上 下
13 / 39
10月4日(金)

(3)――「歌は良いぞ。聴くのも歌うのも、全部楽しい」

しおりを挟む

「ふーふふふんふーん、ふーふふふんふーん、ふーふふふんふー、ふふふふーん」
「……」
「ふーんふんふーふん、ふーんふんふーふん、ふんふんふんふんーふーふふふーん」
「……」
「ふーふふーふんーふーふふんふーん、ふーふふんふん……あ、アキだ!」
「……よう」
 残りの授業を耐え抜き、あいつらをどうにか躱して逃げたあと。
 自転車に乗り、冷たい秋風に晒されながら神社へやってきた僕は、自称狛犬が楽しげに鼻歌を歌っている場面に遭遇した。
 選曲に明らかな他意を感じるが、それについて言及はしないでおく。僕の器はそこまで小さくないのだ。無駄に上手いのが腹立つとか、思ってない。
「今日も元気そうだな」
 少女は、今日も相変わらず夏用の制服に身を包んでいる。衣替えの移行期間も終わり、学校で夏用の制服を見ることがなくなって数日。日に日に秋が深まっていく中で、どうしたってその服装は浮いていた。
 僕はこの少女が狛犬だろうと、普通の人間だろうと、どちらでも構わないと思っている。しかしその反面、少女がこの服装を維持するあたり、狛犬という設定に並々ならぬこだわりがあるようだ。
「アキが来てくれたからな。今日も元気いっぱいだ! ……くしゅんっ!」
 元気いっぱいと言ったその口で、少女はくしゃみをした。
「……もうちょっと厚着したほうが良いんじゃないのか?」
 少し迷ってから、僕は遠慮がちにそう提案した。
 しかし、今日は急激に気温が下がったから、夏服では本当に寒いだろうに。
「さ、寒くないぞ! 狛犬だから寒さなんて感じないのだっ!」
「……それじゃあ、元気いっぱいな狛犬サンに、これあげる」
 これ以上この会話を続けるのは不毛と判断し、僕は鞄からジュースを二本取り出した。
 りんごジュースと、コーヒー牛乳。
 どちらもストローを挿して飲むパックタイプのものだ。これなら、お面をつけている少女でも多少は飲みやすくなるだろう。そう思ってこれらを選んだのだが、こんなことなら温かいものにすれば良かったと、僕は小さく後悔する。
「えっ」
 しかし少女は、それまで楽しげに揺れていた身体をびくりと震わせ、動きを止める。さっきまでの元気が嘘のように、がちがちに固まってしまった。
「い、いらない。もらえない」
「どうして?」
「昨日、お茶をもらったばっかりだし……」
 少女は首と横に振って拒絶する。
 それくらい、別に構わないのに。
 小さく息を吐きながら、僕はそんなことを考える。とはいえ、善意の押しつけは良くない。
「どっちも苦手な味だったか?」
「……いいや」
「しいて言えば、どっちの味が好きなんだ?」
 その質問に、少女は僕の手に握られたそれぞれのジュースを見比べる。
 しばらくの後、少女は躊躇いがちに、
「……コーヒー牛乳」
と答えた。
「それじゃあ、はい」
 改めて、僕は少女にコーヒー牛乳を差し出す。
「とりあえず渡しとく。要らなかったら、僕が帰るときに返してくれたら、それで良いよ」
 少女はしばしそれをじっと見つめたあと、ふと視線を上げて僕を見た。
「……アキ、本当に良いのか?」
「うん。だって、お前と一緒に飲もうと思って買ってきたんだし」
 やけに遠慮する少女に若干の違和感を覚えながら、僕は頷いた。
「それなら……うん。いただきます」
 昨日と似たようなことを言って、少女はおずおずとコーヒー牛乳を受け取った。
 それを見届けてから、僕は少女に背を向ける。飲みやすいものを買ってきたとはいえ、結局はお面をずらさないといけないことに変わりはない。僕が少女のほうを向いていたら、飲むものも飲めないだろう。
 少女のほうも僕の意図を読み取ってくれたらしく、こちらに背を向けた。どうして背後で起きていることがわかるのかと言えば、答えは明瞭である。少女が僕の背に、軽く寄りかかってきていたのだ。
 背中から少女の体温が伝わってくる。それにつられて、僕の体温まで上昇するようだ。
 なんとなく、それを少女に知られたくなくて、僕は慌ててりんごジュースを喉に流し込んだ。買ってそう時間の経っていないりんごジュースは、その冷たさを保ったまま喉を通過し、胃へと向かう。夕暮れの冷たい風も手伝い、妙な熱はあっという間に引いていく。
