいなのだろう。事前に聞いておけば良かったと、いまさら後悔する。
「美秋」
食パンを食べ終えた頃、ばあちゃんが呼んだ。
「はよ顔を洗って、支度してきなせ」
「ああ、うん」
気がつけば、時計の針は八時半過ぎを指していた。
弁当をこしらえ、午前中から神社へ向かうためには、ばあちゃんの言う通り、そろそろ支度を始めなければいけない。
食器をまとめて席を立った僕に、ばあちゃんは言う。
「そっだに深く考えねで良いすけの。美秋が一緒に食べる子のことを考えらんは、ひっで良いことだども、考え過ぎらんは駄目だ。まず一番は気持ちらて」
「気持ち?」
「んだ。相手のこと考えながら作れば、不思議と美味しくならんだて」
「……そうだね」
胸の端がむず痒くなるような感覚を覚えながら、僕は頷いた。
その気恥ずかしさを隠すように、僕は早足で食器を流しに出して、洗面所へ向かった。
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