1 / 1
あのとき守れなかった約束を、もう一度。
しおりを挟む身支度を整え、あいつのお気に入りの花である水仙と、一番好きなお菓子だっただろうチョコチップクッキーの袋を持つ。
雨天決行。
傘立てから傘を一本抜き取り、私は家を出た。
傘には、ばつばつと勢いよく雨が当たる。ビニール傘は一瞬にして濡れ、そこに数多の水滴をくっつけていた。
春を待つ季節の雨は、しっとりと足元を冷やす。しかし、それは私が外出をやめる理由にはならない。
今日の私には、約束があるのだ。
だから私は、春の嵐にも負けず、目的地へと歩を進めるのだ。
あいつとの出会いは、高校の入学式だった。
下ろしたての制服に糸くずがついていたのを見つけて、私がそれを取ってあげたのをきっかけに、なにかにつけ話す仲になった。
たとえば、勉強の話。
たとえば、部活の話。
たとえば、家族の話。
当時の私の家は相当な不和を抱え込んでいた。いや、そうは言っても、言葉にしてしまえば「両親が離婚協定の最中」でしかないのだけれど。今でこそ俯瞰して思い返すことができるが、当時の私にとってそれはかなり衝撃的なことだったし、相応にダメージを喰らっていた。
あいつになら話しても良いと思ったのは、何故だっただろうか。
なにごとも否定から入らず話を聞いてくれたから?
いつも穏やかな表情を浮かべて話を聞いてくれたから?
それももちろんあるのだけれど、本質は違ったのだと、今ならわかる。
私はただ、話を聞いてほしかっただけなのだ。
具体的な助言も、激励も、なにも要らなかった。ただ、頭の中で渦巻いているものを言語化して、吐き出したかった。それだけ。
あいつはそれをわかった上で私の話を聞いていたのだろうか。いや、あいつの場合、それは本能的だったりするんだろうな。私はあいつのことを思い出して、そう考え直す。
青春時代を思い出しながら歩いていくと、雨脚が強まっていった。
まるで、あいつがこっちへ来るなと言っているような気分になる。
それは拒絶ではなく、なんとなく恥ずかしいから、といった程度のものだろうけれど。
それでこの豪雨は、ちょいとやり過ぎな感じもする。
だがこの程度で、足を止めるわけがなかった。
私は水仙とお菓子を握り締め、黙々と、淡々と、歩き続ける。
あいつとの付き合いは、それから十数年に及んだ。
高校を卒業し、大学が別々になっても連絡を取り合い。
社会人になっても、時折会って話す機会を設けていた。
それはあいつにいろんな話を聞いてもらいたかったというのもあるけれど。
私も、あいつの話を聞きたいと思ったからだった。
どうにもあいつは、言葉を呑み込む癖がある。
高校の頃は違和感程度だったけれど、社会人になって、それは悪化の一途を辿っていた。
会う度に悪くなる顔色。
会う度に細くなる身体。
あまりに痛々しくて、私は積極的にあいつを飲みに誘い、愚痴を吐かせようとしたものだ。だって私は、そうしたら楽になることを、あいつに教えてもらったから。
しかしあいつはといえば、
「みんなと似たり寄ったりな状況だから。別に、自分だけが苦しいわけじゃないんだし」
と一点張りだった。
恐らく、勤め先でいろいろとあったのだろう。
そのいろいろというのが、あいつが言うところの「似たり寄ったり」なのだろうけれど。
苦しい状況なんて、千差万別、十人十色だ。誰かにとっての苦痛は、誰かにとっては無傷。その逆も然り。そんなものでこの世の中は満たされている。
しかし、あいつが心情をほとんど吐露してくれないからといって、私があいつを嫌いになることはなかった。だって、友達なら話したいことを話すべきだ。
私が延々家族の愚痴を言葉にして吐き出したかったのと同じように。
あいつは自身を取り巻く環境への感情を、己が内に留めておくことを選んだだけなのだから。
要は、私とあいつは正反対だったというわけだ。
それなのに、この友情は十数年続いたというのだから、人生、一体なにが起こるかわかったものじゃない。
あいつの好きなものを聞けたのは、ほとんど偶然だったのかもしれない。
あれは、社会人になって何年目のときだっただろうか。
その日は宅飲みをしようということになって、私が一人暮らしをしているマンションにあいつを招いたのだ。テーブルの上には酒のほかに、各種おつまみと、それぞれお気に入りのお菓子である、チョコシューとチョコチップクッキーが広げられていた。
「これ、好きだな」
ふと、そう言ってあいつが指差したのは、壁に飾られた水仙の絵だった。
それはたまたま店先で見つけて綺麗だと思い買ったもので、水仙自体に思い入れがあったわけではない。正直なところ、私は花の種類には疎かった。
「ウチの近所に小川があるんだけどさ。春になると、その川べりにたくさん咲くんだ。かわいい花だよね」
そう話すあいつの表情はとても穏やかだったのを、今でも強烈なまでに覚えている。普段から温厚な人間が見せる、ある種の隙のようなものだったからだろうか。
そしてこのとき、あいつはささやかな夢も語っていた。
「いつか一人暮らしをして、その家の花壇に水仙を植えるんだ。そうすると、春が来たなって感じがして、心がぽかぽかしてくるでしょ」
どうしてそれを、私に話してくれたのだろう。
今となっては、もうわからない。
「ねえ、ひとつ約束してくれる?」
ほろ酔い気味のあいつは、ふわふわと、しかしまっすぐに私を見据えて言う。
「家に植えた水仙が咲いたらさ、見に来てよ」
私はそれに、もちろん、と答えた。
あの約束を果たすことは、できなかった。
あいつは働きながら貯金をし、念願の一人暮らしを始めた数ヶ月後。
交通事故に遭って、死んでしまった。
今、私が手に抱えている水仙は、私の家で育てたものである。
あいつが墓から動けないのだから、私がこうして持っていくしかない。