「アキ」
 おそらくは少女もコーヒー牛乳を飲みながら、僕を呼ぶ。
「今日の学校は、どうだったのだ?」
「ん? 別に、普通だけど……」
 言いながら、今日一日のできごとを思い返す。いつもどおり、ため息ばかりが出る日常だ。
 いや、そういえばひとつだけ、少女に伝えておきたいできごとがあったじゃないか。
「そうだ、合唱コンクールで歌う曲が決まったんだ」
「おお、昨日ワタシが歌った五曲だな? どの曲になったんだ?」
 僕が曲名を答えると、少女はなるほど、と相槌を打つ。
「その曲、ワタシは好きだぞ。月並みだが、ラストに向けて盛り上がるところの歌詞が好きなのだ」
「わかる。だけど僕は、歌い出しも好きかな」
 そう言って思い出していたのは、昨日聴いた少女の歌声だ。一曲目だったということを差し引いても、第一声からあれほど惹きつけられたのは、候補に挙がった五曲の中でも、この曲だけだった。
「お前が昨日歌ってくれたの、すごく参考になったんだ。ありがと」
「ビッ……、いや、どうしたしまして」
 なにか言いかけて、しかし少女は別の言葉に置き換えた。
 それを誤魔化すように、勢いよくコーヒー牛乳を飲む。
「ともあれ、曲が無事に決まって良かった」
 それならば、と言うと、少女は勢いよく立ち上がった。
 背中から温もりが消え、秋の冷たい風が僕の背を撫でる。
「あとは練習あるのみだな! ワタシがソプラノ、アキが男声パート。ふふ、ばっちりではないか」
 くるくると舞うように階段を下り、少女は言う。
 そのはしゃぎようたるや、お面で表情が見えなくてもわかってしまうほどである。
「いや、だけど……」
「歌は良いぞ。聴くのも歌うのも、全部楽しい。その楽しさをアキと共有できたら、ワタシはとても嬉しく思う」
「……」
「せっかくの合唱コンクールだ。楽しまなければ損だぞ」
 楽しまなければ損。
 その言葉は寝耳に水だった。
 この半年、学校の行事を休まないようにだけ考えていた。
 休めば周囲がやかましいし、なにより、僕なんかが行事を楽しんではいけないような気がしていた。
 だけど、少女がそれに巻き込まれる理由はない。
「ふふん、安心して良いぞ、アキ。ワタシはこう見えて、教えるのが得意なのだ」
 黙り込んだ僕に、少女は自信満々にそう言った。
 ここで断れば、少女は悲しむだろう。
 そんな姿は見たくない。
 このときの僕が抱いた気持ちは、それだけだった。
「それじゃあ、お手柔らかに頼む」
「うむ!」
 僕の答えに、少女は花が飛び散らんばかりの雰囲気をまとって頷いた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

鐘ヶ岡学園女子バレー部の秘密

フロイライン
青春
名門復活を目指し厳しい練習を続ける鐘ヶ岡学園の女子バレー部 キャプテンを務める新田まどかは、身体能力を飛躍的に伸ばすため、ある行動に出るが…

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ガラスの世代

大西啓太
ライト文芸
日常生活の中で思うがままに書いた詩集。ギタリストがギターのリフやギターソロのフレーズやメロディを思いつくように。

ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話

桜井正宗
青春
 ――結婚しています!  それは二人だけの秘密。  高校二年の遙と遥は結婚した。  近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。  キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。  ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。 *結婚要素あり *ヤンデレ要素あり

ライトブルー

ジンギスカン
青春
同級生のウザ絡みに頭を抱える椚田司は念願のハッピースクールライフを手に入れるため、遂に陰湿な復讐を決行する。その陰湿さが故、自分が犯人だと気づかれる訳にはいかない。次々と襲い来る「お前が犯人だ」の声を椚田は切り抜けることができるのか。

処理中です...