ガーデニングなんて初めてだったけれど、綺麗に咲いたほうではないだろうか。そんな自信と共に、私はあいつの眠る墓地へと到着した。
あのとき守れなかった約束を、もう一度。
今一度。
今度こそ。
立場は逆になってしまったが、それは私たちにとっては些末な問題でしかないだろう。
あいつはこの水仙を見て、どんな反応をしてくれるだろうか。
綺麗だね、なんて言って微笑むだろうか。
すごいね、なんて言って感激してくれるだろうか。
それとも、私がガーデニングをしたこと自体に驚くだろうか。
様々に思い浮かぶあいつの反応を反芻しながら、私は墓前に手を合わせた。
終
0
お気に入りに追加
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
あの日、さようならと言って微笑んだ彼女を僕は一生忘れることはないだろう
まるまる⭐️
恋愛
僕に向かって微笑みながら「さようなら」と告げた彼女は、そのままゆっくりと自身の体重を後ろへと移動し、バルコニーから落ちていった‥
*****
僕と彼女は幼い頃からの婚約者だった。
僕は彼女がずっと、僕を支えるために努力してくれていたのを知っていたのに‥
【完結】愛に裏切られた私と、愛を諦めなかった元夫
紫崎 藍華
恋愛
政略結婚だったにも関わらず、スティーヴンはイルマに浮気し、妻のミシェルを捨てた。
スティーヴンは政略結婚の重要性を理解できていなかった。
そのような男の愛が許されるはずないのだが、彼は愛を貫いた。
捨てられたミシェルも貴族という立場に翻弄されつつも、一つの答えを見出した。
【完結】忘れてください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。
貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。
夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。
貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。
もういいの。
私は貴方を解放する覚悟を決めた。
貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。
私の事は忘れてください。
※6月26日初回完結
7月12日2回目完結しました。
お読みいただきありがとうございます。
【完結】捨ててください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
ずっと貴方の側にいた。
でも、あの人と再会してから貴方は私ではなく、あの人を見つめるようになった。
分かっている。
貴方は私の事を愛していない。
私は貴方の側にいるだけで良かったのに。
貴方が、あの人の側へ行きたいと悩んでいる事が私に伝わってくる。
もういいの。
ありがとう貴方。
もう私の事は、、、
捨ててください。
続編投稿しました。
初回完結6月25日
第2回目完結7月18日
あなたの子ですが、内緒で育てます
椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」
突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。
夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。
私は強くなることを決意する。
「この子は私が育てます!」
お腹にいる子供は王の子。
王の子だけが不思議な力を持つ。
私は育った子供を連れて王宮へ戻る。
――そして、私を追い出したことを後悔してください。
※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ
※他サイト様でも掲載しております。
※hotランキング1位&エールありがとうございます!
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
私をもう愛していないなら。
水垣するめ
恋愛
その衝撃的な場面を見たのは、何気ない日の夕方だった。
空は赤く染まって、街の建物を照らしていた。
私は実家の伯爵家からの呼び出しを受けて、その帰路についている時だった。
街中を、私の夫であるアイクが歩いていた。
見知った女性と一緒に。
私の友人である、男爵家ジェーン・バーカーと。
「え?」
思わず私は声をあげた。
なぜ二人が一緒に歩いているのだろう。
二人に接点は無いはずだ。
会ったのだって、私がジェーンをお茶会で家に呼んだ時に、一度顔を合わせただけだ。
それが、何故?
ジェーンと歩くアイクは、どこかいつもよりも楽しげな表情を浮かべてながら、ジェーンと言葉を交わしていた。
結婚してから一年経って、次第に見なくなった顔だ。
私の胸の内に不安が湧いてくる。
(駄目よ。簡単に夫を疑うなんて。きっと二人はいつの間にか友人になっただけ──)
その瞬間。
二人は手を繋いで。
キスをした。
「──」
言葉にならない声が漏れた。
胸の中の不安は確かな形となって、目の前に現れた。
──アイクは浮気していた。
懐妊を告げずに家を出ます。最愛のあなた、どうかお幸せに。
梅雨の人
恋愛
最愛の夫、ブラッド。
あなたと共に、人生が終わるその時まで互いに慈しみ、愛情に溢れる時を過ごしていけると信じていた。
その時までは。
どうか、幸せになってね。
愛しい人。
さようなら。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる